12/25/2008

The Day the Earth Stood Still

地球が静止する日(☆☆☆)


アイディア枯渇のハリウッド。ロバート・ワイズ監督の1951年作『地球の静止する日(The Day the Earth Stood Still)』のリメイク作、スコット・デリクソン監督。ただ、なんでもかんでもリメイクすればいいものではない、ということは分かっていたのだろう、東西冷戦下の核の恐怖を背景としたオリジナルから、非常に今日的な(つまるところ、流行であるところの)環境というテーマをつむぎだして見せた企画は悪くない。出演はキアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー、ジェイデン・スミス、キャシー・ベイツ、ジョン・クリース。

おそらく、8年間続いたジョージ・W&共和党政権路線に対するあからさまな論評を含むリアルタイムの大作娯楽映画という意味では、タイミング的にも末尾を飾る1本になるのではないか。宇宙からやってきた使者との対話を拒み、他国との協調を選ばず、情報を隠蔽し、自らの思い込みで判断を下し、無謀な攻撃を繰り返す。大統領こそ顔をみせないが、大統領の名代として最前線にたつ、キャシー・ベイツ演ずるキャラクターの振りかざすロジックはまさにここ何年かの米国のありかたそのものであって、それがいかに理性に欠けたナンセンスなものか、SFi 的なシチュエーションのなかで戯画化されることにより、あまりにも明白に浮き彫りにされる。

スコット・デリクソンの演出にはいわゆる「風刺」的な喜劇調が入り込む余地がないが、このパート、もはや、意図せずして喜劇となっているといってよいのではないか。そして、その決着のつけ方が寂しい。国家権力装置の部品として機能せざるを得ない立場のキャシー・ベイツが、個人的な判断により主人公であるジェニファー・コネリーと、宇宙人キアヌ・リーブスの逃亡を見てみぬふりをするという展開なのだが、これ、つまりは、システムは硬直的で変わらないが僅かに個人の良識と良心に希望を託したということだ。間違っていると分かっていても正すことができないという無力感はいったいなんなのだろう。非常時に無能な大統領を拘束してまともな判断のできる人間と置き換える、などということを、米国の映画やドラマは数限りなく行ってきたような印象をもっているのだが、本作にみる諦観は心を寒くさせるに十分である。この何年かの米国では、個人の良識すらも踏みにじられ、押し殺されてきたということを意味してはいまいか。

風刺といえば、ジェニファー・コネリーがキアヌを連れて行く人類最高の知性(の一人)のキャスティングは面白い。キアヌと対話をすべき人物が「政治的な指導者」たちではなく「科学者」である、ということ自体はそもそも脚本が意図する洞察であり、それ自体が文明批評であるが、人類の命運をジョン・クリースが握るというのを、あほらしいとみるか、皮肉と受け取るかによっても本作の評価は分かれるだろう。人類最高の英知はモンティ・パイソンにあり、というのを、私は笑えるジョークだと受け取った。なにしろ、そのほうが面白いからだ。しかし、この映画の演出はあくまで真面目が本分なので、何も知らない観客が観ればなにもなく通り過ぎてしまう。意図してのことか意図せずしてなのか、映画を見る限りは正直なところ判断ができない。

今回の脚本はあちこちで舌足らずであり、ほころびがあるから、脳内で補完する必要がある。作り手の意図が真摯なのは伝わってくるから、こちらも好意的に補完しようとするのだが、しかしそれにしてもキアヌ・リーブス演ずる「クラトゥ」の行動や言動の支離滅裂感は拭えない。映画は物語の鍵を握るひとりである (はずの)少年の関連に随分の時間を割いているのだが、これがうまく機能しさえすればもう少し「クラトゥ」が判断を変えるに至る思考を明確に描くことができたのではないだろうか。少年を演じるジェイデン・スミス、このガキ、小さいのに父親であるウィル・スミスゆずりの鬱陶しさ(俺様演技)で、こんなんを天才子役などと持ち上げてほしくないものだ。3回くらい絞め殺してやろうかと思ったぜ。

K-20: Legend of the Mask

K-20 怪人二十面相・伝(☆☆☆)


ソビエト連邦の原子力潜水艦の艦長を何故かハリソン・フォードが演じている興行的失敗作『K-19』の続編、じゃないよね。ごめん、どうしても云ってみたかっただけ。なんなんだよ、このタイトル!

