2/26/1999

8mm

8mm(☆☆★)

『セブン』の次だから、『8mm』ってとこなんだろうか。アンドリュー・ケヴィンウォーカー脚本の新作は、「スナッフ・フィルム」の都市伝説をテーマにした挑発的で悪趣味なスリラーである。監督は、バットマンものでは大いにミソつけたジョエル・シュマッカー。

ある富豪の遺品のなかにあった、8ミリのプライベート・フィルムには、年端もいかぬ少女が生々しく殺害される様子が写っていた。カメラの前で本当に殺人は行われていたのかどうか、真相を確かめるべく雇われた私立探偵が、怪しい人々がうごめく危険な裏の世界に足を踏み入れていくという筋立てである。私立探偵をニコラス・ケイジ、彼に協力するアダルトショップの店員をホアキン・フェニックスが演じている。

いやはや、異様な映画である。

この映画には、都市伝説として囁かれる「スナッフ・フィルム」の世界が現実に存在しても不思議ではない、と思わせるだけのリアリティはともかく、無理やりそういう異常な世界に観客を連れ込んでいこうとする、負のエネルギーがみなぎっている。

それに、意図したことかどうかはわからないが、シュマッカーの映画としては、『評決のとき』に続いて、「私刑」を肯定する筋立てになっている。しかも、それはほぼ主人公の「自己満足」とでもいうべきものであって、映画が終わった時点で、映画が始まった時より幸せになった登場人物が一人もいないというところが悪意に満ちている。

そんなわけで、「良識的な観客」はこの映画を見ている2時間強、終始嫌な気分でいることを強いられるばかりか、とても後味の悪い思いすることになる。それだけで済むならともかく、快楽のために人の命を奪い、それをフィルムに収めるという胸糞の悪いビジネスが、日常生活のすぐ裏側に存在しているんじゃないかという、これまた胸糞悪い都市伝説をしっかりと頭に刷り込まれて家路につくことになる。

まあ、そんなものは絶対にないとも言い切れないのが嫌な世の中ではあるのだが。

この映画は、刺激的なトピックで目眩ましをしているが、おそらく、「知りたくない真実にどう向き合うか」、そして、「真実を知ったものに課せられた責任と倫理的なディレンマ」というテーマに切り込もうとしているのではないだろうか。

そして、その「真実」を暴くことを生業とするのが主人公である。

だとするならば、この主人公が、本来、この映画のテーマを背負い、主体的に苦悩する存在として描かれるべきだと思うのだが、どうもそうなっていないところに居心地の悪さを感じる。だって、ニコラス・ケイジは苦悩する表情こそを浮かべているけれども、結果として「自身の葛藤」とすべきものに周囲を巻き込み、不幸の連鎖を撒き散らす存在になってしまっているからね。そんな主人公の行動は肯定もできないし、好感を抱くことすらできないよ。

話を聞くと、当初の脚本のトーンがあまりに暗いことに躊躇したスタジオがリライトを求めたが、アンドリュー・ケヴィンウォーカーはそれをことわり、プロジェクトから離れたのだという。結局、脚本は監督自身によって手を入れられたらしい。中盤以降の、本来あるべきテーマが収まるべきところに収まらず、中途半端な「私刑肯定」映画として着地するこのチグハグした感じは、もしかしたらそんなところに起因するのかもしれない、と勝手な想像をしてみたりする。

ジョエル・シュマッカーは職人的な手腕をもった監督で、いい企画、いい脚本に出会えば『フォーリング・ダウン』のような傑作も撮る一方で、なんでこんなのひきうけちゃったの、という作品も少なくない。「バットマン」フランチャイズを殺した2本は、後者の代表といえるだろう。本作は、脚本に描かれた「尋常ならざる裏世界」に説得力を与えようとする強い意欲を感じさせはするが、せっかくの意欲が空回りしているように感じられる。最初の脚本はどのようになっていたのだろうか。少し興味を惹かれないでもない。

