6/27/2009

Vicky Cristina Barcelona

それでも恋するバルセロナ(☆☆☆)

原題、Vicky Cristina Barcelona はシンプルだが韻を踏んでいてリズムも良いし、なかなか軽妙だ。だいたい、そっけなさも含めて映画の体を良く表していると思う。ウディ・アレンの新作は、「自分の望むものは何か分かっている(と思っている)女性=Vicky(レベッカ・ホール)」と、「自分が望まないことは何か分かっている(はずの)女性=Cristina(スカーレット・ヨハンソン)」が、バルセロナで出合ったアーティスト(ハビエル・バルデム)とそのエキセントリックな元妻(ペネロペ・クルス)に翻弄されるさまを、丁度、無責任なアメリカ人観光客の浮かれ気分そのまま軽快に、しかし、成就しない恋愛が最もロマンティック、という台詞に秘められた皮肉でしっかりと味付けしながら語ってみせる小話の類である。映画を見て、「何がいいたかったのか分からない!」などと怒り出すような無粋な観客には決してお勧めしないが、変幻自在、熟練の話術、話芸そのものを楽しむ心の余裕があるひとなら大いに楽しめること請け合いである。

この映画を見終えて、自分の友人にでも登場人物の相関関係や物語の展開を簡潔に分かりやすく整理して口頭で説明できるか試してみるといい。それほど難しい内容の作品でもないのに、これが意外に難しいものだと気づくに違いない。突拍子もなく唖然とする展開や人物関係がなかなか複雑で、聞き手が混乱する確率がかなり高いはずだ。この映画を見ていて何に感心するかといえば、観客を決して混乱させたりしない的確で、かつ、恐ろしく効率的な語り口なのである。脚本としてはかなり無茶な構成なのに、終わってみるとなんとなくそれで座りが良かったりする。いまや、こんな作品をさらっと撮ってしまうのはウディ・アレンくらいしかいないのではないか。もうひとつ、柔らかな陽光輝くバルセロナを舞台に、観光名所をたっぷりと盛り込みながら、しかし、舞台や背景に負けた凡百の(恥ずかしい)観光地映画にはなっていないバランス感覚の良さもまた、特筆すべきであろう。

事前の評判どおり、途中でいきなり登場して物語をかき回すペネロペ・クルスが最高である。おかっぱ頭の殺し屋から一転、セクシーな画家を演じるハビエル・バルデムとの息もぴったりで、スペイン語で壮絶な悪態をつきまくる彼女をバルデムが「みんながいる前では英語で話せ」といなす漫才調のシーンの反復は可笑しくてしかたがないし、とてつもなく気分屋の変人キャラクターで、怒ると何をするか分からない凶暴な女性なのに、なんともいえないキュートな魅力に溢れている。ハリウッドで出演した英語映画では「訛りのある英語をしゃべるかわいこちゃん」以上の役柄に恵まれなかった彼女だが、それがいかに才能の無駄使いだったことか。演技者としての評価が一段と高まったいま、本作のようなお気楽なロマンティック・コメディの脇役で物語を軽くさらっていってしまうあたり、そういう役柄選びが嬉しいではないか。その分、本作で一番割りを喰ったのはスカーレット・ヨハンソンだろう。ペネロペ・クルスと同じフレームに収まると、もう、どうしようもないくらいの格の違いが露になってしまい、(それが演技であるという前に)単なる世間知らずの小娘にしか見えないところは、さすがにちょっと可哀想だ。一方、本作の真の主人公とでも言うべきレベッカ・ホールは地味ながら好演である。結婚を控えた揺れる気持ち、などという使い古しの設定なのに、しっかりと現実味を与えていて言動に嘘臭さを感じさせないところがつくづく巧いなぁ、と思う。巧みな話術も巧みな役者がいてこそ成立するものなのだね。

Evangellion 2.0 You Can (Not) Advance

エヴァンゲリヲン新劇場版:破(☆☆☆☆)

初日の劇場を包み込む観客の熱気、満席の場内で期せずして巻き起こる拍手。昔、といっても、たかだか15年や20年前までは、ヒット作や人気シリーズ作品の先行深夜上映や初日で良く見られた光景なのだが、久し振りにそんな現場に遭遇すると何か、大きなイベントに参加したかのような不思議な充実感に満たされる。前作は公開規模を考えたら存外のヒットであったし、つい先日発売された Blu-ray 版がBDとしては最速のスピードで売上記録を樹立。昨年中の公開が予定されながら今日まで待たされた第2弾。観客はこの1作を心から待っていたし、作り手はその大きすぎる期待に応えてみせた、そういうことだと思う。