北村想の小説『完全版 怪人二十面相・伝』を原作として、佐藤嗣麻子が脚色・監督した「お正月映画」がこの『K-20 怪人二十面相・伝』である。この映画、ROBOTが製作で、VFXに白組が参加し、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』らが担当して架空の「帝都」を作り上げているのが呼び物になっている。出演は金城武、松たか子、仲村トオルらで、日本の観客に迎合した感はないが、万が一のときにアジア圏で商売できそうな顔ぶれかもしれない。

この『K-20』、当方の気持ちとしては応援したい映画なのである。ともかく、安易なディザスター映画や難病お涙頂戴や犬猫動物ものや空疎なケータイ小説ものでなく、ましてやヒット・ドラマの映画化でなく、陽性で楽しい軽いノリのエンターテインメント作品であるということ。物語を語る前に、その物語が展開される世界から構築して見せようという(金がかかるので実写の邦画ではなかなかお目にかからない珍しい)アプローチ、(映画好きには『プレステージ』で御馴染みの変人発明家)ニコラス・テスラが発明したという触れ込みの発電装置に代表されるこだわりのプロダクション・デザインなど、映画全体から観客を喜ばせ、楽しませるために真剣につくろうという気概が感じられること、それを、非常に好ましいことと感じるのだ。すごく頑張っているんじゃないかと思うのである。こういう映画が日本でも沢山作られるようになれば嬉しいなぁ、という願望も込めて、作り手に敬意を評したい。

しかし、残念ながらその結果、出来栄えそのものについては手放しで褒められない。だいたい、金城武の日本語演技はいつものとおりで台詞回しがモゴモゴしてピリッとしないし、松たか子のコメディ演技はどこかしら野暮ったく重たい。(「良家の子女」を彼女の口から繰り返し云わせるのは、まあ、悪意のない中途半端なギャグとして苦笑交じりに許容することとしよう。)パラレルワールドの架空の「帝都」をでっち上げるための方便も詰めが甘く、どういう世界観、どういう歴史の上に成り立った世界なのか、よくわからない。いっそのこと、何の説明もせず、見たとおりの世界ですよ、とやってしまう勇気が必要だったのではないか。それは、「アニメ」や「マンガ」では誰もが平気でやっていることだ。また、広げた風呂敷のスケールと、実際に展開される物語の小ぢんまりした感じ、すなわち、見終わったときの「大作感」の欠如も、ちょっと惜しい感じだ。

あと、昔の宮崎アニメへのオマージュというか、まあ、なんだかそれで画面と物語が埋め尽くされている感じも気になるのである。それは、本作にも参加(脚本&VFX)している山崎貴の『ジュブナイル』が、藤子F(の大長編ドラえもん)で埋め尽くされていたのと同じ意味合いで、楽しくもあり、ちょっと困ってしまいもするのである。結局、元祖であるところの「彼」を超えられないんだよね、ということの再確認でもあるからだ。だったら、BDで発売されたばかりの『カリオストロの城』でも買って帰るか、というはなしなんだよね。

いろんな不満はないわけではないが、それにしても、冒頭のワンカットで見せ付けられる帝都のビジュアルは、観客をその気にさせるに十分な出来栄えである。レトロな都心の町並みと、周辺部のインダストリアルな工場群、さらにその足元に広がるバラック立ての貧民窟という都市構造と社会階層構造、戦前からの意匠的な連続性・一貫性を持たせた建物やメカ類のデザイン、アニメーションでは時折みかけるレトロフューチャーな架空世界を実写(風)に表現して、それこそ『ALWAYS 三丁目の夕日』でやってみせたことのリプライズとして、自信を持って「世界」から物語に導入する演出は堂々たるものだ。

まあ、「敬意」を評して甘めに☆☆☆を進呈し、これからもこの種の映画の系譜が途絶えたりしないよう、作り手の意欲が損なわれないよう、観客が劇場に足を運んでくれてそこそこのヒットになることを心から祈っている。贅沢言わなけりゃ、全国公開の正月映画の中では面白いほうだと思うんだけどね。『WALL*E』を別格にして。

12/22/2008

El Orfanato (The Orphanage)

永遠の子供たち (☆☆☆☆★)


最高、最怖、最良の、母子愛をテーマにした2007年のスペイン製怪談話。原題はEL ORFANATO(孤児院)。あえて「感動篇」とのミスリーディングをじさない予告編で騙されて劇場にやってきた女子供が震え上がって小便漏らしても、本当、知らないから。

そうはいっても、この映画、ある種の深い感動と余韻が残ることは宣伝通り保証するので、騙されて見に行くのが吉である。いろいろなソースから、概ねそういう話だろうな、と内容の想像がついていた当方でも相当怖かったので、ある程度の心構えは必要だろう。「だーるまさんがこーろんだ」って、誰もいないはずのところでやっていて、何度目かに振り返ると、そこに突如、どこからともなく現れた子供たちが何人もつっ立っていたら・・・ぎゃー。絶対そうなるって思って身構えていたけど怖いよっ!ひぃーっ。誰か助けてー!・・・真冬でなくて真夏に公開してほしかった季節はずれ(?)の傑作だ。新人ファン・アントニオ・バヨナ協同脚本・監督。オリジナルの脚本(セルジオ・G・サンチェス)を面白がったギレルモ・デルトロがプロデュースしている。