The Other Sister

カーラの結婚宣言(☆☆★)

サンフランシスコの裕福な家庭に、末娘が帰ってきた。精神障害で知恵遅れの彼女は、長い間、特別の寄宿学校に預けられていたのだ。帰ってきて間もないうちから「自立」を求める彼女と、なにからなにまで心配で、自分の保護下においておこうとする母親。同じような障害を持つ青年と恋に落ちた末娘の関係の行く末はどうなるのか。

ごめん、好き嫌いでいえば、嫌いなんだ、こういうの。

しかし、見方によっては危ない企画であり、よく作るよなー、と思う。精神障害を持つ男女のカップルで、ロマンティック・コメディをやるっていうんだからね。

そのカップルを演じるのが、これまた、2人とも濃い演技をするジュリエット・ルイスとジョバンニ・リビシだ。うぇ、映画の狙いや作り手の気持ちがどこにあろうと、こやつらが知恵遅れ演技にのめり込んでいるのを見せるっていうのがなかなか危ない橋だと思うんだよ。作り手は真摯なつもりでも、どうしても見世物的になっちゃうからな。この映画だって、2人の非常識な行動で笑いをとってるし。

で、作り手が真摯であればあるほど、今度は違った意味で嫌な気分になる。いや、物語としてはいいんだ。考え方としてはわかるんだ。障害者の自立とか健常者と同じように生活を楽しむ権利とか、大賛成だよ。

でもさ、差別的と非難されるの承知でいうんだけど、”Mentally Challenged” な2人のロマンスを単純なハッピー・エンドの物語にしてもいいのか?だって、よほど周囲の理解とサポートがなければ、現実問題として単なる社会の迷惑、成立し得ない話だよね。そこを綺麗ごととして描いてしまうのは、偽善じゃないんだろうか。

でも、そこはさすがのゲイリー・マーシャル監督である。主人公の家族は裕福だし、過干渉な親として悪役扱いされる母親も、寿命のある限りはきっちりと2人をサポートしていくだろう。何かがあっても、最後はカネで解決できそうな、めぐまれた環境であることは、さりげなく描かれている。そう、特殊な環境だからこそ成立する話なのだという自覚が、現実感覚が作り手の中にあるということだな。その意味では、これは、現実の中で辛く厳しい選択を迫られる人々の話ではなく、願望充足型のファンタジーだと思えばいいんだろう。

一方、もう少し普遍化してみれば、これは「親の支配を脱して自立していく子供」という、誰もが身近に感じられるテーマを、あえて極端な設定で誇張して見せているということもできる。主人公の末娘のほか、結婚寸前の次女、親に認められない相手と交際を続ける長女の存在は、この映画のテーマが広い意味で「親離れと自立」にあることを示唆して充分だろう。

主人公の両親を演じているのがダイアン・キートンとトム・スケリットである。ダイアン・キートンは、悪役扱いされたり、偽善者扱いされたりして気の毒な役回りである。トム・スケリット演ずる父親も、無関心寸前なほどに物分りがいいから、、「ヒステリックに自分の娘を支配しようとする母親」と見えてしまい、ちょっとバランスが悪い。

しかし、このキャラクターは、観客の「ホンネ」を代弁する、本作の、本当の意味での主人公であるといえる。裕福な家庭の奥様らしく、さまざまな社会奉仕活動に熱心なのだが、自分はゲイの活動を支援していても、自分の娘が「ガールフレンド」と付き合っていることを素直に容認できない、とかね。まるで、この映画を「総論賛成、各論反対」な気分でみている観客の立場を正直に代弁しているようなものじゃないか。そういう「役割」をきっちり担ってみせるダイアン・キートンは、やっぱり素晴らしい女優だなぁ。

2/16/1999

Storm of the Century

悪魔の嵐(☆☆★)

