11/06/1999

The Insider

インサイダー(☆☆☆☆★)

タバコ会社は、その製品の有害性、嗜癖性を認識していたのか。ラッキー・ストライクなどで知られる大手タバコ・メーカーの研究開発トップを追われた男は、それに関わる守秘義務を巡って会社からの圧力を受けていた。運命は彼をCBSの『60ミニッツ』のプロデューサーと巡り合わせる。しかし、タバコ会社からの訴訟を恐れたTV局は、番組の内容に圧力を加えてくる。

歴史と云うにはまだあまりに生々しい出来事を映画にしてしまうパワーには、ただただ圧倒される。男の映画といえば筆頭に名前の上がるマイケル・マンの新作は、マリー・ブレナーの記事に基づいて、エリック・ロスと監督自身が共同脚色したドキュ・ドラマである。

この映画は、硬派な情報番組として圧倒的な信頼を勝ち得ていた『60ミニッツ』が、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟によるダメージを恐れたCBSによる圧力に屈して内容を改変して放送してしまった「事件」を軸に、2人の男の苦悩と闘いを、ドラマティックに描き出していく。

一人は、ラッセル・クロウ演じるB&Wの元R&D担当VPである。当時、7ドワーフなどと呼ばれた7大タバコ会社の経営者らは、議会の公聴会などで、「タバコの嗜癖性に対する認識がなかった」とシラを切り通そうとしていたのだが、知らなかったどころか、むしろその中毒性を利用して売上拡大をするための研究をしていたという事実を知る立場にあった「究極のインサイダー」だ。

もう一人は、アル・パチーノ演じる命知らずのTVプロデューサーである。ラッセル・クロウの知る内部情報を『60ミニッツ』の番組でインタビューとして取り上げるため、会社側の圧力に抗して孤立無援で突き進む。

社会派のドキュ・ドラマとはいえ、起こってしまった事実そのものを告発するのが本作の趣旨ではない。マイケル・マンは、声高な主張を発することではなく、ある極限状況に置かれた男たちの決断と行動を描くことに興味を持っている。2時間40分の尺は長いが、分厚く、濃密な「エピック」としての手応えは十分だ。マイケル・マンのフィルモグラフィーでも筆頭に挙げてよいと思える、大傑作。

映画は一種、2幕ものの構成になっている。映画の前半は、究極のインサイダー、ラッセル・クロウ演じる人物が苦悩のなかで事実を明かす決断を下していくドラマ。一方、後半ではそのインタヴューを収めた番組の放送を巡り、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟による致命的なダメージを恐れたCBSからの圧力がかかる。そんな孤立無援の状況であくまでインタヴューを放送しようとするアル・パチーノ演じるプロデューサーのドラマが描かれる。

それゆえに、映画向けの脚色はあるし、エンドクレジットでも触れられている。また、映画ではクリストファー・プラマーが演じている『60ミニッツ』のキャスター本人から、自分の描き方に対する批判があげられたりもしている。しかし、それが本作の、映画としての価値を減じるものではない。

本作は、オーストラリア出身で、『L.A.コンフィデンシャル』などで注目を集めつつあるラッセル・クロウにとっては大きなマイルストーンになる作品だろう。実年齢よりも幾分上の人物を、体重を増やし、老けメイクにより演じているのだが、これまでの作品で見た彼とは全く別人のようである。家族に対する責任、自分が勤めた会社に対する義務、自良心や倫理観、社会に対する責任などの相反するものに引き裂かれる苦悩。望んでそうなったわけではない悲劇的ですらあるヒーロー像を、堂々たる演技で見せる。

一方のアル・パチーノも、いつもの演劇的な過剰さが押さえ気味で素晴らしいのだが、ラッセル・クロウを相手に回して押されてしまっていることもあるし、なにより、役回りとしても損なところがあった。

男たちを魅力的に描くマイケル・マンだが、CBSの弁護士に起用したジーナ・ガーションを始め、女優陣の描き方には全く精彩がない。まあ、そういう監督だとわかっているから気にもならないが、ラッセル・クロウの妻の描写などを見ていると、ああいう立場に立たされた反応としては理解できることであるのに、ある種、女性という生き物に対する悪意すらあるんじゃないかと感じないでもない。面白いもんだね。

Being John Markovich

マルコヴィッチの穴(☆☆☆☆)

この物語の一応の主人公は売れない人形遣いである。彼が生活のためにファイル整理の仕事に就くのだが、ある日ファイルキャビネットの裏に奇妙な扉があることを発見する。ドアの向こうには長いトンネルがあって、その先は、なんとジョン・マルコヴィッチの頭につながっていた!という、支離滅裂な不条理コメディであり、風刺激であり、ラヴ・ストーリーだったり、という摩訶不思議な1本。

そう、なんとも奇天烈な作品なのだ。他人の身体の中に意識を宿すというアイディアだけなら珍しいものではない。しかし、この作品は、そこからどんどんと妙ちきりんな深みにはまっていき、いったい物語がどこに向かっているものか、一歩も先が読めなくなっていってしまうのである。

そもそもファイル整理の仕事に就いた主人公の職場が、オフィスビルの「7.5 階」にある、というところでヤラレた感がある。この設定は、話の展開上ほとんど意味がない思いつきの一発ギャグのようにみえて、不条理な世界への入り口として効果的に機能している。エレベーターを強制的に止め、手動で扉をこじ開けないといくことのできない非日常な場所。天井がやたら低くどこかピントのずれた人々が働くフロア。ここだったら、何が起こっても不思議でない。

そもそもというのなら、主人公の職業が「人形遣い」というところ。これも、身悶えする人形などという、前代未聞の思いつきギャグをやりたいからかと思って見ていると、「人形」としての他人の体を内側から操るという話につながっていく。

そこに、「マルコヴィッチ」である。この名前の響き。あの容姿、あのネズミ目。他の誰かでは成立しそうで、成立しない危うさ。これを思いついた瞬間、そして、本人が出演OKした瞬間、「勝った」と思ったことだろう。

劇中、マルコヴィッチのことを「20世紀におけるアメリカの偉大な俳優だ」と説明する主人公だが、「で、どんな映画にでているの?」と問い返されて具体的な作品名が一つもでてこないというシーンがあるのだが、そういう「名前はしってるんだけど?」というポジションも含めて、絶妙な感じがする。

いや、この映画に足を運ぶような観客だったらもちろん、マルコヴィッチといえばあんな作品やこんな作品といろいろ頭に浮かぶだろうし、本作の主人公を演じているのがジョン・キューザックだから、「お前、『コン・エアー』で共演してたじゃん!」などと思うんだけどね。

そのマルコヴィッチご本人、本作において「世間の自分に対するイメージ」を演じるという機会を得て、実に楽しそうに見える。外見によらず、いいやつなのかもしれない。

ジョン・キューザックとキャメロン・ディアズが汚らしい格好で全く冴えないキャラクターを演じている。特に、『メリーに首ったけ』のイメージでしかキャメロンを覚えていない人には唖然とする変身ぶりなのだが、こんな役を嬉しそうに演じている彼女は面白い人だと思う。マルコヴィッチ体験の後での豹変ぶりは笑えて仕方がない。もう一人、個の二人に比べると知名度で劣るが、キャスリーン・キーナーという女優さんが重要な役をやっていて、たいへんに印象に残る。また、「本人役」でいろんなスターや監督がカメオ出演しているのも楽しいところである。

このユニークな脚本を書いたのはチャーリー・カウフマン、監督は、オフビートな作風のミュージック・クリップの演出で知られるスパイク・ジョーンズ。インディペンデントならではのユニークな感覚と世界。商業主義的なアメリカ映画界からこういう作品が飛び出してきて、しかも興行的にも成功してしまうところが、彼の国の映画産業の強みのひとつだよな。

11/05/1999

The Bone Collector

ボーン・コレクター(☆☆☆★)

NYを舞台に、怪奇で残虐な連続殺人事件が発生する。犠牲者から骨の一部を摘出し、残忍な方法で殺していく犯人は、捜査陣との知恵比べを楽しむかのように現場に様々な証拠やメッセージを残していく。この事件に立ち向かうのは、仕事上の事故で身体のほとんどを動かすことが出来なくなった現場検証の大ベテランと、彼の目となり手足となるために抜擢された若い女性警官だ。このコンビを演じるのがデンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリー。監督はフィリップ・ノイス。

アンジェリーナ・ジョリーはジョディ・フォスターではないし、フィリップ・ノイスはジョナサン・デミには程遠い。だから、この映画は『羊たちの沈黙』レベルの作品にはなっていない。しかし、『羊たちの沈黙』以降、山のようにつくられてきたサイコ・スリラーのなかでは、結構楽しめる部類の作品といっていい。ジャンルを再定義するような傑作ではないが、力のこもった好編だと思う。

映画のストーリーそのものにはそれほど新味があるわけではない。牢獄の中のレクターからヒントをもらって事件に立ち向かうクラリスという構図が、ベッドの上で寝たきりのデンゼルの手足となって凄惨な現場に踏み込むアンジェリーナに容易に重なって見えるし、凝った殺人法は『セブン』などを思い出させる。あくまで、もはや定番となったサイコ・キラーものである。もしこの犯人を精神異常者というカテゴリーに含めることが出来るのなら、の話だが。

決まりきった話だからこそ、見せ方がモノを言う。例えば、映画の始めの方で、アンジェリーナ演じる警官が通報を受け、最初の死体を発見する。ここでなんの用意もない彼女が証拠確保のために効かせた機転。それ自体がプロの仕事ぶり感じさせるのもあるし、巧みなキャラクター紹介にもなっている。サスペンスを盛り上げる組み立て方もいい。謎が解けてみれば、なんだ、その程度のことかとガッカリしてしまうのだが、そこに至るまでのプロセスで上手に観客の気分を盛り上げていく。一般にはぬるい監督と思われているフィリップ・ノイスだが、大型の娯楽アクション作品は今ひとつでも、こういうサスペンス・スリラーを撮らせると活き活きとするものだ。

ところで、この映画、それよりも何よりも、「スター・メイキング」の1本という意味で見逃せない。

アンジェリーナ・ジョリーは、昨年、TV映画『Gia』で評判をとって、そのあと急に出演作品が増えている新進スターである。ジョン・ボイドの娘、という出自も、そのセクシーな口元も目を引くのだけれど、いやはやどうして、ここでの彼女、凛と背筋を伸ばした姿の格好良さ。彼女の颯爽とした演技をみていると、これがスター誕生の瞬間なのだと確信する。この後出演作が次々公開される、絶対注目すべき女優だろう。

そんな彼女の引き立て役に回っているのがデンゼル・ワシントンである。首から上だけしか使えない難役ながら、若いスター誕生に貢献している。その看護人を演じたのが立派な体躯のクイーン・ラティファーだが、これまた、そのキャラクターの扱いがひどいと思わせるほどの好演を見せている。やっぱり役者がいいと映画が締まる。また、音楽もいい。クレイグ・アームストロングが堂々たるスコアを書いていて、感心した。この人、こういう仕事もできるのか。

10/29/1999

Bats

BATS・蝙蝠地獄(☆☆☆)

政府が実験していた強暴なコウモリがテキサス州で逃げ出し、仲間を増しながら人間を襲い出す。無慈悲で知能的な殺害マシーンと化したコウモリの群れと対峙する、小さな街の保安官とコウモリの専門家!

ハロウィーン・シーズンを当てこんだ、典型的な搾取(エクスプロイテーション)映画である。だからつまらない、だからダメな作品・・なのか?いや、そうじゃないだろう。

もちろん、この作品をダメだということはたやすい。『鳥』のように群れを成して襲うコウモリ。『ディープ・ブルー』のように人為的に知能を増大させた実験動物。パターン通りで予想を全く裏切らない展開。政府の実験にマッド科学者。お懐かしや、ルー・ダイヤモンドが主演。もちろん低予算・・予算節約のためのCGと、模型の安っぽさがバレないためのすばやい編集。

でも、脚本のジョン・ローガンと、監督のルイス・マーノウは、こういう企画につきものの様々な制約を向こうに回して、予算とテーマに似合わぬスケール感を出すのに成功していると思うのだ。中盤以降なぞ、閉塞感と開放感を巧みに組み合わせ、なかなか小気味良い展開を見せてくれるので侮れない。

コウモリの群れの描き方にも生理的な気色悪さがあって、悪くない。特に前半、主人公たちの乗ったクルマに群がったコウモリの薄気味の悪さは最高だ。

コウモリの専門家として招聘される女性科学者を演じたディナ・メイヤーが実質的な主人公。若い女性を中心に据えるあたりもこのジャンルの何たるかが良くわかった連中の仕事といえるが、この彼女、なかなか拾いものなのである。というか、傑作『スターシップ・トルーパーズ』に出演していた、あのディナ・メイヤーであるからして、心有る人ならば説明は不要だろう。

この映画で物足りないものがあるとすれば、それは癖のある俳優の怪演と、ちょっとした遊び心ではないか。ここに、例えば『アナコンダ』のジョン・ボイトだったり、『レイク・プラシッド』のオリヴァー・プラットのような「怪演」が加わって、遊び心のあるユーモアがあれば完璧なんだけれどな。ユーーもアという意味では最後に一発決めてくれるのだが、そのセンスがもっと全編にあればなお良かっただろう。

10/25/1999

Fight Club

ファイト・クラブ(☆☆☆☆)

冴えない生活を送る不眠症の主人公が出会った風変わりな男と始めた共同生活。一緒に組織したアンダーグラウンドのファイト・クラブ。そこには夜な夜な男たちが集まり、お互い、殴り殴られる真剣勝負の刹那。組織は主人公の知らぬところで日に日に拡大し、当初の目的を逸脱していく。

チャック・パラーニック原作を新人脚本家ジム・ウルスが脚色した、『セブン』、『ゲーム』のデヴィッド・フィンチャー監督最新作。出演はエドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター。

病んだ作品世界に病んだキャラクターと濃い役者。過剰に攻撃的なダストブラザーズによるスコア。後半のとんでもな展開の伏線が、なんとサブリミナル映像というルール違反。破綻寸前でまとまった危うさ。いびつだが、魅力的な傑作、というか、他ではまず見られない大怪作。

CGの助けを借りて自在に動きまわるカメラに象徴されるように、スタイルと物語が拮抗し、ときにスタイルそれ自体が強烈に自己主張を始める。セックス・シーンですらCG処理してみせる、そのあまりに人為的な映像。その居心地の悪さ、そして面白さ。そして、その必然性。

どんな作品にでも自分の刻印を明確に刻み、しかしあくまで商業映画の枠のなかで消化してきたフィンチャーだが、こにいたっては、もはや「ベストセラー原作の映画化」をダシにして、世界を挑発しているとしか思えない。曲者俳優エドワード・ノートンとスター俳優ブラッド・ピットが肉体改造をして熱演しているが、画面に映らない映画監督が、その両方を食ってしまっているといってもいいほどの存在感はなんなのだ。

見た目のスタイルや刺激に惑わされそうだが、本作は、その裏に隠されたテーマ性故に、後々まで残る作品になるのではないかという予感がする。日に日に肉体的なリアリティを失うサイバーな世紀末に、原初的な衝動をあらわにして殴り合う男たちを置き、80年代から引きずりつづけてきたヤッピー文化の尻尾と、膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画である。それを象徴するのが、本作のラストシーン。このヴィジュアルイメージに、背筋が震えた。初見の映画館で感じた衝撃をどう表現すればよいだろう。何度見返しても惚れ惚れとする。

10/22/1999

Bringing Out the Dead

救命士(☆☆☆)

NY・へルズキッチンで救命士として救急車を走らせる主人公の3日間。しばらく前に救うことができずに死なせてしまった少女に対する罪悪感を胸に、きわどいところで正気を保ちつつ、ドラッグや犯罪渦巻く街を走る主人公は、自身の救いを見つけることが出来るのか。出演はニコラス・ケイジ、パトリシア・アークエット、ジョン・グッドマン、ヴィング・レームス、トム・サイズモアら。

NYで実際に救命士を務めた経験のあるジョー・コネリーの原作を、ポール・シュレイダーが脚色し、・マーティン・スコセッシが監督する。『タクシー・ドライバー』のコンビが久しぶりに組んで、ニューヨークを描くということで話題の1本だ。

映画の始めに病院に担ぎ込まれ、植物状態で生かされ続けることになる男のエピソード、その男の娘と主人公を巡るエピソード、クスリのせいで完全に正気を失い病院と街を繰り返し行き来している男のエピソード、途中で知り合うドラッグディーラーを巡るエピソード、同僚をめぐるエピソードなどが、緩く絡みあっていく。また、。原作者が監修した救急現場の現実もひとつの見せ場である。

たしかに、流石に一流の監督が撮った作品、という格の違いのようなものはある。映像的な面白さはある。色調を押さえているようでリッチな色を感じさせる撮影も素晴らしい。細かいショットをリズミカルにつないでいく編集も見事であるし、いかにもスコセッシと思わせる選曲による既成曲のパッチワークも、まあ、過剰気味ではあるが、耳に楽しい。

でも、作品としての強さは作り手の名声から期待されるほどのものではない。

ひとつには、この映画が断片的なエピソードがつなぎあわさって、より大きなテーマを浮かび上がらせるというスタイルをとっていることにある。描かれるエピソードの一つ一つに意味が付加されているものの、全体としてのドラマには力強さが欠ける。

もう一つは、「今、この作品である意図」が見えてこないこと。

原作の、そして、映画の舞台は90年代の初頭だというから、かれこれ10年が経過していることになる。この10年というのが、意外や中途半端な距離感で、80年代ほど「過去の歴史の一部」になってはいない生々しさはあるが、現代と云うには離れていて、「今」を捉えているというわけではない。時代にとらわれず、普遍的なテーマを描いているにしろ、なんとも煮え切らない感じがするのだ。

毎年2~3本の出演作が公開される人気者、ニコラス・ケイジが「正気と狂気の境目にいて、かろうじて仕事をこなしている男」の眼にリアリティを与えている。この映画がその「眼」で幕を明けることが象徴しているように、これは、彼の目が捉えた3日間、彼の目が捉えた世界の物語である。

既成曲の合間をつなぐように流れるベテラン、エルマー・バーンスタインのスコアが、さまなくばバラバラになりそうな作品全体に、一筋の統一感を与えていたのが印象的であった。

Three to Tango

スリー・トゥ・タンゴ(☆★)

マシュー・ペリーが主演するロマンティック・コメディで、相手役は『スクリーム』のネイヴ・キャンベル。ライバル役にディラン・マクダーモット。この3人、それぞれ、『Friends』、『Party of Five』、『Law & Order』に出演して、TVで人気に火がついたスターたちだ。監督は主にTVで活躍しているデイモン・サンテステファノという、まあ、一目見て安上がりな企画。ロマンティック・コメディは好物なのでとりあえず見に行った。

主人公は建築事務所勤務である。事務所の命運がかかった大事なプロジェクトのクライアントから、ある依頼をうけるのだが、それは、クライアントの愛人を監視する役だった。しかも、その依頼はそもそも主人公がゲイであるという勘違いによるものだ。断れない依頼ゆえに「監視」をするうち、その女性に恋をしてしまったから、さあ大変。

「ゲイと勘違いされて大騒ぎ」というネタは、2年前の『イン&アウト』から進歩がない。そんなことで笑いをとっている時代ではないと思うのだけれど、世間は意外に心が狭く、保守的で、こういう話で笑ってくれると映画の作り手は考えているらしい。

しかし、人気TVドラマの売れっ子が共演し、TV畑の監督が作ったこの映画、残念なことにというのか、想像通りというのか、TV的に生ぬるい、笑えないコメディになっちまった。これじゃわざわざ劇場にかける必然性を感じない。

勘違いに基づくドタバタと、好きな人に好きだと告白できない切なさ。ロマンティック・コメディだというのなら、ちゃんと笑わせ、ちゃんとロマンティックに締めてほしいところだが、どちらにしても中途半端。笑わせどころのギャグもアイディアも冴えない。マシュー・ペリーが出ていれば、たいした工夫がなくても観客が満足するという思い上がりがあったんじゃないか。

そのマシュー・ペリーは一応、スラップスティック型のコメディ演技を売りにしているようなのだが、体で笑いを取るにしては動きにキレがない。そのうえ、演技自体も大味で、繊細な「男心」を演じて見せることなどできるようには思えない。これじゃ、ただつったっているだけのデクノボウだな。

ヒロインのネイヴ・キャンベルは、キャラクターの「安っぽい」感じにはよくハマっているのだが、主人公が「一目ボレ」するだけの説得力が感じられない。もともと美女というタイプではないのに加え、メイクが酷いんだ。化粧してわざわざ醜くなるなんて、なんのこっちゃ。

冴えない映画のなかで一人気を吐いているのが主人公の上司役をやっているオリバー・プラットだ。笑いをとれ、演技ができ、しかも個性的な風貌で、メインの3人を吹き飛ばす存在感。この人は、なんだか役を選ばずなんでもやっていて、あちこちで顔を見る気がするのだが、そこが非常に頼もしい。やはり、脇とはいえ映画の顔は違う。彼がいなかったら途中で劇場を出てしまいたくなるところだったよ。

Body Shots

ボディ・ショット(☆)

ニューラインの宣伝曰く、「60年代の卒業、70年代のサタデーナイト・フィーバー、80年代のブレックファスト・クラブのように時代を定義する作品がある・・そして、今。」

本当か?

正直にいって、この程度の作品に時代を、世代を定義されるのは迷惑至極なんだけどな。宣伝も困った末のハッタリなんだろう。時代を定義する作品を、限定マーケットで公開ってあり得ないもんな。

それはさておき、映画は現代を生きる20代の男女8人の、恋愛観やセックス観が交差する一夜の出来事を描いていくものである。ショーン・パトリック・フラナリー、ジェリー・オコネルらが共演。『アメリカン・ヒストリーX』が話題になったデイヴィッド・マッケンナの脚本である。ケーブル局が制作したTV映画『GIA』が話題になった、マイケル・クリストファーの劇場作品監督デビュー作。もともと脚本、役者としてTV中心に活躍していた人のようだ。

ショーン・パトリック扮する人物と恋人のところに、デートレイプされたといって取り乱した友人が現れるところで幕を明け、前日の夜に戻って男女8人4組が過ごした一夜を描いていく。ダンスフロアで強いカクテル「Body Shots」を交わす4組のカップル。終盤レイプの顛末が描かれ、その事件を乗り越えた前述のカップルのシーンで終わる。その間に登場人物がそれぞれカメラ目線でいろいろ語りかけてくる趣向だ。

スタイル自体は今となっては珍しくないが、統一感のある色彩設計やマーク・アイシャムのジャズが入ったけだるい音楽によって、まずまず見た目のスタイルとしてはまとまっている。

ただ、つまらないんだよ。カッコをつけたスタイルと、実はそれなりにヘヴィーで辛気くさい内容もあっているとは思えないし。

ハリウッド的なメインストリームから背を向けて、都会的で深刻でスタイリッシュなドラマを作ろうと志向すればするほど、つまらない映画ができあがる法則でもあるかのような気がしてくる。アンチ・ハリウッド的な意味で、こういうのを過度に褒める人もいるけど、それはなんか違うんじゃないか。

10/08/1999

Superstar

スーパースター / 爆笑スター誕生計画(☆★)

"Dare to Dream" って、タイトルの一部かと思っていたら、宣伝文句だった。

古くは『ブルース・ブラザーズ』、最近では『コーンヘッズ』とか『ウェインズ・ワールド』、『It’s Pat』などなどに代表される、人気コメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で人気を博したキャラクターやスキットを元にした映画化作品だ。SNLにレギュラー出ているコメディエンヌ、モーリー・シャノンが演じる、「スーパースターになることを夢見ているが、実は全く冴えない女の子」、メアリー・キャサリン・ギャラガーの学園生活が綴られる。共演はウィル・ファレル。

まあ、笑えるんだけどね。SNL的な意味では。

しかし、TVでやる5分のスケッチと、90分足らずとはいえそれなりの長さがある劇場作品の違いを、どう戦略的に乗り越えるのか、あまり考えていなかったのではないか。これはなかなか難しい問題だと思うんだよね。

こういう「特異なキャラクターもの」は、TVのコントとしては比較的簡単に成立する。単なる異常な人物としてなんの説明なく登場し、その場限りの不条理ギャグや、スケッチを演じ、毎週ミニマルな設定のなかで、いくつかのお決まりネタのバリエーションを繰り出せばいいのだから。

これを映画に膨らませるのは、しかし至難の業である。ジム・キャリーでもない限り「奇妙なキャラクター」一本で1時間半なりの時間を押し通すことなど土台無理な話というものだ。そこで、観客が感情移入出来そうな背景と、水増しされたストーリーを作り、キャラクターに「人間」としての肉付けをするのはある意味、真っ当な方法論であろう。この作品は、少なくともそういうアプローチで組みたてられている。

学校の人気者たちからイジメや嘲笑の対象になっている珍妙な主人公が、しかし、スターになることに対しては「真摯な」思い入れを持っている。それは解りやすい。だが、そこには大きな落とし穴があった。マジなバックグラウンドを設定すればするほど、主人公の珍妙さで素直に笑えなくなってしまうのだ。

ナンセンスものとして乾いた笑いを失ってしまったら、今度はどうするのか。泣きでも入れるのか?『フォレスト・ガンプ』じゃあるまいし、中年のコメディ女優が演じるアホ高校生のバカ・コメディでは、まさかそれも無理な話なのだった。

。モリー・シャノン自身は映画1本を支えきれるほどの芸はないようだが、クライマックスでみせる身体の動きひとつとっても、基本がきちんと出来たひとだと思う。ただこの映画の作り手には、その芸人の「芸」をきちんと見せるという意識もかけていて、一番の見せ場で特撮カットまで使い、「芸」を寸断してしまうという愚を犯している。

モリー・シャノンという人は当然高校生を演じるのには無理のある年齢で、共演のウィル・ファレルともどもそういう年齢の人間が高校生を演じているのだから、演出さえその気になればそのグロテスクさだけでも相当珍妙な作品に出来たのではないか。なんらか勝算のもてるヴィジョンなしに、ただただ漫然とキャラクターの映画化にゴーサインが出ている、現状のSNL映画は、早晩行き詰まるに違いない。

Story of Us

ストーリー・オブ・ラブ(☆☆☆)

Story of Us - 私たちの物語。

15年間連れ添った夫婦。子供たちの前では仲の良いところを演出しているものの、お互いの性格の違いからいがみあいが耐えない。互いに惹かれあった最大の理由が、いまでは2人の重荷になっている。とりあえず別居生活に入った2人の結論は何か。

長期間にわたる男女の関係が恋に変わる『恋人たちの予感』を撮ったロブ・ライナーが、同じ手法を応用しながら撮り上げた、『離婚夫婦の予感』だ。ハッピーエンドを迎えた恋愛映画の15年後といってもいい。主演はブルース・ウィリスとミシェル・ファイファー。そういや、ブルーノはデミ・ムーアとの結婚生活がこじれてしまったな。

映画館で金払ってまで登場人物の愚痴を聞きたくないという観客には向かない映画かもしれない。コメディタッチではあるが、狙いの半分くらいしか笑えない。でも、ここで描かれた「崩れていく関係」のドラマにはこれは胸に染みるような切なさが、心に突き刺さる痛さがある。深刻ぶったドラマに仕立てず、コメディタッチだから救われている、という見方があってもいいんじゃないか。

長い間かかって築きあげたきた男女関係や、夫婦関係。それが目の前で崩れていくのをわかっていて止められない、そっと見守るしかないという切なさや悲しみ、もしかしたら、情けなさのようなものが、エリック・クラプトンの歌声とともに全編から滲みでている作品である。

そう、、本作を思い出すと、まずエリック・クラプトンの主題歌が脳裏に浮かぶ。マーク・アイシャムと共同で音楽にクレジットされていることで明らかなように、単なる主題歌のレベルを超えて、最初から最後まで映画のトーンを規定しているのが、彼の提供した "(I) Get Lost" という曲である。まさに、泣きのギター。滑稽なシーンすら哀しみに染め上げてしまうこの調べ。

リタ・ウィルソンや監督自身が扮する夫婦の友人たちなど、もう少し脇役が丁寧に描かれていると映画としての厚みが増し、夫婦の危機を多面的に描くことが出来たんじゃないだろうか。また、予告編の編集がユーモアに溢れていて巧いな、と思っていたら、そのシーンが丸ごと本編のクライマックス一部だったのにはさすがに驚いた。ちょっと反則だよな。

Random Hearts

ランダム・ハーツ(☆★)

ハリソン・フォードとクリスティン・スコット・トーマスが主演する原作付きのメロドラマ。ウォーレン・アドラー原作を大ベテランのシドニー・ポラックが監督。

気づかずにいた互いのパートナーの浮気。そして、不幸な飛行機事故。それが、ワシントンDCの警察で内部調査を担当する男と、再選を狙うニューハンプシャー出身の共和党の議員の女を結びつけた。職業柄、真相を探ろうとする男と、過去は過去と区切りをつけて忘れてしまいたい女。そんな境遇の異なる二人が強く惹かれあうようになる。

実のところ、メロドラマは嫌いじゃないのだが、それでも本作は平板で退屈に感じた。なんだろう、メロドラマぶっている、といえばいいのか。ここにはエモーショナルな衝動が、ない。アカデミー賞監督とはいえ、『ハバナ』、『サブリナ』などの凡作が続くシドニー・ポラック。一時期の神通力を失いつつあるかのようにみえるハリソン・フォード。これは、ちとつらいなぁ。

お互いのパートナーが事故死したというショックだけでなく、彼らが自分の知らないところで継続的に浮気をしていたという事実が全く境遇の異なる二人を結びつけるというメインプロットはドラマチックで面白い。しかし、誰もがわかりきっているこの出会いまでに、およそ45分も費やすこのタルさはなんなのだろう。

しかも、再選を目指す上院議員・ある悪徳警官の容疑を追求する主人公というサブプロットが全く機能しておらず、単なる付け足しに終わっている。こんな水増しだらけの2時間13分。ついでにいえば、監督自身の出演も成功しているとはとても思えないね。何故、出た?