作り手が「繰り返しの物語である」と表現していただけに、前作『序』では基本的にオリジナルをなぞるように物語が展開されたが、本作は冒頭、最初のカットから新キャラクターを投入し、基本的な要素はオリジナルに材を求めながらもキャラクターの性格付けや行動、成長、そして物語の展開そのものを大きく変化させている。成長しない引きこもり気質の少年を主人公にした特異な物語は、 12年のときを経て、自らの意思で困難に立ち向かっていこうとする成長する少年を主人公にした王道のエンターテインメント・アニメーション作品へと大きく変貌しようとしている。これは同じ素材から生み出されるもうひとつの可能性を贅を尽くして描くものなのであろう。もしかしたら、本来、オリジナルのシリーズがあるべきだった姿(なのであるが、さまざまな状況により実現し得なかった姿)へと回帰するものなのであろう。オリジナルは特異な作品であったからこそ多くの人の心に突き刺ささる現象となったというのに、敢えて王道路線で正面から勝負をしようとしている、それが前作よりもはっきりと見えてくるのが近作である。

前作にもましてパワーアップした「使徒」が次々と来襲し、壮絶で凄惨なバトルが繰り広げられるなか、どこか総集編的な成り立ちを引きずって忙しなかった前作とはことなり、主要な登場人物間でのドラマがセットアップされ、練り上げられ、クライマックスに向けて手順を踏んでうねりながら醸成されていくあたりが、本作を1本の映画として見応えのあるものにしている。前作から引き続いて主人公たちを取り巻くその他大勢の人々の存在や、都市生活者の日常生活を描写したカットが反復して挟み込まれていて、物語として内側に閉じるのではなく、外の世界への広がりを印象付けようとしているかのようである。アニメーション表現は緻密かつ大胆、劇場の大スクリーンに負けない圧倒的なクオリティで素晴らしいが、アニメ特有のサービスカットやお色気描写には、ジャンル的な「お約束」とは理解したうえで、それでもある種の違和感を感じないでもない。まあ、児童ポルノ規制に関連して正論の裏側でとんでもない暴挙が行われようとしている今のご時勢に対する挑戦とでも理解しておこうか。

オリジナルからこれだけ逸脱し、性格をことにして展開させながら、しかし、完全に別のものになってしまったと観客を失望させるのではなく、むしろ観客を熱狂させられる作品を仕上げてくるところには何よりも感服させられた。「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」のあいだに横たわった差異がこれほどまでに大きく広がっているのに、それでも違うものをみたという違和感が残らないのは何故なのか。結局、この新劇場版シリーズは、かつてファンが心の奥底で強く願ったが決して目にする機会のなかった作品の姿に近いから、なのではないだろうか。クライマックスでの主人公が選択する行動と絶叫に心を揺さぶられ、作品終了と同時に観客を拍手に駆り立てた「熱」は、単に作品の力によるものを超越している。初めて充足される願望、そう、こんなものがみたかったのだという願望がまさかと思っていた瞬間に充足される、そのことに起因するのである。さて、再構築と銘打って始まった新劇場版が、オリジナルをどう包括、総括してどこに向かうのか。次回作「Q」(←爆笑)を大いなる期待を持って待ちたい。

6/19/2009

Transformers: Revenge of the Fallen

トランスフォーマー リベンジ(☆☆)


本作の試写を見た製作総指揮に名前を連ねるスピルバーグが、もしかしたらマイケル・ベイの作品の中で一番いいじゃないか、と述べたという。しかし「マイケル・ベイ」のフィルモグラフィに並んだゴミ屑のような作品の中で最高、っていうのは褒め言葉になっているのだろうか、と心配になってしまったりもするのである。

さて、前作の(予期せぬ)特大ヒットを受けて製作された本作は、続編の作り方としては呆れるくらい古典的なアプローチに則っている。"Bigger and Louder"、つまり、スケールはとにかく大きく、物量は大量に投入して、爆発もアクションもお笑いもお色気も、とにかくたっぷりと大増量、というやりくちである。ある種の局地戦といえた前作の部隊を全世界規模に拡大し、世界各地で大バトルが繰り広げられる。機械生命体同士の戦いは人類の存亡をかけた戦いへと変貌し、新旧大量のトランスフォーマーだけでなく実在する兵器も惜しみなく投下し、挙句の果てにはピラミッドまでぶち壊す。唐突な漫才があるかと思えば、無駄なお色気シーンや下ネタも特盛状態の2時間半だ。こうしたアプローチの「続編」では仕掛けの大きさに反比例して中身がどんどん薄くなるのが通例だが、もともと前作も「中身」で評価されるような作品でないから心配は無用だろう。とはいえ、スケール拡大に伴い、オートボットと共闘する「米軍」が、地球防衛隊よろしく世界中に出張して、勝手に戦闘と破壊を繰り広げるという政治的にどうかと思われる能天気な描写や、軍人が常に正しくシヴィリアンは無能だというある種の作品では良く見られる類型的な描きかたがなされていることの背景にある「思想」については、お気楽な娯楽映画であるといってもいかがなものか、と思うものである。