これは映画じゃないし、映画館で見たわけでもないので、記事を書くのはちょっと例外である。スティーヴン・キングによるオリジナル・書き下ろし脚本を、3大ネットワークのひとつABCが、TVとしては破格といえる3300万ドルの予算をつぎ込んで製作し、3夜にわたって放送したミニ・シリーズなのだ。監督は主にケーブル局のTVムービーを活躍の場としているクレイグR・バクスリィ。

さて、どんな話か。メイン州の小さな島が舞台である。そこに、タイトル通りの「世紀の大吹雪」が刻一刻と迫っていた。そんな折、謎の男が町を訪れる。そして不可解な自殺や殺人が続発する。どんなときも固い結束を貫いてきた小さなコミュニティだが、それをきっかけとして得体の知れぬ不安におそわれる。謎の男の目的はなにか。彼の欲するものを与えなければ、嵐が過ぎ去ったとき町の住民は一人残らず姿を消していることになるという。

さすがに、TV映像化を前提に書き下ろされた全くの新作だけあて、キング原作のTVミニ・シリーズとしてはかなり力作の部類に入ると思うし、質感の高い映像とテーマの面白さで、長丁場を飽きさせない出来映えである。雰囲気としてはTVで「読む」キングの新作小説。3夜合計で正味4時間半をもたせる話術はまさにキングの独壇場だ。

謎の男が現れて小さな町のコミュニティが崩壊の危機にさらされるというプロットは、吸血鬼もの『呪われた町(TV:死霊伝説)』や『ニードフル・シングス』と共通するが、本作はむしろ謎の男と彼がもたらす厄災を恐怖の対象として捉えているのではなく、閉鎖的なローカル・コミュニティのダークサイド、その薄気味悪さこそが恐怖の中心にある。コミュニティの偽善を暴き出し、改めて人々に罪の意識を植え付けるための触媒として、神とも悪魔ともつかぬ謎の男が現れる。

キング版「ハーメルンの笛吹き男」、だろうか。

近年とくに彼が好んでとりあげている宗教的なモチーフ、人生と信仰といったテーマが通底で流れていて、長時間視聴者をTVに釘付けにした挙句、非常に苦いエンディングをむかえることになる。原作者のネームヴァリューがなければ、こんな終わり方は許されないんじゃないのかね。

テレビドラマの割に質感のあるセットに、映画とは比べ物にならないとはいえ破格の予算の効果を感じさせられる。特撮もセンスが悪くないし、クライマックスでずっこけるような安っぽさもない。役者陣はほぼ無名だが、謎の男を演じるコルム・フィオーレが不気味な雰囲気を出していて良い感じだ。その他、目立つ顔がないのは結果的に「田舎町」という設定にリアリティを与える結果になっている。

クレイグ・バクスリィの演出はTV的な分かりやすい描写とカット割で、奇抜な事を試みず、キングのストーリーを「語る」ことに徹している。キングお気に入りのミック・ギャリスより巧いんじゃないか。謎の人物の演出は『羊たちの沈黙』のレクターや、『セブン』のジョン・ドゥを髣髴させ苦笑せんでもない。まあ、ここら辺は、誰が何をやってみてもああなってしまうのかな。この男が牙をむき出すようなカットをしばしば挿入しているが、これはTV的で安っぽいやり口だと思う。

2/12/1999

October Sky

遠い空の向こうに(☆☆☆☆★)

”October Sky(原題)” のアルファベットを並べ替えると “Rocket Boys(原作)” になるんだね。 大きな宣伝もなく、年明けにひっそりと公開された作品なんだけど、口コミで息の長い興業になるといいなぁ、としみじみ思った傑作。

1957年10月、ウェスト・ヴァージニア州の炭坑町にもニュースが走った。ソビエト連邦が人類史上初めての人口衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したのだ。輝くような未来も希望もなにもない閉塞的な毎日を生きていた少年たちがそのニュースに触発され、「ロケット」を自作する夢を実現させようとする。