そもそもこの映画、ハリソン・フォードが演じていることもあって、主人公の気持ちがわかりにくい。妻が死んでも涙を見せないこの男の「真相を探る」ことへのコダワリが何に由来するものなのか、もう少し感情の変化も含めて丁寧に描かれるべきだったように思う。不倫していた妻の自分への愛情のかけらを確かめたいのか、それとも警察官として妻に欺かれていたことによって傷ついた自尊心ゆえか。それが、どう出会ったばかりの議員に惹かれていく気持ちとつながるのか。ハリソンは曖昧な笑みを浮かべるばかりで、何も教えてくれない。

ヒロインを演じるクリスティン・スコット・トーマスは、ハリソンとは対局だ。ショッキングな事件を過去のこととして葬りたい気持ちが、単に自分の選挙目的だけでないこと、その裏に心の痛みと哀しみがあることに、きっちりと説得をもたせている。この映画に見る価値があるとすれば、それは彼女とその演技以外には考えられない。とても魅力的で、素晴らしい女優だと思う。

10/01/1999

Three Kings

スリー・キングス(☆☆☆)

イラクとの協定が結ばれて湾岸戦争が終わり、何もすることのない米軍兵士たちは帰国を待つばかりであった。そんななか、主人公とその仲間たちは敵の投降兵士から手に入れた地図に記されているのが、フセインがクウェートの富裕層から集めた金塊の隠し場所だと確信を持ち、金塊強奪を企てる。タイトルは聖書にある「東方の三賢人」に由来するもの。デヴィッドO・ラッセル脚本・監督。出演は、ジョージ・クルーニー、マイク・ウォールバーグ、アイス・キューブが出演。

ジャンル分けが難しいが、政治的なメッセージ性の強いコメディ、というのが一番正確なところだろう。

相当の時間をリサーチに使ったという。その成果かどうか、本筋とは一見して無関係に見えるディテールの描写に面白みがある。敵の根拠地に潜入してみればアメリカを始め世界各国の工業製品が闇市さながら所狭しと並んでいたりする様は唖然とするし、ジーンズを抱えて右往左往する敵の兵士は非常に滑稽だ。実はこういった描写が「企業家精神の発露としてのアメリカの戦争」という皮肉りである。そう、一見して無関係と書いたが、これこそが映画が見せようとする本筋かもしれない。

お気楽に宝の強奪を計画した男たちが、思わぬ困難に遭遇するなかで知る戦争の矛盾と「アメリカの大義」の理不尽さ。人の死体が簡単に転がり、本来救うべき人々が援助もなく見捨てられ、私欲や物欲がうごめく見せかけの平和。自国企業の権益保護を人道主義にすりかえる大国のエゴ。

もちろん、みんな分かっていたことである。何を今更、と言う気もする。しかし、これがメジャー・スタジオの大作として作られる懐の深さ。アメリカの正義にツバを吐いて見せる気骨。もちろん、スターが共演する戦場アドヴェンチャーという娯楽映画のパッケージを周到に用意し、なによりアメリカ兵がアメリカの理想を実現する展開ではあるのだけれど。

反面、不必要に説教臭い映画になってはいないだろうか。主人公たちが最後までお気楽にお宝強奪を目的に走り回る陽性の戦場冒険アクションであったら、もしかしたらこの映画のメッセージはより強く、屈折した形で伝わったかもしれない。それを惜しいと思う。娯楽性とメッセージ性の融合はいつだってムズカしいハードルだが、娯楽性が言い訳に使われたようにも見えるこの作品は、娯楽映画としての強靭さを獲得できていない。

明確なスタイルを持った映像とオフビートなコメディセンス、そしてなによりその度胸で脚本・監督のデヴィッドO・ラッセルが株を上げたのは事実だろう。内臓に食い込んだ弾丸がどのようにダメージを与えるのかを再現して見せるカットなどはアイディアとして秀逸だし、それをアイディアに終わらせず、物語のなかできちんと消化しているところも良い。ただ、どこか作り込み度の高さによって、登場人物たちと観客との距離が開いてしまい、感情移入を難しくしているところがあるんじゃなかろうか。

American Beauty

アメリカン・ビューティー (☆☆☆☆★)

映画初挑戦の脚本家アラン・ボールと監督サム・メンデスは、おそろしく知的で、非常に笑え、美しくも切ない独創的なドラマを、ブラック・コメディのスタイルで創りあげた。これは傑作だ。これから年末にかけての賞レースでも大いに話題になるに違いない。

娘の同級生に惚れた中年男が、その日から、失われた自分の人生を取り戻さんかのように変貌を遂げていく。一方、彼の変化に戸惑う妻、娘ら家族や周囲の人間も、それぞれ自分の理想を追いかけながら、日々をもがいて生きていた。郊外に住む平凡だが幸せそうに見えた中流家庭の表層のすぐ裏側にある病巣や強迫観念が、家庭の崩壊と共に暴きだされていく。

冒頭に置かれた主人公のモノローグで示唆されるように、従来通りの意味で言うハッピー・エンディングの映画ではない。しかし、ケヴィン・スペイシー演じる42歳の主人公が最後に見せた満ち足りた平穏な表情は、この作品がハッピーな結末を迎えたのではないかという錯覚を抱かせるのに十分だ。

物語は、中年男の人生に対するささやかな抵抗を主軸にして転がっていく。が、実のところ、誰が主人公というよりは、この物語の背後にある、あらゆる社会的病巣と、あらゆる悲しみと、人それぞれの美(=理想)についての物語である。極端にコメディタッチであるように見えるかもしれないが、登場人物の誰かに、どこかに、きっと共感できるリアリティを見つけることが出来るだろう。

タイトルである “American Beauty” は劇中でも様々な象徴として写り込んでいる「薔薇」の品種であるだけでなく、額面どおりに「アメリカの美」と受け取れば、あからさまな皮肉である。しかし、もっとも皮肉なことは、現代アメリカ社会の、どこにでも転がっていそうな「醜悪さ」を目一杯集めたこの120分のなかに、確かな「美しさ」が宿っていることだ。それは、醜悪な状況で、そこで必死にもがいている映画の登場人物たちに対する作り手の深い共感と愛情である。

娘の同級生に惚れ、体を鍛え始める中年親父。成功を夢見て精一杯背伸びし、満ち足りないものを浮気で埋め合わせる妻。自分が特別の人間であると信じたくて虚勢を張り続けるモデル志望の少女。狂った世の中で自分の息子だけは「真っ当」に育てることが出来たと信じている右翼的で、ホモフォビアの隣人。そんな愛すべき人々の、ささやかな夢や虚栄が崩れるまさにその瞬間を、カメラは残酷に、そして優しく、確実に捉えて白日の元にさらす。そして、我々観客は、そんな虚栄の裏側にあった魂の純粋さ・美しさを、孤独と哀しさを、見る。

爆笑を誘うセリフを連打しながらも、大胆かつ緻密で洗練された脚本と、舞台作品のような緊張感と間を持ちこんだ演出を得て、出演者は全員、奇跡のような演技のアンサンブルを見せる。ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、クリス・クーパーなどのベテラン勢はいうに及ばず、ミーナ・スバリ、ソーラ・バーチらの若い俳優たちも頑張っている。

随所で挿入される既成曲の選曲センスはいうに及ばず、軽妙かつ奇妙なスコアが物語にスピード感を与えている。赤い薔薇の花びらを主人公の妄想と現実の区別に使うアイディアに呼応して、同じく赤い薔薇、赤いドア、赤いポンティアック、そして白い壁に飛び散る鮮血など、非常に視覚的な色の演出、絶妙な構図など、映画初演出とは思えない映像的な冴え。にわかに信じられないくらい完成度が高い作品に惚れ、おもわず3度も劇場に通ってしまった。

9/24/1999

Mumford

マムフォード ようこそ我が町へ(マムフォード先生)(☆☆☆)

田舎町マムフォードに新しくやってきた心理学者の名前は奇妙な偶然でドクター・マムフォード。彼のセラピーはたちまち人々の信頼を得る。様々な人々がクリニックを訪れて、心の病を解消しようとするのだが、この穏やかな笑顔を持つドクターには大きな秘密があった。。

80年代に注目を浴びたローレンス・カスダンだが、『わが街』、『ワイアット・アープ』、『フレンチ・キス』と続いた不調の90年代を締めくくる1本は、地味ながらなかなか面白い1本だった。5年ぶりの作品だが、人間に対する優しい眼差しと、人生に対する深い洞察が心を打つ佳作。大きな刺激も波乱万丈のストーリーもないが、それでも物語が成立するという自信も感じられる。

出足は牧歌的でのんびりとしている。もしかしたら、最初の30分ほどは退屈だと思うかもしれない。主人公を演じる役者がとぼ無名。映画は彼のところに「患者」として街の人々が次々訪れる様を見せていくだけだ。主人公は受身で、しかも、映画は彼自身について何も踏みこんで描こうとはしない。

なんでそうなっているのか。しばらくすると、その理由が分かる仕組みだ。そして、主人公を巡る「ミステリー」が映画の中盤から後半を大きく転がして行く。

しかし、ミステリーといっても本当の意味ではミステリーではない。なぜなら、その謎は、途中で全部明かされてしまうからだ。普通なら、謎は最後までとっておくことでサスペンスを持続させようとする。謎は明かした途端に求心力を失う。だから、そういう意味では構成問題がある作品ということも出来るだろう。ただ、違う言い方をすれば、これは主人公の謎を巡るサスペンスに頼らないという選択だということもできるのではないか。

実際、この作品の話術はサスペンスとか緊張感などといったものは無縁なところで成立している。物語も、謎を全部吐露した地点から先の、主人公の選択と行動をこそ語ろうとしている。これは計算違いなのではなくて、計算づくで選ばれた話術であり、構成である。その成否は意見がわかれるかもしれないが、私はこれをとても面白いと思う。

主人公を演じるロレン・ディーンは、これといった決まった色や確定したイメージをもっていないこともあってか、表情の裏で何を考えているのか全く分からない、まるでこの世の人とも思えないような不思議な人物を好演している。興行的には難しいところだが、あえて既成のイメージがない役者を連れてきたところが、この映画の狙いを良く表しているように思える。

この全く無色透明の主人公を中心に、名前や顔の知られたベテランや曲者を配したアンサンブルが、ハリウッド映画としても相当ユニークな作品にしている。主だった出演者は、ホープ・デイヴィス、ジェイソン・リー、マーティン・ショート、テッド・ダンソン、アルフレ・ウッダード、デヴィッド・ペイマー、ズーイー・デシャネルら。そういえば、カスダンはアンサンブル・キャストをさばくのが得意な方だったよな。

Jakob the Liar

聖なる嘘つき、その名はジェイコブ(☆☆★)

ナチスによるユダヤ人強制収容所で暮らす主人公ジェイコブは、友軍であるソ連邦軍の情報を仕入れてくるが、仲間は彼が内緒でラジオを所有していると信じてしまう。持ってもいないラジオを毎夜聞いていると嘘をつきつづける羽目になったジェイコブは口八丁、手八丁で作り話で周囲に希望を与えていく。

ジュレック・ベッカー原作、ロビン・ウィリアムズが自身の会社で映画化、主演した悲喜劇である。プロデューサーは彼の妻。脚色と監督は、フランスのTVなどで監督を務めてきたハンガリー出身のピーター・カサヴィッツに委ねられた。

しかし、間が悪いとはこういうことだと思うのである。97年に製作されながら、2年もお蔵入りしていたおかげで、ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』が世界を席巻し、強制収容所の嘘つき男が希望を運ぶ話には新鮮味が感じられなくなってしまった。しかも、ロビン・ウィリアムズが「おなじみ」の熱演を披露する映画だ。もういいよ、そんな声があちこちから聞こえてきそうになる。

しかしこの作品、話そのものはなかなか面白い。ゲットーを再現した美術も、撮影も素晴らしい。

ただ、脚色次第では、もっと面白い映画になったんじゃないか、とは思う。

この映画はコメディである。喜劇として機能しているのは、ジェイコブがラジオなんか持ってはいないことを観客が知っているからである。周囲の状況によって嘘をつきつづけることを余儀なくされ、いろんな話をでっち上げる羽目になる主人公の滑稽さ。

しかし、「ジェイコブの嘘」を観客が知っている、このことが、映画をつまらなくしているといえないだろうか。

主人公の、ときに滑稽だが確実に希望をもたらす話。それは口から出任せなのか、それとも真実なのか。彼はラジオを持っているのか、いないのか。そこを映画の登場人物たちにも、観客にも説明しないまま「ミステリー」として最後まで引っ張ったら、映画にサスペンスが生まれたに違いない。ファンタジックな味わいもでただろう。そして、ロビンが底力を見せる最後の15分間、ナチスの拷問を受け、真実を明かし、人々の前でラジオなんかないのだと証言することを迫られるところは、まさに決定的な名シーンになったんじゃないか。

映画には主人公が出会い、一緒に暮らす少女が登場する。単純でありきたりかもしれないが、この少女を主人公にして、彼女の視点で物語を再構成してみたらどうだろうか。少女の視点で、ラジオで聞いたニュースの話をする男を描く。本当だと信じたいが、嘘かもしれない・・。どんなものだろう?

いずれにせよ、例えいい話であっても、それを面白い映画にするには様々な工夫が必要なのだと思い知らされる、また、違った意味で、出来上がった映画は寝かさずにさっさと公開すべきだと思い知らされる、そんな作品である。

Double Jeopardy

ダブル・ジョパディー(☆☆★)

幸せな結婚生活に思われた。自家用ヨットでのロマンティックな1夜。しかし、夜が明けてみれば自分は血塗れになっており、夫はいない。保険金目当てに夫を殺害したとして6年間の服役。その間に、信頼していた女友達は預けていた息子を連れて消え、死んだはずの夫と暮らしているという衝撃的な事実を知る。

一度犯した罪で裁きを受けて刑に服した場合には、同じ罪で2度裁かれることはない、米国の憲法修正第5条。日本で言うなら、憲法39条でいう一事不再理の原則ですな。それがタイトルになっている「Double Jeopardy」で、作品の発想のもとになっている。変なカタカナ・タイトルなんかにせず、「一事不再理」とすればよかったんだよ。

つまり、夫を殺したとして服役した主人公は、実は夫が死んでいなかったという時点で免罪なのだが、自分を罠にかけた憎い夫を今度は本当に殺してしまったとしても、もう重ねて罪に問われることはないってこと。なぜなら、「夫殺しの罪」では既に裁きを受けているのだから。Got It ?

無実の罪をきせられる主人公はアシュレイ・ジャッド。その彼女が、追手から逃れつつ真犯人に迫るという筋立てだけみると、小粒な『逃亡者』のようである。共演がトミー・リー・ジョーンズだからなおさらだ。ただ、話の焦点は犯人探しというよりも、か弱い主婦が自立した強い女性に成長するところにある。なにせ、監督は『ドライビング・ミス・デイジー』のブルース・ベレスフォードだから、サスペンス・ドラマであると同時に、女性映画といっていいテイストの作品に仕上げてきている。まあ、予算もなかったんだろうけどさ。

そんなわけだから、見所はなんといっても主演のアシュレイ・ジャッドということになるだろう。無実の罪でわけのわからないまま刑務所に入れられ、息子に再び会いたい一心で自分を罠にはめた男を探す役柄は感情の起伏も大きく、やりがいのある役だったんじゃないか。なかなか好演、そろそろブレイクしてもいいんじゃないかね。

一方の共演、トミーリー・ジョーンズは、クレジットの順番はトップながら、完全な脇役。娘の写真をボロ車のサンヴァイザーに挟んでいたり、アルコール中毒ぽかったりと、いろいろなドラマを秘めていそうなのだが、脚本はそれらを匂わすだけできちんと突っ込まない。それこそ、『逃亡者』のジェラード警部補のイメージを利用するためのキャスティングだったんじゃないか。

ベレスフォードの演出は、ちょっとアカデミー賞監督とは思えないほど荒っぽくて、作品の格を下げてしまった。だいたい、冒頭で6年間の歳月の重みを見せることができていないので、話が軽くなってしまっている。その間の時間経過をみせる編集も雑で、あるシーンで息子画面買いに来たのを喜んでいて、次のシーンで、何ヶ月も面会に連れてきてくれないと嘆いているんじゃ支離滅裂だ。

一事不再理を知った主人公が俄然張り切ってしまい、『ターミネーター2』のリンダ・ハミルトンか、『ケープ・フィアー』のロバート・デニーロかというようにトレーニングを始めるところでは場内で失笑が起きた。唐突だってば。それでも、鍛えたはずの成果(=筋肉)をきちんと見せないんだから、この監督、何がやりたいのか分からないよ。

9/17/1999

For Love of the Game

ラブ・オブ・ザ・ゲーム(☆☆★)

決断の時期を迎えたかつての名ピッチャーが、様々な思いを胸に、最後のビッグ・ゲームになるニューヨーク・ヤンキースとの対戦に向かう。チームの見売り危機とキャリアの終焉、彼と別れロンドンに向かおうとしている5年間愛し続けた女性。万感の思いを込めてマウンドに立つ彼は、いつしか完全試合を達成しそうになっていた。

『死霊のはらわた』のカルト・ホラー監督だったサム・ライミは『ダークマン』でメジャーに進出し、前作『シンプル・プラン』ではもはや名匠といっていい風格すら見せつけてくれたわけだが、なぜにケヴィン・コスナー主演の野球映画を撮ることになったのか、不思議に思ったりする。

『ウォーターワールド』と『ポストマン』の失敗で終わりかけたキャリアからの復活をかけている主演のケヴィン・コスナーにとっては、自身が得意とする野球もので、しかも、キャリアの終わりを迎えた男が自分が自分である証を手に入れるため渾身の力をこめてボールを投げるという物語に、惹かれるものがあったのだろう。(ヒロインのケリー・プレストンも美人だし。)

でも、サム・ライミ。

新しいジャンルに挑戦しようとした意欲はわかる。基本的に一つの試合と、脳内フラッシュバック出できている映画なのだが、その野球の試合にはTV中継を模したようなライブ感があるし、主人公が精神を集中させると観客席の声援がすっと消え入るような音を使った演出も面白い。でも、ライミでなくてもいいよ、こういう映画は。そう思う。

マウンドに立つ現在の主人公と、5年前に路上で偶然出会った女性のラヴ・ストーリーを中心とした過去の回想が交互につづられていく構成。お話そのものは幾分感傷的に過ぎるという欠点を除けば、けして悪くはない。が、なんだかドラマが細切れになってしまって、単に間延びした話になっちゃっている。

もうすこし当たり前の構成、たとえば、映画の導入が終わったところで一気に5年前に飛び、時系列でドラマを追いかけ、気が付けば7回。まだ誰もファーストベースを踏ませていないことに気付く主人公。そして、空港のラウンジで野球の中継にふと目を止めるケリー・プレストン。どんなもんだろうか?

嫌いではない。良いシーンもあった。しかし、やはりサム・ライミの題材ではなかったんじゃないのかな。野球と映画をこよなく愛するケヴィン・コスナーは、さすがに野球のユニフォームが似合う。(だから、ユニフォームを着ていないシャワー・シーンのカットなんかで映画会社ともめなくてもいいんだってば。)

Blue Streak

ブルー・ストリーク(☆☆★)

プロの強盗団の中心人物として、巨大なダイヤを盗み出したのつかのま、仲間の裏切りにあって警察につかまってしまう主人公。しかし、逮捕直前に機転を聞かせ、工事中のビルのダクトに宝石を隠すことに成功するのだった。2年が経過して、刑務所をでた主人公は隠しおおせた宝石を取り返しに向かうのだったが、そのビルはなんと警察署になっていた!

『バッド・ボーイズ』ではウィル・スミスと、近作の『ライフ』ではエディ・マーフィと共演したマーティン・ローレンスが晴れて一枚看板となった本作。例えていえば、ニック・ノルティやダン・エイクロイドとコンビを組んでいたマーフィが『ビバリーヒルズ・コップ』で華麗に一本立ちしたことを思えば、本作にはそれだけのパワーはない。まあ、お好きならどうぞ、あるいは暇つぶしにどうぞ、というレベルか。

しかし、アイディアは面白い。プロの強盗であるマーティン・ローレンスは、転勤になった刑事のふりをして署内に侵入するのだが、それだけではすまない。刑事として捜査の一線に立たされてしまい、、成り行きとは云え大活躍してしまうという展開が馬鹿らしくていいじゃないか。

残念なのは、そんな無茶な展開に、それなりの信憑性を与えられるディテールに欠けること。大嘘をつくためには、小さなリアリティの積み上げが欲しいと思うのだ。ほとんど無名な脚本家たちの作だから、多くを求めても仕方ないのかもしれないけれどね。

しかし、まあ、監督のレス・メイフィールドは、雑な脚本と暴走気味の主演俳優を与えられてもテンポよく話を運んで快調そのものである。すっかり家族向け映画のプロデューサーと成り果てたジョン・ヒューズ御用達なんぞに落ちついてしまったかと思いきや、コメディ描写はともかく、クライマックスのアクションも歯切れがいい。

主演のマーティン・ローレンスは演技が面白いというより、無理に笑いを取ろうとしている感じがちょっと弱い。また、彼には映画を一人で支えるだけのオーラが、まだ備わっていないのである。あと少しなんだけどね。

9/10/1999

Stir of Echoes

エコーズ(☆☆☆)

『ジュラシック・パーク』や『ミッション・インポッシブル』などのメガヒット作で脚本を担当して名前を知られるデイヴィッド・コープが、リチャード・マシスンの原作を脚色し、自ら監督した1本。

過去に監督作もあるコープなので、本作が監督デビューというわけではない。まとまらなくなった大作をてっとりばやく形にするのが巧いだけの脚本家だと思っていて、現に、無残な『シャドー』、雑な『スネーク・アイズ』なんかの脚本も彼の名義である。そんなわけで、この作品にも端から期待をしていなかったのだが、意外や意外、これが結構拾い物という感じで面白いんだ。こういうジャンルの映画が好きならば、観て損のない仕上がりとしてお勧めしておきたい。 

ある晩、パーティの成り行きで知り合いの女性から催眠術をかけられた主人公が、恐ろしい悪夢に取り憑かれるようになる。彼の目にした不気味な謎の女性は、彼の幼い息子にも見えるようで、その息子はこの世のものならざるものと会話すら交わしているようだ。強迫観念に駆られた男は妻の静止を振り切って家中に穴を掘り出す。その主人公を演じるのが、いまやある意味大人気といって良いケヴィン・べーコンだ。

ハリウッド映画の99年夏はオカルトものばやりだった。傑作『シックス・センス』のあとで公開されたため、本作はそれと比べられ、新鮮味にかける作品と思われるだろう。そもそも、この世のものではない人間と会話をしているらしい子供、といっただけで、パクリではないかなどといらない詮索をされそうだよね。

『シックス・センス』と比べるわけではないが、こちらの脚本にはこれといった捻りがあるわけでない。無駄な枝葉を抜きにして、素直でストレートなものだといえる。演出もオカルト・スリラーとしては非常にオーソドックスなもの。ただ、ケヴィン・ベーコンが催眠術にかけられるシーンなどところどころに、過去2作組んだブライアン・デパルマがやりそうな、技巧的な遊びがあってニヤリとさせられる。
 コ主演に曲者ケヴィン・べーコンを得たことがこの映画にとっては幸運だっただろう。憑かれたように穴を掘り始めてからの狂った様がものすごくいいのだ。こんな役が様になるスターなんて他にいるか?いや、全く、かつての青春スターも凄い怪優になりつつある。今更言い出すことでもないか。また、ジェームズ・ニュートンハワードの音楽はオカルト気分を盛り上げる。組合の規定でクレジットがないが、『セブン』で知られるアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーがスクリプト・ドクターを務めたらしい。

Love Stinks

Love Stinks <未公開>(★)

恋に落ちた人気コメディ番組のプロデューサー。全てが女性主導で進んで行くかに見えたが、なかなか煮え切らない男にキレた女性が「結婚の約束を反故にされた」と法的手段に訴え、愛憎入り乱れる泥沼の争いに突入してしまうという話。 『フルハウス』のクリエイターであるジェフ・フランクリンによる初めての劇場作品で、脚本・監督を務めている。出演はフレンチ・スチュワート、ブリジット・ウィルソン、タイラー・バンクス、ジェイソン・ベイトマンら。

Love Stinks というタイトルがタイトルなので、 "This movie does not really stink, but sucks." といってみたくなった。そんな映画。300人程度のキャパシティがある劇場で、初日の夕方、自分以外に誰一人として観 客がいなかった。5ドルでもお釣りのくるマチネー料金だったから、なんか申し訳なくて。

でも、これは、つまらない。本当に。笑えないコメディである。

海外の映画は、なんらかの価値がなければ日本の市場に入ってこない。あらゆる角度から吟味して、本当にどうしようもない作品ってのは、そんなわけで、なかなか眼に触れることもない、はずである。この作品は、そんな一本になるんじゃないかと思っている。

前半は、「とにかく強引に結婚を迫る女」 vs.「惚れた弱みか、まんまと相手の策略にはまっているだけの情けない男」という展開。後半は、マイケル・ダグラスとキャスリーン・ターナーが壮絶な泥仕合を演じた『ローズ家の戦争』の安いコピー。主人公はコメディ番組のプロデューサーなのだが、私生活の経験をコメディ番組に持ちこむ設定は、おそらく監督のジェフ・フランクリン自身の経験なのだろう。

