6/30/1999

Wild Wild West

ワイルド・ワイルド・ウェスト(☆)

南北戦争でも活躍した喧嘩っ早い早撃ちの名手と、変装が得意な発明家である連邦保安官が、大統領グラントの命を受けてマッド・サイエンティストの野望を阻止せんと活躍するというお話し。60年代のヒットTVシリーズのリメイク映画化で、主演の2人にウィル・スミスとケヴィン・クライン、悪役にケネス・ブラナーをキャスティング。製作・監督はウィル・スミス主演で大成功をおさめた『メン・イン・ブラック』のバリー・ソネンフェルドである。

この映画、実のところ、今年もっともカネのかかった大作ではあるが、これはまずいだろう。何をどう楽しんだら良いのか分からない。製作側の狙いは「コメディ」である。そこに最初の掛け違いがあったのではないか、と思う。試写で「コメディ」と認識してもらえずに追加撮影が発生したなどと伝え聞く。完成品は出来の悪いアクション・アドベンチャーであり、笑えないコメディなのである。

ソネンフェルド監督は、独特のオフビートなテンポで展開される笑いの感覚が特徴的な、「コメディ」の監督である。撮影監督あがりなので、洒落た小話を絵で見せて連ねていくような作品には向いているが、この人のスタイルからすれば、あまり大作には向かない人だと思っている。

そういう彼の笑いのセンスが、軽妙なウィル・スミスと、デッド・パンのトミー・リー・ジョーンズというコンビの妙、ジョークを連ねて次第に大掛かりにエスカレートしていくような脚本構造の妙で、化けたのが『メン・イン・ブラック』という作品だった。その奇跡を再現しようというのが本作だという狙いはわからんでもない。

しかし、本作でコンビを組む、ウィル・スミスとケヴィン・クライン、これがどうにも相性が悪い。ウィル・スミスがアクション・スターであれば、相方が軽妙に笑いを取ればいい。しかし、軽妙さが売り物のウィル・スミスの相棒として、ケヴィン・クラインがいくら達者な役者でも軽すぎて収まりがつかないのである。それなのに、この二人が競うようにボケまくる脚本ってのは、どこか根本から間違っているんじゃないかと思う。その上、リミッターの外れて躁状態のケネス・ブラナーが絡んでくるっていうのだから、もう、ワヤクチャである。

じゃあ、せめて話が面白いのかというと、そうではない。もともと、「コメディ」が狙いのこの映画では、面白いジョークを展開させるためにのみストーリーが存在する。それが裏目に出て、ストーリーそのものは面白くもなんともない。作り手の狙いとは違うのかもしれないが、サマー・ブロックバスターとしてのアクション・アドベンチャー的な要素を期待した観客は、あまりのことに憤然とすると思う。ある意味で、大ベテラン、エルマー・バーンスタインが書いたスコアだけが、どこか正攻法なウェスタン・アドベンチャーの香りがするのだが、本来、この正統派の音楽そのものが「ジョーク」になるっていうのがあるべき姿だったんだろうなぁ、と、想像する。

唯一の見所は、最終兵器として登場するジャイアント・スパイダーのデザインだろうか。これは結構な力作である。近代重工業的、インダストリアル・レトロフューチャー(?)とでも呼ぶしかない奇怪で複雑なメカニックが、これもまた蒸気機関のようなエネルギー源で8本脚を動かして歩く様はなかなかのもの。その動きにも愛嬌があるのがなかなかよい。でも、これって予告で見ちゃったしなぁ。

脚本の担当としてあまりにもたくさんの名前が連なっている映画は、経験的に云って大方が駄目映画であるが、この作品のクレジットはなかなか壮観だ。『ショート・サーキット』や『トレマーズ』のコンビ、ブレッド・マードック&SSウィルソンと、『ドク・ハリウッド』や『ロジャー・ラビット』のジェフリー・プライス&ピーターSシーマン。『プレデター』のジム&ジョン・トーマスが揃い踏み。こんなメンツを揃えて、何度も何度も書き直しがあったんだろう。そのうちに、企画のツボがどこにあるのやら、わからなくなってしまったんじゃないかね。