孤児院育ちの女性が家族を伴い、かつて自らが過ごした孤児院の建物に越してきて、夫婦でささやかな孤児院を開設したいらしい。なんだか難病にかかっているらしい息子はこの屋敷に越してきてからというもの、想像上の友達たちと遊ぶのに忙しい。ある日、その息子が忽然と姿を消す。いったい何が起こったのか?・・・それが物語の発端である。

「イマジナリー・フレンド(想像上の友達)」ネタは、SF、ファンタジー、サスペンスから普通のドラマまでいろいろな題材で使われるが、大人が「想像上の友達」だと思っていた存在は、実際に存在していました!というのが「ジャンルもの」の映画における常識であろう。その正体が二重人格だったらサスペンスになるだろうし、宇宙人だったら侵略SFかファンタジーだ。絶対どこかで見たことあるでしょう、そういうの。

で、霊魂だったら?

それはホラーだね。どんな詭弁を弄したところで。

だから、しつこいようだけれども、これを感動的で泣けるファンタジーですよ、というのは間違っていて、感動的で泣けるかもしれないけど、背筋が寒くなる怪談話ですよ、格調高い傑作ホラーですよ、というべきなんだと思う。まあ、そういってしまうと入る客も入らなくなるんだろうけど。

そんなことはさておき、この映画の成功は、なによりも巧妙に張り巡らされた伏線が最後にきれいに収束する完成度の高い脚本によるところが大きい。デルトロから送られてきた脚本を、もともとの作者と一緒に1年間練り直したというだけあって、母子愛と、大人になれず子供のころの記憶にとらわれている主人公の心の旅路を物語の縦糸に、物語のディテールを横糸に、小さなエピソードを無駄なく積み上げて完璧な仕上がりといえる。ある意味で残酷な結末は現世のみにこだわる立場からは最悪のバッドエンドであるが、冷静に、違った観点から見れば邦題『永遠の子供たち』も「なるほど」と納得の、背筋が震えながらも希望の感じられるハッピーエンドということが理解できる、余韻の残る見事な着地である。

また、これをきっちり演出できる腕前の確かさも新人離れしたものだ。もちろん、自信たっぷりの落ち着いた語り口には舌を巻くのだが、面白いのはデルトロの『パンズ・ラビリンス』にも共通する匂い、おそらく、(勝手に想像するに)スペインという土地柄や歴史に起因するある種の後ろ暗さ、闇の手触りのようなものを感じさせるところだ。これが映画の独特の魅力になっていて、案外見逃せない。そんな空気感(とでもいうべきもの)は恐怖を生み出す源になっているが、同時に、現実世界の隣に確かに存在するであろう、(死者や残存思念を含む)異形のものたちの世界との境界線を曖昧にするものでもある。冒頭でも触れた「だるまさんがこーろんだ」は、そういうこの世とあの世が交差する瞬間を、VFXに頼らず、戦慄の中に捉えて見せた名シーンとなった。誰もが考えそうなシチュエーションだが、ここにいたる主人公の感情の高ぶりを前振りに、ライティングからじらし方、編集にいたるまでがこれ以上にない、完璧な瞬間をスクリーンに現出させる。この映画には、まるで悪夢を見ているかのような、現実とファンタジー世界の接点をすくいあげるかのような数々のシーンに溢れている。それらは、ときにスリリングなサスペンスを生み出し、ときにジメッとした不可解な恐怖を生み、ときに美しくも哀しいさだめをも描き出す。

バヨナという監督はインタビューの中でこの映画とスピルバーグの『未知との遭遇』との共通点を「大人になれない子供」という観点で語っているのだが、正直、それは「?」といったところだ。もしかしたら、ピンとはずれなことをいうインタビュアーをはぐらかしたのかもしれない。個人的には途中で霊媒師が出てきて物語が大きく動き始める展開に、同じスピルバーグでもトビー・フーパー名義の傑作『ポルターガイスト』を思い出し、米国製娯楽映画の血筋もしっかりと受け継いでいるあたりに、この映画の別の意味での強さも見て取った。怪談話、という表現を好んで使ってきたが、この映画の世界には日本のウェットな怪談に通じるものを感じ、「ホラー」というあっけらかんとした表現よりも似合うと思うゆえのことである。その流れでいえば、本作には和製怪談話の情緒と、米国製娯楽ホラーの文法を併せ持っているわけで、その怖さ、面白さも納得するほかあるまい。

Body of Lies

ワールド・オブ・ライズ(☆☆☆★)