同じプロットでも、それなりの脚本と演出だったら面白くなりそうだ。しかし、ブラックでもなけりゃ、皮肉でもない脚本のつまらなさ。だらだら間延びした演出。演技下手で、主演俳優としての個性と魅力にすら欠けるメインキャスト。最低センスのスコアと恥ずかしくなる既成曲の選曲。ここまで全てが低レベルでまとまっていると、見ていても辛い。

主演のフレンチ・スチュワートは若き日のトム・ハンクスを意識しているのかどうなのか、しかしハンクスほどの切れ味もなく、爽やかさもない。そもそも映画を背負って立つだけの華がないTV俳優。相手役のブリジット・ウィルソンは『ラスト・サマー』なんかにも出ていた女優で、こちらはまだ華はあるものの演技は学芸会レベル。

そうだ、何が足りないといって、「合いの手の笑い声」が足りないんだよ! ほら、シットコムであるでしょ、収録を見に来ている観客席の笑い声(のように聞こえる効果音)。演出をしながら、あるいは演技をしながら、無意識のうちにコマーシャルを挟むタイミングと、間を埋めてくれる笑い声を前提としてしまったんじゃないか。

インディペンデントの会社で、自ら脚本・監督を務めた劇場映画デビュー作がこれでは、先が思いやられる。TVの世界に帰ったほうがいいよ。

9/01/1999

Chill Factor

チル・ファクター (☆☆)

兵器実験での事故の責任を負わされて復讐の念に燃える軍人が、一定の温度を超えると活性化する化学兵器の強奪を図った。間一髪、研究所の脱出に成功した開発者は、その化学兵器を知り合いであった主人公、コーヒーショップ店員に預けたところで息絶えてしまう。主人公はその場に居合わせたアイスクリーム配達人を協力させ、化学兵器を冷却しながら後を追う軍人から逃走することになる。

悪役像、民間人が巻き込まれる展開、化学兵器の視覚的な見せ方などなど、ヒット作『ザ・ロック』をお手本にしたもののように見える。一定の温度で、、、というあたりは『スピード』のアイディアを拝借して転用したものだね。主役は『スクリーム』で売りだしたスキート・ウルリッチ。用意された主演作が、、この程度っていう評価の人だろうか。全く関係ないのに巻き込まれる相棒役にキューバ・グッディングJr。勢いで獲ったとはいえアカデミー賞俳優なのに、いい作品が回ってこない人だな。キャスティングも微妙に安い。監督も、撮影畑出身の新人、ヒュー・ジョンソン。この監督の人選ひとつみるだけで、安手に作ろうという制作側の意図を感じてしまう。

しかし、それ自体を悪くいうつもりはない。娯楽映画としては、よくあるアイディアであっても、上手に焼きなおして見せてくれさえすれば充分だ。

でも、悪役には『ザ・ロック』のエド・ハリスが持っていたような悲劇性まではなく、逆恨みのテロリストにしか見えない。また、主人公には危険な物質を抱え、命をかけるだけのモティベーションが不十分。まあ、うだつの上がらない人生であることは示唆されているのだが、それを、事件に関わる強い動機に結びつけることはできていない。なんだか、いまひとつワザが足りない感じである。

主人公と相棒の描き方は数あるバディ・ムーヴィーのパターンを踏襲。これらのドラマは水と油の2人の対立と理解の物語として提示されるのが定番である。しかし、スキートのキャラクターとキューバのキャラクターの対立軸が明確でないので、やがて友情へつながることになるドラマもあまり盛りあがらない。

舞台が都市ではなく、西部のアウトドア・セッティングであるのは気にいった。この点、ダイナミックな地形を背景にして少し新鮮味を感じるが、結果として化学兵器が活性化した場合の被害も大きくならないんじゃないか、と思えてしまうのが大きな欠点でもある。

こんな作品は、いっそのこと徹底的に破綻してくれたほうが嘲笑いながら楽しめるのだが、意外や小さくまとまっている。ケーブルTVなんかで放送されたお気楽TVムーヴィーというのなら、配役がちょっと豪華で得した気分になれたかもしれないが、劇場作品としては存在を忘れそうになるくらい影が薄い。一応、アカデミー賞俳優だというのにいい役に恵まれないキューバ・グッディングJr.が少し可哀想だ。

8/27/1999

The 13th Worrior

サーティーン・ウォリアーズ(☆☆)

久々のジョン・マクティアナン監督作は、アントニオ・バンデラス主演、マイケル・クライトンがベオウルフを土台に構想した初期作「北人伝説(Eater of the Dead)」が原作の中世アクションだ。これが、初期のスクリーニングで大不評だったため、音楽の差し替えと追加撮影が決まり、マイケル・クライントン自身が追加撮影を監督。グレアム・レヴェルの音楽がリジェクトされ、巨匠ジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当することとなったという代物。そんなドタバタの舞台裏をきくと、なんだか、いやな臭いが漂ってくる。

どんな話か。中世のアラブ世界より辺境のヴァイキングたちの世界に左遷されていた主人公が、北方の村落を襲う「死者を食らうもの」たちから守るための助っ人軍団に、「13番目の戦士」として参加することになった。霧とともに襲ってくる残虐なものたちとの決戦のときは刻一刻と迫ってくる・・・というもの。

前半、主人公らの文化の違いを描いたりして興味深くもあるが、スロースタートな感じ。得体の知れない怪物を相手にしている時の恐怖感みたいなものはそれなりに出ている。しかし、この正体が割れてしまうと、駄目だ。原作ではネアンデルタール人の子孫らしいんだけど。

中盤、相手の根拠地に乗り込むが展開に工夫が感じられず。主人公以外の12人の戦士の描きわけが十分でなく、ただいるだけ。演じる役者も知らない顔が並び、しかも髭面だから、視覚的にも判別がつかない。それを思えば、もうちっと脚本で描きこんでやってほしいところ。

さすがにクライマックスは画面作りに気合が入っていて、わりと盛り上がる。なんと、雨中決戦だ。そうか、『七人の侍』がやりたかったのか。しかし、盛り上がったと思ったら終わってしまう。もう少し見せてくれよ。

バンデラス扮するキャラクターが他のヴァイキングたちの言葉を理解するようになるところの演出が、マクティアナンの過去作『レッドオクトーバーを追え』でやった、ショーン・コネリーの口もとのアップ以降、ロシア人たちの会話が英語に差し替えられる演出を応用版になっていて面白い。ゴールドスミスが書いた音楽はさすが巨匠、なかなか燃える。

しかしいっちゃなんだが、そもそもこの話、それ自体がつまらないんじゃないか。なんで今頃、クライトンの初期作品を引っ張り出してこなくてはならなかったのか。『コンゴ』の失敗を見て気付けよ、それじゃダメだってことくらい。原作者のネームバリューだけに頼る映画作りは、もういい加減にやめるべきだ。

8/21/1999

Mickey Blue Eyes

恋するための3つのルール(☆☆)

NYのオークション会場で進行を務める英国男が恋した女性はイタリア系。実は彼女の父親は犯罪組織の一員で、まわりにいるのは物騒な男たちばかりなのだ。親のしていることは自分たちとは関係ないと、惚れた彼女と結婚に踏み切ろうとする主人公だったが、案の定といべきか、やはり災難が待っているのだった、というお話。

主演のカップルがヒュー・グラントとジーン・トリプルホーン。映画を観る前から、ヒュー・グラントがオロオロする姿が目に浮かぶよう。

マフィアもののコメディといえば佳作『ドン・サバチーニ』や近作『Analyze This』などが、マーロン・ブランドやロバート・デニーロといった、過去の映画の役柄を嫌でも彷彿とさせる「大物」を引きずり出してきたところがカギになっていた。本作でのその役どころは、血の気の多いジェームズ・カーンが担うというわけだ。組織の親分というわけではないので、役者としての格下感もちょうどいい具合。いや、しかし、恋人の父親がジェームズ・カーンってのはイヤな感じだな。で、周囲をバート・ヤングなんかがうろちょろしているのな。

単発ネタ気味ではあるものの、笑えるシーンはふんだんにある。ことにヒュー・グラントが必至でイタリア訛りのマフィア言葉を英国訛りで練習するあたりは一聴に値する傑作シーン。ジェームズ・カーン以下のヤクザ顔キャストたちの怪演も期待通り。

しかし、見終わって思うに、作品として少々煮え切らない。さんざん笑ったはずなのにな。

これ、一応、ロマンティック・コメディのはずなんだよね。だから、主人公が幾多の困難を乗り越えてハッピーエンド、という構成になるはずだ。もちろん、主人公がとんでもない災難にも耐えてみせようと思うのは、魅力あるヒロインゆえ、そこがロマンティック・コメディの「ロマンティック」な所以。

でも、ジーン・トリプルホーンのキャラクターが完全な脇役かと思うほどに描けていないのだ。これが致命的。なにせ、主人公がそこまでして困難に立ち向かう理由がわからなくなってしまうんだから。で、本末転倒というのか、主人公が遭遇する「数々の困難」のほうが映画を乗っ取ってしまった。まあ、笑ってオシマイにするにはそれほど悪い映画じゃないんだが、ちと、惜しい。

8/20/1999

Universal Soldgers: The Return

ユニバーサル・ソルジャー:ザ・リターン(★)

『ユニヴァーサル・ソルジャー』といえば、(いまはなき)カロルコ・ピクチャーズの1992年の作品で、ドイツから招いたローランド・エメリッヒにとってハリウッドでの足がかりとなったアクション映画だった。ベトナムで死んだ兵士をスーパー・ソルジャーとして蘇らせる。暴走する悪役ドルフ・ラングレンと、それを阻止する善玉ジャンクロード・ヴァンダムの共演も話題であった。

本作は、前作のプロデューサーであるアラン・シャピロとクレイグボーム・ガーデンが、主演のヴァンダムと共にプロデュースし、スタントのベテランであるミック・ロジャースを監督に担ぎだして作られた、一応、正統な続編ということになる。

今は社会的にも復帰を果たした最初の「ユニソル」であるルーク(ヴァンダム)は、国家の命により新たなユニソル・プロジェクトで働いていたのだが、予算削減・プロジェクト縮小を恐れた中央コンピュータが叛乱をおこし、最強のエリート戦闘集団を武器に戦いを挑んでくるのである。立ち向かえるのは旧型となったルークただ一人、という話になっている。脚本は『48時間PART2』のジョン・ファサノと、『Supernova』、『House on Haunted Hill』のウィリアム・マローン。あ、嫌な予感、、、。

いやはや、80年代の筋力スターの生き残り、ヴァンダムのキャリアの終焉を見るようだ。これまで基本的に「続編もの」の出演がなかった彼が、自らプロデュースしてまで、「中ヒット」程度の凡作の続編に出演しているという事実がひとつ。60年代生まれの枯れの顔に体に疲労が刻まれ、全く精彩が感じられないことがもう一つ。薬物の影響か?

そんなヴァンダムのネームヴァリューがゼロにならないうちに、低予算で名の知れた作品の続編を作りたいスタジオの意向と、失われて行く名声にあせったヴァンダムの意向が一致した結果の「安い」続編、そんなところだろう。

だいたい、続編としても単独で見ても、物語がデタラメである。そもそも、前作では「死んだはずなのに、その尊厳を守られず、人造兵器として蘇らせられた悲哀」が描かれたはず。その物語の主人公が、何故にまた、ユニ・ソルの新プロジェクトに協力しているのか。兵士の死体を再生して最強の兵士を作るというプロジェクトそのものが持つ倫理性についての言及をしたくないのなら、今回の敵となる新しいユニソルたちは、アンドロイドか、ロボットにしておくべきだろう。

ちなみに、そんな新ユニソルの一人としてプロレスラーのウィリアム・ゴールドバーグが出演して失笑を買っているのが見どころのひとつである。

ひどい脚本を渡されたベテラン・スタントマンは、せめてメリハリのあるアクションでも見せてくれるのかと思いきや、やはりそちらの才能はなかったようである。編集もデタラメ。本作に比べると、エメリッヒの愚作が傑作に思えてさえくる始末である。TVムーヴィーかビデオ直行なら許されるかもしれないが、これを劇場で公開するとは恥知らずといいたいね。

今気がついたのだが、ユニソルには知らないあいだに「TVムーヴィー」として製作された2本の続編があったらしい。万が一、ヴァンダムのでていないそっちの方が面白かったら、ほんと、怒るぞ。

Teaching Mrs. Tingle

鬼教師ミセス・ティングル(☆★)

「スクリーム」「ラスト・サマー」の脚本や、TVドラマ「ドーソンズ・クリーク」で名前を売ったケヴィン・ウィリアムソンが、余勢をかって自作脚本で監督デビューとあいなっったのが本作である。本来、今年(1999年)の春に『Killing Mrs.Tingle』というタイトルで公開を予定されていたが、4月20日にコロラド州コロンバインで起こった高校生の銃乱射事件の余波で公開が延期され、物騒なタイトルも変更になったという。

どんな話かというと、高校生たちが、ミセス・ティングルという、若者の人生に土足で踏み込み、独断の偏見でその未来を破壊してしまう邪悪で怪物的な教師と戦うブラック・コメディである。そこに ”Killing”なんてタイトルがついていたら、そりゃ物騒な、ということになるのも致し方あるまい。

主人公は「ドーソンズ・クリーク」で名を売ったケイティ・ホルムズで、奨学金をとって大学に行くことを夢見ているが、あと少しのところ。そこに、おちこぼれの幼馴染みが歴史の期末試験問題を盗み出してきたことで、主人公にあらぬ嫌疑がかけられてしまう。事情の説明に先生の家に向かったが、成り行き上、学校一性格の悪い先生として名高いミセス・ティングルを監禁することになってしまう。その「鬼教師」を演じるのはヘレン・ミレンだ。

良識的なドラマだと、「鬼教師」のなかにある人間性に触れた生徒たちと先生のあいだで和解が成立して終わるのだろう。ブラック・コメディだったら、一枚上手の教師によって主人公らが人生の教訓を学ばされて終わるとか、両者痛み分けに終わるとか、そんな展開にするだろう。

しかし、そこはケヴィン・ウィリアムソンなのである。どうやらケヴィン君の頭の中は、高校時代の教師への恨みつらみでいっぱいなようで、ろくでもない高校生たちが先生に天誅を加えて終わる、彼的な意味での「ハッピーエンド」になっているのである。でも、これがとても後味が悪いんだ。

おそらく、作品としての計算違いなのは、観客が「頭が悪く自分勝手で無知な高校生たち」に感情移入できなくて、むしろ、「怪物」ミセス・ティングルのなかの人間性に触れ、哀れな教師として同情すら感じてしまうという点にある。そこは、演じる役者の格の違いが出たと入ってもいい。ヘレン・ミレンは悪役としての教師を憎々しげに演じながら、これを漫画的な薄っぺらいキャラクターにするのではなく、血の通った一人の人間としてのリアリティを与えてしまったのだ。

その結果、この映画は意図せずして、「ワルガキどもが、自分の妄想の中で作り上げた<怪物>を恐れ、本来罪のない教師を肉体的にも社会的にも痛めつけ、そのまま罪にも問われることなく逃げおおせてしまうう映画」になってしまった。

若者の気持ちを汲み取るという姿勢はわかるけど、個人的にはこんなバカ高校生どもの人生なんか、「鬼教師」の出番を待つまでもなくメチャメチャになるだろうと思うし、こんなキャラクターどもはまとめてブチ殺してしまいたいくらいなんだけどね。見ているこっちが歳をとったのかなぁ。

モリー・リングウォルドがちょい役で出演していて、これは間違いなくジョン・ヒューズへのオマージュ。それを思うと、ジョン・ヒューズだったらこれをどう描くのかなぁ、と考えてしまう。先生のキャラクターは徹底的にコミック、記号としての大人、役割としての悪役としてコメディにするか、最後まで「分かり合うことの出来ない教師」であっても、互いの立場と尊厳を認め合って終わるか。いずれ、こういう一方的に後味の悪い物語にはならないはずだ。

8/19/1999

Bowfinger

ビッグ・ムービー(☆☆☆☆)

友人の会計士が仕上げた一冊のエイリアン侵略ものの脚本を読んで感動した3流プロデューサー兼ディレクター。自分の家に出入りする3流役者やスタッフをかき集めたが、成功させるには大スターも必要だ。手持ちの金もない。そこで一計を案じ、大スターが知らないまに、無許可でその出演シーンを撮影してしまおうというゲリラ撮影を決行することになる。

この作品は、もう、スティーヴ・マーティンとエディ・マーフィの初共演、というのが売りものだろう。脚本はマーティン自身が手掛け、監督は、彼と4度目の顔合わせになるフランク・オズ。

一体どんな映画かといえば、『エド・ウッド』から感傷を引き、代わりに「騙し」のスリルを加味して突っ走る。そんな感じである。ともかく、ここ数年のスティーヴ・マーティン主演作としては最高の出来だ。

大スターを2人並べてはいるが、なんといっても、これは脚本も手掛けたスティーヴ・マーティンの映画である。作品の隅々まで、彼らしさが行き渡っているのだ。なんといっても脚本の巧みさ。アイディアに溢れたプロット、小技大技とそれを繰り出すタイミング。伏線は忘れたころにきちんと拾うし、自分と共演者の個性を活かしきる設定もそうだし、ダイアローグも相当練られている。

素晴らしい脚本を得て、パラノイアぎみのスターを含めた2役演じるエディ・マーフィも、近作は一体何だったのかと思いたくなるイキの良さを見せてくれる。客演ということで肩の力が抜けたのもあるのだろう。

それに、ヘザー・グラハムだ。ファニーフェイスでコメディセンス抜群の彼女だが、これまでの作品から、「清純派」のイメージと「セクシー路線」の両方のイメージを持っている。それを逆手に取り、頭空っぽなスターを夢見る田舎娘というキャラクターで登場しておいて、観客の先入観を次々に気持ち良く裏切っていく面白さ。劇中映画の演技で身体をクネクネさせる珍妙な動きも悶絶もの。コメディ映画のヒロイン、かくあるべし。

導入のきどったクスグリから、ゲリラ撮影がはじまってからのスピード感溢れるノンストップのドタバタまで、フランク・オズが緩急つけながら、陽性の爆笑映画に仕上げてくれた。映画作りへの愛と情熱を隠し味にしているのは間違いなく映画好きの琴線に触れる。夢は叶うという隠しメッセージもいかにもアメリカ。感傷で落とさず笑いで締めるのも、ハリウッド・コメディの鏡といえるだろう。

8/12/1999

The Thomas Crown Affair

トーマス・クラウン・アフェアー(☆☆☆)

『華麗なる賭け』の現代版リメイクである。NYに住む富豪トーマス・クラウン。手に入らないものはないような彼が趣味とするのは高価な美術品を盗み出すこと。美術館からモネの逸品をまんまと盗み出した彼に疑いの目を向けたのは保険調査員のキャスリーン・バニング。絵を取り戻すためなら何でもするという彼女。相対する二人だったが、個人的な感情が途中で一線を超えてしまう。

今回の主演はピアース・ブロスナンとレネ・ルッソ。監督はジョン・マクティアナン。オリジナルの主演だったフェイ・ダナウェイもちらりと出演している。

初代ボンドショーン・コネリーが主演するオールド・ファッションな泥棒サスペンス映画がスマッシュヒットを飛ばしたこことも記憶に新しいが、こちらは現役、5代目ボンドが主演。恋の駆け引きが柱とし、サスペンスはお洒落でゴージャスな恋の舞台装置といった雰囲気の作品である。少しだけだが、マクティアナンに復調の兆し?なのか、なかなか楽しめる1本になっているのは間違いない。

映画はNYのメトロポリタン美術館らしきところから印象派の逸品を奪い出すシークエンスで幕を明ける。大掛かりなプロの強盗団が登場し、壁の裏側で次々と細工をしていく描写が『ダイハード』の自己パロディ的でニヤリ。軽妙なジャズ調の音楽にも支えられて、まんまと作戦成功と相成るまでが実にお洒落でテンポが良い。音楽はビル・コンティ。

主人公と女捜査官の駆け引きも快調。ただ、それがロマンスに発展するあたりからが少々かったるい。中だるみ、だな。クライマックス、警官たちの監視された状態での大一番からエンディングまでが、派手な仕掛けに頼らず小気味良い。

この映画で気になることは、冗談にしか思えないぐらい露骨なプロダクト・プレイスメントである。これはスポンサー企業の製品などを画面のなかにさりげなく写し込む広告手法だが、この作品ではレネ・ルッソがペプシ・ワンをロゴが良く見えるアングルで飲み干したり、ヨットレースで相手の帆にルーセント・テクノロジーのロゴが入っていたり、ピアスナンがプレゼントに買い求めるのがブルガリの宝飾品だったりと、やりたい放題で、『トゥルーマン・ショー』のなかでやっていたパロディを見ているようだ。もしかして、頭にきた監督が悪意をもってわざとやったのじゃないか。

演技面では、なんといってもアクション派女優レネ・ルッソの、これが彼女の代表作と呼びたくなる颯爽とした格好良さと大胆さ。仕事を超えた個人的な感情で動揺する心をきっちり見せる演技力。対するブロスナンはアッサリしすぎで少しモノ足りない気もしたのだが、もし彼が「濃い」役者だったら、この映画、ちょっと蒸し暑くなり過ぎていたかもしれない。

8/06/1999

The Sixth Sense

シックス・センス(☆☆☆☆)

数字の6がつくからといっても『セブン』や『8ミリ』のアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーとは関係ない。

フィラデルフィア。児童心理を専門にし、その活動が高く評価されている精神科医の新しいクライアントは母子家庭に暮らす少年だった。少年はいつも何かに怯えているようで、友達や学校の先生たちも変人扱いをするのだが、彼には決して人に明かしたことのない秘密があった。その秘密とは、彼の目にはまわりを徘徊する死んだ人々がみえるということだ。Mナイト・シャマラン脚本・監督。主演はブルース・ウィリス、ハーレー・ジョエル・オスメント。

これは、まだ20代のMナイト・シャマランという男が、自ら執筆し、撮りあげた作品である。それがにわかには信じられないほど落ちつきをもった仕上がりで、必見の作品である。優れたスタッフと演技陣に支えられ、高いレベルで物語を紡いで見せており、その繊細な感性と見事な手腕には感心させられる。一種の怪談話だが、それだけに終わらない。観客の背筋を揮えあがらせながら、そして最後には静かに胸を打つ。 

まず秀逸なのはアメリカでは有数の歴史を持つ古都フィラデルフィアを舞台としたこと。レンガ造りの家並みや石畳、由緒ある建物。見事なデザインと造形。この舞台設定が控えめながら怪談話の雰囲気醸成に貢献しているのは疑いの無いところだ。聞けば監督の出身地と言う。街の雰囲気と、その魅力を知り尽くしているだけのことはある。

そんな街で、死者の魂にかこまれて怯えて暮らす少年。この子役の素晴らしさ。絶望と恐怖、諦めと希望。1本の作品を背負って立つだけの存在感をみせてくれる。また、大味なアクション大作とは一味違うブルース・ウィリスに、彼の役者としての真価を知らない多くの観客は驚くだろう。彼の人間味、落ちつき、悲しみを湛えた眼。母子家庭の少年に欠けた父性を体現するかのような包容力。ブルーノは決してアクション馬鹿ではないのだよ。うん。

この完璧な舞台と繊細な演技を落ち着いた色調と安定した構図で切りとって見せるのは『フィラデルフィア』でも一度この街に取り組んだタク・フジモト。演出は意図的に色の数をコントロールしているのだが、そのあたりの意を汲みながら、完璧な仕事をして見せる。また、単独で聴くには弱いがしっかりとドラマをサポートするジェームズ・ニュートン・ハワードのスコア。

もちろん、それらをまとめ上げているのは、あせらず、急がずに、一つ一つエピソードを自信に満ちた足取りで積み上げていく、この監督の語り口だ。なかなか見えない・見せないことで戦慄を運ぶ、恐怖を醸成するじらしのテクニック。どこをひとつとっても一流の仕事ぶりである。

114分の戦慄と感動。大作ホラー映画のコケオドシが霞んでしまう。かつての患者を本の意味で救うことが出来なかったことを知らされて傷つく精神科医。ゴーストに怯える少年を救ってやりたくても己の限界に直面し、仕事に打ち込むほどに妻の愛情が冷えていくのを感じるこの主人公は、少年の心を、自らを救うことが出来るのか。これは、ちょっといい話だ。怖いのが苦手な人にもぜひ、薦めたい。

8/05/1999

Dick

キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ! (☆☆☆)

1972年、ウォーターゲート・スキャンダルに揺れるニクソン政権の裏側、スクープをモノにしたワシントンポストの記者たちが情報源としたディープスロートの正体に迫る問題作(?)。ホワイトハウス見学ツアーのコースからはずれた女子高生2人組が大統領自身と出会い、飼い犬の散歩係に任命されることに端を発するナンセンス劇。出演はキルスティン・ダンストとミシェル・ウィリアムズ。脚本と監督は『ザ・クラフト』のアンドリュー・フレミング。 

きっと、若くきゃぴきゃぴしたキルスティンに "Dick" と云わせたくって企画したに違いないんだ、これ。

リチャード・ニクソンのリチャードの相性が Dick、それが隠語として意味するところは、まあ、言うまでもないということで、ひとつ。

あと、この映画を見る前に、副読本としてオリバー・ストーン監督『ニクソン』とアランJ・パクラ監督の『大統領の陰謀』で予習することが望ましい、と思われます。なにせ、パロディ映画を見るのに「もとネタ」を知らなければ笑えないのと同じこと。ニクソンの時代とウォーターゲート事件の顛末は知っておいたほうがいい。

そんなわけで劇場内でうけまくっていたのは、やはり同時代を生きてきた世代の、ある程度年配の観客たちだった。米国人にしてそうなら、この作品はやっぱり日本の観客にはちとムズカしいだろう。

では、アメリカの歴史的事件を知らない観客にとってこの映画は見る価値のない作品なのか?もちろん、この映画でウォーターゲート事件の全貌が勉強出きるわけでは無いから、そういう価値はない。ただ、この作品はティーンズ・アイドル・ウォッチャーだったら見逃すべきではない1本だ。なぜなら前作『Drop Dead Gorgeous』に続いて、キルスティン・ダンストの魅力を堪能できる作品なのだから。

キルスティンといえばやはり衝撃的だったのが『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』の少女吸血鬼役だが、今年で17になる彼女、『スモールソルジャー』あたりから存在感を増しており、そろそろ作品次第では大ブレイクの予感がある。考えて見たら前作『Drop Dead Gorgeous』で10歳年上のデニース・リチャ-ズとタメをはっていたのは凄いことだ。(実は、10歳年下とタメを張れるデニースが怪し過ぎるという話もある。)

で、この映画だが、いってみれば「フォレスト・ガンプ」スタイルの作品といったら分かりやすかろう。歴史上の事件に全く場違いな人間が絡んで思いもよらない方法で辻褄があってしまう、というやつね。ホワイトハウスを巻きこんだ陰謀の中心に、場違いなキャピキャピ娘二人を放りこんだ時点でアイディア勝利。そしてなにより、今が旬である主演の二人の表情や動作を非常に魅力的に引出し、切り取ってみせている演出。パロディとしても、ドタバタとしても結構楽しい作品に仕上がっているといえる。

作品のテンポもいいし、ギャグのセンスや音楽の選曲もイカしている。70年代初期のファッションなどに興味があるなら、そういう部分でも目を楽しませてくれるだろう。

Mystery Men

ミステリー・メン (☆★)

チャンピオン・シティの平和を守るキャプテン・アメージングは、「スポンサー」のご機嫌を取るためには強力な宿敵との派手な闘いが必要と判断し、精神病棟から恐るべき強敵、カサノヴァ・フランケンシュタインを解放するが、罠にはまって監禁されてしまう。この事実をつきとめたスーパー・ヒーローなりたがりの男たちが仲間を集め、街の危機に立ち向かう。