6/28/1999

Big Daddy

ビッグ・ダディ(☆☆☆)

ここのところ、絶好調の売れっ子コメディアン、アダム・サンドラーの新作は、これまでと少し毛色ガ違うけれども、やはりアダム・サンドラーらしい作品になっている。もともとはコロンビア映画からの持ち込み企画を、アダム・サンドラー自身とティム・ハーリヒーでリライトし、これまたおなじみのデニス・ドゥーガン監督で映画化したものだ。

本作でサンドラーが演じるのは、ロースクールを卒業しながらも気ままな生活を好み、NYの高速料金徴収係をしている30過ぎの男である。そんな彼に愛想をつかしたガールフレンドに振られたことをきっかけに、「責任感のある大人」であることを証明しようと、たまたまアパートに転がり込んできた子供と養子縁組してしまうのだが、自分一人の面倒もろくに見られない男が子供の面倒を見られるはずもなく、大騒ぎになるという話。擬似親子モノ、とでもいうか。

仲間内でつくるアダム・サンドラーの映画は、その都度監督やスタッフが少しずつ違っても、どれも共通するテンポやテイストを持っている。だから、脚本家や監督の映画である前に、まず間違いなく「アダム・サンドラー」の映画になっているというのが大きな特徴である。そして、彼の得意とするキャラクターのいろいろな側面を見せられるよう企画を選び、自分のファンに変わらぬアピールをしながら、活躍の幅を広げてきている。幼稚一辺倒のバカ映画から、純情でロマンティックな映画まで、気がつけば守備範囲がいつのまにか広がっている。
母親を失い、本当の父親の元を訪れるつもりで現れた就学年齢すれすれのような子供と、幼児性を剥き出しの「大人になれない大人」を組み合わせるアイディアそのものは、さして珍しくはないかもしれないが、これが、アダム・サンドラーの映画であるところがポイントだと思っている。つまり、「大人になれない大人」はサンドラーの持ちキャラクターそのものであり、彼が大人(あるいは大人になろうとする男)を演じるのは、事実上これが初めてだ。

これは映画の中で主人公が大人へと目覚めるだけでなく、コメディアンとして、俳優としての、アダム・サンドラーのイメージを大きく広げることを意味している。ことに、本作は若い観客を主要なターゲットにした『ウォーターボーイ』のあとだから、この意味は大きい。この映画で、彼と同世代あたりまでの、「大人になりきれない大人」まで観客層を広げることができるだろう。

自分で脚本を書いていて、ハードワーカーであることも知られるサンドラーのことだから、そういう色々な計算を念頭において映画作りをしているのはほぼ間違いあるまい。しかし、この男、計算高いというイメージではない。スタッフにも、キャストにも、仲のよい友人や古くからの仲間を集めて、和気藹々と映画を作っている風情であったり、ゲイのカップルや浮浪者、移民などをギャグとして笑いの対象にしつつ寛容(というか、その他と等価)な扱いをするところであったり、「幼児的で突発的に凶暴性を発揮するキャラクター」を得意とするにしては、人柄の良さがいたるところに滲みでてくるところが、どうにも憎めない。

本作、映画としてはドタバタ一辺倒ではなく、一応筋がしっかり通っている。あくまでコメディの枠の中でという前提ではあるけれど、子供との絡みでは時折繊細な演出と演技をみせるので、最初からシリアスなドラマを目当てにする観客はいないと思うが、でウェルメイドな一本として、上映時間をきっちり楽しませてくれる。サンドラーにとっては重要な転換点になる作品ではあるが、次はまたとんでもないドタバタに振ってきそうな気がして、それはそれで大いに楽しみである。