舞台は、斜陽で出口の見えない閉塞的な炭坑町なのだ。その町で育った子供たちは、スポーツで奨学金をとることぐらいでしか、町を出ることなんて考えられない。高校を卒業したら、父親たちがそうであるように、危険な肉体労働につく未来が待っている。いや、未来があるかどうかもわからない。石炭産業自体が斜陽しつつあるからだ。過酷な現実のなかで、自作ロケットを飛ばすという夢を持った少年たちが、周囲の励ましや協力を得ながら諦めず、自分たちの意思を貫き通そうとする。

親子の対立、周囲のさまざまな大人たちとの交流を通して、自らの進むべき道を模索する青年期の普遍的なドラマだが、「地下に潜りススだらけになる炭鉱作業の現実」と、「科学の知識を生かして無限の青空にロケットを飛ばすという夢」が対比になり、ドラマティックな効果を上げている。

そして、これがNASAの元技術者の自伝を原作とした実話だという。

実話だからエライとか、そういう話ではない。米国ならではのこうした逸話を、そのエピソードが持つ力を損なわず、ストレートに感動を呼ぶ作品へと結実させた脚本ルイス・コリック、そして監督ジョー・ジョンストンの仕事には最大限の賛辞を送りたい。彼らの仕事が、これを実話としての「あるエンジニアの青春ドラマ」にとどめるのでなく、「夢と希望を追いつづける意思とそのパワーについてのドラマ」に昇華したのである。

そう、あの『スター・ウォーズ』3部作、『レイダース』に大貢献した特撮マン、ジョー・ジョンストンですよ。この映画の監督は。本作のプロデューサー、チャールズ・ゴードンが『ロケッティア』の縁で起用したのだろうか。

監督としてはその『ロケッティア』の他、『ミクロキッズ』、『ジュマンジ』、そして『ロケッティア』。確かに、作品中で「飛ぶ」ことへの憧れや、その描写へのこだわりを見せる人だったとは思う。その男が今回、ロケットを飛ばし、空を見上げて、そこに憧れや希望を見出す映画を撮った。まさか、こういう青春譚を丁寧に描いてみせるとは。ユーモアを交えながら、軽くならず、重くならず、主人公の気持ち、その周囲の人々の気持ちとその変化を描出していく手腕は見事なものだ。

主演のジェイク・ギレンホール、彼が反目する寡黙な父親をクリス・クーパー、主人公を励ます教師にローラ・ダーン。クリス・クーパーは巧いなぁ。

人によって、この映画の感動ポイントは様々だろう。私などは、どうしても、この少年たちが大空を眺めたような視線ででこの映画そのものを見つめてしまう。米国という国の甘くはない現実と同時に、自分の頑張り次第で未来を切り開ける、そういうチャンスを与えてくれる国の姿を、どうにも羨ましく思うからだ。だって、高校生のお遊びのようなロケット作りが、NASAにつながる国なんだよ!

努力は必ず報われる、夢や希望を捨ててはいけない。いつかそれを実現させるために。手作りの小さなロケットが大空へまっすぐと飛び立っていく画面にはなんともいえない恍惚的な感動を覚える。

My Favorite Martian

ブラボー火星人2000(☆☆)

NASAの火星探査の及ばぬ先に火星人たちは先進の巨大文明を築いていた!TV局の冴えないプロデューサーの目の前に事故で落下してきた宇宙船に乗っていたのは紛れもない火星人。珍騒動の末、宇宙船の修理に協力することになったプロデューサーだったが、彼の周りには更なる騒動が待ち受けていた・・・という、60年代のTVシリーズ『ブラボー火星人』を元にディズニーが作り上げたリメイク(というか続編なのか?)である。