コミックの映画化となるこの作品、とても面白そうに思われるプロットだし、キャスティングもちょっとした映画好きだったら「豪華!」って思うに違いない。なにしろ、グレッグ・キニア、ジェフリー・ラッシュ、ウィリアム・Hメイシー、ベン・スティラー、ジャニーン・ガラファロ、ポール・ルーベンス、ハンク・アザリア、クレア・フォラーニ・・・なんだからね。

でも、残念ながら整理されていないおもちゃ箱というよりは、とっちらかったゴミ捨て場のような印象が残る作品になってしまった。監督は、CM出身だというキンカ・アッシャー。初監督作品らしい。

スーパー・ヒーローものをパロディにした世界観や設定、気合の入ったプロダクションによるチャンピオン・シティの造形も注目に値するし、個々の役者も楽しそうに怪演している。でも、なんか面白そうだけど、実際には笑うに笑えないコメディになってしまった。(そのせいか、日本では見事にビデオに直行のようだ。)

ストーリーに盛り込まれたオフビートなヒネリは楽しい。はぐれものたちが団結して悪に挑むと云うストーリーも王道だ。でも、エピソードは単なる数珠ツナギでメリハリがないし、カメラワークもうんざりするほど落ち着きがない。

どうしてこうなってしまうのか。もちろん、脚本も、監督も未熟なのだけど、そもそも作品としてのスタンスのとりかたに問題はないのだろうか。つまり、徹頭徹尾ナンセンスで押しきるのか、荒唐無稽さは設定にとどめ、未熟なはぐれものたちが未曾有の危機に対して団結し、悪と戦う中で成長をとげていくという王道なドラマを盛り上げたいのか。

演技陣は総じて暴走気味。監督はこのキャストをコントロールできていない。

そのなかで一番自分の役割を良く心得ていたのは利益優先のキャプテン・アメージングを演じたグレッグ・キニア、迫力ある敵を演じたジェフリー・ラッシュ、それにシャベルを振り回すウィリアム・H・メイシーの3人だろうか。ことに妻に半分馬鹿にされながらヒーロー願望を捨てられない男を演じたメイシーの演技には、ナンセンスな中にも節度があってちょっとくらいは泣かせてくれる。流石だ。

7/28/1999

Runaway Bride

プリティ・ブライド(☆☆★)

スターの魅力に甘え過ぎた作品だが、しかし、スターの魅力とはなんなのかを目の当たりにすることが出来るという意味では面白い。

結婚式場に新郎を置き去りにしたまま3度も逃げ出した花嫁。そんな田舎町のある女性をネタにしたコラムが新聞を飾ったところ、本人からの抗議で、記事を書いたコラムニストは仕事を失ってしまう。実は4度目の結婚式が間近だというこの女性に付きまとい、自分の正さを証明しようとするコラムニスト。2人はやがて恋に落ちてしまうのだったが,、さて、、、、という話。

主演はジュリア・ロバーツとリチャード・ギア、監督はゲイリー・マーシャルで、『プリティ・ウーマン』トリオ、10年ぶりの再結集である。

「逃げる花嫁」の4度目の結婚式を取材する記者、というアイディアそのものは、オリジナリティがあってなかなか秀逸である。一方、こういうリアリティに欠けた設定を支えるべき脚本と演出は緻密さを欠いていて凡庸なのである。しかし、それらを全て帳消しにするのはスターの魅力という、そういう映画だ。

ともかく、導入部の手際が悪いのにうんざりさせられる。コラムニストが「逃げる花嫁」を取材するに至る経緯はもっと端折ってしまうべきだろう。そして付きまとうように取材を始めてから彼女の協力を得るまでも、個々のエピソードは面白いのに、締りが悪い。「天敵どうしがいがみあっているうちに惹かれ合う」はずなのに、すでにして同窓会気分が蔓延なんだから困ってしまう。

それよりなにより、大きな嘘をつくにはリアリティの積み重ねが大事であろう。例えば1度ならいざ知らず、3度も結婚式を逃げ出したような女性が、幾分閉鎖的な田舎町に住みつづけている、住みつづけることが出来る不自然。これをどう不自然と感じさせないのか、そのへんになんの工夫も見られないのは、いかがなものかと思うのだ。

しかし、何と言おうとも話の内容よりも、スターで見る、スターで見せる映画である。ジュリアの個性は快活なアメリカ田舎娘で輝くから、こんな映画で活き活きとした彼女が見られるのは格別にファンでなくたって楽しい。また、4度目の結婚式のリハーサルで彼女とリチャード・ギアが見せる息のあった演技もいい。

ただ、ド派手な主演2人の影に隠れた感があるが、この作品で本来、最も注目すべきは名コメディエンヌ、ジョ-ン・キューザックの悶絶ものの演技だったりする。このひと、巧い。巧すぎる。

邦題は「プリティ・ブライド」なんだけど、酷いもんだなぁ。もうこの主演コンビだから、なんでもプリティにしちゃえってこと?

Deep Blue Sea

ディープ・ブルー(☆★) 

遺伝子治療の鍵となる生体物質をサメの脳から効率良く取り出すため、秘密裏に脳を巨大化させられたサメたちが、洋上に建設された実験場で人間たちに対して牙を剥く。ヤツらたちの目的は一体なんなのか。レニー・ハーリン監督3年ぶりの新作にはサミュエル・Lジャクソン、ステラン・スカルスゲールドらに加え、LLクールJ、サフロン・バロウズらが出演。

監督と脚本に、映画に出てくるミュータント・シャーク程度のIQを期待するのは、多くを求めすぎなのだろうか。企画も企画だが、出来映えもヒドいものだ。

要するに3頭のミュータント・シャークを相手に、洋上の実験施設内でエイリアンをやろうと云う中学生でも思いつきそうな企画なのである。それゆえなのか、そのくせなのか、一生懸命大作ぶろうとするあたりがそもそも勘違いだ。

さんざん勿体つけておいて、物語も中盤になってから「副作用としてサメが賢くなったのよ」といわれても、ね。

古いアイディアのリサイクル名手であるマイケル・クライトン程度の知恵がないなら、いっそ、「大きいサメがいて、そいつが何故か賢い」とか、「軍がサメの軍事利用のために」とか、定番のご都合主義で押しとおした方が、良かったんじゃないだろうかね。

まあ、いずれにせよ、ハーリンはそういう「賢いふり」をした部分に興味があるわけがないから、その辺の描写は全くおざなりである。派手に爆破さえすれば、面白くもへったくれもないストーリーや学芸会並みの演技も、矛盾と謎に満ちた小道具の出し入れも、ギャグでやってるとしか思えない仰々しい演説さえも忘れてもらえるはずだと信じている、典型的正調ハーリン節ここにあり。久しぶりに監督できて嬉しそうにしているハーリンの顔が目に浮かんでくるようだ。

この映画、観客の意表を突くつもりなのか、総じて安物なキャスティングに紛れ込んだ演技力のある役者をさっさと退場させたりする。それも一つの手だとは思うが、ここでは明らかな計算違いだった。曲者や求心力のあるキャラクターを失う度、映画は容赦なく退屈になっていく。そんななかでは飄々としたキャラクターでコックを演じるLLクールJが拾い物。あと、いついかなるときでも目の玉をひんむいて演説口調のサミュエル・ジャクソンには大いに笑わせてもらった。

しかし臆面もなく『ジョーズ』もどき聴かせてくれた音楽担当のトレヴァー・ラヴィンには頭が下がるね。

7/24/1999

The Blair Witch Project

ブレアウィッチ・プロジェクト(☆☆)

1994年10月、3人の学生がドキュメンタリー映画の撮影のためにメリーランド州の森のなかに踏み入ったが消息を絶ち、一年後、彼らが撮影したと思われるビデオと16ミリのフィルムが発見された。この映画は、そのフィルムに映った3人の、最後の数日間の姿を編集したものである・・・・という設定のモキュメンタリー・スタイルで作られた低予算映画。ダニエル・マイリックとエドゥアルド・サンチェス脚本監督による処女作である。

冒頭でぶっきらぼうに「3人のフィルムメイカーが森の中で消息を絶った。1年後にフッテージが発見された」とテロップが流れるや、その「残された」映像を編集したという設定の本編が始まり、カメラが地面に投げ出され空しく回りつづけたショットで幕を閉じる。

やはり、そのスタイルが注目の的であろう。スタイル、というのは映画そのものだけに留まらず、パブリシティのあり方も含めた「プロジェクト」全体とこの映画のあり方だ。そのプロジェクトの中にこの作品を位置付けたとき、はじめてその面白さと独自性が際立つのである。

逆にいえば、そういうプロジェクトを誘発した、低予算(=無予算?)を逆手にとった発想、この志の高さはたいしたものである。その志とは、偶然なのかもしれない、しかし、特撮やCGで何でも描けるようになってしまった時代に、予算制約を逆手にとって敢えて「見せない」ことで、単なるオドカシや生理的嫌悪感を超えたところにある「戦慄」をこそ産み出そうという、潤沢な予算で作られた大作ホラー映画とは全く正反対の方向性のことである。

観客が目にするのは、道に迷い、地図を失い、同じ場所を繰り返し歩かされて、お互いをの罵りあい、神経が衰弱して行く3人の姿だけである。夜になれば闇の中から正体不明のノイズを聞き、朝になると不気味な石の山や神経を逆撫でするような小枝の人型が周囲の木から釣り下がっている。観客にはそこで何が起こっているのか全く分からないし、説明もされない。丁度、この3人の登場人物たちがそうであるように。

変なもののいいかたかもしれないが、正直なところ、この映画は受身の観客を怖がらせてくれるほど親切に作られてはいない。このぶっきらぼうな映画は、しかし観客に参加することを要求してくるのである。われわれ観客は、スクリーンの登場人物と一体化して、自ら能動的に怖がらなくてはならないのである。そのための材料は映画の内外でふんだんに提供されているから、それらをもとにしながらいろいろ考えをめぐらし、能動的に、主体的に、積極的に、どんどん怖がった人の勝ち・・といえば、まあ、そんなものだ。実際、それができた人は「怖い」といい、出来なければ「くだらない」という。

しかし、スクリーンの中と一体になる、その意味で、極東の島国の観客にとっては、臨場感の源泉である言葉の壁が結構大きいかもしれないとは思う。字幕や吹き替えで見てもなぁ。付け加えていえば、ネット上で展開された様々な情報もそうだ。

言葉といえば、この映画はR指定を受けているのだけれども、どこかに血塗れやヴァイオレンスがある訳ではない。登場人物たちの、全く日常の延長線上にある言葉使いが理由だというのがなんとも皮肉に思えるじゃないか。

7/23/1999

Drop Dead Gorgeous

私が美しくなった100の秘密(☆☆☆)

ミネソタ州の田舎町でも、化粧品会社がスポンサーになって15年間続いているミス・コンテストの予備先行大会が行われようとしていた。17歳の出場者たちはそれぞれ自分の美しさや才能をアピールするのに余念がないが、同時に、始まった水面下での醜い争いをも密着取材のカメラは捉えていた! 

大会の出場者にデニース・リチャ-ズ、キルスティン・ダンスト、彼女らの母親を演じるカースティ・アレイ、エレン・バーキンら。マイケル・パトリック・ジャンの初監督作は、米国を蝕む(?)ミスコンを題材にした「モキュメンタリー」スタイルのブラックコメディの快作。誇張されたナンセンスさや薄気味悪さに加えて、紙一重の真実、現実の反映をしっかりと見せる脚本と演出は、なかなか技アリである。

この作品のオモシロさは、映画そのものを徹頭徹尾「擬似ドキュメンタリー」として作っていることである。作り物という意味の「モック」と合成した造語で、これを「モキュメンタリー」と呼ぶ。

こういう撮り方そのものは、最近でもティム・ロビンスが主演監督作『ボブ・ロバーツ』でやっていたりして、それ自体が斬新とまではいいきれない。しかし、こうすることで観客が映画のなかの登場人物を突き放した目でみられる距離感が生まれてくる。それは逆にいえば、登場人物の誰にも感情移入しにくい欠点ともなるが、本作では距離感がもたらす批評性が、ブラックでグロテスクな、ひねった笑いに昇華しているところが良いと思う。

ミスコンに入れ込む母と娘を演じるカースティ・アレイとデニース・リチャーズの作られた笑顔の薄気味悪さ。タップダンスを踏みながら、仕事で死人の顔に化粧をしているキルスティン・ダンストの健気なグロテスクさ。拒食症で入院しているのに笑顔をたやさない昨年の優勝者の気持ち悪さ。一見真面目なのにエロ親父ぶりが隠しきれない審査員の恥ずかしさ、など、ストレートに描くのではなく、ドキュメンタリー・クルーのカメラが真実を暴き出していくかのような演出が絶妙の味とリズムになって、オフビートな笑いを生んでいる。

地方大会だけで終わるかと思いきや、映画は引き続き州大会、全国大会とドキュメントを続ける。後半、少々盛り下がり気味になるこの構成はどうかとは思うが、作り手もそのことはわかっているのだろう、強引なアイディアでさっさとケリをつけ、地方大会出場者のその後をつけたすことで尺をだらだら伸ばさずにまとめ上げてみせた。

かつては美しかったカースティ・アレイが遂にキャスリーン・ターナー化(!)してしまった姿をみるのは、『スタートレック2』での輝けるデビューを知るものとしてはなんとなく寂しい。それに、ちょい役出演の松田聖子が日本語の台詞なのに大根演技で全く白けてしまうとか、彼女の名が「Seiko Mastudo」とクレジットされているとか、まあ、な。笑って見過ごすこととしようか。

Inspector Godget

Go Go! ガジェット(☆☆)

人の役に立ち正義を守ることに生きがいを感じている青年が警備員として駐車場で働いていたところ、事件が発生、犯人を追跡して追い詰めるも逆襲され瀕死の重傷を負ってしまう。そんな彼が、最新のロボティックス技術を使って「インスペクター・ガジェット」として再生し、身体のなかに内臓された様々な装備を駆使して犯罪に立ち向かう。

人気のあったカートゥーンシリーズをディズニーが実写映画化んだそうだ。元ネタは日仏合作の「ガジェット警部」だそうだ。知らなかったな。主演にマシュー・ブロデリック、敵役にルパート・エヴェレット。監督はデイヴィッド・ケロッグ。

この手の映画がしばしば陥る問題点は。どこかで「子供向きだからこの程度でいいだろう」としてしまう手抜きにあるだろう。いわゆる「子供だまし」というやつだ。本作もまた、残念ながらそういう一本。大人の鑑賞に堪える出来ではない。

死にかけていたとは云え一般市民をかってにサイボーグ化し、正義の味方として再生するということで思い出すのは、『ロボコップ』だ。アニメだと許容できても。実写でやると、役者の身体性に起因する生々しさが先に立ち、倫理的問題や、本人のアイデンティティの問題などがどうしても気になってしまう。そこに深入りするつもりがないのなら、いっそ、最初から、サイボーグ(改造人間)ではなく、ロボット(人造人間)としたほうが良かった。

物語の展開もご都合主義どころの騒ぎじゃない。ガジェットを動作させるチップが壊されてしまい、実質的に「死亡」した状態から蘇らせるシーンで、チップもなく、理由もなく、突然蘇生するというのは何事か。せめて「こういうこともあろうかと予備のチップを作ってあったのだよ」くらいの展開がないのは何故だ。

まあ、ことほどさように、あんまり頭を使っていない作品ではある。

かつての青春スター、マシュー・ブロデリックは小遣い稼ぎのつもりで出演したのだろうか。CGの洪水のなかで溺れている彼を見ているのはちょっと悲しくなる。一方、悪役のルパート・エヴェレットはいかにも楽しそうに怪演していて、それが本作の救いと言っても差し支えないだろう。

最近ディズニー実写ものを立て続けに担当しているジョン・デブニーが担当したスコアが楽しいこと。小ネタ的なギャグとして、「ニセ・ガジェット」に襲われた街で逃げ惑う人々のなかに日本人らしき人が登場してなにかわめきたてると字幕で「これがいやだから東京を脱出してきたってのに!」っていうのがゴジラ絡みのネタだろうけど、思わず笑ってしまった。

この映画ではあからさまに提携企業の製品やロゴが登場する。代表はマクドナルドで、全米のマクドナルドが展開中のインスペクター・ガジェットを使ったキャンペーンなどと連動しているわけだ。ちょっと目立ちすぎで嫌味に感じるのだが、どうだろう。

The Haunting (1999)

ホーンティング(☆★)

怖くないホラー。でも、笑えるわけでもないんだよな。まじめに作って、笑えなくて、怖くもない。何の役にも立たない。いってみれば、産業廃棄物みたいな映画である。

一応、シャーリー・ジャクスンのニュー・アメリカン・ゴシックの基礎を築いた『山荘綺談(The Haunting of Hill House)』を原作とする2度目の映画化で、今回は新人デヴィッド・セルフの脚色、ヤン・デ・ボンが監督している。ちなみに、最初の映画化は、傑作と名高い1963年のロバート・ワイズ監督作品『たたり(The Haunting)』。こちらは見えない恐怖の演出がなかなか巧みで、いま見ても面白いのでお薦め。見比べると技術が進化したからって、映画が面白くなるわけじゃないのがよく分かると思う。

さて、本作のお話しだが、「不眠症に関する研究」と偽った恐怖に関する心理学研究の被験者として、ゴシック風の巨大な屋敷にいろんな人が集められてくるところから始まる。その屋敷に秘められた過去があったことから、彼らが体験するのは、研究とは全く関係ない本物の恐怖に変わるのだった、という筋立てだ。出演はリリ・テイラー、リーアム・ニーソン、キャスリーン・ゼータ=ジョーンズら。

まずなによりも脚色が下手である。原作では主に霊現象の研究目的で悪名高い屋敷にやってきた人類学教授と、霊的現象の経験者に送られた招待状を見た人々が集まることになっているのだが、これを改変して、わざわざ導入部をまどろっこしくしている意味が分からない。登場人物間の人間関係や感情も描かれていない。屋敷の過去と登場人物を安易に血縁でつないだのも疑問だし、怪異の正体を暴いて単純な大団円に持ちこもうとするまとめ方も改悪。一見して原作のセッティングを忠実になぞり、有名な台詞(女中が繰り返す不気味な説明)やシーン(おかえり、エリーナ)を持ちこんだりしているが、原作の本質に対してはあまり敬意を表しているように思えない。

脚本の出来次第で映画の出来がぶれまくるヤン・デ・ボンだが、脚本にだけ責任を押し付けるわけにもいかない。最新のVFXで何でも見せられるようになった結果、見せちゃいけないものまで見せてしまったのが最大の敗因であろう。基本、幽霊話なんだから、観客から想像力を奪ってしまったら、何も残らない。遊園地のアトラクションとて、もう少し考えるだろう。撮影監督出身のヤン・デボンがキューブリック信者であることはわりと有名だから、キューブリックの遺作となる『アイズ・ワイド・シャット』の公開も間近となったこのタイミングで、古典小説を原作にして「呪われた屋敷」テーマに挑む以上、デボン版『シャイニング』との期待もあったのだけど、そういう比較のレベルになっていない。

一方で、邪悪な屋敷の内装・外見を含めた造形は頑張っている。「悪しき場所」に相応しい、ユークリッド幾何学を無視した(三角形の内角の和が180度に満たなかったり超過しているという)邪悪な歪みすら感じさせる力作。これは『奇跡の輝き』も担当したプロダクションデザイン担当のユージニオ・ザネッティの功績だろうか。また、『スターウォーズ エピソード1』で導入が始まった「ドルビーEX」対応の凝った音響効果も体感する価値くらいはあるだろう。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミスが担当。最近の巨匠はなんだか知らないが駄作にばかりに駆り出されているような気がして不憫である。

7/16/1999

Lake Placid

UMA レイク・プラシッド(☆☆☆)

「巨大な人食いワニが大暴れする(笑える)ホラー映画」ときいて、そんなアホらしい映画に時間と金をつかうのはご免だという人に無理に勧めたりはしないが、ちょっとした拾い物。監督はいかにも「B」というイメージのスティーヴ・マイナーだが、脚本が大人気のTVシリーズ『アリー・マイ・ラブ』のデイヴィッドE・ケリーで、出演者にはブリジット・フォンダ、ビル・プルマン、オリバー・プラットと、悪くないメンツが並んでいる。

メイン州の片田舎、湖に正体不明の怪物が出現し、ビーバーの生態調査をしていた作業員が無残に下半身をくいちぎられる事件が発生する。どうやらそんな北方に住んでいる筈のない巨大なワニがいるらしい。地元の保安官らにNYの博物館の学芸員やら人食いワニの専門家を名乗る男が加わって謎の解明にあたろうとする、というのが一応の筋立てである。特にひねりがあるわけではない。

が、なぜか面白い。身の丈をわきまえ、90分に満たない尺でまとめたところが一番良いところ。そんな短い時間ながら、登場人物のキャラクターが立っていて、会話のテンポ、かけあいのも面白さも楽しめる。これはTV界で鍛えられたデイヴィッド・E・ケリーの持ち味が出たところだろう。人間が描けているとまで言わない。が、化け物が出ていない時間も退屈しないというのは大事なことだ。

そして、きちんと演技の出来る俳優がそろっていることも勝因といえる。特に人食ワニ専門家を演じるオリバー・プラットは登場した瞬間からもう最高だ。あちこちの映画で重宝されている理由もわかろうというものだ。そして、ヒロインのブリジッド・フォンダはお約束通りに悲鳴をあげてくれる。

今や古典となった『ジョーズ』などを手本にした基本に忠実なショッカー演出もこなれている。ここは多くのホラーものを撮ってきたスティーヴ・マイナーらしいところだ。俊敏に動く巨大ワニのVFXも(安手ながら)悪くはない。ジョン・オットマンもいつもより派手目のスコアで雰囲気を盛り上げてくれるし、ブラックな笑いもある。

まあ、前半はすこぶる楽しかったブリジッド・フォンダが途中から手持ち無沙汰になってしまうことや、ヒーローとして活躍しようなビル・プルマンが今ひとつ活かせていないことなど、残念なことはある。だから、一級品であるなどというつもりはない。底の抜けた大作に比べたらずっと面白く、楽しい時間を過ごすことができる作品である。こういうのが嫌でないなら、騙されたと思って、ぜひ。

7/09/1999

American Pie

高校3年の卒業を間近に控えた男たちが、せめて最後のプロムまでに童貞を捨てなければ話にならないと、それぞれ相手の獲得や説得に奮闘する、青春セックス・コメディ。ジェイソン・ビッグス、ミーナ・スヴァリ、クリス・オーウェン、クリス・クライン、アリソン・ハニガン、タラ・リード、シャノン・エリザベス、ショーン・ウィリアム・スコットら若いスターのアンサンブルに加え、主人公の父親役でユージーン・レヴィが出演。ポール・ウェイツの監督デビュー作品である。
 
面白いんだ。面白いんだけどね。まあ、高校生がアルコールを飲み、セックスに奔走するという内容自体を不道徳だとかいうつもりは毛頭ないのだが、大笑いをしながらも、ちょっとどうかなぁ、と思ったのは事実なんだよね。

ここのところ、ハイ・スクールものが数多く作られていて、80年代(つまりはジョン・ヒューズ)以来のちょっとしたブームになっている。その一方で、昨年のサプライズ・ヒットとなった『メリーに首ったけ』が図らずも「解禁」した、下劣でも笑えれば勝ち、みたいなトレンドがある。その2つが交差してできた安易なティーンズ・セックス・コメディだと感じたのである。なんだか、カネ勘定が先に立ったようなイヤラシさとでもいうのか。

でも、よくよく見ると、この映画、同種の先例である『ポーキーズ』のような単なる性春のドタバタと違って、ティーンエイジャーの切実な悩みや興味関心を描いた青春映画としてもかろうじて成立している。どこかにハートがある。何度か繰り返し見ているうち(←繰り返し見るな!)ちょっと、印象が変わってきた。

もちろん、簡単には忘れられないほどに強烈で、愚劣で、下劣なギャグもたくさんある。全てのネタが、徹頭徹尾セックスがらみに落ちていく。しかも、少々心配になるくらいに脳天気。だから、こういうのが嫌い、という人は見ないほうがいい。

でも、キャストを見れば分かるように、これだけたくさんのキャラクターを出しておいて、濃淡はあれどそれぞれのキャラクターが立っていて、映画の中でうまく活かされているってのは、作り手のキャラクターたちへの愛情なんじゃないか、とも思う。主人公のみならず、脇役にもいいエピソードが振られているし、きちんと活躍の場がある。

最初は、作り手が登場人物たちと同じ視点ではしゃいでいるようにしか思えなかったが、どうやらそれは私の見た手違いで、バカで軽薄な行動も「誰もが通って来た経験」として、説教するでもなく、広い心で許容しているのだなぁ、と思うようになった。丁度、ユージーン・レヴィ演じる人が良いが間の悪い父親がそうであるように。

そうそう、そのユージン・レヴィだが、さすがベテランである。主人公の男親として非常に理解があるのだが、いつも間が悪いところで登場し、息子ともども非常にバツの悪い思いをする羽目になるのだが、絶妙の台詞回しと表情で、もう、笑いすぎて死ぬかと思ったよ。後世まで語り継がれるレベルの珍場面、名演技だ。このためだけでも見る価値がある映画かもしれないなぁ。

7/02/1999

Summer of Sam

サマー・オブ・サム(☆☆☆)

1977年の夏、記録的猛暑がNYを襲ったあの夏、スタジオ54に代表されるディスコ文化が花開く一方でパンクロックのムーヴメントが勃興しつつあり、人々は「サムの息子」と名乗る連続殺人鬼の影に怯えていた。時に先鋭的、時に挑発的に、常に個性的な作品を発表しつづけてきたスパイク・リーの最新作。出演はジョン・レグイザモ、エイドリアン・ブロディ、ミラ・ソルヴィノら。

申し訳ないが、スパイク・リーは、なんとなく食わず嫌いで熱心に観てきたわけではない。本作も、スパイク・リーだから見たんじゃなくて、映画のはしごをしていて上映開始時間がちょうど都合が良かったので足を運んだというのが正直なところである。どことなくヘヴィーでとっつきにくい印象のある映画ではあるが、わりと面白く見ることができた。もちろん、スパイク・リー好きであれば、生ぬるいとか思うのかもしれないけどね。

映画のタイトルには「犬に命令されて次々人を殺した」といわれる連続殺人鬼のニックネームを冠しているが、実際のところ、映画が描くのは、殺人鬼そのものではなく、事件そのものでもなく、事件を背景にして疑心暗鬼にかられていくブロンクスの若者たちの夏、である。

行き止まり(DEAD END)と書かれた標識の下でたむろする若者たち。そういうあまりにも露骨なイメージを良いと思うか安易と思うかは意見が分かれるだろうが、なんといっても彼らの台詞にある臨場感(ライヴ感覚)と活きの良さがいい。そこに少しばかり超現実的で神経症がかった「サム」がらみの映像が挿入され、ある種の刺激的なリズムが形成されている。この映画において、「サム」は狂言回しに過ぎないのだけれど、ドラマ部分と対等の重さを持たされており、映画全体のトーンを規定してしまう。そういう構成の仕方が非常に面白いと思う。

緊張が頂点にたっしたところで勃発する停電と暴動。人々の間にある疑念や暴力衝動が身近な仲間へと向かっていく理不尽な病理。重くなりすぎず、軽くなりすぎず、先鋭的になりすぎず、しかし個性的に描かれた、70年代NYの一断面。

妻がありながら職場の女主人と浮気をするどこか煮え切らない主人公をレグイザモが好演。この人も作品によってイメージをころころ変えてくる器用な役者だ。「サムの息子」が近隣の知り合いの中にいると思いこんだ悪友たちのいうまま、パンクにはまった友人を裏切るかどうかの重大な決断を迫られていく。そのパンク・ムーヴメントに染まった友人を演じているのがエイドリアン・ブロディで、レグイザモに負けない素晴らしい演技をみせる。正直、『シン・レッド・ライン』のときはここまでいい役者だと思わなかった。