6/25/1999

General's Daughter

将軍の娘 エリザベス・キャンベル(☆☆)

ジョージア州の陸軍基地内で、女性大尉の惨たらしい全裸暴行死体が発見された。彼女は退官を目前にした人望の厚い将軍の娘であったため、外部に公表されないよう、軍隊内部での独自調査が進められることになるが、誰も想像し得ない驚愕で残酷な真実が明らかになっていく・・・という、ネルソン・デミルのベストセラー軍隊ミステリー小説の映画化。新人クリストファー・ベルトリーニとベテランのウィリアム・ゴールドマンが脚色し、『コン・エアー』のサイモン・ウェストが監督。出演はジョン・トラボルタ、マデリーン・ストウ、ティモシー・ハットン、ジェームズ・ウッズ、ジェームズ・クロムウェルら。

残念ながら、あんまり面白くない。売れた原作と、ベテラン俳優の「顔」があればなんとかなるとでも思ったか。

猟奇的レイプ殺人。誰がやったのか。何故やったのか。外部からの介入の前に事件の真相を明らかにしなければならないプレッシャーの中で、調査官は謎を追っていく。男社会の典型である軍隊において、将軍の娘であり、有能な士官として生きる難しさや、父親と娘の関係を背景とした愛憎。これ、本来、ミステリーとしての面白さと、重たいドラマやテーマが絡んでいるはずの話だと思うのだが、映画はミステリーとしてはちっとも面白くないのに加え、微妙な題材を見せもの主義的・商業主義的に扱うデリカシーのなさで、見る人によっては不愉快に感じるかもしれない。

そもそも、脚色がうまくいっていないのではないか。原作を刻み込んだが為に生じたと思われる、本筋に直接絡んでこない無駄な設定やシーンが多いし、焦点がどこにあるのか良く分からない。私のように原作を読まずに映画を見ている人間にしてみれば、こんな退屈な話なのに、どうしてベストセラーになるのか不思議に思うほどである。

もちろん、それを預かる演出も悪い。サイモン・ウェストは、カッコが良く刺激的な映像をスピーティにつないでいくことにしか興味がないように見える。この過剰な絵作りは正直云って鼻につくばかりで、ドラマに貢献していない。短いカットを落ちつきなくつなぎ、役者たちの熱演・怪演を寸断する。そして、映画は最後まで、登場人物の心理に深く踏み込むことなしに終わってしまう。

ジョン・トラボルタやジェームズ・クロムウェルは、そもそも大きな役であるし、そこに立っているだけで存在感を出せるからよいとして、MPを演じるティモシー・ハットンや、主人公のパートナーを演じるマデリーン・ストウのキャラクターは描きこみが足りず、ことに後者など、存在しなくても物語的に大差がない程度の無駄遣いで可哀想だ。男ばかりの軍隊の中で捜査を進めて行く女性として、「将軍の娘」の立場とダブらせるなど、活かし方があったのではないだろうか。役者としては、相変わらずパワフルな怪演で場面をさらうジェームズ・ウッズが得をしている。

6/18/1999

Tarzan

ターザン(☆☆☆)

ディズニー長編アニメーションの新作である。船の難破によって未開の地に置き去りになったイギリス人家族。両親の死によって残されたのは幼い赤ん坊一人だけ。ゴリラたちに愛情深く育てられ、やがて逞しい青年となったターザンは、ジャングルにやってきた霊長類研究者の一行と出会う。

監督はクリス・バックとケヴィン・リーマ、ともに長編の大作を任されるのは初めてである。ターザンの両親代わりになるゴリラの声をランス・ヘンリクセンとグレン・クローズが演じるほか、ミニー・ドライヴァーやロージー・オドネルが声の出演をしている。音楽はマーク・マンシーナ、歌曲はフィル・コリンズが担当。