マイケル・ベイという監督は、何をどうやっても揶揄の対象にしたくなるような作品しか作ってくれない人なのだが、映画らしいスケールとハッタリの効いた「画」を撮れるセンスを持っていることだけは確かである。例えば先日鑑賞した『スター・トレック』の J.J.エイブラムズの画面作りが徹頭徹尾テレビ・サイズでみみっちいことに比べると、大きな有意差が認められることだろう。作品として優れているか、面白いかということとは別に、わざわざ映画館に足を運ぶことで、それなりの爽快感というか、満足感のようなものは感じることができるのがこのひとの強みだということを、今回、改めて再確認できた。

ただ、このひとに決定的に欠けているのが、「画」を組み立ててつなぎ、ストーリーを語る技術なのである。少なくとも、簡潔に効率よく物語を語る技術については決定的に欠落している。「トランスフォーマー好き」であれば違った楽しみ方もあるとは思うが、そうではない単なる映画好きの立場から言うならば、前作も、本作も、90分から100分程度にまとめることができていたらかなり面白い作品になっていたんじゃないかと思う。しかし、いつもながら、たいした内容でもないのに2時間半近い尺でダラダラやるのがこの人の流儀であり、限界なのである。画面では派手に、常に何かが行われているのだが、見方を変えれば緊張感もなく、退屈で、弛緩しきった時間が流れているだけ。いくら物量を投入して派手に爆発させようとも、欠伸の一つや二つもでてしまう。

毎度のことだが、本筋と関係ないようなシーンをたくさん挟み込んで、それをストーリーの「緩急」と勘違いしているのにも閉口させられるし、ある一連のシーンで語られるべきストーリーの本質を分かっていない演出と編集で、無駄な描写にダラダラと尺を使うのも勘弁して欲しいところである。本作でいえば、ストーリーから乖離した「笑えないお笑い」や「サービスたっぷりのお色気」が、唐突に、しかも反復されて挟み込まれるときのギクシャク感。クライマックスとなる砂漠での戦闘シーンとて、シャイア・ラブーフ演ずる主人公が危険を省みずに戦場を突っ切り、味方部隊の背後に安置されたオプティマス・プライムの亡骸を目指すという核となるストーリーを掴んでいたら、あんなにダラダラしたものになるはずがない。人物や部隊、戦闘の位置関係や全体状況を「画」で見せて簡潔に説明することすらできないのは、この男がストーリーテラーとして3流であることの証でしかない。結局、本作をみるということは、そういう分かりきった事実を再確認するだけのことである。

6/13/2009

The Wrestler

レスラー(☆☆☆☆)


本作の主人公は、ローカルな会場での巡業で食いつなぐ80年代に栄光を極めた初老のプロレスラー、ランディ" the RAM" ロビンソンである。トレイラー・パークに一人暮らし、家賃の支払にもこと欠くなか、平日はスーパーで働き、週末には満身創痍の体に鞭を打つように巡業に出かける生活である。もちろん愛車は(自らのリング・ネームにかけて)クライスラーの「Dodge Ram」だ。家賃未払いで締め出されたときは車の中で一夜を明かす。ある日の試合後、控え室で心筋梗塞を起こした男は、心臓のバイパス手術を受けて一命を取り留める。いつ復帰できるかと尋ねる男に、医師は引退を勧告するのだった。いったんは普通の生活をしようと試みるが、元来プロレス以外の世界を知らない不器用な男だ。結局最後は自らの命も顧みず、そこで死ぬのが本望とばかりに観客の歓声響くマットの上に戻っていく、そういうという話である。筋立てだけをなぞるなら、やくざ映画などで何度も繰り返されてきた定番中の定番だといえるだろう。そんな話が、(WWEのような上場企業が主催するド派手なイベントとは天と地ほどに異なる)うらびれた地方巡業のプロレスを舞台にして語られていく。