レオナルド・ディカプリオにとっては『ブラッド・ダイヤモンド』に続く「社会派娯楽アクション大作」路線の第2弾、リドリー・スコットにとっては『ブラックホーク・ダウン』、『キングダム・オブ・ヘヴン』に続く「文明の衝突」シリーズ(?)第3弾、か。イスラム過激派組織の自爆テロを押さえ込むために、テロ組織の首謀者の手がかりを追う主人公・CIA現地工作員(レオナルド・ディカプリオ)が、本部のあるラングレーでスパイ衛星の映像を見て衛星電話で勝手な指示を出したり、隠密裏に作戦を発動させたりするCIAの中東局長(ラッセル・クロウ)のせいで右往左往させられ、酷い目に合う。「実録・スパイはつらいよ」だな。打ち手のなくなったCIAは、主人公の発案により、本物のテロ組織を炙り出すために、架空のテロ組織とテロ事件をでっちあげるという大胆かつ巧妙な自作自演作戦を決行する。

CIAといえばその胡散臭いイメージはおなじみだが、おそらく、近年の娯楽映画の中でこれほどCIAが間抜けに見えたのも珍しいのではないか。ラッセル・クロウ演ずる主人公の上司が取り立てて間抜けというのではなく、一応は百戦錬磨の曲者であり、鼻持ちならないとはいえ切れ者であるはず。そんな人物の判断や行動が、結果として現場を混乱させ、任務の遂行を困難にもする。この映画では、こういうちぐはぐの背景に現地カルチャーに対する米国の無理解と米国的手法(ひいては米国的な価値観)に対する過信があることを、現地の言葉を自在に操り、現地のカルチャーに溶け込もうとする現場工作員たる主人公との対比において描き出していく。そう、自分たちこそが世界の中心で、自分たちは全てお見通しで、自分たちが一番賢いという米国の思い上がりだ。(思えば、そういう「思い上がり」の幻想を砕かれて混乱に陥った様を描いたのが『ブラックホーク・ダウン』だ。)これは、ジョージW・ブッシュがどうの、共和党がどうのといったレベルの話ではないので、本作が米国で受けが悪いのも納得がいく。

では、主人公である現場の工作員は異文化に理解を示すわれらがヒーローなのか、というと、それも違う。レオナルド・ディカプリオをここにキャスティングしている意図は、彼の理想主義的で青臭いイメージをこのキャラクターに被らせることにあるだろう。彼は分かったつもりでいる。現実が見えているつもりでいる。しかし、彼は若く、底が浅く、ナイーヴである。緊迫した情勢のなかでの現地人との恋愛ごっこに興じるあたりが典型だ。それゆえの罰であるとまでは言わないが、ディカプリオは劇中でさんざん肉体を傷つけ痛めつけられる。犬にかまれ、同僚の骨の破片が食い込み、捕らえられ、指をつぶされ、拷問を受ける。

この物語で本当に「大人」なのは誰か。それは、主人公が協力を願い出るヨルダン情報局のトップ(マーク・ストロングが役得の好演)である。これは、本作と同じリドリー・スコット&ウィリアム・モナハン脚本による『キングダム・オブ・ヘヴン』において、清濁併せ呑む懐の深さと静かで洗練されたリーダーとしてイスラム世界の長・サラディンを描いていたのに呼応するものだと考えられよう。CIAと手を組み、原理主義テロリストの掃討作戦にも協力をするが、独自の行動規範や手法、情報網を駆使し、彼を欺こうとするものの常に一歩、二歩先にいるのが、このマーク・ストロング演じるキャラクターである。西欧社会との接点であり協力者であるが、簡単に利用される男ではない。ミクロにおいて全てを手玉に取りながら、マクロにおける互いの世界の最大利益を考えることのできる男なのである。

この映画は興味深い様々な要素をありったけつめこんで見せるために、アベレージのハリウッド娯楽映画に比べるとストーリー・ラインが必要以上に複雑に感じられ、うまく整理がついていないように感じられる。複雑な世界情勢を単純な娯楽映画のフォーマットに流し込む過程で、どちらも立たず中途半端になったきらいもある。フォーミュラのはっきりした娯楽映画に振るならば、スコット(兄)よりもスコット(弟)のほうがうまく手綱をさばいて見せただろう。しかし、善悪のはっきりしない混沌の中にエンターテインメントを見出すことができれば、これは意外に見応えがあり、示唆に飛んだ作品だといえる。

12/16/2008

Che (Part-I / Part-II)

チェ 28歳の革命(☆☆☆)
チェ 39歳別れの手紙(☆☆☆☆)

1本の映画として(☆☆☆★)