出演はちょっと豪華で、ジェフ・ダニエルズ、クリストファー・ロイド、エリザベス・ハーレー、ダリル・ハンナという面々。監督はダニエル・ペトリ。

映画会社としてのディズニーが本当に強いと感じるのは、長編アニメ大作や『アルマゲドン』のようなブロックバスターではなくて、本作のように比較的低予算で、とりたてて大きな欠点のないコメディを作り、市場が家族向け作品に飢えているタイミングにきっかりとリリースし、旨味のある商売につなげるところだったりする。

ダニエル・ペトリねぇ。前作『チャンス!』はインベストメント・バンキングにおける男性優位をサラリと批判して見せて、ちょっと面白いコメディだった。が、監督としては軽いコメディを中心に、可もなく、不可もなく作る役割を担っている人、という印象である。まあ、本作もそういう範疇。あんまり志が高くない脚本なりの出来栄えである。退屈だった『キャスパー』の脚本家チームの作だし。

映画の始まりは結構面白い。NASAの火星無人探査機のバッテリーが切れ、探査できなかったその先に火星の文明があった・・というのはジョークとして秀逸で、ヴィジュアル的にも笑ってしまう。ただ、実際に「火星人」と「喋る服」が地球にやってきてからは、低レベルなギャグが騒々しく展開されるだけだ。いやしくも1本の映画にするのであれば、もう少し気の利いたギャグのアイディアがいるだろう。

かなり粒が揃ったキャストの中でも、一番芸達者といえるクリストファー・ロイドが、「地球人形態になっている時の火星人」を演じているのだが、さすが、ドクター・エメット・ブラウン(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、この人の演技は、終始リミッターがぶちきれたような勢いで暴走する。そりゃあ、面白くはあるんだけれど、映画全体を騒がしく、落ち着きがないものにしてしまったな。

個人的には性格の悪い役を嬉々としてこなすエリザベス・ハーレーや、久しぶりに見たのに容姿が変わらないダリル・ハンナの鼻にかかった声とか、本筋とは違うところで楽しんだ。 関係ないついでだが、「G指定」とは云え『真夜中の呪文(アメージング・ストーリーズ』を髣髴とさせるクリストファー・ロイドの「ばらばら生首」が出てきて、これまたびっくり。血が流れないから?火星人だから?米国のレイティング・システムは偽善だよ、全く。

Blast from the Past

タイム・トラベラー 昨日からきた恋人(☆☆☆)

60年代初等、米ソ冷戦、キューバ危機、核戦争の恐怖の時代だ。ちょっとした勘違いから自宅の地下に作った核シェルターにもぐった一家は、産まれた赤ん坊に希望を込めて「アダム」と名づけた。35年の時が流れ、閉ざされた世界で生きてきた何も知らない好青年アダムが地上に出かけ一人の女性と知り合う。その名も「イヴ」だ。

一昔前、『ポリス・アカデミー』で一斉を風靡したヒュー・ウィルソン監督の、ナンセンス・ロマンティック時代錯誤コメディである。まあ、この人が監督するんだから、ロマンティック・コメディとはいってもドタバタ風味なのは言うまでもない。でも、単にそれだけでもない拾い物。

主演のカップル、アダムとイヴにブレンダン・フレイザーとアリシア・シルバーストーン。ブレンダン・フレイザーっつったら、もう、大きくて健康的な体と、比較的整った顔立ちで、おとぼけ、すっとぼけというキャラクターが持ち味だから、これ以上にはまったキャスティングはないだろう。

一方のアリシア・シルバーストーンは、いかにも現代っ子なんだけど、その実は裏側は純真なんだよね、という、これまた『クルーレス』に由来する彼女のイメージの延長線上のキャラクター。この人、あんまり演技が上手くないんだけど、ブレンダン・フレイザーの「ボケ」に、どう返していいのかわからず、ただただ呆れているリアクションがなんだか可愛い。