6/30/1999

Wild Wild West

ワイルド・ワイルド・ウェスト(☆)

南北戦争でも活躍した喧嘩っ早い早撃ちの名手と、変装が得意な発明家である連邦保安官が、大統領グラントの命を受けてマッド・サイエンティストの野望を阻止せんと活躍するというお話し。60年代のヒットTVシリーズのリメイク映画化で、主演の2人にウィル・スミスとケヴィン・クライン、悪役にケネス・ブラナーをキャスティング。製作・監督はウィル・スミス主演で大成功をおさめた『メン・イン・ブラック』のバリー・ソネンフェルドである。

この映画、実のところ、今年もっともカネのかかった大作ではあるが、これはまずいだろう。何をどう楽しんだら良いのか分からない。製作側の狙いは「コメディ」である。そこに最初の掛け違いがあったのではないか、と思う。試写で「コメディ」と認識してもらえずに追加撮影が発生したなどと伝え聞く。完成品は出来の悪いアクション・アドベンチャーであり、笑えないコメディなのである。

ソネンフェルド監督は、独特のオフビートなテンポで展開される笑いの感覚が特徴的な、「コメディ」の監督である。撮影監督あがりなので、洒落た小話を絵で見せて連ねていくような作品には向いているが、この人のスタイルからすれば、あまり大作には向かない人だと思っている。

そういう彼の笑いのセンスが、軽妙なウィル・スミスと、デッド・パンのトミー・リー・ジョーンズというコンビの妙、ジョークを連ねて次第に大掛かりにエスカレートしていくような脚本構造の妙で、化けたのが『メン・イン・ブラック』という作品だった。その奇跡を再現しようというのが本作だという狙いはわからんでもない。

しかし、本作でコンビを組む、ウィル・スミスとケヴィン・クライン、これがどうにも相性が悪い。ウィル・スミスがアクション・スターであれば、相方が軽妙に笑いを取ればいい。しかし、軽妙さが売り物のウィル・スミスの相棒として、ケヴィン・クラインがいくら達者な役者でも軽すぎて収まりがつかないのである。それなのに、この二人が競うようにボケまくる脚本ってのは、どこか根本から間違っているんじゃないかと思う。その上、リミッターの外れて躁状態のケネス・ブラナーが絡んでくるっていうのだから、もう、ワヤクチャである。

じゃあ、せめて話が面白いのかというと、そうではない。もともと、「コメディ」が狙いのこの映画では、面白いジョークを展開させるためにのみストーリーが存在する。それが裏目に出て、ストーリーそのものは面白くもなんともない。作り手の狙いとは違うのかもしれないが、サマー・ブロックバスターとしてのアクション・アドベンチャー的な要素を期待した観客は、あまりのことに憤然とすると思う。ある意味で、大ベテラン、エルマー・バーンスタインが書いたスコアだけが、どこか正攻法なウェスタン・アドベンチャーの香りがするのだが、本来、この正統派の音楽そのものが「ジョーク」になるっていうのがあるべき姿だったんだろうなぁ、と、想像する。

唯一の見所は、最終兵器として登場するジャイアント・スパイダーのデザインだろうか。これは結構な力作である。近代重工業的、インダストリアル・レトロフューチャー(?)とでも呼ぶしかない奇怪で複雑なメカニックが、これもまた蒸気機関のようなエネルギー源で8本脚を動かして歩く様はなかなかのもの。その動きにも愛嬌があるのがなかなかよい。でも、これって予告で見ちゃったしなぁ。

脚本の担当としてあまりにもたくさんの名前が連なっている映画は、経験的に云って大方が駄目映画であるが、この作品のクレジットはなかなか壮観だ。『ショート・サーキット』や『トレマーズ』のコンビ、ブレッド・マードック&SSウィルソンと、『ドク・ハリウッド』や『ロジャー・ラビット』のジェフリー・プライス&ピーターSシーマン。『プレデター』のジム&ジョン・トーマスが揃い踏み。こんなメンツを揃えて、何度も何度も書き直しがあったんだろう。そのうちに、企画のツボがどこにあるのやら、わからなくなってしまったんじゃないかね。

6/28/1999

Big Daddy

ビッグ・ダディ(☆☆☆)

ここのところ、絶好調の売れっ子コメディアン、アダム・サンドラーの新作は、これまでと少し毛色ガ違うけれども、やはりアダム・サンドラーらしい作品になっている。もともとはコロンビア映画からの持ち込み企画を、アダム・サンドラー自身とティム・ハーリヒーでリライトし、これまたおなじみのデニス・ドゥーガン監督で映画化したものだ。

本作でサンドラーが演じるのは、ロースクールを卒業しながらも気ままな生活を好み、NYの高速料金徴収係をしている30過ぎの男である。そんな彼に愛想をつかしたガールフレンドに振られたことをきっかけに、「責任感のある大人」であることを証明しようと、たまたまアパートに転がり込んできた子供と養子縁組してしまうのだが、自分一人の面倒もろくに見られない男が子供の面倒を見られるはずもなく、大騒ぎになるという話。擬似親子モノ、とでもいうか。

仲間内でつくるアダム・サンドラーの映画は、その都度監督やスタッフが少しずつ違っても、どれも共通するテンポやテイストを持っている。だから、脚本家や監督の映画である前に、まず間違いなく「アダム・サンドラー」の映画になっているというのが大きな特徴である。そして、彼の得意とするキャラクターのいろいろな側面を見せられるよう企画を選び、自分のファンに変わらぬアピールをしながら、活躍の幅を広げてきている。幼稚一辺倒のバカ映画から、純情でロマンティックな映画まで、気がつけば守備範囲がいつのまにか広がっている。
母親を失い、本当の父親の元を訪れるつもりで現れた就学年齢すれすれのような子供と、幼児性を剥き出しの「大人になれない大人」を組み合わせるアイディアそのものは、さして珍しくはないかもしれないが、これが、アダム・サンドラーの映画であるところがポイントだと思っている。つまり、「大人になれない大人」はサンドラーの持ちキャラクターそのものであり、彼が大人(あるいは大人になろうとする男)を演じるのは、事実上これが初めてだ。

これは映画の中で主人公が大人へと目覚めるだけでなく、コメディアンとして、俳優としての、アダム・サンドラーのイメージを大きく広げることを意味している。ことに、本作は若い観客を主要なターゲットにした『ウォーターボーイ』のあとだから、この意味は大きい。この映画で、彼と同世代あたりまでの、「大人になりきれない大人」まで観客層を広げることができるだろう。

自分で脚本を書いていて、ハードワーカーであることも知られるサンドラーのことだから、そういう色々な計算を念頭において映画作りをしているのはほぼ間違いあるまい。しかし、この男、計算高いというイメージではない。スタッフにも、キャストにも、仲のよい友人や古くからの仲間を集めて、和気藹々と映画を作っている風情であったり、ゲイのカップルや浮浪者、移民などをギャグとして笑いの対象にしつつ寛容(というか、その他と等価)な扱いをするところであったり、「幼児的で突発的に凶暴性を発揮するキャラクター」を得意とするにしては、人柄の良さがいたるところに滲みでてくるところが、どうにも憎めない。

本作、映画としてはドタバタ一辺倒ではなく、一応筋がしっかり通っている。あくまでコメディの枠の中でという前提ではあるけれど、子供との絡みでは時折繊細な演出と演技をみせるので、最初からシリアスなドラマを目当てにする観客はいないと思うが、でウェルメイドな一本として、上映時間をきっちり楽しませてくれる。サンドラーにとっては重要な転換点になる作品ではあるが、次はまたとんでもないドタバタに振ってきそうな気がして、それはそれで大いに楽しみである。

6/25/1999

General's Daughter

将軍の娘 エリザベス・キャンベル(☆☆)

ジョージア州の陸軍基地内で、女性大尉の惨たらしい全裸暴行死体が発見された。彼女は退官を目前にした人望の厚い将軍の娘であったため、外部に公表されないよう、軍隊内部での独自調査が進められることになるが、誰も想像し得ない驚愕で残酷な真実が明らかになっていく・・・という、ネルソン・デミルのベストセラー軍隊ミステリー小説の映画化。新人クリストファー・ベルトリーニとベテランのウィリアム・ゴールドマンが脚色し、『コン・エアー』のサイモン・ウェストが監督。出演はジョン・トラボルタ、マデリーン・ストウ、ティモシー・ハットン、ジェームズ・ウッズ、ジェームズ・クロムウェルら。

残念ながら、あんまり面白くない。売れた原作と、ベテラン俳優の「顔」があればなんとかなるとでも思ったか。

猟奇的レイプ殺人。誰がやったのか。何故やったのか。外部からの介入の前に事件の真相を明らかにしなければならないプレッシャーの中で、調査官は謎を追っていく。男社会の典型である軍隊において、将軍の娘であり、有能な士官として生きる難しさや、父親と娘の関係を背景とした愛憎。これ、本来、ミステリーとしての面白さと、重たいドラマやテーマが絡んでいるはずの話だと思うのだが、映画はミステリーとしてはちっとも面白くないのに加え、微妙な題材を見せもの主義的・商業主義的に扱うデリカシーのなさで、見る人によっては不愉快に感じるかもしれない。

そもそも、脚色がうまくいっていないのではないか。原作を刻み込んだが為に生じたと思われる、本筋に直接絡んでこない無駄な設定やシーンが多いし、焦点がどこにあるのか良く分からない。私のように原作を読まずに映画を見ている人間にしてみれば、こんな退屈な話なのに、どうしてベストセラーになるのか不思議に思うほどである。

もちろん、それを預かる演出も悪い。サイモン・ウェストは、カッコが良く刺激的な映像をスピーティにつないでいくことにしか興味がないように見える。この過剰な絵作りは正直云って鼻につくばかりで、ドラマに貢献していない。短いカットを落ちつきなくつなぎ、役者たちの熱演・怪演を寸断する。そして、映画は最後まで、登場人物の心理に深く踏み込むことなしに終わってしまう。

ジョン・トラボルタやジェームズ・クロムウェルは、そもそも大きな役であるし、そこに立っているだけで存在感を出せるからよいとして、MPを演じるティモシー・ハットンや、主人公のパートナーを演じるマデリーン・ストウのキャラクターは描きこみが足りず、ことに後者など、存在しなくても物語的に大差がない程度の無駄遣いで可哀想だ。男ばかりの軍隊の中で捜査を進めて行く女性として、「将軍の娘」の立場とダブらせるなど、活かし方があったのではないだろうか。役者としては、相変わらずパワフルな怪演で場面をさらうジェームズ・ウッズが得をしている。

6/18/1999

Tarzan

ターザン(☆☆☆)

ディズニー長編アニメーションの新作である。船の難破によって未開の地に置き去りになったイギリス人家族。両親の死によって残されたのは幼い赤ん坊一人だけ。ゴリラたちに愛情深く育てられ、やがて逞しい青年となったターザンは、ジャングルにやってきた霊長類研究者の一行と出会う。

監督はクリス・バックとケヴィン・リーマ、ともに長編の大作を任されるのは初めてである。ターザンの両親代わりになるゴリラの声をランス・ヘンリクセンとグレン・クローズが演じるほか、ミニー・ドライヴァーやロージー・オドネルが声の出演をしている。音楽はマーク・マンシーナ、歌曲はフィル・コリンズが担当。

ディズニー・アニメの実力と限界の両方を思い知らされる作品、とでもいおうか。実際のところ、導入部からターザンの成長を描く前半までの出来映えは脚色、演出、アニメーション、音楽ともども絶品だと思う。が、ジェインらの一行が登場してからは、少なくとも大人の観客をがっかりさせてしまうことと思う。

オープニングの手際の良さは特筆に価する。ターザンが森の中にいること、ゴリラが親代わりになって育てたことの必然性を、短い時間で的確に説明してみせるだけでなく、そこにドラマすらを盛りこんでいる。また前半部分、ターザンの成長過程では、ゴリラの集団の中で一人だけ異質であることの孤独、父親や仲間に受け入れられようとする健気な努力などがキッチリと描かれているし、登場するキャラクターたちもなかなか魅力的だ。ジャングルの描写は神秘性には欠けるきらいがあるものの、美しく迫力がある。そこには、アニメならではの動的な魅力と圧倒的なスピード感がある。

ところが、ある種、傑作の予感すらさせる出来映えだった映画は、途中から一気ににしぼんでいく。もちろん、悪人が最初から悪人面していることなど、ある程度お約束と思われることもあるのだが、それを含めてジェインと父親たち一行の薄っぺらな描き方は酷い。ターザンのドラマがしっかり描けているだけに、その貧相さが際立ってしまったようだ。

特にジェインの父親は、近年のディズニー作品でもよく見られた、人間としての最低限のリアリティと父性に欠けた子供っぽい父親で、存在感がないばかりか物語に何の貢献もしない。これをきちんと「大人」のキャラクターとして描けるようにならないと、ディズニーのアニメは先に進めないと思う。おかげで後半の善と悪の対比も、ドラマも、全く盛り上がらず、スピード感のあるアニメーションが上滑りしている。「子供向きだから」という思い込みと甘えをここに見る。

「ミュージカル」形式を捨てて、フィル・コリンズの歌曲を「語り部」として使う手法は、古典的ミュージカルに対して、いってみれば『フットルース』のような感じ、とでも例えようか。こういう新しい挑戦は大いに歓迎したい。もしかしたら、これが本作で一番の収穫かもしれない。

子供向きだからといっても手抜きをしない真剣さが感じられた前半と、子供向きだからこの程度で良いだろうという手加減が明白な後半で、天と地ほどの差がでた仕上がりである。これは非常にもったいないと思う。

6/11/1999

Austin Powers: The Spy Who Shagged Me

オースティン・パワーズ:デラックス

タイムマシーンで過去に戻り、宿敵オースティン・パワーズの"mojo" を奪ったDr.イーヴル。不能になってしまったオースティンも彼を追って過去に戻り、月に建設された ”レーザー”によって再び人類を恐怖のどん底に陥れようとするイーヴルと対決する。

・・・というお話しなんか、もはやどうでも良くなってくる大ヒット作、『オースティン・パワーズ』の続編である。主演のマイク・マイヤーズ自身の脚本、前作と同じジェイ・ローチ監督で、主要な脇役は皆続投。新ヒロインとしてヘザー・グラハムが登場。若き日のNo.2としてロブ・ロウも出演している。タイトルは、「私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)」のパロディだね。

マイク・マイヤーズは続編づくりにはあまり乗り気ではなかったらしい。ウェインズ・ワールドの時も、周囲が相当無理強いしたという話もきく。実際のところ、続編を作るのは本当に難しいものだ。この作品も、完成度とオリジナリティは確実に前作の七掛けだ。

そうはいっても、大笑いして楽しいひとときを過ごすことはできる。なにせ、前作で確立されたキャラクターとシチュエーションがあって、その上に反復し、エスカレートしていくギャグが乗ってくるのだから、そこには「続編」としての固有の面白さがある。

イーブルと息子の愛憎は愉快だし、No.2の悲哀も相変わらず笑える。エリザベス・ハーレイのようなゴージャスな美女ではないが、変顔なヘザー・グラハムは愛らしい。「60年代では通じない現代一発ギャグ」、「ミニ・ミー」、しつこいくらいの下ネタの反復、あっと驚くゲストスターたちの登場、そのサービス精神似は頭がさがる。オリジナルの挿入歌やスコアが前作同様、遊び心満載で、それも作品のレベルを下支えするのに貢献している。

が、ギャグが全てに優先され、ストーリーが散漫になっているのは事実である。ストーリーの中でギャグが展開されているのではない。ギャグをやるためにストーリーがあるのだ。そこは、曲がりなりにも「60年代スパイもののパロディ」という骨格があった前作とは最も異なるところである。

前作では、主人公の存在や、物語の組み立てそのものが、過去の作品群やカルチャーに対する愛情と鋭い批評精神の発露であって、そこが単なる「バカ映画」と一線を画す点であった。が、今回の作品は、表面上は前作と似ているけれども、結果的に前作で確立してしまった世界を使って遊んでいるだけなのだ。そこには最初の作品が切り開いた独特の面白さは、もはやない。

まあ、そうはいっても、ありとあらゆるナンセンスが不思議と収まるところに収まって、危ういところでバランスを保っているのが本作だと思う。作品に人気と勢いがある今だから、成立する作品であろう。

6/04/1999

Instinct

ハーモニーベイの夜明け(☆☆)

アンソニー・ホプキンス演ずる高名な霊長類の研究者が、アフリカに調査に行ったまま2年の間行方不明になっていたのだが、何人ものアフリカ人を虐殺した精神異常の殺人者として逮捕され、米国に移送されてくる。キューバ・グッディングJr扮する精神分析を専門とする野心的な主人公は、一言も喋ろうとしないこの男の強暴性や狂気がどこから発しているのかを解き明かして自らの名を売ろうとする。

一応、心理サスペンスの衣を纏った人間と友情のドラマである。ダニエル・クインの小説『Ishmael』を土台にした映画化だという。しかし、なんでこんな企画が通ってしまうのだろうかと、不思議に思う。話に新鮮味はなく、何の驚きもない。焦点を絞り込めず迷走する脚本。どこかの映画で見たようなシーンの寄せ集め。

もしかしたら、アンソニー・ホプキンスをキャスティングするから、そういう印象が増幅されるのかもしれない。もしかしたら、相手役のキューバ・グッディングJrが、一応はアカデミー賞俳優だとはいえ、似合わない役を背負わされて窮屈に見えるからかもしれない。

監督のタートルトーブは、『クール・ランニング』や『あなたの寝ている間に』などのコメディの佳作で注目を集め、前作『フェノミナン』では作品の幅を広げたように見えた。これまでも、脇役にいたるまでの丁寧な人物描写が持ち味だったが、そこは本作でも変わらず、刑務所仲間や脇役をしっかりと描こうとしている。そのおかげか、残忍な刑務所長を演じるジョン・アシュトンからは、これまでのイメージを覆す好演を引き出した、とすら思う。が、この映画、本作のキモであるべき、主役二人の心理にちっとも迫って行かない。寄り道の多い脚本にも責任はあるだろう。

不思議なのは、それほど出来の良い映画ではないのに、見応えがあったような錯覚すら覚えてしまうことである。それはひとえに、名優アンソニー・ホプキンスの圧倒的迫力のせいだろう。同じアカデミー賞俳優でも格が違うといわんばかりに、もうひとりの主演キューバ・グッディングJrを食い散らかしてしまう存在感である。凶暴性と悲劇性を同時に体現する彼の演技は全く素晴らしい。

それゆえに、なぜこれほど素晴らしい俳優が、この程度の映画で、「ゴリラと生活をともにした男」を演じていなくてはならないのかと残念に思うのである。ついでにそのゴリラを製作したのが迷作『コンゴ』も手掛けた大御所スタン・ウィンストン。並居る才能がこんな企画で時間を浪費しているのは如何にももったいない。

5/28/1999

The Thirteenth Floor

13F (☆☆★)

コンピュータを駆使したシミュレーションを直接頭脳にダウンロードすることで体験できる仮想現実の世界。その実現を目指してきたヴェンチャー企業の創設者が殺され、その部下であり友人でもあった主人公に容疑がかかる。謎を解くために世界恐慌前の米国をシミュレートした世界に乗り込んでいく主人公。

ドイツでも映画化されたことがある70年代SF小説をベースに、製作ローランド・エメリッヒ、監督・脚本ヨゼフ・ラズナックを始め、ドイツ系のスタッフが作り上げたSFスリラー。グレチェン・モルやヴィンセント・ドノフリオが脇で出演している。

低予算ゆえというのもあるのだろうが、その分だけ、ヴィジュアルでごまかさないで、きちんとストーリーを語ろういう意志は伝わってくる。エメリッヒの名前や、「ヴァーチャル・リアリティ」などというキャッチーなモチーフに騙されていると、むしろ肩透かしを食うのではないか。細部のアイディアの詰めが甘く、欠点も少なくないが、大味なエメリッヒとは資質を異にするのであろう、ヨゼフ・ラズナックを初めとするスタッフによって、実に欧州的な肌触りがある作品に仕上がった。ハリウッド映画的基準でいえば、異色な雰囲気の作品といっていい。

物語の核に「シミュレーションのデータを脳にダウンロード」して仮想世界に入るというアイディアがある。近作では『マトリックス』もそうであるように、これ自体がことさら新しいアイディアというわけではない。この手の作品では、「どうやって脳とコンピュータシミュレーションをつないでいるのか」について、虚実を混ぜあわせたもっともらしい説明があるのが通例だが、本作はそこを綺麗サッパリ省いている。もう少し説得力のある説明を加えてもいいと思うくらいだが、下手をすればうそ臭くなるだけなので、何もしないというのも1つの見識なのだろう。

主人公の現在は、ハイテクSF調とでもいうのか、青を基調とした、冷たく生気のない映像で描かれている。もっといえば、SF映画の割に金がかかっていない。一方、1920年代をモデルにした仮想世界に舞台が移ると、温かみのある、しかしセピアがかった色調に映像も切り替わり、画面が活き活きとしてくる。プロダクション・デザインの才能と予算の大半は、こちらの世界を作ることに費やされたのだろうね。

演出で面白かったのは、登場人物の誰もが囁くようにしゃべっているかのような印象を受けること。どこか淡々とした「静寂」の映画という感じで、動的でダイナミックな映画を期待した観客を驚かせる。画面の雰囲気と相まって、映画全体が夢か現かといった非現実性を帯びてくる。そういう雰囲気や語り口は良かったが、脚本は少々舌足らずで、あからさまなご都合主義もある。

主人公を演じているのはクレイグ・ビルコというあまり知られていない役者だが、共演の、最近売り出し中な感じであるグレチェン・モルが注目だ。はかなげで、かつミステリアスな雰囲気がいい。

5/21/1999

The Love Letter

ラブレター/ 誰かが私に恋してる?(☆☆☆)

マサチューセッツ州の小さな海辺町で繰り広げられる、三角関係の物語である。ある日配達された手紙のなかに混ざっていた1通の熱いラブレター。誰が書いたのか、誰に充てたもののかも判らない。この手紙のせいで翻弄される主人公を演じるのがケイト・キャプショーで、製作を兼任。監督はハリウッド・デビューのピーター・チャン。共演にトム・セレック、トム・エヴェレット・スコット、グロリア・スチュワート、エレン・デジャネレスなど。

意地の悪い見方をすればこうなる。『インディ・ジョーンズ魔宮の伝説』以外にはぱっとした役がなく、むしろスピルバーグの妻としてよく知られるケイト・キャプショーが、夫のスタジオであるドリームワークスで自らプロデュース。盛りを過ぎたとはいえ男臭いトム・セレックと一回りは若いトム・エヴェレット・スコットの両方から恋焦がれるオイシイ役どころ(しかも後者とはベッドを共にするシーンまであったりする)。

まあ、しかしだ。これを自分で監督しようとせず、香港の俊英ピーター・チャンを連れてきたあたりは幸いといえようか。『月夜の願い』『金枝玉葉』など、こぢんまりとしたロマンティック・コメディを得意とするこの監督に比較的よく書けた脚本を任せたおかげで、可愛い作品に仕上がっている。

宛先不明・差出人不明のラブレターに小さな町の人々が翻弄され、それをきっかけにいくつもの勘違いカップルができるドタバタかと思えば、結局は主人公の三角関係もの。前半の笑いのセンスが少々泥臭いが、"The Love Letter"とは騒動のもとになった手紙のほかに、別の手紙のことも意味していることが明らかになってくると、俄然ロマンティックな色が濃くなってくる。演出も次第に落ちつきを取り戻し、見ている方としても一息つける。

久しぶりに見るケイト・キャプショーだったが、小さな海辺町で暮らしている普通の人のリアリティはあって、若い男に言い寄られてくらくらっときてしまうあたりにも説得力があった。『イン&アウト』ではあっと驚く役どころだったトム・セレックも、ギラギラした感じがなくなったぶんだけ、普通の役がやれるようになったというのが発見だ。現実味があるのは良いのだけど、いかんせんそれが地味さになってしまっているのは大きな欠点。このキャスティングではなかなか一般観客の興味は引けまい。

もう一つの問題は、主人公の母親をふくめて俳優の実年齢と役柄の年齢がいまひとつしっくりこないのだ。そのあたり、映画のマジックでうまく誤魔化しているともいい難く、多少疑問が残った。気のせいだろうか。

実際にマサチューセッツ州の避暑地、ケープコッド近辺で撮影されただけあって、町の雰囲気や表情がよく出ている。とりたてて持ち上げるような作品ではないけれど、そこそこ楽しめる出来映え。堅実な仕事をしてみせたピーター・チャンに、今後もいい仕事が回ってくることを期待したい。

5/20/1999

Notting Hill

ノッティング・ヒルの恋人(☆☆☆★)

『スター・ウォーズ』の公開に湧く映画館で、「スター・ウォーズになんて興味がないよ」という観客を当てにして公開日をぶつけてきたロマンティック・コメディだ。どっちにも興味がある当方としては、無論スター・ウォーズが優先だが、こちらに足を運ぶのを忘れるわけにはいかないのである。

ロンドン市内で小さな旅行書専門店を開いているのがヒュー・グラント演じる主人公である。その店に、イギリスを訪問中だったジュリア・ロバーツ演じる「ハリウッドの大人気女優」がふらっと立ち寄ったことから始まるお話し。偶然の再会、人目を避けた秘密のデート、何度か出会いを繰り返すうち、どんどん惹かれ合っていく2人。全く違う世界に住むこの二人の可笑しくもロマンティックな恋模様。ヒュー・グラント主演の『フォー・ウェディング』で名を売ったリチャード・カーティスの脚本で、ロジャー・ミッチェルが監督している。

もちろん、あまり現実味のない話だが、ロマンティック・コメディというやつは、そういう現実味の欠如ゆえに輝きを増すことがある。この映画はそんなケースの一つだ。人気女優がノッティングヒルのさえない男に惹かれていく理由やその過程が、必ずしも十分に描かれているとはいえないけれど、そんなことがあっても不思議ではないな、と思わせたら勝ち。そんなことがあったらいいな、と思わせたら大成功だ。クライマックスは記者会見だ。そう、記者会見である。もちろん、こういう設定の先達たる『ローマの休日』を重ねているんだろう。

主演二人の夢物語に終わらせず、脇役を丁寧に描く脚本がいい。主人公と同居している調子ハズレのアーティストや、主人公の兄妹、さらにはホテルのフロントマネージャーなどがある意味、たいへん愛情を持って描かれ、人間味のあるキャラクターになっていて、とても良い味を出している。こういう日常的な世界をきちんと構築してあるから、大胆にも「ハリウッドの大人気女優」を連れこんでくる面白さが活きてくる。


『プリティ・ウーマン』で人気が爆発してから10年、一度は沈んだキャリアでありながら再び最前線に戻ってきたジュリア・ロバーツは、もともと持っていた「親しみやすさ」に加え、一種の貫禄がでてきた。これは第2の黄金期といって差し支えないんじゃないか。ハリウッドの超人気女優という役を説得力を持って、悪びれずに演じて見せて、華もある。セリフの中で現在ギャラが一番高い(しかし下り坂の)女優の一人であるデミ・ムーアの名前を口に見せるあたりで、笑いをとりつつも、自信を感じさせる。

一方のヒュー・グラントは実に器用な人で、今回も絶妙の間と台詞回しで笑わせてくれる。実際はどうだか別として、「ちょっと頼りなさげで冴えないけれど、誠実そうな」人物を演じて実にハマリ役。夢の中から現れたような事態に心ときめかせ、じたばたし、夢から覚めてため息をつきもする。等身大の「恋する男」の説得力が全身から滲み出しているのだ。

