1/23/2011

Due Date

デュー・デート 出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断(☆☆☆)


『ハング・オーバー』の大ヒットで第一線に飛び出したトッド・フィリップスの新作。前作がそこそこ話題になったからといって、こんなに拡大して大丈夫かちょっと心配ではあるのだが。まあ、昔からコメディ映画に冷たいとはいっても昨今の冷遇ぶりは目に余るものがあるので継続的に新作が紹介されること自体は大歓迎だ。

ただ、本来ならチラシに書いてある宣伝コピーのようなのを、そのままタイトルにつなげるのはヤメにしてもらいたいね。

こんな話。5日後に妻の出産予定を控えたロバート・ダウニーJrが、出張先のアトランタから自宅のあるLAに向かう飛行機に搭乗しようとしたところ、トラブルに巻き込まれて搭乗拒否リスト入り。財布からIDから全てを持たぬ状態で放り出されたロバート・ダウニーJrは、嫌々ながらトラブルの元凶でもある疫病神、ザック・ガリフィアナキスの借りたレンタカーに同乗するのだったが、次から次へと思いもよらぬトラブルが発生していく。そんな、凸凹コンビ・アメリカ横断の旅、だ。他の出演者として、ミシェル・モナハン、ジェイミー・フォックス、ジュリエット・ルイス、チャーリー・シーンも顔を出している。

飛行機に乗れなかった主人公が、迷惑男にいらいらさせられながら呉越同船の珍道中という物語といえば、なんといっても故ジョン・ヒューズのヒット作でスティーヴ・マーティンと故ジョン・キャンディ共演の『大災難P.T.A. (Plains, Trains and Automobiles) 』を思い出す。珍道中もののパターンなんて限られているとは思うのだが、それを差し引いてもこの2作はとてもよく似通っている。「迷惑男」が悪意のない天然系であること、次第に冷たく当たる主人公のほうがイヤな奴に見えてきたりすること、終盤にはホロリとさせるポイントを用意していること、など、など。同行する男二人が相互理解と友情を深めていく「ロード・ムーヴィー」としての基本に留まらぬ類似点が満載である。先行する作品として参考にしていないわけがあるまい。

そういう目で見ると、両作の違いもまたハッキリとする。コメディアン共演だったあちらに対し、こちらはコメディも得意とする演技派の共演である。基本的に人畜無害なギャグが中心だったあちらに対し、強烈だったり下品だったり危なかったりするギャグに積極的に踏み込んでいくこちら。それが80年代終盤と、現在を隔てる20年超の時代の空気の差なのだろう。ジョン・ヒューズとトッド・フィリップス、異なる作り手の個性の差であることも容易に察しがつく。あれはあれ、これはこれとしてそれぞれに楽しいが、本作、最後の最後に互いが互いの秘密を告白して以降の処理があまり上手くない。いや、だって、あんな事実がわかったあとでザック・ガリフィアナキスを許せないだろ、普通。

ロバート・ダウニーJrとザック・ガリフィアナキスのコンビはなかなか面白い。薬物ネタを平気でやってくれるロバート・ダウニーJrも笑えるし、そんな奴いないというキャラクターに真実味を与え、しかも観客に嫌われないようにしなくてはならない難役をこなしたザック・ガリフィアナキスの力量と個性は貴重だ。大スターたちの顔見せも楽しいが、ジェイミー・フォックスの、どこまで信頼できるか分からない得体のしれなさに着目したキャスティングは素晴らしい。ミシェル・モナハンのカースティ・アレイ化が少し気になるのだが、まあ、よしとしよう。

1/21/2011

The Social Network

ソーシャル・ネットワーク(☆☆☆☆★)

主人公がルームメイトに「Facebook」のアイディアを語るシーンで登場する「カリビアン・パーティ」のイけてなさには本当に涙が出たね。あれほどまでに「自分を入れてくれるようなクラブのメンバーにはなりたくない」という言葉がしっくりくる情景なんて、そうそうあるものではないだろう。