でも、本当に笑わせてくれるのは、主演カップルじゃなくて、そもそものきっかけを作った勘違い両親のほうだ。なにせ、主人公の両親を演じているのはクリストファー・ウォーケンとシシー・スペイセクなんだ。アカデミー賞受賞経験もあるこの二人・・・というより、二人揃うと、『デッド・ゾーン』の超能力者と、『キャリー』のテレキネシス少女という恐るべきカップルなんだよね。こいつはスティーヴン・キングも予想しなかっただろう。作品の裏の意図として、こんな二人の珍演・怪演をみせるっていうのがあったんじゃないか。本作の中で一番笑ったのは、35年間を地下で暮らしたことが、単なる自分の単なる勘違いだったことを知ったときのクリストファー・ウォーケンのリアクションだ。

映画全体でみると、本筋に入るまでの導入部分が長いんだが、名優というか怪優カップルのボケ演技で楽しませてくれるので、まあいいかという感じ。本筋に入ってからは時代のギャップや勘違いで笑わせるドタバタが展開されるが、繰り出されるギャグの質はまちまち。「I love Sushi」という台詞に反応したブレンダンが、発音が似てるってだけで「I love Lucy !」と返すギャグで笑えって云われてもな。

ただ、表面上はドタバタやっているんだけど、主演二人の気持ちが通っていくプロセスや、ヒロインの心情の変化をきちんと積み上げていくし、伏線を張りと回収、つじつま合わせなんかを律儀にやっていて、そこそこちゃんとしたロマンティック・コメディになっていたりするのは意外である。監督の個性を思えば、もっとハチャメチャな方向に持って行っても面白かったんじゃないかと思うが、どこか、この作品の底に流れる心優しさにホロリとさせられるものがある。

Message in a Bottle

メッセージ・イン・ア・ボトル(☆☆★)

ニコラス・スパークスっていうベストセラー作家原作。この人の本は空港の売店なんかでよく並んでいるのをみて名前を覚えていたんだが、かなりおおざっぱにいうと、泣かせの入った女性ごのみのメロドラマとか、ロマンスもの、いわゆる ”tearjerker” (お涙頂戴)な小説を 得意とする人という印象。

ケヴィン・コスナー主演作、コスナー自身と盟友ジム・ウィルソンに加え、ティム・バートン諸作で知られる女性プロデューサー、デニース・ディノヴィも製作に名を連ねている。これが女性映画だっていうのもあるんだが、ケヴィン・コスナーも、俺様的なワンマンの製作体制がつまづきの原因という自覚はあるんだな。

共演にロビン・ライト・ペン、ポール・ニューマン。監督に起用されたのが、メロドラマっぽいのが得意なイメージがあるルイス・マンドーキ。

「メッセージ・イン・ア・ボトル」っていうんだから、話は海辺に漂着していた1本のボトルと、その中に入っていた手紙ではじまる。ある男が、妻に宛てた手紙だ。発見したのは女性新聞記者。手紙を読んで、その誠実な心情の吐露に心を動かされた記者が、差出人を探していくと、二年前に妻をなくし、その過去にとらわれたまま日々を送るノースキャロライナの海辺の町に住むヨット職人にだどりつく。

お察しの通り、ヨット職人がケヴィン・コスナーで、女性記者がロビン・ライト・ペン。この二人の、なかなか前に進展しないロマンスがグズグズと展開されるという話である。ポール・ニューマンはケヴィン・コスナーの父親役。

久々にケヴィン・コスナーの良いところが出ていて、ヒロインと少年少女のように戯れるシーンなどは、女性ファン的には心が少しときめいたりするんじゃないかな。一方のロビン・ライト・ペンが演じるヒロインは、離婚を経験し、子供を抱え、仕事もこなす自立した女性。そんな女性が、恋の魔法で女の子のような笑顔や泣き顔をみせるところが可愛いのである。女性観客の、そういう素の自分に戻りたい願望みたいなものを、嫌味にならずに体現できているように思うんだけど、どうだろう。