思い切り笑わせながら、ドタバタ寸前で止める演出のさじ加減もいい。ロマンティックで軽快、非常に楽しい作品。四つ星をつけてもよかったかな、と思う。このジャンルが嫌いでないなら、ぜひお薦めしておきたい一本である。

5/19/1999

Star Wars Episode I: Phantom Menace

スター・ウォーズ エピソード I ファントム・メナス(☆☆☆★)

辺境の惑星ナブーが通商連合に経済封鎖を受ける。交渉の役を担った2人のジェダイ騎士がやってきたが、事件の裏側には既に滅びて久しいとされるダークサイドのフォースの使い手である「シス」の手が関わっていた。ナブーの女王と共に惑星を脱出、共和国首都コルサントに向かう途中、砂漠の星タトィーインに不時着した一行は、そこでフォースの強いアナキン少年と出会うことになる。

いや、誰がなんといっても、『スター・ウォーズ』なので、幸運にもその最初の1本を劇場で経験した世代(の中では若いほう)としては、初日の深夜上映のためにともかく並ぶしかない。なんだか仮装してライトセイバーを振り回す子供たちやら、ヨーダしゃべりで話しかけてくるおっさんやらが大行列を作っていて大変な騒ぎであった。そして映画館の暗闇に20世紀フォックスのファンファーレ、ルーカス・フィルムのロゴ、”A long time ago, in a galaxy far, far away”! ああ、これを待っていたんだよ。その瞬間こそが、本作における最高の瞬間であったことは特に否定するものではない。

さて、既に分かっている結末に向けて「帰納法的」に展開される新3部作の開幕である。だから、前の3部作を見ていない限り、画面で展開されていることの意味をほんとうに理解することはできない。

が、一見さんお断りという話でもなく、今回が初見の小さな子供でも十分に楽しめる作りになっている。何しろ、アナキン・スカイウォーカーは子供だからな。そうして、むしろそういう「お子さまモード」が本作への困惑と、非難の的となっているのは事実である。個人的にはポッドレースのシーンはもっと短くしたら良かったとは思うが、不評を浴びているジャージャー・ビンクスとか云うカリブ訛りのCGIキャラクターは、子供に受けているみたいだし、あんまり目くじらを立てなくてもいいんじゃないか、などとも思う。まあ、100%CGIで作っている画期的なキャラクターだというのを強調したいがばかりの、不必要に周囲と絡む演出はご愛嬌といったところか。

この映画で驚いたのは、大型のイヴェント映画にありがちな「あざとさ」、無理やり観客の感情を喚起する一種の浅ましさがないこと。久しぶりに監督に復帰したジョージ・ルーカスの演出は、あきらかに、最近のトレンドから外れている。ルーカスは呆けたという口の悪い輩もいるが、これはこれ、シリーズの「序章」として、その壮大な予告編としてのバランスが意識されているようにも思える。

演出があっさりしている反面、、画面や音楽に盛りこまれた情報量はシリーズ中でも屈指である。CGIなしにはこういう絵作りは無理だな。音楽にも色々隠し味が効いている。アナキンのテーマの中に隠されている帝国マーチの影。ナブーのパレードに潜んでいる銀河皇帝のモチーフ。こういう音楽の作り方は騙し絵のようで面白い。目に見えているものが全てではないという意味で、旧三部作より幾分複雑な様相を呈している、それが、分かってくると、少し違った楽しみ方ができるようになる作品である。(もちろん、そういう様々な要素は、リピート鑑賞しないとなかなか拾い切れないので、いろいろ気になって、結局、E.T.探しも含めて5回も劇場に足を運んでしまった。)

平穏な共和制末期を反映した優雅なデザインの宇宙船など、これまでとかなりテイストが異なるので、少々面食らうところはあるが、やはり、どこかに一貫した部分は残されていて、これらのデザインがどうやって我々の知っているデザインにつながっていくのか、これから先の興味がつきない。

ファンにとっては懐かしいキャラクターの昔の姿を目にしたリ、彼らの出会いや起源が次々と語られていくだけで単純に嬉しいものである。それ以上に、歴史の循環、運命の輪を意識したのか、前3部作、特に最初の1本を彷彿とさせる演出が随所あって、そういうところにニヤリとさせられたりもする。一方で、決まった結末に向かって走っていく物語の窮屈さ、わかっていることを確認していく作業であることの退屈さも感じざるを得ない。

ある意味で、新3部作は負け戦であると思っている。さまざまな制約の中で、どれだけ観客を満足させ、熱狂させられるか。ともかく幕を開けた以上、ここから先が正念場だろう。

5/07/1999

Election

ハイスクール白書・優等生ギャルに気をつけろ(☆☆☆★)

とある高校での学生会長選挙をめぐる狂騒とその顛末を描く、ブラックなハイスクール・コメディである。製作はMTV。出演はリース・ウェザースプーン、クリス・クライン、マシュー・ブロデリック。トム・ペロッタの原作をもとに、これが3作目となるアレグザンダー・ペインが脚色と監督を手掛けた。

上昇志向と押しの強い超優等生の女子生徒に、対立候補もなく無風に思われた選挙戦。この女生徒との「不適切」な関係で人生をフイにした同僚を思い出した生徒会の顧問が、対立候補を擁立しようと画策したことで、思惑の異なる候補者3人と顧問の教師の私生活を巻き込んだ泥仕合になる、という話。

これが、予想以上に面白い。アメリカの高校生活の一断面をこういう切り口で切ってみせるのはユニークだ。

中心になる数人の登場人物の視点を切り替えながら語っていく手法の歯切れ良さと、絶妙の編集のリズムも心地よい。ギャグのネタが少々泥臭くどギツい感じがするが、そもそも、ギャグで笑わせてオシマイ、という映画でもない。民主主義の雛形を教えるはずの選挙を舞台にしながら、良かれと思って介入した教師と、あまりにも極端な主人公のキャラクターを中心にして、あらぬ方向に転がっていく物語に皮肉な面白さがあり、物語の幕切れはシニカルだ。

監督が自ら手がけた脚本は、キャラクターがよく描かれているが、それを演じる俳優たちも怪演といっていい。

主人公を演じるリース・ウェザースプーンは上昇志向の強いキャラクターを好演。ヘン顔を恐れぬ体当たり演技でもあって、可愛いだけのスター女優とはひと味違う根性を感じさせられる。前作『クルーエル・インテンションズ』で演じた金持ちのお嬢様より、今回のような役のほうが個性的な風貌に似合っている。『Overnight Delivery』という、なんのことはない映画でヒロインを演じているのをみたときから贔屓にしているので、今後の活躍が楽しみである。

教師役はマシュー・ブロデリック。いや、マシュー・ブロデリックといえば、かつての青春スターであり、何をやってもうまくいっちゃう「フェリス・ビューラー」なのであるが、ここではそんな面影もどこへやら、何をやっても裏目に出てしまう情けない教師役がはまっている。こういうキャスティングは、当然、「フェリス」を踏まえてのことだから、それ自体に毒を感じずにはいられない。ブロデリックは、小心者の善人が、ふとしたきっかけ身を滅ぼしていく姿で哀れみと笑いを誘うのだが、最後には見るからに悲惨な容貌になってしまい、そこまでいたぶらなくても、と可哀想になってくる。この監督、かなり意地が悪い。

単なるハイスクールものと馬鹿にするなかれ。劇場で公開されないかもしれないが、追いかけてみる価値のあるエッジの効いたコメディ映画だ。オススメ。

5/06/1999

Life

エディ&マーティンの逃走人生(☆☆)

大恐慌の後遺症も癒えていない頃のNY。音楽が溢れる黒人クラブで偶然出会った2人の男がアルコールの運び屋をすることになるのだが、その道中、黒人差別の風潮が色濃く残るミッシシッピ州で殺人容疑の濡れ衣を着せられ、終身刑の判決を受けてしまう。刑務所で強制労働に従事しながら一生を送ることになった2人の運命やいかに。

・・・というドラマを、エディ・マーフィとマーティン・ローレンスの2枚看板で見せるのが本作である。エディ・マーフィとマーティン・ローレンスは、過去に一度、『ブーメラン』で共演している。そのころを頂点として、「落ちてきた」エディ、主演作も増え、登り調子のマーティンが対等に共演するのである。

当然、この二人が主演なのだからコメディ・タッチの作品にはなるが、しかし、2人の名前から期待されるドタバタはここにはない。ドラマとしては、中途半端な笑いも邪魔してか、他の刑務所ドラマにはかなわない。どうにも、そのサジ加減が中途半端に思えて、笑うにせよ、感動するにせよ、なかなか難しい。

もちろんプロデューサーまでつとめたエディの心意気はわかる。第2次大戦前の南部、おなかが空いてふと立ち寄ったダイナーで黒人客はお断りだと云われるひと悶着。羽振りの良い黒人をなぶり殺しにする白人の警官。結果的に黒人を安い労働力としてこき使う構図になっている刑務所。自らの知名度と笑いというオブラートに包んで、エディがここで提示してみせるのは、現代アメリカにおける黒人の歴史の一断面なのである。

エディ・マーフィとマーティン・ローレンスの息は合っている。が、いかんせん笑いもドラマも互いに遠慮しすぎているのだろう。二人の黒人受刑者の葬式と埋葬から始まる物語なのだから、脱走を繰り返しては失敗する二人の姿が滑稽であればあるほど憐れみや哀しみを誘う、という境地に辿りつけたのなら、あるいは、トラジック・コメディとして成功したのかもしれない。だが、現実、そこまでの力のある映画にはなっていない。

最大の見所は、特殊メイクの達人リック・ベイカーがエディとコンビを組んでみせる「老人メイク」だろうか。この2人、『星の王子NYへいく』『ナッティ・プロフェッサー』でもエディ七変化を見せてくれたが、今回もなかなかすごい。面白いのは、メイクそのものだけではない。同じメイクを施しても、マーティン・ローレンスは彼が老けメイクをしているようにしか見えないが、エディはそこに老人になったキャラクターを見事に作ってみせるのである。この演技力、いや、「芸」の差は大きいな。

監督のテッド・デミは、『ビューティフル・ガールズ』があった。あれも好感はもてるが、今一つ焦点が定まらない作品だったな。今作は話が全部上滑りして表層的。『ハーレム・ナイト』の失敗で懲りたのかもしれないが、これならいっそのことエディが自分自身で監督した方が良かったのではないか。

5/01/1999

The Mummy

ハムナプトラ 失われた砂漠の都(☆☆☆)

伝説の「死者の都」への道を知るという主人公を道案内にして、好奇心旺盛な図書館司書の女性とその兄を加えた一行が旅に出るが、道中、都に眠る財宝を目当てにした連中や、都市の秘密を守るかのごとく襲撃を繰り返すミステリアスな民族集団との遭遇。最後には呪われし神官インホテップとミイラ軍団と対決する羽目になる。出演はブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、ジョン・ハナら。

ミステリアスな砂の顔をあしらった大作感漂ようポスターが随分前から劇場に貼られていた。かつて、怪奇映画で鳴らしたユニヴァーサルの製作で、『ミイラ再生』をリメイクする、という。

しかし、そんな大義名分のもと作らた映画は「好き勝手に翻案された、インディアナ・ジョーンズ風の冒険アクション」だった。なんじゃそりゃ。でも、古典的なミイラ映画じゃ、客は入らんよな。脚本・監督は、前作『ザ・グリード』で、一部の映画ファンを狂喜させたスティーヴン・ソマーズだという。いつのまにやらすごい出世である。

この映画、「インディアナ・ジョーンズ風」といえば聞こえは良いが、まさに、それをお手本にした安っぽいコピーだ。全てはどこかでみたことのあるシーンのツギハギで、何一つ新しいところはない。でも凡百のインディアナ・ジョーンズものまね映画と違うのは、作り手の過剰なまでのサービス精神と、有無を言わせない物量なんだろうと思う。

スティーヴン・ソマーズの演出はどちらかといえば荒っぽくて乱暴なところがあり、お世辞にも上手い監督じゃないと思うのだが、それでも、観客を喜ばせようとするエネルギーは伝わってくる。今回は予算も潤沢だったのだろう、手を変え品を変え、物量で攻めてくる。このへんで一区切りという限度を知らず、牛丼特盛に卵と豚汁までついてきて、食べ終わったところにカレーライスが出てくるような映画になっているのだ。

しかし、主演が立派な体格と整った顔をしていながら、抜群のコメディ・センスを持ったブレンダン・フレイザーだからして、普通のアクションヒーローにはならないし、だから映画のノリも、真面目にやっているのか、ギャグでやっているのか分からない、コミカルで軽いノリになっている。それが徹頭徹尾陽性な本作の個性であろう。

あと一歩間違えば、バカ映画のたぐいになる、そういう危うい一線上で、なんとかサマー・ブロックバスターとしての体裁を保っているのが面白くもあり、つまらなくもある。いっそ、もっとバカ側に振り切れていたら、もっと面白かったかもしれない。

ILMが砂を使ったエフェクトで力量を発揮。たしかにこういうのはCGI、デジタルの効果でなければ映像化が難しいところだろうし、それにしたって、相応に技術的なハードルも高いんだろう。ILMのなかでも「スターウォーズの新作に入れてもらえなかった」スタッフたちが執念と意地でつくりあげたという。

巨匠ジェリー・ゴールドスミスがいつものように入魂のアクション・スコアを鳴らしていて、最初からこれを聞いてればこの映画が「怪奇映画」だとは思わないはず。本編が終わったあとで流れるエンド・クレジットがヒエログリフをモチーフにしてちょっと新鮮、お洒落だった。

4/30/1999

Entrapment

エントラップメント(☆☆☆)

『マスク・オブ・ゾロ』で人気の出たキャスリン・ゼタ・ジョーンズとショーン・コネリーが共演する泥棒ものである。イメージとしては「ルパン3世と不二子ちゃん」なんだが、ちょっとルパンが歳食っいて、少々紳士風というか。

保険会社の調査員が中国の古代工芸品をダシにして、高額な美術品などを盗み出すプロの大泥棒に接近を図るのだが、それは米国・英国・マレーシアを股にかけた冒険の始まりであった。罠にかかったのは果たして誰なのか?という話。

なんかこういう映画で、脚本ロナルド・バス、監督ジョン・アミエルという組み合わせが変な感じではあるのだが。

ロナルド・バスも多作でジャンル問わずな感じがあるが、ジョン・アミエルという監督も一貫性のないフィルモグラフィの持ち主で、ジョディ・フォスターの歴史ラブ・ロマンスがあると思えば、ビル・マーレーのおとぼけコメディまである。きくところでは、アントワン・フークアで予定されていたところ、”MTV” 感覚の作品にすることを嫌ったコネリーがアミエルを連れてきたとか。

まあ、何をやってもそこそこ楽しめる出来に仕上げてくる職人派の脚本と監督で、思ったより楽しめる1本に仕上がっている。死体も転がらないし、派手な爆発もないが、ストーリーはそれなりに組み立てられていて、コネリーの実年齢を逆手に取った余裕のあるユーモアもある。

そもそも「怪盗もの」というジャンルが洒落ていていいのだろう。ロナルド・バスが提出した7行ほどのプロットで製作にGOサインが出たというが、出した側の気持ちはよくわかる。

2000年問題を絡めた盗みの手口以外は特に目をひく新機軸は用意されていないが、コネリーとゼタ・ジョーンズのそれぞれの魅力をよく引き出しているし、泥棒に入るための訓練(リハーサル?)に時間を割いて、これから何事が起こるのかと観客の想像を煽る展開も面白い。ヴィング・レイムズやウィル・パットンらの曲者を脇役にしたキャスティングもいい。後半でシチュエーションが何度も逆転するのが少々しつこいが、最近はこれくらいやらないと観客が満足しないということか。

主演のカップルであるコネリーとゼタ・ジョーンズという、ちょっと年齢差の有り過ぎる組み合わせはあまり良いと思えないのだが、急に人気の高まったゼタ・ジョーンズをキャストしたのは彼女の「色気」ファクターによるものだろう。確かにものすごいプロポーションで、本人も見せる気満々のように思われるのだが、演出は抑制気味。というか、予告篇以上の見せ場がない。そうはいっても、3つくらいしか表情のヴァリエ-ションがないゼタ・ジョーンズを上手に使いこなしている部類の映画といえるだろう。

4/23/1999

Lost and Found

ライラ フレンチKISSをあなたに

見栄えの冴えないイタリアン・レストランのオーナーが、おなじアパートに越してきたフランス人の美人チェリストの歓心を買おうと、付き合うきっかけをつかむために彼女の犬を誘拐するが、この犬が友人から預かっていた大事な指輪を食べてしまった。犬を返すタイミングを失った主人公。一方、ダンディで金持ちの「もと婚約者」が彼女を追って登場する。

デヴィッド・スペイドとソフィー・マルソーの共演作である。デイヴィッド・スペイドといえば、90年代のサタデーナイト・ライヴ出演者のひとりで、映画においては若くして死んでしまったクリス・ファーレイとのコンビによる 『Blask Sheep』、『Tommy Boy』などがある。で、今回は脚本も兼ねての主演作というわけだ。

しかし、笑えないんだよな。「薄笑」コメディというやつだ。2-3は笑えるギャグもあったが、それよりなによりエンドクレジットのオマケが一番面白いという始末。

昨年の『メリーに首ったけ』の影響だろうか、あの映画が大ヒットしたことで、やってもいいギャグの限界が押し広げられた感があるのだが、軽いところでは犬の糞をつかったギャグの下品さや、放り投げたり乾燥機に入れてスイッチを入れたりの「犬虐待」ギャグなどは、あの作品あってのことのように思える。もっとも、ファレリー兄弟だと、そこにもう一歩、予想のつかない追い打ちがあって強引に笑いをとってしまうのだが、本作にはそういう大胆さはみられない。

ロマンティック・コメディとしては登場人物の心情や、心境の変化が描けていないのが弱い。ソフィー・マルソーのキャラクターがチェロの奏者だと云う設定もストーリー展開に活かされていないが、それよりなにより、信じていた相手に裏切られたことを知ったあとの彼女の心理変化がきちんと描かれていないので、ラストのハッピーエンドも白けてしまう。

主人公の側もそうだ。付き合っていた女性と分かれたところにたまたま美人が現れた程度にしかみえず、その相手と「どんなことをしてでも付き合いたい」と思うまでの理由付けも弱ければ、そういう心境の変化も描かれない。「彼女の心を手にするためにはどんなことでもして見せる男の物語」という意味の宣伝コピーが使われていたが、なぜそうなのか、この映画は何の説明も聞かせてくれないんだよね。

要は、ドタバタコメディとしてはギャグも演出も冴えず、ロマンティック・コメディとしては表層的で全く心が入っていない。笑えない、共感できないじゃ、商品としても欠陥品だろう。本作の監督は、本職はTVプロデューサーで、 過去に低予算コメディの監督経験もあるジェフ・ポラック。まあ、脚本も悪いけれど、演出も、ねぇ。

Pushing Tin

狂っちゃいないぜ!(☆☆★)

航空管制官の話、ではなく、たまたま管制官という職業に付いている主人公の、仕事・ライバル・浮気・夫婦関係・爆弾テロ事件・スランプ・友情を切り取ってみせるオフビート・コメディである。まあ、魅力的な失敗作、くらいの感じだろうか。

内面の成熟が足らない男を演じさせたらこの人、ジョン・キューザックが、自他ともに認めるNYのやり手航空管制官を演じているのだが、あちこちの管制塔を渡り歩いてきた風変わりな男の一流の仕事ぶりにライバル心を燃やし、あろうことか相手の妻に手を出したことで話がややこしくなる。

航空管制官という仕事を描くのがメインの映画ではないことは先に書いたとおりだが、この仕事のものすごいプレッシャーとストレスの強さを垣間見ることができて、興味深い。それを背景として埋め込んでしまったことが少々もったいないように思う。

脚本はTVの人気コメディショー『Cheers』 『Taxi』のプロデューサー、グレン・チャ-ルズの作で、1本の映画にするのもいいけれど、同じ舞台設定で、シットコムみたいな形式で延々やることもできそうだ。そう考えてみると、本作の主要なキャラクターも、TVドラマに使えそうなキャラクターの立ち具合である。

そのキャラクターを演じているのが前述のジョン・キューザックのミステリアスなライバルに、怪優ビリー・ボブ・ソーントン。そのアル中気味の妻にアンジェリーナ・ジョリー。主人公の妻にケイト・ブランシェットという顔ぶれである。ここ数年で名前が売れてきた、演技達者なキャストのアンサンブルだ。アル中気味で精神的に不安定になっている役回りのアンジョリーナ・ジョリーに演技的な見せ場があった。この人は化けるよ、多分。

『フォー・ウェディング』、『フェイク』で売りだした英国出身のマイク・ニューウェルの演出は、コミック的に描かれているキャラクターから、リアルな人間味をうまく引き出して、少し地に足の着いたコメディに着地させている。

4/16/1999

Never Been Kissed

25年目のキス(☆☆☆)

シカゴ・サンタイムズで働く主人公が、社長の気まぐれな発案によるティーンズに関する潜入レポート記事を執筆するために、17歳のふりをしてハイスクールに転入!念願のレポート記事執筆の機会だったが、高校生活に溶け込もうとすると彼女自身の地獄のようだった青春が脳裏に蘇ってくるのだった、という少し変則的なハイスクールコメディ。主演はここのところ絶好調のドリュー・バリモアで、製作総指揮を兼ねての主演だ。

これは悔いの残った過去をやり直す機会を与えられた主人公が、その過程で自分自身を再発見していく物語である。高校時代、残酷な虐めの対象にされていた主人公が再び体験する高校生活。今度は学園の人気者たちとお近づきになり、スポットライトを浴び、クールな男の子からプロムのパートナーに選ばれる。かつての自分が例え夢見ても叶えられなかった体験をするチャンスをものにする。それは軽薄かもしれないが、甘美な夢の実現だ。

どうも、そうした役をドリュー・バリモアという女優が演じていることで、見ているこちらには違った感慨すら湧いてくるのがこの映画のキモではあろう。

だって、まだ23歳(!)の彼女は、『E.T.』の子役として人気者になったあと、ドラッグやアルコールにおぼれ惨めな青春を送ってきたことは周知の事実。そんな生活から立ち直り、女優としても見事にカムバックを果たし、自らプロデュースを買って完成させた最初の作品がこれなのだ。主人公が17歳に戻って束の間幸せな高校生活を体験するプロットが、ドリュー自身のささやかな願望の反映に思えてくるのも不思議ではない。

映画のストーリーは、束の間の「人気者」としての生活を経た主人公が、しかし、それをよしとする価値観の表層的な部分や醜さも自覚し、説教がましくならない程度に刺してみせ、最終的に多様性な個性の尊重というところに着地する。ハイスクールものでは、人気者と日陰者の二元的な対立軸をおき、人気者グループを悪役扱いするパターンもよく見られるが、高校生目線ではなく、高校生を一度体験した主人公の目線が入ることによって、この映画独特のバランス感覚が出た。

ドリュー・バリモアは全編出ずっぱりで大熱演である。高校時代のサえない苛められっ子ぶりも堂にいっているし、無理に慣れない若作りをした場違いな感じや珍妙な身体の動き、ドラッグでハイになってしまった場面でのほとんど捨て身の演技などは、プロデュースに名を連ねた主演女優が敢えて演らなくてもいいレベルなんじゃないか、と心配になるほどであるけれど、それを敢えて演ってみせるところにこの人の人柄が現れていて好感を持つ。しかも、どうやら最近の新路線である「純真な夢見る女の子」キャラクターを、持ちネタとして完成させることができたのではないか。

『スクリーム』シリーズなどで人気上昇中のディヴィッド・アークエットが共演。ドリュー演じる主人公の弟で、高校時代は人気者として名を馳せたが、高校で人気ものになる意外に取り柄のない男、という、これまた(現実にも少なくないとはいえ)少々残酷な設定のキャラクターを怪演して笑いをさらう。また有名人カップルに扮装するプロムで彼がする扮装は映画ネタなのだが、これも出所を知っていれば爆笑必至だ。

『ホームアローン3』に起用されていたラジャ・ゴズネルの演出は、ドタバタや下品さが、一線を越えそうでこえない節度を守っていて、一応、ハートウォーミングでロマンティックなコメディであるというパッケージを逸脱することはない。ともかく、いい気分で劇場をあとにできる映画である。エンドクレジットがまた一工夫あって、スタッフやキャストの名前のと一緒に、高校時代の写真が・・これは笑えるよ。 

4/09/1999

GO

GO(☆☆☆)

出演はサラ・ポーリー、ケイティ・ホルムズ、デズモンド・アスキュー、タイ・ディッグス、ウィリアム・フィッシュナ-、ジェイ・ムーア、ティモシー・オリファントなど。メインとなる出演者が若いのでいわゆる「ティーンもの」かと思ったら、一風変わった犯罪コメディだった。

『スィウィンガーズ』(未見)で注目を浴びたダグ・リーマン監督の新作で、ドラッグ取り引きとその顛末を描いている。話そのものはたいしたものではないのだが、構成と物語の語り口で見せる映画である。インディペンデントのクールな映画、といえばよく聞こえるが、どちらかといえば、「こういうのってクールでしょ?」と押し付けてくる感じが少し、鼻につく、かも。

まあ、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」みたいなことをやってみたかったのかな、と思ったりする。なにせ、この映画、時間軸がねじ曲げられ、最初のエピソードで提示されたシーンが、別の視点からみたエピソードの中で反復され、そこで別の意味を付与され、度は別の物語を構成する要素になっていくというようなかたちで、3つのエピソードが絡み合っていくのである。ただし、これらは独立した話ではなく、あくまでひとつの事件を複数の視点から再構成したものになっていて、最後は一つのところに気持よく収束していくのである。

少しはモノマネっぽいところがあるのだが、104分、無駄なくコンパクトにまとめた構成力はたいしたものだ。また、この作品には、低予算ゆえの荒っぽさや安っぽさ、キャストの若さなどが、勢いになっているという魅力がある。中心的なキャラクターの一人を演じるサラ・ポーリーなど、なかなか良い面構えの女優だと思った。

コロンビア映画のタイトルに、本編がインサートされて始まる出だしはなんかは、ちょっと、凝り過ぎの感はあるがカッコ良かった。まあ、あんまり本質と関係のないそういう小細工が目立ちすぎるきらいはあるんだけどね。

4/02/1999

Out-of-Towners

アウト・オブ・タウナーズ(☆☆★)

仕事を首になり、新しい職を探す目的でオハイオから大都会、マンハッタンに向かう夫に、事情を知らずに同伴した妻。飛行機が霧の深いニューヨークを避けてボストンに迂回したのは、悪夢のような24時間の始まりに過ぎなかった。子供たちが自立をして家を出ていったあとに残された夫婦が大都会で巻き起こす珍騒動。

1970年製作のニール・サイモン脚本、アーサー・ヒラー監督作品『おかしな夫婦』のリメイクだというのだが、ごめんなさい、ジャック・レモン主演のオリジナルは観ていない。今回の作品は、これが二度目となるスティーヴ・マーティンとゴールディー・ホーンのカップルに加え、ジョン・クリースが共演。TV出身のベテランで、映画では『ジャングル・ジョージ』で知られるサム・ワイズマンが監督している。

子供が巣立ち、夫婦2人きりになった家庭の事を「エンプティ・ネスト(空の巣)」とよぶが、これはそんな中年夫婦がお互いへの愛情を再確認する過程を、災難まみれのN.Y.旅を通して描くコメディである。

これだけのキャストを集めておいて、なぜ今更ニール・サイモンもののリメイクになるのか、そこのところがちょっと分からない。話そのものにはあまり新味がなく、全てが想像の範囲内に収束していく定番のドタバタ劇、のように見えてしまうのは、やはり土台が古いということと、それをきっちり現代的な物語に翻案しきれていないということではないか、と思ってみたりする。