まあ、それはさておくとして。

この映画で描かれているのが事実と違うであるとか、偏った視点からザッカーバーグが嫌な奴に描かれているとか、フェイスブックを作った動機が違うとか、ついでにいえば、脚本家がインターネットもフェイスブックも全く理解しておらず興味すら持っていないとか、女性差別的な思想を持っているとか、そんな議論は全く意味を成さない。だって、まさに「真実は藪の中」なのだから。

この映画は、主人公であるマーク・ザッカーバーグが2つの訴訟を抱えているところを起点に物語の幕を開ける。ひとつの訴訟は、主人公にSNSサービス系のサイト構築を依頼した双子の兄弟で、アイディアの盗用だと訴えている。もうひとつの訴訟の相手は、かつての主人公のルームメイトだ。創業時のパートナーでCFOでもあったが、会社が大きくなる過程で排除されたことを裏切りとして腹を立てている。

主人公を含めた三者それぞれの立場と主張があるわけだが、この映画は、それぞれの主張を通して過去の出来事を順に振り返っていくという構成をとっている。ここでポイントになるのは、あくまで当事者それぞれの「主観」であって、本当にそのとおりだったのかなぞ、分かったものではない、ということだ。頻繁に登場する被写体深度が浅い(特定の焦点があった箇所以外はボケている)映像は、主観性を端的に表現したもののようにも感じられる。映画で見せられたことは、登場人物の誰かにとっての事実であって、それ以上のものではない。挿入されるイケてる乱痴気パーティの光景なんか、主人公の妄想かもしれない。

もっといえば、一応の原作とされるノンフィクションと同時進行で脚本を創り上げていったアーロン・ソーキンの「解釈」と、それを土台に映画に仕立て上げた監督デイヴィッド・フィンチャーの「解釈」とのあいだにも差異がある。そうしたどちらとも受け取れるような微妙なニュアンスは、そのまま作品に反映されている。だから、普通の映画以上に、映画に向かい合う我々観客の側にも解釈の余地がある。そういう映画の意図的な構造がとても面白いし刺激的だ。

同時に、ものすごい密度の会話劇である。フィンチャーは、これをトレント・レズナーの力を借りた完璧な音響と、隅々までコントロールされた完璧な映像で包みこんだ。誰かの発する台詞以上に、その台詞に対するリアクションや、台詞が飛び交う時間と空間が意識されている。21世紀初頭、誰かのアイディアが凄まじいスピードで世界を席巻していく、この時代の空気、コミュニケーションのかたち、この時代を動かす資本主義の断層、この時代そのもの。会話劇でありながら、音と映像でもう一人の主人公である「時代」を表現してみせるフィンチャーの非凡な力量は圧巻である。

そこで描き出される物語は、決して単純なサクセスストーリーなんかではない。これは、孤独な天才の青春と、彼をとりまく人間(=Social Network)たちの織り成す群像劇なのである。この映画を凄い、と思うのが形式や表現であるとすれば、この映画を好きだと感じ、心が動くのはこのドラマゆえである。それぞれの才能、強さと弱さ、痛みと悲しみを抱えた人間たちが、何かものすごい出来事が起こっている渦中の熱狂と狂騒に飲み込まれ、利用し利用され、傷つき、対立するに至る悲喜劇。そして、優れた青春ものの先例にもれず、キャンパス・ライフや社会を貫徹するカルチャーや価値観、ヒエラルキー、それが引き起こす感情についての、客観的であり、批評性を込めた考察にもなっている。事実ではないかもしれないが、何か、確実に真実に近いところに迫っていると思うのは、この映画のそういう側面だったりする。

最後に苦言を呈したいのは、SONYの仕掛けたあまりにも露骨なプロダクト・プレイスメントである。あんなに誰も彼もがVAIOを使っているなんて、妄想でもなければ単なるファンタジーだ。これには正直、反感を覚えた。逆効果としかいいようがないだろ、あれじゃ。