プロレスは「ショウ」だ。中でも米国のそれは過剰なほどに肉体を酷使する「ショウ・ビジネス」である。そこにはキャラクターがいて、筋書きがあり、演出がある。だからといってそれを演じてみせるレスラーたちの肉体的過酷さが和らぐというものでもない。むしろ、観客を熱狂させるためなら何でもありの世界だからこその、目を背けたくなるような厳しさがそこにある。本作のみどころのひとつは、そんなプロレスの舞台裏を飾ることなく切り取って見せるところにある。この映画には、主人公と同じような境遇の、傷だらけ、薬漬けの男たちが登場する。いつか成功を掴むことを夢見た若者たちも登場する。いかにショウを盛り上げ、観客を熱狂させるか試合の流れやキメ技を打ち合わせ、凶器に使う小道具を探しにハードウェア・ストアに足を運び、リングの上では建築用の大型ホチキスを体に打ち付けたり、仕込んでおいた剃刀の刃で流血を演出したりする。痛々しくもあるが、あまりに真剣であるがゆえのそこはかとない可笑しさに片目を塞ぎつつも笑ってしまう、そんな不思議にユルい世界がつづられていく。そんな世界と、そこに生きている人間の姿が誇張なしに描かれていく。

そう、これはフィクションだし、そこにいるのは役者であるし、どのシーンをひとつとっても狙い通りに撮るための「演出」が介在しているのは分かっているつもりである。しかし、この映画を見ていると、実在する人間たちの現実の姿を、(演出などというものを抜きにして)ただそのままカメラで切り取ってみせているのではないかという錯覚を覚えてしまう。これはいわゆるニセ・ドキュメントである「モキュメンタリー」スタイルの作品ではない。それに、手持ちカメラで撮影対象に後ろから迫っていくような特徴的なスタイルが印象的だからといって「ドキュメンタリー・タッチ」などという安易な言葉で括ってしまうことには激しく抵抗を覚える。しかし、かつて、『Requiem for a Dream』の超絶的なモンタージュに代表されるような、突き抜けて技巧的な作品作りで名声を得たダーレン・アロノフスキー監督が、かくも斯様なスタイルで作品を完成させたという事実に驚きを禁じえない。技巧や小細工を配してキャラクターの内面に深く入り込んでいく静かな気迫。例えるなら、サム・ライミが得意な大技・小技を抑制して『シンプル・プラン』を撮ってみせたときの驚きと同様の衝撃である。この人が、こんな成熟した映画を撮れるとは創造だにしなかった。

もちろん、本作を忘れ得ない作品にしているのは世界中で賞賛を集めたミッキー・ロークであることに異論はない。90年台以降も、コッポラ、スタローン、ロドリゲス、トニー・スコットらが脇役や悪役として彼を起用した作品を見てきたし、それらの作品での曲者ぶりや独特の存在感を知っているつもりであるから、今更「カムバック」だなどというつもりはない。が、久々の主演作であるのは間違いない。それに、スタジオから違う役者の起用を強く要求されながらもロークのキャスティングにこだわりぬいて見せた監督を意気に感じたのもそうだろう。体重を大幅に増やし、正にロートルのプロレスラーといった肉体を作り上げ、その圧倒的な身体性をもって「ランディ"The RAM" ロビンソン」というキャラクターを作り上げたロークの入魂の演技は、もはや演技を超えたところで神々しく輝いているかのようである。80年代に絶頂を極めた男がその後に辿った挫折と艱難辛苦は、この役柄の中に確かに結実している。演出のタッチと相まって、現実と虚構の壁が取り払われた魔法のような時間を、我々観客はスクリーンのこちら側で共有することができるのである。この「経験」を幸福といわずしてなんといおうか。

陰鬱であるがユニークなユーモアのセンスをもった映画のなかで、印象に残る美しいシーンが2つある。ひとつは、主人公と疎遠になっていた娘とが海岸沿いのボードウォークを歩くシーンである。もうひとつは、主人公とストリップ・ダンサーが心の距離を縮め、昼間のバーで過ごすひとときだ。いずれも映画の中盤に用意された、主人公の人生にかすかな希望を感じさせるシーンだが、いずれも束の間の喜びに終わるこことが運命付けられたかのような悲しみにも満ちている。それぞれのシーンで、主人公に寄り添うのがエヴァン・レイチェル・ウッドとマリサ・トメイだ。ミッキー・ロークへの賞賛の影で忘れてはならないのは、脇をしっかりと固めた助演女優たちである。