ディズニー・アニメの実力と限界の両方を思い知らされる作品、とでもいおうか。実際のところ、導入部からターザンの成長を描く前半までの出来映えは脚色、演出、アニメーション、音楽ともども絶品だと思う。が、ジェインらの一行が登場してからは、少なくとも大人の観客をがっかりさせてしまうことと思う。

オープニングの手際の良さは特筆に価する。ターザンが森の中にいること、ゴリラが親代わりになって育てたことの必然性を、短い時間で的確に説明してみせるだけでなく、そこにドラマすらを盛りこんでいる。また前半部分、ターザンの成長過程では、ゴリラの集団の中で一人だけ異質であることの孤独、父親や仲間に受け入れられようとする健気な努力などがキッチリと描かれているし、登場するキャラクターたちもなかなか魅力的だ。ジャングルの描写は神秘性には欠けるきらいがあるものの、美しく迫力がある。そこには、アニメならではの動的な魅力と圧倒的なスピード感がある。

ところが、ある種、傑作の予感すらさせる出来映えだった映画は、途中から一気ににしぼんでいく。もちろん、悪人が最初から悪人面していることなど、ある程度お約束と思われることもあるのだが、それを含めてジェインと父親たち一行の薄っぺらな描き方は酷い。ターザンのドラマがしっかり描けているだけに、その貧相さが際立ってしまったようだ。

特にジェインの父親は、近年のディズニー作品でもよく見られた、人間としての最低限のリアリティと父性に欠けた子供っぽい父親で、存在感がないばかりか物語に何の貢献もしない。これをきちんと「大人」のキャラクターとして描けるようにならないと、ディズニーのアニメは先に進めないと思う。おかげで後半の善と悪の対比も、ドラマも、全く盛り上がらず、スピード感のあるアニメーションが上滑りしている。「子供向きだから」という思い込みと甘えをここに見る。

「ミュージカル」形式を捨てて、フィル・コリンズの歌曲を「語り部」として使う手法は、古典的ミュージカルに対して、いってみれば『フットルース』のような感じ、とでも例えようか。こういう新しい挑戦は大いに歓迎したい。もしかしたら、これが本作で一番の収穫かもしれない。

子供向きだからといっても手抜きをしない真剣さが感じられた前半と、子供向きだからこの程度で良いだろうという手加減が明白な後半で、天と地ほどの差がでた仕上がりである。これは非常にもったいないと思う。

6/11/1999

Austin Powers: The Spy Who Shagged Me

オースティン・パワーズ:デラックス

タイムマシーンで過去に戻り、宿敵オースティン・パワーズの"mojo" を奪ったDr.イーヴル。不能になってしまったオースティンも彼を追って過去に戻り、月に建設された ”レーザー”によって再び人類を恐怖のどん底に陥れようとするイーヴルと対決する。

・・・というお話しなんか、もはやどうでも良くなってくる大ヒット作、『オースティン・パワーズ』の続編である。主演のマイク・マイヤーズ自身の脚本、前作と同じジェイ・ローチ監督で、主要な脇役は皆続投。新ヒロインとしてヘザー・グラハムが登場。若き日のNo.2としてロブ・ロウも出演している。タイトルは、「私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me)」のパロディだね。

マイク・マイヤーズは続編づくりにはあまり乗り気ではなかったらしい。ウェインズ・ワールドの時も、周囲が相当無理強いしたという話もきく。実際のところ、続編を作るのは本当に難しいものだ。この作品も、完成度とオリジナリティは確実に前作の七掛けだ。

そうはいっても、大笑いして楽しいひとときを過ごすことはできる。なにせ、前作で確立されたキャラクターとシチュエーションがあって、その上に反復し、エスカレートしていくギャグが乗ってくるのだから、そこには「続編」としての固有の面白さがある。