個人的には久々に見るような気がするポール・ニューマンが良かった。登場時間の短い脇役だっていうのがもったいない、ユーモラスな余裕のある演技で、映画をビシッと締める流石の貫禄。

ルイス・マンドーキは、ポール・ニューマンのキャラクターを始め、脇役やちょい役を丁寧に扱っていて、男女二人のよろめきドラマにプラスアルファの膨らみをもたせている。あと、あまり台詞に頼らない演出をしている。ケヴィンが亡くなった妻の持ち物を、当時のまま一寸も動かさずに置いてあるという設定なのだが、ロビン・ライトがそれを動かしてしまったとき、何も云わずにひとつひとつ丁寧に元の場所に戻すケヴィンの手もとをアップで見せるのね。ここなんかは思わずグッときた。

大人の恋は必ずしも成就する訳ではない。若さ溢れ、ハッピーエンドに向けて突っ走る青春恋愛ものと違い、人生の半ばを迎えてそこから新しい自分を見つけて再出発しようともがいている男女の、ビター・スウィートな物語。さて、これでケヴィン・コスナーはかつての人気を盛り返すことが、、、、できないよなぁ、多分。とりあえず今回は、女性ファンに対して目配せしてみましたっていうところで。

でもさあ、主演二人の会話シーンで、車(金色のカムリ)のドアがカットによって閉まったり開いたりしているような大きなミスがあると、さすがに気が散っちゃうんだよね。

2/05/1999

Simply Irresistible

バニラ・フォグ(☆☆)

主人公がNYの下町で母親から引き継いだ小さなレストランは経営危機に瀕していた。そんなおり、不思議な「カニ」(?)の取り持つ縁で、高級デパートの若きエグゼクティヴと恋に落ちる。主人公の作る料理と恋の魅力は抵抗不可能(irresistible)だった、という、なんだかへんてこりんだが、一応、ロマンティック・コメディ、な感じ。

現在、全米第5のネットワーク、WB系で放送中の人気番組『バッフィ・ザ・ヴァンパイア・スレイヤー』で人気の出たサラ・ミシェル・ゲラー主演作。相手役に、元「ヤング・インディ・ジョーンズ」のショーン・パトリック・フラナリー。なんだかTV的なスケールだな。

作品の雰囲気だが、基本的にバカ映画だと思ったほうがいいんじゃないか。ロマンティック・コメディといっても幅広いけれど、一番近いのは『マネキン』とか、あんな感じ?過剰演技のコミック的演出だ。最初は「コミカルなファンタジー」を目指しているのかと思ったら、実は大バカなノリで、思わず椅子からずり落ちたよ。

もちろん、こういうのもキライじゃないんだけどな。

基本の筋立ては、シンデレラものの変種である。何しろ「魔法」がかりなので気持ちいいくらいに偶然が重なってあっという間に恋に落ちる二人。主人公は急に料理の腕前が上達し、彼氏のデパート内にある高級レストランのシェフに抜擢される。定番どおりに持ち上げ、いったん落とし、最後は幸せな結末にむかって一直線。

この映画では「魔法にかかったような料理」が話の核だが、これを口にした人々がメロメロになる描写はかなり妙ちきりんで、なんでこうなっちゃったんだろう、と不思議に思う。よくある料理マンガで、料理を口にした人が涙流して感動したり踊り出したりするようなシュールな世界を、そのまま実写映画で見せられてしまうようなものだ。それが、段階を追って次第にエスカレートしていくんだからスゴい。

それに通ずるものなのだが、劇中、高級レストランのオープンにあたって、床の内装が「MGMのミュージカルみたい」という台詞がある。そうだ、これは丁度ミュージカルの非現実感やファンタジー感、唐突に唄い出すような(奇妙な)感覚だろうか。それが、なんだか憎めない理由なのかもしれない。そういうの、好きだもの。