監督であるスティーヴン・ソダーバーグが、歴史的事実にこだわって作ったと語る、7年越しの企画、『CHE』。アカデミー賞を賑わせた『トラフィック』でコンビを組んだベニシオ・デルトロを主演(Executive producer兼任)にした、合計4時間半、6000万ドルをかけた(当たり前というべきか、驚くべきことに、というべきか)全編スペイン語による大作だ。完成に至るまでには自らが製作に回り、テレンス・マリックを監督に起用する話もあったようだが、結局、当初の予定通りにソダーバーグ監督の手で完成した。(白状しておくと、ソダーバーグは苦手だが、マリックはもっと苦手だ。)

映画は、カストロの誘いにのったチェ・ゲバラがキューバに上陸し、ゲリラを組織しながら革命戦争を戦い抜くまでを描く第1部(Che: Part-I 『28歳の革命』)と、彼がキューバを去り、変装して入国したボリビアでゲリラ戦を戦うも、ボリビア共産党や民衆を味方につけることができず、CIAの強力な支援を得た政府軍によって追い詰められ、殺害されるまでを描いた第2部(Che: Part-II 『39歳別れの手紙』)にわかれている。それぞれ135分の長さにきっちり等分されているが、フラッシュバックを使って革命戦争後のインタビューや国連演説を挿入するシネマスコープ・サイズの第1部、淡々とリニアな時間軸で描いていくビスタ・サイズの第2部と、スタイルや画面サイズが変化するという、ソダーバーグらしい変則技が用いられているのが興味深い。そして、少なくとも日本においては、これらが2本の映画(2部作)として、1本ずつ、時期をずらして連続でロードショーされることになる。

2本にわかれているとはいえ、しかし、観終わった印象としては、やはり、これは1本の映画なのだ、ということに尽きる。第1部において挿入された国連での演説シーンや、米国、南米各国とのやりとりは、第2部への伏線と動機を与えるものになっていること、第1部での成功と、第2部での失敗が常に対比されるように描かれていることがあり、2本の映画として時間を置いてみるよりは、1本の映画として続けてみるほうがドラマティックな効果をもたらすのは明白だと思う。(実際に、作り手もそもそも1本の映画として鑑賞してもらうことを意図した旨は語っている。)ただ、4時間半はあまりに長い。第1部、第2部それぞれを30分ずつ摘み、合計3時間の映画として公開したらどうなのか、などと思ってしまう。もちろん、題材に思い入れのある作り手としては、もうこれ以上切る場所がないと思っているのだろうし、「これ以上切るなら縦に切れ」ではないが、丁度、内容的にもスタイル的にも変化のある真ん中で切って2部作とすることを選択したわけだろう。それはBDなりDVDなりの完全版でどうぞ、というアプローチがあっても良かったのではないか。

全体を通した共通するスタイルは、対象にぐんぐん肉薄していくと同時に、説明的な表現は最小限に留めた(監督得意の)ドキュメント・タッチである。第1部では、そこに白黒のフラッシュバックで、革命戦争後、国連演説のために米国を訪れた際に行われたと思われる米国人レポーターによるインタビューと、国連での演説がかぶさることで、チェの考え方や意図が本人の口から説明されるという体裁をとっている。ここではさまれるインタビューにおいて、過去の出来事についての質問にチェが答えているのだが、実際に画面に映し出された(映画の中での)真実と、彼が後に語っていることのあいだにある微妙な温度差や距離というのがスリリングであり、映画のアクセントとなっているのが面白い。また、第2部においては、兵士の士気、軍隊の規律、農民との関係や共闘、「外国人」としてのチェの立ち位置など、キューバ革命戦争時との違い、歯車の狂いがひとつひとつ対称的に描写されていくにつけ、悲痛なほどの重苦しさが画面に充満してくる。ここは、理想を掲げて革命軍の指導にあたりながら、八方塞のなかで敗走を繰り返し、死にいたるという典型的な敗北の美学、ドラマがあるのだが、映画はそれを静かに、抑制の効いたタッチで、あくまで客観的に、淡々と描いていく。ここは、第1部で描かれたキューバ革命戦争や、そこでのチェを対比において、観客が脳内でチェの主観的な世界を補完していかなくてはならない。映画がそこに立ち入り、作り手の解釈を押し付けるのを避けたのは、題材ゆえに適切で冷静な判断であったと考える。

出演者の中に、あらおなつかしやルー・ダイヤモンド・フィリップスがいたり、マット・デイモン&フランカ・ポテンテの『ボーン』な2人がいたりするのを見つけてニヤニヤしてしまった。いや、あまりにも知らない顔ばかりの映画で、知ってる顔に出会うと、ほっとするんだよね。やっぱり。

12/06/2008

WALL*E

ウォーリー(☆☆☆☆★)