1/10/2011

Unstoppable

アンストッパブル(☆☆☆★)

危険な貨物を積載して無人で暴走する巨大な貨物列車を止める。その一点だ。そこに焦点を絞り込んで99分の尺にまとめあげられた本作は、あまり立派な映画にしようと欲張るのではなく、分相応というのか、そのシンプルな作りが大きな魅力である。『トップガン』から数えて25年も娯楽映画の第一線を走ってきたトニー・スコットが、悪い手癖ともいえるぐちゃぐちゃ映像加工とガチャガチャ編集を抑え(気味にし)て「走る巨大な鉄の塊」とそれを止めようとする男たちを描く、スリルと迫力の好編である。

描かれる事件の発端はいかにもありそうな現場の怠惰である。いくつかの偶然が重なって人間の手を逃れてゆっくりと走り始めた巨大な貨物列車は次第にスピードを増し、手がつけられない状態になっていく。本社主導で実行される対策は次々と失敗。たまたま本線上に居合わせたベテラン機関士らがとっさの機転で貨物列車を追う。行く手に高速では絶対に曲がりきれない大きなカーブと、愛する家族らの暮らす町が迫ってくる。止められるか。間に合うのか。

真実から生まれた、などと(敢えて誤解を呼ぶ表現で)宣伝されている本作だが、2001年にオハイオ州で発生したCSX8888号暴走事故に着想を得(inspired by true events)た「フィクション」である。事故そのものは比較的有名で、日本でもTV番組などでも紹介されたことがあるそうだ。その事件をそのまま映画化したのではなく、舞台を近隣のペンシルバニア州に移しているほか、全般的に映画的な(=手に汗握る)誇張と脚色が加えられている。

この映画の主役はともかく「列車」だ。全てを蹴ちらして走り続ける貨物列車は、ある意味で『激突』のトレーラーにも似た不気味さとふてぶてしさで、走り出す前から不穏な佇まいを印象付ける。40両近くをつないだ全長800メートルを越えるこの貨物列車の巨大感、重量感、圧倒的なパワーを感じさせるため、ありとあらゆるアングルから捉えた映像をテンポよくつないで見せていくあたりはトニー・スコットの真骨頂といったところ、なによりもこれが見所である。米映画ならではのすごい効果音、音響効果も相まって、これを劇場で見ずして何を見るのか、といいたい迫力の仕上がり。もともと横に長くのびる列車という題材は、横に画面の長い映画というフォーマットと相性が良いのだけれど、本作はそのことを改めて教えてくれるだろう。

それにくらべると、人間側の描写には重みが置かれていない。そのかわり、限られた出演時間のなかでもキャラクターを的確に表現できるいいキャスティングで、実際に描かれていること以上を感じさせる「省エネ」演出になっている。ドラマ部分にも変な水増しがない。主演の2人の関係も、大きくは「対立から信頼」という定番に沿ってはいるものの、どちらかといえば、プロとして目的を達するため、個人的な立場を越えた協力関係を築くというイメージに近い。家族にまつわるエピソードも、あざとく涙を絞るためではなく、主人公等の行動の動機を補強するために用意されているくらいのものだ。ドラマ面での厚みを求めると肩透かしを食らうかもしれないが、それこそが本作の良さだという立場をとりたい。

鉄道の路線、管制システムなども含めた大きな仕組みのなかで右往左往する人間といった構図を、複数視点を切り替えながらテンポよく作り上げ、TVのニュース中継を効果的に利用しつつ、状況や位置関係を的確に説明していく話運びもスムーズ。列車の脱線炎上や、警察車両のクラッシュも期待に違わず登場する。笑っちゃいけない、それが分相応の娯楽映画のお約束であり、心意気。トニー・スコットには、こういう映画をコンスタントに撮り続けてもらいたいね。