ただ、想像したよりもスラップスティック色が強いのは、出演者の個性に合わせたからだろうか。おそらく、黄金コンビといってよい主演の二人に加え、あの「モンティ・パイソン」の、と枕詞をつけるまでもないジョン・クリースの「芸」を楽しむ映画だと割り切ればいいんだろう。

スティーヴ・マーティンとゴールディ・ホーンは、以前にフランク・オズ監督の『ハウス・シッター 結婚願望』で共演したことがあるだけなのだが、まるで長年コンビを組んでいるかのように息があっている。スティーブ・マーティンが独特の体の動きと台詞まわしで笑わせれば、ゴールディ・ホーンが実年齢が信じられないようなチャーミングさを振りまく。ゴールティ・ホーン、今回は見せ場も多い。若い男を誘惑してホテルの部屋の鍵を奪おうとするくだり、警察署で逆切れして啖呵を切るシーンなど、流石はアカデミー賞女優と呼びたい肝の座りかたで、大いに笑わせてもらった。

しかも、ジョン・クリースはマンハッタンのホテルで、スノッブなマネージャー役で登場して持ち技を披露する怪演。コメディ・ファンの暇つぶしとしては、もう、それだけでOKだ。

今回の脚色は近作『恋は嵐のように』の脚本家、マーク・ローレンス。最後まで「中年カップルが迎えた結婚の危機・愛情の再確認」のテーマを外さずに、律儀に脚色してみせた。本当は、このキャストだったら、もっとハジけたコメディを期待したいんだけど、まあ、致し方あるまい。

3/31/1999

10 Things I Hate About You

恋のからさわぎ(☆☆☆★)

スタッフ・キャストともに耳に馴染みのないティーンズ映画に何を期待できるかもよくわからないまま、TVスポットだけを頼りにとりあえず出かけてみることが多いのだが、そこそこな打率で意外な拾い物にぶつかることもある。そして、本作はそんな一本だ。

ストーリーの骨子にシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を借り、恋のゲームがノリと歯切れもよく繰り広げられる本作、軽いロマンティック・コメディが好きな人には、ハイスクールものなんかとバカにせず、一見をお勧めしたい佳作なのである。

ハイスクールに通うタイプの異なる姉妹が紹介される。ジュリア・スタイルズ演じる姉の方は変わり者で反抗的、しかも男嫌いだが、ラリサ・オレイニック演じる妹のほうは学園の人気者で遊びたい盛りである。お固い父親から「姉が誰かと付き合うようになったら、お前のデートも許してやる」との言葉を引き出した妹と、彼女に一目惚れの転校生(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)が一計を案じ、強力な「助っ人」(ヒース・レジャー)を雇い、姉の心を篭絡しようとする。

脚本はカレン・マックラー・ラッツとキルスティン・スミスの女性ライターコンビも、TVを活動の場としている監督のギル・ジュンガーもこれが初の劇場用作品。ほら、出演者の名前を聞いても、脚本・監督の名前を見ても、耳に馴染みがないというのはこのことだ。

この作品が上手くいっている理由の一つは、舞台はハイスクールでありながら、もともとストーリーラインのかっちりした古典を土台にした脚本がよくかけていることだろう。このアプローチはジェーン・オースティン「エマ」を土台とした『クルーレス』や、ラクロ「危険な関係」を土台にした最近のヒット作『クルーエル・インテンションズ』などとも共通するものだ。よく知られた物語を巧みにアップデートすることで、現代性と普遍性を両立させると、時にとても面白い仕上がりになるものなのである。

わりとキャラクター数の多い作品なのだが、無駄なキャラクターはいない。それぞれの役割がはっきりしていて、ぴったりな役者がキャスティングされている。人物の紹介、出し入れがうまく、これを裁く演出にも危なげがなくテンポが良い。

若い役者たちも好演している。本作のヒロインになるジュリア・スタイルズは単純な美人ではなくて、どちらかと云えば個性的である。その容貌も、自己主張が強い感じも、男の観客よりは同世代の女の観客に受けそうだと思う。また、ワイルドな不良役っぽさを前面に出したヒース・レジャーも個性的な容貌をしていて、なんだか一昔前の江口洋介みたいな髪型をして出てくる。こいつはなかなかのインパクトだ。

若い男女の思惑で繰り広げられる軽いノリの恋愛コメディでありながら、ただの馬鹿騒ぎに終わらせることなく、登場人物たちのキャラクターを大事に、そして、その感情を丁寧に、真摯に描けていて、共感の持てる物語になっているところに好感をもった。こういう作品が、アメリカ映画の裾野を広げているのだと思うし、こういう作品の中から、次の世代を担うスターが育ってくるんじゃないかと思う。だからハイスクールものの追っかけも捨てたものじゃない。

The Matrix

マトリックス(☆☆☆☆)

サマーシーズンを待たずに3月末などという中途半端なタイミングで公開されるキアヌ・リーヴス主演のアクション映画だというので、さして期待もせずに気楽に見に行き、それほど混んでもいない劇場でで見た。しかし、これがあまりにも面白いので、バカにして見逃すことのないよう、珍しく周囲に触れて回っているところだ。『バウンド』で注目された、ウォシャウスキー兄弟が、ジョエル・シルバーのもとで完成させた、ヴィジュアルも鮮烈なSfi アクションである。

主人公は、表の世界ではコンピュータ・プログラマ、裏の世界では腕利きのハッカーとして生活している。ある日、「彼が現実だと思っていることは、地球を支配する人工知能が作り出した仮想現実に過ぎない」と主張する男たちが現れ、後戻りできない世界へと主人公を誘う。主人公は、彼らのいう “The One”, 特別な存在として、人類の真の解放のために戦うことができるのか。

ともかく、圧倒的に新しい映像世界が、作品世界がそこにあるように感じた。いや、部分部分を見れば、どこかで見たことあるものの集合体で、日本のアニメ、数々の先行するSF、香港スタイルのガン・アクションやワイヤー・ワークなどの影響や引用で埋め尽くされているのだが、それらを自分たちなりに消化して、最先端のCG技術と撮影技術で料理してみせた結果、総体として、これまでに見たことのない「クール」な作品に仕上がっているのである。

映像として格好良いが、単に格好が良いというのとは違い、その映像のスタイルに物語上、世界観上の必然性とがある。物語とヴィジュアルの必然的な結合だ。

止まった時間の中でカメラだけが自在に動きまわり、超現実的なアクションが展開され、薬莢が雨あられと飛び交う。その様は、笑ってしまうくらいに過剰である。そして、あまりのことに唖然としてスクリーンを見つめる。普通ではありえない。しかし、こんなことが可能なのは、この映画が「仮想の電脳空間」で展開されているからだ。

設定が映像に必然性を与え、映像が設定を裏打ちする。スタイルや撮影技術だけならば後続する作品がこぞってこの映画の真似をするだろう、しかし、本作が持ち得たような説得力は決して持ち得ない。そんな意味で、この作品のオリジナリティは強く担保されることになるだろう。

どうしても派手なアクション・シーンにばかりが目についてしまうのだが、コミックの世界から出てきた監督だけあって、構図、色彩設計、ライティングなどがいちいち決まっている。ヘリコプターを使った大掛かりなスタントの撮影も含め、撮影のビル・ホープの貢献は大きいだろう。

敵味方のキャラクターも魅力的に描かれているが、半分以上は脚本よりもキャスティングの成功によるものだ。主人公の仲間となる大きな身体のローレンス・フィッシュバーン、しなやかな身体と大人の色気があるキャリー・アン・モス、敵となる人工知能が差し向けるエージェントを演じるヒューゴ・ウィーヴィング、そして預言者を演じる黒人女優グロリア・フォースター、それぞれの容姿や持ち味がキャラクターを見事に決定づけている。見て分かる、画で語る、それは、キャスティングにまで貫徹された原則になっている。

スローモーションや飛び散る薬莢、2丁拳銃など、香港スタイルの模写が、VFXで超現実的なレベルにまでパワーアップ。コレオグラフィも見事である。ガンアクションと並び、本作のもう一つの柱が香港から招いた達人ユエン・ウーピンが手がけるマーシャル・アーツとワイヤーワークだ。キアヌ・リーブスも、これをこなすのに相当苦労したんじゃないか。もちろん、本場のそれとは比べものにならないヘッポコぶりなのだが、物語設定上、それゆえのリアリティというか、それすらも必然的なものとして見えてくるところが面白いと思う。

まあ、高級な部類の作品ではなく、最強のB級映画と呼びたい、本来カルトな嗜好に訴える作品である。。色々考えだすと荒っぽいところが目についてくるのだが、見ている間それを忘れさせてくれるだけのパワーには溢れた傑作である。主人公が自らの使命を自覚し、次なる闘いに向かうエンディングは、続編への布石という話ももちろんあるにせよ、それ自体が痺れるかっこ良さであった。

3/26/1999

Life is Beautiful (La vita è bella)

ライフ・イズ・ビューティフル(☆☆☆☆)

なんとまあ、ストレートなタイトルで。

第二次大戦前夜のイタリアのトスカーナ地方。本屋を開くために街に出てきた口から先に生まれたような主人公は、道中で出会った小学校の教師に一目惚れ、あの手この手をつくして彼女の心を射止める。息子も生まれて幸せな家庭を築くかにみえたが、ナチスのユダヤ人狩りの手はイタリアにも及び、一家全員で強制収容所に送られてしまう。収容所内の過酷な環境におかれてなお、嘘八百とユーモアのセンスを武器に、息子の命と汚れなき小さな心を守り通そうとする主人公。

大評判になっている本作。イタリアのコメディアンであるロベルト・ベニーニが脚本・監督・主演をこなして描く、ホロコーストを背景に、コメディタッチで描く、さんざん笑わせ、しんみりさせ、感動もさせるドラマだ。

リアリズムの映画ではない。いってみれば、ファンタジーだ。人類史上の悲劇を背景に、笑いを武器にして「人生の素晴らしさ」を描いてみせるという企画。良く練られた脚本と詩情豊かな演出で、心を打つ一本に仕上がった。ホロコーストという重い題材は、それだけで気が重くなる。かといって、それを笑いを交えて描いていいのかという懐疑。でも、そんな憂慮や心配はこの映画を見れば氷解する。

この物語の前半を彩るのはロマンスである。いっちゃなんだが、どこの馬の骨ともいえない主人公が、地元の名士と婚約状態だった美しい女性の心を射止めるまでの展開は、ハリウッドのクラシックなロマンス映画も真っ青の優雅さと繊細さに満ち、名(迷)シーンの連続である。しかし幸せは長く続かない。ユダヤ系でない妻が、それでも収容所への同行を主張して譲らないシーン、収容所内でわずかな隙を突いて(クリエイティブな方法で)自らの無事を妻に伝えようとする主人公の行動。こういう状況でなければ描けないロマンスもある。

そして後半は本作の核になる部分になってくる。主人公の嘘八百とユーモアのセンスを武器に、非人間的な環境をいかに生き延びるのか。いかにして息子を守るのか。ドイツ語が分かりもしないのに通訳をかってでて、勝手な話をでっち上げるシーンなどは、爆笑を呼びつつも底にある「父親の愛情」が胸を打つ。

リアリズムの映画ではないといったのは、主に収容所内の描写である。確かに、現実にはこの映画のように事が運ぶほど甘くはないと云う指摘はもっともなのだろう。ただ、この映画のもつ「ファンタジー性」は、一概に欠点とはいえまい。なぜなら、それが、すなわち戦時下で行われた非人間的な行為を静かに告発する仕掛けとして非常に効果的に働いているからだ。

主演のロベルト・ベニーニは実に良く動き、よく喋る。自分自身で監督しながら暴走寸前で止めることができたのは題材の重さゆえだろうか、まさに絶妙の演技である。妻を演じる女優の意思の強さを秘めた目も美しいが、幼い息子を演じる子役の達者なことには本当に舌を巻く。涙腺の弱い観客はこれにやられること、間違いなしといっておく。

主に笑いのシーンで、やり過ぎて見ていられないほど泥臭くなってしまいそうになる瞬間が何度も訪れるのだが、主観的にいって、なんとかぎりぎりのところで踏みとどまっているように思う。「イタリア映画」だから、どうせベッタベタなんだろうというこちらの先入観をあっさり裏切り、想像以上の洗練具合なのでびっくりした。また、映画を支えている音楽が、いいんだ。ローカル色を出しながら時に牧歌的で、時に物悲しく、しかし、最後まで決して軽やかさを失わない。サントラは愛聴盤になりそうだ。

イタリアならではの、イタリアででしか作り得なかった、しかし、普遍的な映画の魅力に満ちた作品である。まさに、人生は素晴らしい 。

EDtv

エドtv(☆☆☆)

ハリウッドでは似たような企画が同時期に乱立し、互いに競うようにして映画化されることがよくある。偶然なのか、時代の気分がそうさせるのか、パクり、便乗の類なのか、競争心・対抗心ゆえなのか、それぞれ事情は様々だ。

「実在の人物に24時間密着、生放送するTV番組」っていうネタが、どうしてこんなタイミングで被ることになったのかも謎なのだが、ジム・キャリー主演、アンドリュー・ニコル脚本、ピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』と、マシュー・マコノヒー主演、ローウェル・ガンツ&ババルー・マンデル脚本、ロン・ハワード監督の本作『EdTV』とは、作家性の違いとはこういうことかと一目瞭然、そのベクトルが違いすぎて全く違う映画になっているのが面白い。

共通点があるのは、メディアに対する皮肉な考察っていうことだけだな。

あちらの作品が、「神と人間と人生についてのドラマ」であったなら、こちら『EdTV』は、ドタバタ風味のの「風刺コメディ」である。

真実の映像を24時間、編集なしで放送するのを売りにするTV局が、視聴率低迷の挽回策で、ごく普通の男の生活を四六時中、密着で生中継することを思い付く。プロデューサーの目にとまったのが31歳、サンフランシスコ在住のビデオ屋店員エド。テレビのクルーに常に付きまとわれながら、にわかスターとして全米の人気を一人占めするようになっていく。

名声とプライバシー、有名人に群がるメディアやパパラッチ、それに熱狂する大衆心理。ウディ・ハレルソン、マーティン・ランドー、デニス・ホッパー、エリザベス・ハーレー、ロブ・ライナー、エレン・デジャネレスらのアンサンブル・キャストを自在にさばきながら、TVカメラの前で恋人への不実が発覚したり、真実の愛が芽生えたり、実の父親が現れたりといった、主人公と、その周囲の人々のエピソードが綴られていく。

それほど突拍子も無い展開はないのだが、そこは、ロン・ハワードの『バックマン家の人々』をはじめ、これまでにもウェルメイドなコメディを作ってきた脚本家チームだけあって、話の転がし方がうまい。タブロイド紙やUSA TODAY、TVのトークショーなどを皮肉っぽい扱いも笑わせる。

ロン・ハワードも、気負った大作映画を撮ると薄味で今ひとつなんだが、こういうアンサンブル・キャストで見せる小粒なコメディは安定感があって巧い。複雑になりがちな登場人物やエピソードを小気味よいテンポで交通整理をしていく手腕はさすがである。

ただね、脚本家チームもロン・ハワードも、風刺コメディを撮るには人が良いというのか、お行儀が良いというのか、悪意と毒が足りないんだよね。

キャストのなかでは、プロデューサー役のエレン・デジャネレスが面白い。TVを中心に活躍している達者なコメディエンヌで、この映画でも彼女の魅力の一端は十分にうかがい知れるだろう。また、マシュー・マコノヒーとウディ・ハレルソンが兄弟っていうのは誰のアイディアか知らないが、それだけで笑えるキャスティングだった。風貌はどことなく似てるよね。キャラクターはずいぶん違うんだけどさ。

3/22/1999

The Mod Squad

The Mod Squad

刑務所行きを逃れる見返りに、潜入捜査をすることになる不良青年3人を主人公とした人気TVドラマ(1968-1973)の設定をリサイクルして映画化。日本でも「モッズ特捜隊」とかいうタイトルで一分が放映されたそうなのだけど、これは残念ながら見たことがない。今回は、主演にクレア・デ-ンズ、ジョバンニ・リビーシ、オマー・エップスをキャスティング。脚本・監督はこれが2本目のほぼ無名なスコット・シルバー。

不良青年たちが潜入捜査をさせられるところは一緒。ドラッグ取引と売春が横行するクラブに潜り込むのだが、捜査をすすめるうち、自分たちをリクルートして潜入捜査を依頼した刑事が、射殺されてしまう。どうやら、押収したドラッグの横長しが絡んでいるようだ。これにショックを受けた3人だったが、事件の真相を暴くため、自らの意思で行動を開始するという筋立て。

まあ、人気ドラマのリメイク企画で、ティーン・アイドルの活躍するアクション活劇を作る枠組みとしては悪くないんじゃないか、と思う。人気・実力共に抜群とまではいわないが、そこそこ知名度が高く、最近比較的目立っているキャストも揃った。

いや、しかしね。これだけの素材を与えられて、こんな映画にしかならないってのは、作り手は相当のヘボだね。監督は、脚本兼任なんだから言い訳はいいっこなしだ。

犯罪暦のある不良少年たちが潜入捜査に雇われるというのは、現実味はないが、いいんだ、そんなこと。「警察バッヂも拳銃ももたないが、警官の入り込めないところで素性を知られずに潜入捜査をするチーム」っていう設定を活かせる話を作れなかったのが敗因。

主演の3人のキャラクターも描けていない。紅一点のクレア・デーンズにはかつての恋人との再会と裏切り、ジョバンニ・リビシには彼を蔑んだ目で見つめる両親との葛藤などという思わせぶりな設定を用意しているが、物語にうまく絡めることができていない。

若者受けするスタイリッシュな作品にしたいという監督の意欲は空回り。これを見ると、ほら、さんざん馬鹿にされる「ミュージック・ビデオみたいなチャカチャカした映画」っていうのにも、それなりのセンスと技術がいるんだということが分かったよ。

3/19/1999

True Crime

トゥルー・クライム(☆☆☆★)

クリント・イーストウッド監督・主演の軽量級のサスペンス娯楽。派手さはないんだけれど、独特のリズムがあって、かっちり楽しませてくれる一本である。ジェームス・ウッズ、デニス・レアリーなどが共演している。

今回彼が演じるのは、女たらしのジャーナリスト。ある晩、バーで口説きかけていた若くて有能な同僚記者が帰り道に事故に遭って死亡してしまい、彼女が担当していた記事のあとを継ぐことになるのである。それは、コンビニで働いていた妊娠中の女性店員を殺害したかどで、死刑が確定している黒人工務員の最後の心境を綴るというものだった。その日の真夜中には死刑が執行されるという状況で面会にいった主人公だったが、直感でこの男の無実(つまり冤罪)を信じ、それを証明するために東奔西走することになる。

前作『真夜中のサバナ』は観客を選ぶ映画だったが、そういう映画と、軽い娯楽映画を交互に取っているように見えるイーストウッド、今回は、その「軽い方」である。近作だったら彼の『目撃』をみて、その語り口が気に入った人なら今回もイけると思うんだがどうだろう。

無実の罪で死刑になる一人の男を救う、サスペンスフルでヒロイックな物語のように見えるが、実は物語の核は「主人公の負け犬ぶり」にあって、そこが泣かせるところである。どこかで、この男の誇りをかけた闘いが、「格子の中」の死刑囚のドラマと対をなし、最後には深い余韻を残す。

ドラマティックな筋立てでありながら、無理に感動を強要するようなことをしない、むしろそっけないぐらいの演出が、一度ハマると何とも心地よい。「無罪の証拠」も、やたら小難しい細工をせず実にあっけなく落とすから、これを「ボケた」と口の悪いものは云う。でも、それは違う。この映画は謎解きが主眼ではないのだ。死刑執行間際のサスペンスにしたって、ボタンを押すか押さないかで引っ張るかと思いきや、ここでもまた意表を突いてさらっと流すのだ。

その一方、「証言者の語った通りの映像」と「その場で起こった事実の映像」を両方観客に提示して観客を翻弄するあたり、おや、こんな策を弄したりするんだと意外に感じたり。

さすがにキャラクター描写には厚みがあって面白い。新聞社の上司であるジェームズ・ウッズはそのテンションの高さが笑えるし、主人公に妻を寝取られたデニス・レアリーの複雑な心境も上手く描かれている。死刑囚のカウンセラーを任じている偽善牧師や、有罪を心から信じている訳でもない刑務所長など、出番やセリフの少ない役柄にも、類型的で表面的な善悪(牧師=善、看守=悪)では終わらない人間味が描かれている。死刑囚を尋ねてきた妻と幼い娘、その娘がどこかで落としてしまった緑のクレヨンをめぐる小さなエピソードなどが、「じわり」と効いてくるしかけである。

単純な冤罪と正義をめぐるドラマと見せかけて、気がついてみれば、「イーストウッド映画」としか呼べぬジャンル分け不能なところに持って行ってしまうところが、さすがというのか、なんというのかイーストウッド。あのの歳で女ったらしを平然と演じてしまう彼が、どこか微笑ましいと思える観客に、是非是非オススメしたい。

Forces of Nature

恋は嵐のように(☆☆)

ベン・アフレックとサンドラ・ブロックが共演する、珍道中系のロマンティック・コメディ。『ライフwithマイキー』を書いたマーク・ローレンス脚本で、監督はこれが2本目のブローウェン・ヒューズ。

結婚式のためにNYからジョージア州・サヴァナに向かう飛行機が離陸時に事故をおこし、機内で知り合った奇妙な女性と別の手段で目的地を目指すことになる。ところが、旅の道中で思わぬトラブルが続いてしまい、目的地はなかなか近づいてこない。そして、出会う人々が決まって「結婚なんて、牢獄のようなもの」などと辛辣なコメントを吐くときた。本当に予定通りに結婚しても良いものかどうか、主人公の決意が揺らぎ出す一方、旅の道連れとなった女性の不思議な魅力にも惹かれていく。

性格や立場の異なる男女が旅の途中で惹かれあうようになる、定番のように見えて、どこか安心できないところが残る話である。主人公は結婚間近。その結婚が「本人の意に沿わない」ものであるとか、「結婚相手が実は不誠実」とか、ワケありだったなら、その結婚を投げ捨て、旅を共にした二人でハッピーエンドを迎えることができる。でも、そこんところがよくわからないんだ。これが男の側の単なるマリッジ・ブルーっていうのでは、映画がハッピーに終わらない。・・・どちらに転ぶにしてもだ。

マリッジブルーのベン・アフレックが、触媒としてのサンドラ・ブロックに出会い、元の鞘に戻ってハッピーエンド、という筋だてはありだけど、そういう方向に話を持っていくのなら、ベン・アフレックの婚約者をもっと描く必要があるし、サンドラ・ブロックとベン・アフレックがカップルになるかのような予感を抱かせる演出は極力避けるべきであろう。原題タイトルが示唆するような、自然の力のごとく主人公の人生を通りすぎていく、不可避なトラブルメイカーくらいの扱いにしておけばよかったんじゃないか。

メインとなるストーリーはなんだか良く分からない不思議なことになってしまっているのだが、飛行機、レンタカーの乗り合わせ、鉄道、長距離バス、ツアーへの便乗、おんぼろ中古車などを経由する珍道中は、アメリカの色々な風景を垣間見ることができて楽しめる。ヴァージニア州リッチモンド、ノース&サウス・キャロライナ州、ジョージア州サヴァナと舞台になる土地を移動しながらロケが行われたようで、その土地の空気が画面に良く出ている。

ただし、旅の起点となるはずのNYの空港は、ワシントンDCのダレス国際空港で撮影されているのが一目瞭然。・・別にいいけど。一瞬、DCが出発点だと勘違いしてしまったじゃないか。

サンドラ・ブロックはここのところあまり似合わない役柄、らしくない作品が続いていたように思う。今回は久しぶりに生き生きした彼女を見ることができるのは良いことだ。この人は、何でもこなす器用な女優ではない。しかし、隣の素朴なお姉ちゃんとか、彼女が輝ける役柄にはまると、とたんに他の人では出せない魅力が溢れ出す。今回は、そうだな、彼女じゃなくてもいいといえば、いいような気もするが。

3/13/1999

Rushmore

天才マックスの世界(☆☆☆★)

オフビートでとぼけた味わいの奇妙なハイスクール・コメディである。

主人公は、名門の私立学校、ラシュモア学園に通う15歳、マックス・フィッシャーだ。彼は授業にはちっとも身が入らないのだが、ありとあらゆる「課外活動」に異様な熱意を燃やしていて、行動力も抜群。20近くのクラブの代表を務め、あるいは、新たなクラブを創設し、演劇部では脚本と演出と主演を兼ねる。

そんな彼にとって重大な事態が発生する。あまりに成績が悪いため放校されそうになるのだ。ラシュモアにおける学校生活(といっても課外活動)が人生のすべてである主人公にとって、それは一大事。なんとか手を打つために策を巡らせるうち、低学年のクラスを教える美人教師に恋をしてしまう。しかも、主人公とは奇妙な友人関係にあった学校のパトロンが同じ相手に惚れてしまったことから、最初の目的はどこへやら、15歳童貞男と中年オヤジによる、低レベルかつ熾烈な恋の鞘当て争いが繰り広げられていくことになる。

そんなわけで、あまり比べる対象を思いつかない、なにやら奇妙で変則的な映画なのである。しかし、精神的に成熟しきっていない2人の男が繰り広げる三角関係を中心に、主人公の学園生活を通じた精神的な成長が描かれていくという意味ではオーソドックスな青春ものである。

だが、学園物の定型に流しこんで作られた作品ではない。突拍子も無いキャラクターが出てくるが、マンガ的な誇張で描かれているわけではなく、映画を成立させるための「記号」のような扱いでもない。この映画は、一見して奇妙な登場人物の中にある人間味というか、人間そのものが持っている感情や、その人間のなかから滲みでてくるような可笑しさを真摯に見つめ、拾い上げ、綴っていくのである。

あり得ない話なのに、その状況に現実味があり、その感情に切実感があり、共感を誘ったりする。嘘がない、そう思うのだ。そんなところにこの映画の魅力がある。

主演のジェイソン・シュワルツマンはタリア・シャイアの息子だそうだ。ヒロインがオリヴィア・ウィリアムズ。そしてなにより、恋敵になるのが、ビル・マーレー、テキサス大時代からの友人関係だというオーウェン・ウィルソンとウェス・アンダーソン共同クレジットの脚本を、ウェス・アンダーソンが監督。

で、ビル・マーレーなんだ。この人、最近ではジャンルもスタイルもまちまちな作品に起用され、それぞれ怪演を披露していてどれも甲乙つけがたいのだけど、もう、この作品における彼の演技、彼の存在は筆舌尽くしがたき唯一無二のものである。キャラクターの中にある子供っぽさを、オーバーアクトをするのでもなく、さらっと演じきるボケ具合。しかし「助演」に徹して、でしゃばり過ぎないこの節度。

コメディとしては笑いのとり方がスカした感じ。ガハハではなく、クスクス笑いであったり、じんわり積み重なっていく面白さなので、好みが分かれるかもしれない。格好つけすぎたオシャレ系コメディだと思われちゃうとちょっと残念なんだけどな。

3/12/1999

The Rage: Carrie 2

キャリー2(☆☆★)

つ・・・つくるのか、これを。

やはり、『スクリーム』の成功がひとつの契機になっているのだろう。そして、80年代にジョン・ヒューズの映画をみていた世代が作り手に回ってきているタイミングだというのもあるのだろう。ここのところ、若いアンサンブル・キャストを使ったハイスクールもの、あるいは、ホラーものが、一時期よりも活発に作られているように思う。

そこで、本作。なぜだか、あの『キャリー』の続編である。

スティーヴン・キング原作、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』は、狂信的な母親のもとで育てられた女の子「キャリー」が、遅い初潮を迎えたのをきっかけに超能力を発現する物語であった。クライマックスでは、同級生たちの限度を越えたいじめに彼女が哀しみと怒りを爆発させ、プロムの会場が血に染まり、炎に包まれる。

あれから20年。前作の事件で生き残ったスー・スネルがカウンセラーを務める高校を舞台に、忌まわしい悲劇が繰り返されようとしていた、というのが今回のお話。ちなみに、原作の「キャリー」には続編がないので、これは映画会社の都合による、映画版を底本とした勝手な続編である。

今作は前作の生き残りとして、エイミー・アーヴィング(!)演じるキャラクターが再登場し、さらに前作のフッテージを数箇所挿することで、一応、正当な続編であるという体裁を整えているものの、主人公は新人エミリー・バーグル演じる「レイチェル」だ。(←キャリーじゃないじゃん!)