ホリデイシーズンを当て込んで発売され、届いてしまった北米版BDの誘惑に負けまいと、封を切らずにじっと耐えること数日。公開2日目の土曜日に劇場に馳せ参じた次第、これが期待に違わぬ「映画」であった。日本公開をかくも遅らせ映画好きをいらいらさせた以上は、きっちりヒットを飛ばして多くの観客が劇場で作品を楽しめるようにするのが配給会社の責務といえよう。

しかし、まさに「映画」、なのである。このルックス、このフィール。ことにほとんど台詞抜きで進行する映画の前半は、話には聞いていたとはいえ実際に目にすると見ているこちらまで言葉を失ってしまう完成度だ。廃棄物の山で摩天楼が築かれた廃墟の未来世界の圧倒的な説得力。そこでひとり黙々と「任務」をこなす(『E.T.』や『ショート・サーキット』の"ジョニー"こと"No.5"に似た)Wall*E の健気さ、孤独、そしてささやかな楽しみを動きや音で表現しきる演出力。さまざまなアイディア。ただのCG映像ではない。単に緻密なだけではない。映画としてどのように見せるべきか、どう語るべきか、何を語るべきか、検討しつくされた成果がそこにある。

Pixar の作品はいつでもいわゆる「アニメーション」作品であるまえに、「映画」として成立している。脚本を練りこむのに相当の時間とエネルギーを注ぎ込んでいることはよく知られたはなしだが、本作では実写映画の世界ではその名の知れた(コーエン兄弟の諸作品などを手がけている)撮影監督ロジャー・ディーキンスや、特撮のデニス・ミューレンをアドバイザーとして招き、実寸の模型を作り、照明のあてかたやレンズの選択による見え方の違い、「特撮要素」の効果的な見せ方に至るまで研究しつくし、検討しつくし、それを作品に反映させてきているという。先に、「単に緻密なだけではない」と書いたが、CGが精緻だから実写に見えるのではない、実写映画だったらどう見えるか、どう見せるかを精緻に再現しているから実写に見えるのだ。これには舌を巻くしかあるまい。2Dのトラディショナルな技法から3DCGアニメーションへと技術が革新された以上は、それに見合った新しい製作プロセスや考え方が必要だということを、誰よりも良く理解し、実践しているのがPixar だといえる。それは、他の追随を許さない作品の質において実証されている。

ストーリー面では、宇宙船内でのアドベンチャーに転ずる後半が評価の分かれ目であろうか。前半ほどのオリジナリティを獲得できていないとはいえ、どうしても突出しがちなSF的アイディアやメッセージ性を出来るだけ抑え込みつつ、昔ながらのスラップスティック的アニメの楽しさを職人的に再現してみせ、なかなか楽しい出来栄えではあるが、これを凡庸と感じる向きもあろう。Wall*Eと(西原理恵子の「いけちゃん」似な)EVEのラブ・ストーリーから逸脱しない筋の通し方も見事なら、反乱を起こすマシーン・AUTOの意匠的なオマージュにとどまるかと思われた『2001年宇宙の旅』が、突如、あの音楽が、あの瞬間に、人類の「進化」の象徴として鳴り響くという見事なアイディアには心から感服させられた。そして楽観的といわれようがなんといわれようが、この希望に満ちた結末は、こんなご時勢だからこそ感動的だといえるのではないか。それに続いてのエンドクレジットもまた、その後の物語、人類の進化というモチーフを補完する役割を果たしており秀逸だ。

11/28/2008

The X-Files: I Want to Believe

『X-ファイル: 真実を求めて』(☆☆☆)

まあ、贔屓目に見ても、なぜ今なのかよくわからないシリーズ「最新作」なのである。でも、まあ、そういわず。

そもそも、1993年にFOXチャネルで放送が開始されたTVシリーズ『Xファイル』は9シーズンの長きに渡って人気を博した画期的なSfi ミステリーであり、2002年に放送が終了している。この間、第5シーズンと第6シーズンのあいだにあたる1998年の夏、劇場版1作目である『The X-Files: Fight the Future (Xファイル・ザ・ムービー未来と闘え』が公開されたから、今回の映画はシリーズ2本目の劇場作品ということになる。原則的に一話完結のスタイルをとりながら、シリーズ全体を貫いて異星人と政府の陰謀にまつわる連続したプロットが展開され、これがいわゆる "Mythology" と呼ばれるものである。劇場版1作目はその一部をなすストーリーであった。

TV版完結から6年、シリーズのクリエイターであるクリス・カーター自らが監督にあたった本作は、久方ぶりの劇場版という「イベント」に対して大方のファンが期待したであろう "Mythology" に連なるスケールの大きな一編、というわけではなく、猟奇的な連続殺人の捜査に協力することになった「元」FBI捜査官のモロダーとスカリーの姿を描くものである。捜査に行き詰ったFBIに請われた二人が、「幻視」による情報提供ができるという「自称超能力者」と共に、臓器移植にも絡んだ事件の真相に迫っていくという話だ。超能力者の「能力」は本物なのか?単なる偶然か?裏があるのか?事件解決の過程で2人はそれぞれの信念を試されることになる。