父親に対する愛憎に切り裂かれた心の痛みを好演しているエヴァン・レイチェル・ウッドが昨今の成長株であることはご存知の通りだが、なんといっても、主人公が心を寄せるストリップ・ダンサーを演じたマリサ・トメイがすごいのだ。マリサ・トメイといえば、まだ若いときに(日本では冷遇されたコメディ)『いとこのビニー(1992)』の演技でアカデミー賞を獲ってしまったはよいが、その後、鳴かず飛ばずで年齢を重ねてしまった不遇のひとだと思っている。アカデミーの助演女優賞は、ぽっと出のフレッシュな女優に今後の期待を込めて送られるケースが良くあるのだが、彼女なぞはその典型といえよう。アイドル的コメディエンヌから脱皮を試み、演技面では地味ながらじわじわと評価を高めてきた44歳の彼女が肌も露に演ずるのは、9歳になる息子がいることを隠し、場末のストリップ・クラブで踊る日陰のシングル・マザーである。仕事とプライベートを厳格に分けることで毎日に折り合いをつけている、そんな彼女を、単なる「都合の良い女」ではなく、リアリティのある一人の人間として描いた脚本も素晴らしいが、このキャラクターに深い人間味を与えたトメイの演技もまた、ミッキー・ロークに負けるものではないと思う。

奇しくも本作の日本公開の初日となる2009年6月13日(土)、日本のベテラン・プロレスラーが試合の途中、ファンの歓声の中で命を落とすという「事故」があったことが報じられた。私は体の大きな男たちが裸でぶつかりあい、血を流す姿をエンターテインメントとして楽しむという趣味を持ち合わせてはいないから余計にそう思うのだが、ファンの歓声もまた、因果で残酷なものだ。熱狂する観客の前で、自らの命を差し出してみせかのようにトップロープに登り、ポーズを決め、ファン待望の大技「Ram Jam」を決めるため、限界を超えた心臓を抱きながら宙に舞うミッキー・ローク=ランディ・ロビンソンの姿は、どこか殉教者のような美しさに満ちていた。それまで技巧らしい技巧を抑えに抑えてきた映画は、この大舞台における最高の一瞬を切り取るために、ここぞとばかりのショットと編集を繰り出してみせる。直後、画面の暗転が意味するところは単に映画の終わりを意味するだけのものではない。

6/06/2009

Terminator Salvation

ターミネーター4(☆☆☆)


邦題の「4」って、、、なんだか安っぽいな。一昔前なら、主演俳優も交代し、タイトルだけかりてきたような安っぽいホラー映画みたいな雰囲気を感じてしまう。『バタリアン4』とか、ね。。

そう、1984年、低予算で作られた1本のSFアクション映画が、ここまで大きな「サーガ」へと変貌を遂げるとは誰も、作り手さえも想像しなかったはずである。件の作品は、閉じた時間の輪のなかで完結した運命を巡る物語であった。1991年、1作目とは比べ物にならない金銭と物量を投じて製作された2作目は、結局のところ、「未来からやってきた殺人マシーンと死闘を繰り広げる」というプロットの再利用に過ぎないのだが、「未来は変えられる」ものだとして、「審判の日」を回避するための戦いが描かれた。これは重大なタイム・パラドックスを生むことになったが、物語としてはクリエイターであるジェイムズ・キャメロンが意図したとおり綺麗に完結していた。しかし、 2003年になって3作目が作られ、結局、機械と人間の最終戦争が始まる。それは2作目の結果生じたタイム・パラドックスを解消するといえば聞こえはよいが、2作目で描かれた物語の意味を消失させる暴挙でもあった。またしても「未来からやってきた殺人マシーンとの死闘」というプロットが既視感たっぷりに繰り返されるから、作品はお笑いと化した。

本作は、3度まで繰り返された「未来から来た殺人機」というプロットから離れて、これまでの作品中で幾度も言及されてきた、全ての発端としての「未来戦争」を描いている点で、フランチャイズとして野心的かつ新しい第1歩を踏み出している。ちなみに、ここで描かれるのは、1作目の前日譚としての未来戦争ではなく、2作目、3作目と様々な歴史改変を経て、しかし回避することのできなかった「審判の日」以降であるから、『スター・ウォーズ』の新三部作が後の時代につなぐための辻褄あわせに終始せざるを得なかったような「窮屈さ」から開放され、事実上、何でも起こり得るといってよい。物語上の唯一の制約は、いつの日か「カイル・リース」を過去の世界に送り込む必要があるということだけだ。自由で広大なキャンバスを手にした本作『Terminator Salvation』は、圧倒的優位な機械軍:スカイネットを相手に絶望的な戦いを挑む抵抗軍という構図で描かれる戦争アクション映画である。多大なる犠牲を払ってスカイネットを無力化できるコードを入手したレジスタンスが総攻撃の準備を進める中、スカイネットに捕獲されたカイル・リースを救出しようとするジョン・コナーと、自分を人間だと信じている機械と生体のハイブリッド;マーカス・ライトのアイデンティティを巡るドラマが描かれていく。