イーブルと息子の愛憎は愉快だし、No.2の悲哀も相変わらず笑える。エリザベス・ハーレイのようなゴージャスな美女ではないが、変顔なヘザー・グラハムは愛らしい。「60年代では通じない現代一発ギャグ」、「ミニ・ミー」、しつこいくらいの下ネタの反復、あっと驚くゲストスターたちの登場、そのサービス精神似は頭がさがる。オリジナルの挿入歌やスコアが前作同様、遊び心満載で、それも作品のレベルを下支えするのに貢献している。

が、ギャグが全てに優先され、ストーリーが散漫になっているのは事実である。ストーリーの中でギャグが展開されているのではない。ギャグをやるためにストーリーがあるのだ。そこは、曲がりなりにも「60年代スパイもののパロディ」という骨格があった前作とは最も異なるところである。

前作では、主人公の存在や、物語の組み立てそのものが、過去の作品群やカルチャーに対する愛情と鋭い批評精神の発露であって、そこが単なる「バカ映画」と一線を画す点であった。が、今回の作品は、表面上は前作と似ているけれども、結果的に前作で確立してしまった世界を使って遊んでいるだけなのだ。そこには最初の作品が切り開いた独特の面白さは、もはやない。

まあ、そうはいっても、ありとあらゆるナンセンスが不思議と収まるところに収まって、危ういところでバランスを保っているのが本作だと思う。作品に人気と勢いがある今だから、成立する作品であろう。

6/04/1999

Instinct

ハーモニーベイの夜明け(☆☆)

アンソニー・ホプキンス演ずる高名な霊長類の研究者が、アフリカに調査に行ったまま2年の間行方不明になっていたのだが、何人ものアフリカ人を虐殺した精神異常の殺人者として逮捕され、米国に移送されてくる。キューバ・グッディングJr扮する精神分析を専門とする野心的な主人公は、一言も喋ろうとしないこの男の強暴性や狂気がどこから発しているのかを解き明かして自らの名を売ろうとする。

一応、心理サスペンスの衣を纏った人間と友情のドラマである。ダニエル・クインの小説『Ishmael』を土台にした映画化だという。しかし、なんでこんな企画が通ってしまうのだろうかと、不思議に思う。話に新鮮味はなく、何の驚きもない。焦点を絞り込めず迷走する脚本。どこかの映画で見たようなシーンの寄せ集め。

もしかしたら、アンソニー・ホプキンスをキャスティングするから、そういう印象が増幅されるのかもしれない。もしかしたら、相手役のキューバ・グッディングJrが、一応はアカデミー賞俳優だとはいえ、似合わない役を背負わされて窮屈に見えるからかもしれない。

監督のタートルトーブは、『クール・ランニング』や『あなたの寝ている間に』などのコメディの佳作で注目を集め、前作『フェノミナン』では作品の幅を広げたように見えた。これまでも、脇役にいたるまでの丁寧な人物描写が持ち味だったが、そこは本作でも変わらず、刑務所仲間や脇役をしっかりと描こうとしている。そのおかげか、残忍な刑務所長を演じるジョン・アシュトンからは、これまでのイメージを覆す好演を引き出した、とすら思う。が、この映画、本作のキモであるべき、主役二人の心理にちっとも迫って行かない。寄り道の多い脚本にも責任はあるだろう。

不思議なのは、それほど出来の良い映画ではないのに、見応えがあったような錯覚すら覚えてしまうことである。それはひとえに、名優アンソニー・ホプキンスの圧倒的迫力のせいだろう。同じアカデミー賞俳優でも格が違うといわんばかりに、もうひとりの主演キューバ・グッディングJrを食い散らかしてしまう存在感である。凶暴性と悲劇性を同時に体現する彼の演技は全く素晴らしい。

それゆえに、なぜこれほど素晴らしい俳優が、この程度の映画で、「ゴリラと生活をともにした男」を演じていなくてはならないのかと残念に思うのである。ついでにそのゴリラを製作したのが迷作『コンゴ』も手掛けた大御所スタン・ウィンストン。並居る才能がこんな企画で時間を浪費しているのは如何にももったいない。