お話しからも察せられるように、こぢんまりと作られた作品である。なんのことはない、本作のバジェットは3,000万ドル程度だということで、6,600 万ドル程度といわれていた劇場版一作目の半分にも満たない金額、今日の基準なら小規模といっても差し支えないだろう。夏興行で惨敗したことが伝えられているが、この規模の作品だったら海外市場とパッケージ・ソフトで十分回収できるという読みもあったのか、さすが、TV屋の作る映画は経済的である。

そんなわけで、ファンの期待との異なる内容で興行的にも失敗した低予算の、旬を過ぎた「最新作」。そんなイメージからすれば、この内容が想像以上に良くできたものであるのはうれしい驚きの部類に入るだろう。

なにしろ、ここには「X ファイル」のエッセンスが詰まっているといってよい。

なんといっても、まずはその雰囲気だ。表面上は猟奇殺人事件を追うFBIという手垢のついたプロットであるのに関わらず、おそらく、"spook" という表現がしっくりくるような、「得体の知れない薄気味の悪さ」が劇場のスクリーンから漂ってくる。今回、シリーズ最初期に撮影を行い、ドラマのヴィジュアル面での雰囲気を決定付けるのに大きな役割を果たしたバンクーバーに撮影場所を戻した意図は、この、Xファイルらしいルックスを取り戻すためだったに違いない。

そして、ストーリーである。事件の顛末に常軌を逸した飛躍を用意して、単なる「猟奇的殺人」にとどまらない怪奇ファンタジー、ミステリーに仕立てるあたりはシリーズの真骨頂だが、それよりも何よりも、ドラマの中心に「I want to believe」(=原題サブタイトル)をテーマとして据えたことに意味がある。嘘かもしれない、証拠もない、論理的な説明もつかない、現実味がない、それでもなお、信じたい、信じるほかはないという強い気持ち、信念、それに基づく行動。これは、まさにこのドラマ・シリーズの中心にある大テーマといってよい。

一方、逆説的ではあるのだが、この作品が "classic" と呼びたいくらいに原点に忠実であるからこそ、だったらTVスペシャル、TVムービーでよいのではないか、敢えて劇場版にする意味合いはどこにあるのか、と問われてしまうのが作品としての弱みであろう。個人的には、あの「Xファイル」の、当時としてはTVドラマの枠を完全に凌駕していたあの雰囲気を劇場のスクリーンと音響で楽しめるということに価値を感じるし、丁寧なドラマ作りには十二分に堪能したのだが、もしかしたら、シリーズのファンであればあるほど、次がいつになるか分からない(次が存在するのかどうかも分からない)状況で、やっと目にすることができた貴重な1本がこれであることに落胆を感じるものなのかもしれない。まあ、興行的不振なぞ気にせずに、次々と新しいエピソードを製作してくれさえすれば、シリーズが200を越えるエピソードの中で培ってきた作品としての幅を再現できるようになるんだろうけどね。

Suspect X

容疑者Xの献身(☆☆★)

「テレビドラマの映画版」が興行的に幅を利かすようになって、もちろん、出来不出来の差、興行の具合もそれぞれなれど、しかし、一方では常に「こんなのは映画じゃない」と揶揄され続けている現実に、一番忸怩たる思いでいるのは作り手たち当事者なのかもしれない。もちろん、テレビで大衆に受けいれられた方法論に対する自負はあるだろう。しかし、そもそも映画好きが多いのだろうと想像する作り手の側だって、(テレビドラマとは一味違う)本格的な映画を作り、そのように受け入れられ(評価され)たいという思いを抱いているに違いない。本作を見て、そんなことを思った。この映画は、そう、いってみれば、そういう作り手の抱いている心情やコンプレックスの吐露のようなものだ。

東野圭吾の原作を基にしたテレビドラマ・シリーズ『ガリレオ』のヒットを受けて映画化と相成った本作は、当たり前のことながらテレビドラマのキャストや設定、スタッフを踏襲してはいる。しかし、同時に「これは小説の映画化である」との立場やメッセージも発信されたところが興味深い。事実、タイトルに『ガリレオ』の名を冠することもなく原作タイトルをそのまま用い、テレビドラマ発祥のキャラクターにはあまり重要性をおかず、ドラマで確立した毎回のお約束的な表現や描写を反故にし、作品のトーンも明らかに違うものに仕上げてきた。それは、原作のトーンとドラマのトーンの落差をどう扱うかという点における落としどころでもあっただろう。しかし、興行上のリスクを回避するためにドラマの知名度や人気に便乗はするが、自分たちは評価の高いベストセラー・ミステリー小説を「映画」化するのであると、ドラマ抜きで評価に耐えうる映画を作るのだという意識を濃厚に反映した結果が、本作の立ち位置を定義していると考えるほうが自然というものだろう。