『チャーリーズ・エンジェルズ』シリーズなどという、もはや映画と呼ぶのが適切なのかどうかすらわからない作品で知られるだけのMcGが、どれだけ重厚な世界観やドラマ、リアルなアクションを撮れるものかと誰もが不安に思ったことだろうが、意外や、まともな映画に仕上がっている。特にビジュアル面での力の入れ具合は見事で、これまでのシリーズ作品中ではブルーがかった映像とメタリックで玩具のような機械軍という安っぽい映像スタイルが確立していた「審判の日」後の世界を、リアリティをもって再構築したところは賞賛に値する。CGIだけに頼らずミニチュアやセットを使った効果は随所に出ている。スカイネットが繰り出す数々の殺戮マシーンも個性的かつ魅力的に動かしているし、シリーズのファンを自認するだけあって、過去シリーズにおける幾多の場面を髣髴とさせる演出を随所に盛り込みつつ、それが前作でのような「お笑い」に堕していないところも好感を持った。クライマックス近くでデジタルで再構築された若いシュワルツェネッガーを登場させるサービス精神も嬉しい。

そうなると、気になってくるのが脚本の出来栄えである。クレジットがないとはいえポール・ハギスやジョナサン・ノーランといった錚々たる才能の手を借りて完成されたはずの脚本であるが、期待したようなクオリティに達していない。まず登場人物のキャラクターが十分に描けていない。ジョン・コナーは(T3で描写より数段マシであるとはいえ)人類の未来を背負ったリーダーになることを運命付けられた男としては一面的で平板だし、彼が率いる部隊の面々もただの賑やかしでしかない。キャラクターの行動や変心も唐突で、違和感を感じる場面が多い。ここには、もともと「マーカス・ライト」を主人公とする物語だったものを、ジョン・コナーの役割を広げるために書き換えていった影響もあるのだろう。ネット上に流出したショッキングな当初構想(マーカスが死亡したコナーと入れ替わり影武者を務める)を反故にして第3幕を全面的に書き換えた影響もあるだろう。いずれにせよ、撮影を進めながら慌てて書き換えられていったせいか、煮詰め方が今ひとつ足りず、荒いのである。

そういう意味で、最も気になっていますのは、プロット上の穴だ。最大のものを指摘するなら、抹殺すべき「カイル・リース」を捕獲したとき、それと認識していながら、基地に移送した上で監禁しているスカイネットのマヌケさはどうだろう。論理的に考えて、彼を生かしておく必然性はどこにもなく、機械の思考としての合理性も欠く。これではただのアホだ。

シリーズの序章らしく、説明されずに残された「謎」も多々ある。そもそも「カイル・リース」の名前がスカイネットの抹殺リストに乗っている理由がわからないし、納得のいく説明も仮説すらも提示されていない。審判の日の前に死刑に処されたはずのマーカス・ライトが本作に登場するまでの経緯も全てが説明されたわけではない。もしかしたら、プロット上の致命的な穴だと思っていたことも、後々きちんと説明がつくのかもしれない。しかし、本作を見ただけでは想像もつかない複雑なバックストーリーが緻密に構築されているとも思われず、結局、行き当たりばったりで終わるのではないかという危惧が残るのである。まあ、それが「ターミネーター」らしさだといえば、そうなのかもしれないが。

Road to Rebirth

ハゲタカ(☆☆☆)

いくつもの佳作を生んでいるNHKの「土曜ドラマ」枠。2007年、そこで放送された『ハゲタカ Road to Rebirth(全6話)』は、民放では作ることのできないテーマとフォーマット、俳優の起用、フィクションといえどもきちんとしたリサーチに立脚し、映画を意識した丁寧な作りを武器として、社会派で、ともすれば難解と受け取られがちな内容を「ドラマ」として、エンターテインメントとして描ききった力作であった。TVシリーズは、「近過去」である1990年代の終わりから2004年くらいまでを舞台にして、我々が耳にするニュースの裏側で起こっていたことを「説明」して見せながら、主要な登場人物たちの背負った「ドラマ」をきっちり描いて見せた。「現代」を描きながら、「近過去」を検証する冷静な視点と、偶然や因縁が交差する(作為に満ちた)熱いドラマが交差するところがひとつの見所であったと思っている。