整った顔立ちのショーン・パトリックだが、これをみて意外にコメディが合っているかもしれないと思った。一方ヒロインのサラ・ミシェル・ゲラーの役回りは、サンドラ・ブロックあたりが得意そうなキャラクターだ。少々安っぽいカンジがするのがこの人の欠点だが、小柄に見える体格を活かして溌剌と演じていて気持ちがいい。まぁ、そろそろTVから映画へのトランジションに成功しそうな気配がある。

「恋のきっかけを作る不思議な男」についても、「謎のカニ」についても、とくに種明かしをしようという気がないらしい。普通だったら、なんじゃそりゃ、というところ。本作が監督デビューになるマーク・ターロフ、本職はプロデューサーらしいのだが、なんだかしっちゃかめっちゃかで、こちらの才能はあまりなさそうだ。

Payback

ペイバック(☆☆★)

『L.A.コンフィデンシャル』の脚色で一躍その名を轟かせたブライアン・ヘルゲランドの監督デビュー作は、メル・ギブソン主演のピカレスクもののハードアクションである。現金強奪が成功寸前に、思わぬ裏切りにあって瀕死の重傷を負った男が、、一命を取りとめて、俺の取り分を返せとばかりに裏切った相棒と金の行方を追う。主人公も悪党だが、他のヤツらはもっと悪党だ。

脇を固めるのは、ジェームズ・コバーンやクリス・クリストファーソンらの強面。他にデボラ・カーラ・アンガー、ルーシー・リュウらが共演。

大した映画じゃないし、好き嫌いもあるだろうが、個人的にはわりと楽しめた。ひまつぶしには悪くないよ。

モノローグを多用した「ハードボイルド」風、一人称で語られている作品である。その主人公を、暴走したら止められない危険な男、その目に宿した狂気の光が似合う男ナンバー・ワンのメルが演じているんだから、それだけである程度の面白さは保証されている。そうそう、最近生ぬるくなっちゃっていたけど、こういうメルがみたいんだよ。

ただ、映画全体としては弾けそこなった感がある。なんだか小さくまとまってしまっているんだよね。製作規模や起用されたスターのランクからいえば、それなりの大作感も必要だと想うのだが、場末の映画館の2本立ての1本が似合うような雰囲気なのだ。まあ、そういう映画の伝統の上に則ったジャンル映画なんだから、まさに狙いぴったりといえばそうなんだけど。

この映画のユニークなところは、ヴァイオレンス描写の在り方だと思う。最近、監督やスターの米国進出もあって、ハリウッド・アクションに「香港風味」が随分と幅を利かせている。メル・ギブソン主演作ひとつとっても、『リーサル・ウェポン』は回を追うたびにそういう傾倒が強くなってきて、当初のリアル・アクションはどこへやら、マンガっぽいアクションへとスタイルを変えてきたのは御存知の通り。

そんな風潮の中で、この映画のヴァイオレンスの見せ方はかなり異質といえる。リアルで、突発的で、痛みを伴うその描写は、ハリウッド映画的な基準で見れば、かなり新鮮である。いってみれば、「北野武」風味が入っている感じだ。R指定上等といわんばかりに、殴る蹴るの一挙一動が「唐突」で、しかも「痛い」。ましてやそんな場面で笑いを取ってしまう「間」の取りかたや、随所の省略の利かせ方。無感覚に人がたくさん死んでいくハリウッド流とは明らかに違うテイストだ。

本作の欠点は、存在感のある男優たちに埋もれて、女優たちに見せ場がないことだ。ハードボイルド風、はよいのだけれど、やはりそこに魅力的な女優は欠かせないはず。デボラ・アンガーはそのポジションには十分な雰囲気を持った女優だが、出番が少なすぎて少々気の毒だった。もう一人、TVでの人気を背景に映画に進出しつつあるルーシー・リュウが「とんでも」なキャラクターを好演して一人で美味しい所をさらってしまったが、これは飛び道具の部類であって、ヒロインとは違うんだよな。