主人公は違い、時代は違えど、同じストーリーをなぞり、同じ物語が展開される。続編というか、やっすいリメイクというか、そんな感じだな。だって、挿入された前作のフッテージのほうがよっぽど強烈な印象を残すってんだから洒落にならない。

ただ、青春ドラマとしての脚本は、そんなに悪くないと思う。「キャリー」を現代的なコンテクストで翻案するにあたり、「高校の支配的文化に同化できず日陰にいるゴス少女」と、「派手にスポットの当たる日向に身を置きながら、周囲から浮いている誠実な青年」の、孤独と疎外、そして受け入れられることの無い悲劇の恋愛。注目を一身に浴びて自惚れ甚だしいジョックスどもの憎々しさ。もはや、大定番の構図であるが、作り手たちはそんな世界に身を置く多くのティーンズに向けて、丁寧にドラマを組み立てている。

そう、今作の「レイチェル」は、前作の「キャリー」ほどの異形としては描かれていない。そして、孤独ではあっても完全に社会性を欠いた存在ではない。ある意味でどこの日陰にもいる普通の少女であり、身近に感じることが容易な存在になっているのは大きなポイントだろう。

映画のクライマックスは、さすがにヴォルテージが高く、低予算の割にはかなり派手にやらかしてくれている。主人公レイチェルが怒りに身を任せ、全身を茨のタトゥーが覆うという容貌の変化がビジュアル的に面白い。とはいえ、豪邸一軒とパーティの参加者を殺戮するだけなので、街ひとつを破壊し尽くした原作にも、プロム会場を吹き飛ばした前作にも、スケール感では及ばない。最後は、前作を見ていたら誰もが想像する通りのお約束のシーンがある。

この映画、ロバート・マンデル監督で撮影が始まったものの、途中でリュー・バリモア主演のエロティック・スリラー『ボディ・ヒート(Poison Ivy)』のカット・シーアが大幅な撮りなおしの末、完成させたんだそうだ。

3/07/1999

The Corruptor

NYPD15分署(☆☆★)

NYのチャイナタウンを管轄する署に慣行を破って配属された若き白人警官を迎えたのは、街の実情に詳しくコミュニティからも尊敬されているベテランの中華系警官だった。が、そのベテラン刑事、裏側では街を牛耳る闇の勢力とも馴れ合いのグレーな関係を続けつつ、新たに勢力争いに加わった福建ギャングと果敢に渡り合う。ルールなき街の混沌のなかで、自らもある秘密を隠しながら犯罪と向き合っていく若者。これを演じるのがマーク・ウォルバーグ、チャイナタウンのベテランを演じるのはチョウ・ユンファだ。

のっけから展開される香港風大活劇で我らがユンファ兄貴が大活躍。怪しい鼻歌で。売春宿の手入れに現れるや、いきなり激しい銃撃戦に突入する。カットの短いスピーディな編集で構成されたアクションシーンはなかなかの迫力。狭い室内でのアクションは、香港時代の作品を彷彿とさせ、ハリウッド製香港映画の趣だ。

そんな幕開けだから、単純明快なアクション活劇を期待すると、ドラマはより複雑な様相を呈し、白黒で割り切れない混沌とした現実の中で、それぞれの友情、正義、倫理観が問われていく。え、そういう真面目なドラマだったんですか。でも、そうなるとなおのこと香港ノワールな雰囲気が濃厚だな。

監督はジェームズ・フォーリー、ジョン・グリシャム原作(処刑室)『チェンバー/凍った絆』くらいしか知らないのでなんともいえないが、米国的なルールが通用しないようなチャイナタウンを舞台にして、およそ米国的でない映画を撮ってしまうんだから、度胸がある。

チョウ・ユンファは米国進出後、一番まともな役でその魅力を発揮しているが、英語での台詞まわしには相当手こずっているように聞こえる。これ、本当はものすごい儲け役のはずなんだけどな。マーク・ウォルバーグは元アイドルとは思われぬ地味具合。作品選びをみても本気で役者をやるつもりでいるんだろう。役柄がルーキーなんだから仕方がないとはいうものの、大スター相手に存在感が少々薄いんだよね。

善悪敵味方入り乱れ、誰もがそれぞれの秘密を隠し持っていて、観客にふせられた秘密もある。だから、誰の視点で物語を追っていけば良いのか、少々分かり難い構成になっている面があるのではないか。なかなか物語にのめり込めずに戸惑ってしまった。

3/05/1999

Cruel Intentions

クルーエル・インテンションズ

これは、『危険な関係』@プレップ・スクール in N.Y.、という映画なわけですね。

リッチで甘やかされ、暇を持て余している義理の兄セバスチャンと妹キャスリン。今回、セバスチャンが狙いをつけた学園理事の娘アネットは真面目で、いかにも結婚まで処女を守るタイプ。セバスチャンが年度の終わりまでに彼女を攻略できなければ所有するポルシェはキャスリンのもの。攻略できれば、キャスリンの体はセバスチャンのものだ。

モラルの狂った義理の兄妹にライアン・フィリップとサラ・ミシェル・ゲラー。賭けの対象にリース・ウィザースプーン。その他、セルマ・ブレアー、ジョシュア・ジャクソンらが共演。脚本・監督はロジャー・カンブル。

この作品、かなり「拾いモノ」。

もちろん、「ティーンもの」にしては刺激の強い内容が物議を醸しているけれど、道義的に狂った人間はきちんと処罰されて終わる、という教訓を持っている意味で、本質的にはモラリスティックな話である。そうはいっても、売れっ子の若手(といっても20はとうに超えている)俳優たちをつかってこの話をやるというのは、商業的には面白い選択だし、企画としてはチャレンジングといえるんじゃないか。

新人ロジャー・クンブルの演出にはデビュー作の気負いもあるにせよ、独特のスタイルとリズムがあって心地よいし、危ない橋をコメディとして渡り切るそのセンスはなかなかのものだ。刺激的ではあるが、エゲツナイ直接描写は巧妙に避け、視覚的には何もないうちから、台詞とシチュエーションだけででエロティックな雰囲気を盛り上げる。

『バッフィ』の人気者、サラ・ミシェル・ゲラーの安っぽい魅力が、キャスリン役にドンピシャとはまり、彼女の映画における代表作ができた。ライアン・フィリップは中性的、メトロセクシャルな雰囲気が面白い。その彼がいつしか本気になってしまう相手が、それほど美人とは言い難いリース・ウィザースプーンっていうのはどうかと思うが、個人的には贔屓にしているので問題なし。セルマ・ブレアーは、この中では一番年上の女優なのだが、この人の振り切れたコメディ演技は間違いなく、本作の笑いどころである。

学園物ではあるが、裕福な家庭の子弟が通うプレップ・スクールという設定で、リアルなハイスクール・ライフを描くのではなく、浮世離れした「寓話」として描いているかのような雰囲気に独特のものがある。既成の最新ヒット曲とエド・シャーマーの手になる現代的なインスト曲を自在に使い分けた音楽も楽しい。サントラ、結構、売れるんじゃないのかな。

Analyze This

アナライズ・ミー(☆☆☆★)

結婚を間近に控え平穏な生活を送っていた精神科医のもとに、突然、悪名高きNYマフィアのボスが訪れた。全米の親分衆が集う大事な会合を控えて、どうも体調的に優れないので、精神科医でセラピーを受けようと思い立ったというのだ。精神科医は、このオソロシイ患者を拒否することも出来ず生活をかき乱されていく。

ハロルド・ライミス監督作、といえば、まずコメディ映画としてプロの仕事を期待できる鉄板だ。しかもビリー・クリスタルとロバート・デニーロのダブル主演。デニーロがマフィアの大親分をセルフパロディ的に演じるというのだから、これで面白くならなかったら嘘だろう。

だいたい、脚本も危なげがない。「マフィアの親分と精神科医」というアイディアとキャストだけでも勝ちが見えているというのに、ワンアイディアで突っ走るような真似をしないのである。

数ある精神科医の中で主人公が選ばれてしまうきっかけに始まり、対立組織やFBI が絡んで話が徐々にエスカレートしていくプロセス、結婚式やパーティが思わぬ形でめちゃめちゃになっていく顛末、あるべきエピソードがあるべき順番、あるべきかたちで丁寧に組み立てられている。

それぞれのエピソードにおけるシチュエーションの組み立てや、キャラクターの出し入れも的確。台詞のギャグから視覚ギャグまで「フリ」があって「オチ」があり、テンポよく、そして気持よく笑わせてくれる。自ら脚本にも参画しているライミス、さすがに笑いのツボを知り抜いた喜劇人だ。

主演の二人もリラックスしている。互いに、互いの演技を楽しむ余裕すら感じさせる。精神科医に頼り切ってしまうデニーロ親分の可愛らしさ。義理人情に厚く、彼なりではあっても気を使っているところが憎めない。単なる迷惑な闖入者というのではなく、デニーロの演技が「観客に愛されるキャラクター」ヲ作っているのは大きなポイントで、それ故にクリスタル演ずる精神科医が、最初は脅されて嫌々付き合っていた相手の心の問題を、本気で解決してやりたいと感じるようになる心境の変化に説得力が出てくるんだよね。

プロデューサーも務めるビリー・クリスタルは、大物デニーロに遠慮して受け芝居に徹しているかとおもいきや、最後にキッチリ「デニーロのマフィア演技をマネする」大芝居。ヒロインではあるが、リサ・クドロウは添え物で、むしろ、チャズ・パルミンテリ他、おなじみのヤクザ顔役者がしっかり脇を固めて笑いも持っていく。

ドラマ的にないものねだりをすると、大親分の心の悩みだけでなく、精神科医側の抱える父親へのコンプレックスもまた、この二人の関係において解消され、互いに「癒し、癒される」ところまで踏み込めていたら完璧だっただろう。もしかして、その踏み込みが足りない部分を続編で、、、とか?この大ヒットぶりを見ていると、そんな展開もあるのかもしれないな。

2/26/1999

8mm

8mm(☆☆★)

『セブン』の次だから、『8mm』ってとこなんだろうか。アンドリュー・ケヴィンウォーカー脚本の新作は、「スナッフ・フィルム」の都市伝説をテーマにした挑発的で悪趣味なスリラーである。監督は、バットマンものでは大いにミソつけたジョエル・シュマッカー。

ある富豪の遺品のなかにあった、8ミリのプライベート・フィルムには、年端もいかぬ少女が生々しく殺害される様子が写っていた。カメラの前で本当に殺人は行われていたのかどうか、真相を確かめるべく雇われた私立探偵が、怪しい人々がうごめく危険な裏の世界に足を踏み入れていくという筋立てである。私立探偵をニコラス・ケイジ、彼に協力するアダルトショップの店員をホアキン・フェニックスが演じている。

いやはや、異様な映画である。

この映画には、都市伝説として囁かれる「スナッフ・フィルム」の世界が現実に存在しても不思議ではない、と思わせるだけのリアリティはともかく、無理やりそういう異常な世界に観客を連れ込んでいこうとする、負のエネルギーがみなぎっている。

それに、意図したことかどうかはわからないが、シュマッカーの映画としては、『評決のとき』に続いて、「私刑」を肯定する筋立てになっている。しかも、それはほぼ主人公の「自己満足」とでもいうべきものであって、映画が終わった時点で、映画が始まった時より幸せになった登場人物が一人もいないというところが悪意に満ちている。

そんなわけで、「良識的な観客」はこの映画を見ている2時間強、終始嫌な気分でいることを強いられるばかりか、とても後味の悪い思いすることになる。それだけで済むならともかく、快楽のために人の命を奪い、それをフィルムに収めるという胸糞の悪いビジネスが、日常生活のすぐ裏側に存在しているんじゃないかという、これまた胸糞悪い都市伝説をしっかりと頭に刷り込まれて家路につくことになる。

まあ、そんなものは絶対にないとも言い切れないのが嫌な世の中ではあるのだが。

この映画は、刺激的なトピックで目眩ましをしているが、おそらく、「知りたくない真実にどう向き合うか」、そして、「真実を知ったものに課せられた責任と倫理的なディレンマ」というテーマに切り込もうとしているのではないだろうか。

そして、その「真実」を暴くことを生業とするのが主人公である。

だとするならば、この主人公が、本来、この映画のテーマを背負い、主体的に苦悩する存在として描かれるべきだと思うのだが、どうもそうなっていないところに居心地の悪さを感じる。だって、ニコラス・ケイジは苦悩する表情こそを浮かべているけれども、結果として「自身の葛藤」とすべきものに周囲を巻き込み、不幸の連鎖を撒き散らす存在になってしまっているからね。そんな主人公の行動は肯定もできないし、好感を抱くことすらできないよ。

話を聞くと、当初の脚本のトーンがあまりに暗いことに躊躇したスタジオがリライトを求めたが、アンドリュー・ケヴィンウォーカーはそれをことわり、プロジェクトから離れたのだという。結局、脚本は監督自身によって手を入れられたらしい。中盤以降の、本来あるべきテーマが収まるべきところに収まらず、中途半端な「私刑肯定」映画として着地するこのチグハグした感じは、もしかしたらそんなところに起因するのかもしれない、と勝手な想像をしてみたりする。

ジョエル・シュマッカーは職人的な手腕をもった監督で、いい企画、いい脚本に出会えば『フォーリング・ダウン』のような傑作も撮る一方で、なんでこんなのひきうけちゃったの、という作品も少なくない。「バットマン」フランチャイズを殺した2本は、後者の代表といえるだろう。本作は、脚本に描かれた「尋常ならざる裏世界」に説得力を与えようとする強い意欲を感じさせはするが、せっかくの意欲が空回りしているように感じられる。最初の脚本はどのようになっていたのだろうか。少し興味を惹かれないでもない。

The Other Sister

カーラの結婚宣言(☆☆★)

サンフランシスコの裕福な家庭に、末娘が帰ってきた。精神障害で知恵遅れの彼女は、長い間、特別の寄宿学校に預けられていたのだ。帰ってきて間もないうちから「自立」を求める彼女と、なにからなにまで心配で、自分の保護下においておこうとする母親。同じような障害を持つ青年と恋に落ちた末娘の関係の行く末はどうなるのか。

ごめん、好き嫌いでいえば、嫌いなんだ、こういうの。

しかし、見方によっては危ない企画であり、よく作るよなー、と思う。精神障害を持つ男女のカップルで、ロマンティック・コメディをやるっていうんだからね。

そのカップルを演じるのが、これまた、2人とも濃い演技をするジュリエット・ルイスとジョバンニ・リビシだ。うぇ、映画の狙いや作り手の気持ちがどこにあろうと、こやつらが知恵遅れ演技にのめり込んでいるのを見せるっていうのがなかなか危ない橋だと思うんだよ。作り手は真摯なつもりでも、どうしても見世物的になっちゃうからな。この映画だって、2人の非常識な行動で笑いをとってるし。

で、作り手が真摯であればあるほど、今度は違った意味で嫌な気分になる。いや、物語としてはいいんだ。考え方としてはわかるんだ。障害者の自立とか健常者と同じように生活を楽しむ権利とか、大賛成だよ。

でもさ、差別的と非難されるの承知でいうんだけど、”Mentally Challenged” な2人のロマンスを単純なハッピー・エンドの物語にしてもいいのか?だって、よほど周囲の理解とサポートがなければ、現実問題として単なる社会の迷惑、成立し得ない話だよね。そこを綺麗ごととして描いてしまうのは、偽善じゃないんだろうか。

でも、そこはさすがのゲイリー・マーシャル監督である。主人公の家族は裕福だし、過干渉な親として悪役扱いされる母親も、寿命のある限りはきっちりと2人をサポートしていくだろう。何かがあっても、最後はカネで解決できそうな、めぐまれた環境であることは、さりげなく描かれている。そう、特殊な環境だからこそ成立する話なのだという自覚が、現実感覚が作り手の中にあるということだな。その意味では、これは、現実の中で辛く厳しい選択を迫られる人々の話ではなく、願望充足型のファンタジーだと思えばいいんだろう。

一方、もう少し普遍化してみれば、これは「親の支配を脱して自立していく子供」という、誰もが身近に感じられるテーマを、あえて極端な設定で誇張して見せているということもできる。主人公の末娘のほか、結婚寸前の次女、親に認められない相手と交際を続ける長女の存在は、この映画のテーマが広い意味で「親離れと自立」にあることを示唆して充分だろう。

主人公の両親を演じているのがダイアン・キートンとトム・スケリットである。ダイアン・キートンは、悪役扱いされたり、偽善者扱いされたりして気の毒な役回りである。トム・スケリット演ずる父親も、無関心寸前なほどに物分りがいいから、、「ヒステリックに自分の娘を支配しようとする母親」と見えてしまい、ちょっとバランスが悪い。

しかし、このキャラクターは、観客の「ホンネ」を代弁する、本作の、本当の意味での主人公であるといえる。裕福な家庭の奥様らしく、さまざまな社会奉仕活動に熱心なのだが、自分はゲイの活動を支援していても、自分の娘が「ガールフレンド」と付き合っていることを素直に容認できない、とかね。まるで、この映画を「総論賛成、各論反対」な気分でみている観客の立場を正直に代弁しているようなものじゃないか。そういう「役割」をきっちり担ってみせるダイアン・キートンは、やっぱり素晴らしい女優だなぁ。

2/16/1999

Storm of the Century

悪魔の嵐(☆☆★)

これは映画じゃないし、映画館で見たわけでもないので、記事を書くのはちょっと例外である。スティーヴン・キングによるオリジナル・書き下ろし脚本を、3大ネットワークのひとつABCが、TVとしては破格といえる3300万ドルの予算をつぎ込んで製作し、3夜にわたって放送したミニ・シリーズなのだ。監督は主にケーブル局のTVムービーを活躍の場としているクレイグR・バクスリィ。

さて、どんな話か。メイン州の小さな島が舞台である。そこに、タイトル通りの「世紀の大吹雪」が刻一刻と迫っていた。そんな折、謎の男が町を訪れる。そして不可解な自殺や殺人が続発する。どんなときも固い結束を貫いてきた小さなコミュニティだが、それをきっかけとして得体の知れぬ不安におそわれる。謎の男の目的はなにか。彼の欲するものを与えなければ、嵐が過ぎ去ったとき町の住民は一人残らず姿を消していることになるという。

さすがに、TV映像化を前提に書き下ろされた全くの新作だけあて、キング原作のTVミニ・シリーズとしてはかなり力作の部類に入ると思うし、質感の高い映像とテーマの面白さで、長丁場を飽きさせない出来映えである。雰囲気としてはTVで「読む」キングの新作小説。3夜合計で正味4時間半をもたせる話術はまさにキングの独壇場だ。

謎の男が現れて小さな町のコミュニティが崩壊の危機にさらされるというプロットは、吸血鬼もの『呪われた町(TV:死霊伝説)』や『ニードフル・シングス』と共通するが、本作はむしろ謎の男と彼がもたらす厄災を恐怖の対象として捉えているのではなく、閉鎖的なローカル・コミュニティのダークサイド、その薄気味悪さこそが恐怖の中心にある。コミュニティの偽善を暴き出し、改めて人々に罪の意識を植え付けるための触媒として、神とも悪魔ともつかぬ謎の男が現れる。

キング版「ハーメルンの笛吹き男」、だろうか。

近年とくに彼が好んでとりあげている宗教的なモチーフ、人生と信仰といったテーマが通底で流れていて、長時間視聴者をTVに釘付けにした挙句、非常に苦いエンディングをむかえることになる。原作者のネームヴァリューがなければ、こんな終わり方は許されないんじゃないのかね。

テレビドラマの割に質感のあるセットに、映画とは比べ物にならないとはいえ破格の予算の効果を感じさせられる。特撮もセンスが悪くないし、クライマックスでずっこけるような安っぽさもない。役者陣はほぼ無名だが、謎の男を演じるコルム・フィオーレが不気味な雰囲気を出していて良い感じだ。その他、目立つ顔がないのは結果的に「田舎町」という設定にリアリティを与える結果になっている。

クレイグ・バクスリィの演出はTV的な分かりやすい描写とカット割で、奇抜な事を試みず、キングのストーリーを「語る」ことに徹している。キングお気に入りのミック・ギャリスより巧いんじゃないか。謎の人物の演出は『羊たちの沈黙』のレクターや、『セブン』のジョン・ドゥを髣髴させ苦笑せんでもない。まあ、ここら辺は、誰が何をやってみてもああなってしまうのかな。この男が牙をむき出すようなカットをしばしば挿入しているが、これはTV的で安っぽいやり口だと思う。

2/12/1999

October Sky

遠い空の向こうに(☆☆☆☆★)

”October Sky(原題)” のアルファベットを並べ替えると “Rocket Boys(原作)” になるんだね。 大きな宣伝もなく、年明けにひっそりと公開された作品なんだけど、口コミで息の長い興業になるといいなぁ、としみじみ思った傑作。

1957年10月、ウェスト・ヴァージニア州の炭坑町にもニュースが走った。ソビエト連邦が人類史上初めての人口衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したのだ。輝くような未来も希望もなにもない閉塞的な毎日を生きていた少年たちがそのニュースに触発され、「ロケット」を自作する夢を実現させようとする。

舞台は、斜陽で出口の見えない閉塞的な炭坑町なのだ。その町で育った子供たちは、スポーツで奨学金をとることぐらいでしか、町を出ることなんて考えられない。高校を卒業したら、父親たちがそうであるように、危険な肉体労働につく未来が待っている。いや、未来があるかどうかもわからない。石炭産業自体が斜陽しつつあるからだ。過酷な現実のなかで、自作ロケットを飛ばすという夢を持った少年たちが、周囲の励ましや協力を得ながら諦めず、自分たちの意思を貫き通そうとする。

親子の対立、周囲のさまざまな大人たちとの交流を通して、自らの進むべき道を模索する青年期の普遍的なドラマだが、「地下に潜りススだらけになる炭鉱作業の現実」と、「科学の知識を生かして無限の青空にロケットを飛ばすという夢」が対比になり、ドラマティックな効果を上げている。

そして、これがNASAの元技術者の自伝を原作とした実話だという。

実話だからエライとか、そういう話ではない。米国ならではのこうした逸話を、そのエピソードが持つ力を損なわず、ストレートに感動を呼ぶ作品へと結実させた脚本ルイス・コリック、そして監督ジョー・ジョンストンの仕事には最大限の賛辞を送りたい。彼らの仕事が、これを実話としての「あるエンジニアの青春ドラマ」にとどめるのでなく、「夢と希望を追いつづける意思とそのパワーについてのドラマ」に昇華したのである。

そう、あの『スター・ウォーズ』3部作、『レイダース』に大貢献した特撮マン、ジョー・ジョンストンですよ。この映画の監督は。本作のプロデューサー、チャールズ・ゴードンが『ロケッティア』の縁で起用したのだろうか。

監督としてはその『ロケッティア』の他、『ミクロキッズ』、『ジュマンジ』、そして『ロケッティア』。確かに、作品中で「飛ぶ」ことへの憧れや、その描写へのこだわりを見せる人だったとは思う。その男が今回、ロケットを飛ばし、空を見上げて、そこに憧れや希望を見出す映画を撮った。まさか、こういう青春譚を丁寧に描いてみせるとは。ユーモアを交えながら、軽くならず、重くならず、主人公の気持ち、その周囲の人々の気持ちとその変化を描出していく手腕は見事なものだ。

主演のジェイク・ギレンホール、彼が反目する寡黙な父親をクリス・クーパー、主人公を励ます教師にローラ・ダーン。クリス・クーパーは巧いなぁ。

人によって、この映画の感動ポイントは様々だろう。私などは、どうしても、この少年たちが大空を眺めたような視線ででこの映画そのものを見つめてしまう。米国という国の甘くはない現実と同時に、自分の頑張り次第で未来を切り開ける、そういうチャンスを与えてくれる国の姿を、どうにも羨ましく思うからだ。だって、高校生のお遊びのようなロケット作りが、NASAにつながる国なんだよ!

努力は必ず報われる、夢や希望を捨ててはいけない。いつかそれを実現させるために。手作りの小さなロケットが大空へまっすぐと飛び立っていく画面にはなんともいえない恍惚的な感動を覚える。

My Favorite Martian

ブラボー火星人2000(☆☆)

NASAの火星探査の及ばぬ先に火星人たちは先進の巨大文明を築いていた!TV局の冴えないプロデューサーの目の前に事故で落下してきた宇宙船に乗っていたのは紛れもない火星人。珍騒動の末、宇宙船の修理に協力することになったプロデューサーだったが、彼の周りには更なる騒動が待ち受けていた・・・という、60年代のTVシリーズ『ブラボー火星人』を元にディズニーが作り上げたリメイク(というか続編なのか?)である。

出演はちょっと豪華で、ジェフ・ダニエルズ、クリストファー・ロイド、エリザベス・ハーレー、ダリル・ハンナという面々。監督はダニエル・ペトリ。

映画会社としてのディズニーが本当に強いと感じるのは、長編アニメ大作や『アルマゲドン』のようなブロックバスターではなくて、本作のように比較的低予算で、とりたてて大きな欠点のないコメディを作り、市場が家族向け作品に飢えているタイミングにきっかりとリリースし、旨味のある商売につなげるところだったりする。

ダニエル・ペトリねぇ。前作『チャンス!』はインベストメント・バンキングにおける男性優位をサラリと批判して見せて、ちょっと面白いコメディだった。が、監督としては軽いコメディを中心に、可もなく、不可もなく作る役割を担っている人、という印象である。まあ、本作もそういう範疇。あんまり志が高くない脚本なりの出来栄えである。退屈だった『キャスパー』の脚本家チームの作だし。

映画の始まりは結構面白い。NASAの火星無人探査機のバッテリーが切れ、探査できなかったその先に火星の文明があった・・というのはジョークとして秀逸で、ヴィジュアル的にも笑ってしまう。ただ、実際に「火星人」と「喋る服」が地球にやってきてからは、低レベルなギャグが騒々しく展開されるだけだ。いやしくも1本の映画にするのであれば、もう少し気の利いたギャグのアイディアがいるだろう。

かなり粒が揃ったキャストの中でも、一番芸達者といえるクリストファー・ロイドが、「地球人形態になっている時の火星人」を演じているのだが、さすが、ドクター・エメット・ブラウン(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、この人の演技は、終始リミッターがぶちきれたような勢いで暴走する。そりゃあ、面白くはあるんだけれど、映画全体を騒がしく、落ち着きがないものにしてしまったな。

個人的には性格の悪い役を嬉々としてこなすエリザベス・ハーレーや、久しぶりに見たのに容姿が変わらないダリル・ハンナの鼻にかかった声とか、本筋とは違うところで楽しんだ。 関係ないついでだが、「G指定」とは云え『真夜中の呪文(アメージング・ストーリーズ』を髣髴とさせるクリストファー・ロイドの「ばらばら生首」が出てきて、これまたびっくり。血が流れないから?火星人だから?米国のレイティング・システムは偽善だよ、全く。