ちなみに、本作は「TVシリーズの映画化」ではない。一通り完結した物語となっているTVシリーズに対する「続編」である。もともとは、出発点とした原作『レッドゾーン』がそうであるように、同じ「現代」を描くといっても、既に起こったことではなく、近未来に起こりうることを描く構想であったのだろう。しかし、昨秋以降の経済環境の激変を受け、従来の認識の延長線上で物語を構築する限界に直面し、結果として脚本の8割方を書き換えたという。こうした泥縄式のやりかたは、作品の完成度についていえばネガティブに働くことも多い。なにしろ、今、足元で起こっていることを表面的になぞることは簡単であるが、本質を射抜くことはなかなか難しいものだ。だから、リライトをしているという話をきいたとき、結局、半年遅れのニュース・ヘッドラインを垂れ流すだけに終わるのではないかと危惧したが、そうやって現在進行形の「時代」と切り結ぶことを選ぶ作り手の覚悟と感度は素晴らしいことだと思うし、いわゆる邦画の世界においては稀有な資質であると思う。果たしてその成果はどうなったのかといえば、多少の無理矢理や単純化は否めないものの、物事の本質を曲げたり、過度にセンセーショナリズムに走ることもなく、ドラマの中で昨今の印象的なトピックをそれなりに消化することに一定レベルでは成功していると感じた。その点ひとつだけでも製作チームに賞賛の言葉を送りたいと思う。

さて、先にも述べたとおり、本作はTVの続編である。ここから初めて見ることになる観客には、既存のキャラクターたちのバックストーリーや人間関係が分かりにくい作りになっているが、あまり気にすることはない。なぜなら、彼らの本作における役割は、いってみれば豪華な脇役の扱いでしかないからである。考えてみれば、彼らがそれぞれ抱えるドラマについてはTV版で既に決着のついたものであり、そこを描くことは蛇足になる。これは、実のところ、一見して主役を張っているかに思われる「鷲津」についても同じことが云える。本作における鷲津の思想や行動原理は少し分かりにくいところがあるのだが、これは、このキャラクターが、「外敵に対抗する力を持った伝説のヒーロー」であり、敵として登場する新キャラクター、劉一華の引き立て役を担う「記号」としてしか描かれていないことに起因するのである。そう、彼に関するドラマもまた、TV版で完結している以上、それ以上の掘り下げの余地がないということなのだろう。ただ、そういう割り切りに一理あると感じながらも、どこかで物足りなさを感じるのが人情というものかもしれない。

そんなわけで、本作の中心は、新しく導入したキャラクター、新興国の持ちうる資金力を背景とした「赤いハゲタカ」こと劉一華のキャラクター造詣に置かれている。そして、この男をお馴染みのファンドマネージャー「鷲津」と対峙させることによって、その人生や生き様を描き出そうというわけだ。現代の資本主義がもたらす究極の格差をテコにして極貧からのし上がってきた劉一華という男の人生は確かにドラマの核になり得るだけの普遍的な重さがある。TOBによる買収合戦はTV版の焼き直しに過ぎないが、そこにこの男の正体や真の意図の所在が絡んでくることにより、本作はTV版とは異なる側面とスケールから「金を巡る悲劇」を描き出すことに成功しているといえるだろう。

劇場版ということで、監督・脚本以外のスタッフは映画を撮り慣れたスタッフに交代し、TV版よりも落ち着いた画作りを心掛けていると聞いていたが、しかし、TV版とのスタイルの一貫性を維持する必要性からか、表面上は大きな変化を感じさせるものにはなっていない。要は、TV的な画面作りを抜け切れていない点で、劇場作品としては物足りないものになっている。例えば、劉一華がメインになるシーンと鷲津がメインになるシーンでそれぞれ赤や青のフィルターを使って撮り分ける趣向も、TV画面サイズでは機能したかもしれないが、劇場サイズでは安っぽく感じられた。似たようなことをやっても、例えばソダーバーグの『トラフィック』では、明らかに異なる3つの話が交差する構成であるゆえに大胆な色彩設計が活きたのである。キャラクターごとに忙しなく色分けというのは、少し短絡的で幼稚な発想ではなかっただろうか。ドラマの流れを寸断しているだけのように思う。また、キャラクターの登場や場所の移動に伴っていちいちテロップを打つような、観客の知性を信じない「TVスタイル」が安易に踏襲されているあたりにも疑問に感じられる。まあ、実際のところ、本作にも普段は映画館に足を向けないような「お茶の間の観客」が多数入っているようだったから、彼らに対する配慮をするのも「商品」としては正しい考え方なのかもしれないが。

そういえば、米国ではようやくというべきか、今更というべきか、『ウォール街』の続編企画が動き出したようだ。本作でも言及される "Greed is Good" とは、マイケル・ダグラスの名台詞だった。米映画界が今の時代とどう向き合い、どう切り結ぶのか、楽しみである。

6/01/2009

Angels and Demons

天使と悪魔(☆☆★)


宗教とか象徴学者とか、なんだか知的なふりを装ってはいるものの、結局はインディアナ・ジョーンズのバリエーションみたいなところに落ち着くのである。観客にとっての謎解きの面白さはなく、主人公は瞬間に謎をといて走り回る。どちからといえば、ニコラス・ケイジ主演のヒットシリーズなんかが一番ノリ的にも近いといえるだろう。ただ、歴史の浅い米国を舞台にしていながら"National Tresure(国宝)"などと大仰に語る軽さとバカバカしさがあっちの作品の身上であり微笑ましいところであるのだが、バチカンだのダヴィンチだのガリレオだのと持ち出していやに権威付けしてみせるところがこちらの浅ましさだと思ったりもする。まあ、それは映画の話ではなく、原作に帰せられるべき責任なのだろう。しかし、だいたい、イタリア語もラテン語もろくに分からないで学者やっていられる主人公の設定はバカバカしくないだろうか。

さて、面白くも何ともないのに大ヒットをとばした『ダヴィンチ・コード』の続編として作られた本作は、「ダヴィンチ・コード」よりも前を描いた原作を土台に、空疎な大作には欠かせないベテラン売れっ子脚本家、デイヴィッド・コープとアキバ・ゴールズマンが違和感なく時間軸を入れ替えて脚色をしている。謎解きやら薀蓄やらをすっとばし、バチカンとローマ市内を制限時間内に駆け巡るというシンプルな構成だ。これは、『ダヴィンチ・コード』の失敗を踏まえたものといえるだろう。『フロストXニクソン』では久々に尊敬に足る仕事をみせてくれたロン・ハワード監督だが、本作ではあまり変な色気を出さず、脚本に則ってスピーディな展開を心掛けているのがよい。かといって、いつもの人畜無害の優等生的大作映画かと思うと、意外に歪んだ描写があったり、どこかへんてこりんだったりして退屈もしないのである。褒め倒すような映画ではないが、『ダヴィンチ・コード』より数段いい、とは思う。

本作はキャスティングでかなり得している。鍵になるキャラクターに、ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスゲールド、アーミン・ミュラー・スタールと、本心を易々とは見せない曲者役者を配置したところが大きく効いている。特に、コンクラーベの進行を司る司祭を演じたアーミン・ミュラー・スタールが素晴らしい。この人、最近では『ザ・バンク』や『イースタン・プロミス』でも非常に印象深い一面的ならざるキー・キャラクターをものにしていたので、その顔に覚えのある向きも多いだろう。旬というのも失礼かもしれないが、こういう人をパッと連れてくるあたりのセンスというか、嗅覚の鋭さは賞嘆に値するだろう。

しかし、先にも述べたが、なんだか変てこな映画だなぁ、と思うのである。この映画のヒーロー足るべき主人公が結局のところ何をしたのというのだろうか。もちろん、後手後手にまわって死者が積みあがる中、たった一人とはいえ救った命もある。そして、それがバチカンにとって重要な人物であったのも事実だ。しかし、真犯人の術中に容易にはまり、利用され、踊るだけ踊り、走り回るだけ走り回って、周囲まで巻き込んで、間接的ながら善良かつ有能な人間の命を奪うことに手を貸し、あと一歩で取り返しのつかないことをやらかしていた、、そんなのがヒーローとしてどうなのか、と。自分がとったわけでもない隠しカメラの映像を発見し、それで大団円って、どうなのか、と。これで納得しろといわれても、すっきりしないのだ。主体性のない巻き込まれ型のヒーローがいけないというつもりはない。が、どんでん返しに普請するうち、それまで主人公らしく活躍して見せた全てが単なる無駄足に過ぎず、実際は真の敵に手を貸していただけというような大惨事へと矮小化されるところが作劇としてどうか、ということなのである。何かが間違っている、そう思う。