そういった意味で、本作はイベントとしての「ドラマの映画版」程度のものではなく、きちんと「映画」足り得ているというのが、作り手の狙いであり主張だと思う。しかし、そういう視点で見ると、これはちょっと物足りない、それもまた事実である。

べつに、テレビドラマ版のファンサービスとでも言うべき冒頭の大掛かりな科学実験や、エンディングで申し訳のように流されるテーマ音楽が映画のトーンと整合性がない、ということをいいたいのではなくて、堤真一と松雪泰子が出ているところは映画の雰囲気があるのに、福山雅治が出てくると全くもって台無しだということでもない。(映画の成り立ちを考えれば、それくらい許してやってもいいじゃないか!)

そうではなくて、本作で描かれるべきドラマの核がどうにも薄っぺらにみえること、そこが物足りないと思うのである。映画の演技ができる俳優を連れてきて、その演技に頼り切れば自然に映画になるわけではない。この映画には、脚本で舌足らずなところをきっと「役者の演技」が補ってくれるだろうという楽観と、TV的な娯楽に慣らされた観客に向けた言葉や理屈による(あまりにも安易な)説明はあるのだが、その中間がない。堤真一演じる男の心情を、本当に納得のいくかたちで描き切れていれば、この映画はもっと化けたかもしれない。感動を呼べる作品に仕上がったかもしれない。そう思うと、つくづく、もったいないことだ。

Happy Flight

ハッピーフライト(☆☆☆☆)

見事なプロフェッショナル賛歌である。それぞれが、それぞれの持ち場で、果たすべき役割をきっちり果たす姿の、その清清しさ。働くこと、責任を果たすことの美しさ。そして、映画的な大事件を持ち出さずとも、日常のディテールをきちんと積み重ねていくだけでかくも映画的な映画ができるという面白さ。ここには、単なる薀蓄映画を超えた面白さと感動がある。

この映画の面白さは、一義的には「飛行機を飛ばす」ことに関わる人々とその仕事ぶりを、表も裏も、徹底的なリサーチによって表舞台にのせたことにあるわけで、そこにかけられた手間隙もさることながら、協力したエアライン会社(ANA)もまた賞賛されてしかるべきだろう。

ただ、この映画の良いところは、研究発表会に終始する愚を冒さなかったことだ。多少の誇張や偶然をスパイスに、「一本のフライト」に多彩な人々の「仕事」を凝縮してみせた脚本の小気味よさと、その群像劇を支える絶妙のキャスティングによって、映画として、エンターテインメントとして、きちんと消化されているところが素晴らしい。

特に、個性的な役者を適材適所に配置してみせる目利きの確かさに惚れ惚れしてしまう。こういう映画で必要なのは例えタイプキャストといわれようとも、一目見てわかる画的な分かりやすさがポイントだ。たとえば、指導教官が小日向文世から時任三郎に交代するにあたり、時任演ずる教官がどのような人物か知らなくても、そこに立っている彼という「画」を目にした観客が一瞬で事態を把握できること。たとえば、寺島しのぶがそこに立つだけでピリッと走る緊張感を、綾瀬はるかのみならず観客もまた共有できるということ。キャスティングがキまっていれば、余計な説明は要らない。テンポの良い映画に仕上がっているのは、そんなところにも理由があろう。

矢口史靖監督がよくやる大げさでわざとらしい「コメディ」演出を封印していたのは好印象であった。本作では、あくまで「ある状況」におかれたプロフェッショナルたちの、しかし、とても人間的なリアクションが程よいユーモアとなっていて、洗練された仕上がりだ。そう、プロの仕事を見せるのに、作為的なドタバタはいらない、その判断は絶対的に正しい。

11/23/2008

Tropic Thunder

トロピック・サンダー史上最低の作戦(☆☆☆★)

『ズーランダー』を見るために初日のシネパトスに並んだ当方としては、ベン・スティラーひさびさの監督作がそれなりの規模で全国ロードショーされると聞いただけで嬉しくてしょうがないわけで、実際に見にいってみたら、このひとがアクション・シークエンスからスペクタクルなシーンまで、(支えるスタッフがしっかりしているとはいえ)意外や意外、監督として並外れた器用さをもっている事実まで確認できたわけで、もうこれ以上ありがたいことはない。足りないことがあるとすれば、オーウェン・ウィルソンの不在だが、(たぶん代打で出演だと思われる)マシュー・マコノヒーも面白かったので、それでよしとしたい。TiVoだよ、TiVo!契約は守らせたぜっ!

宣伝で勘違いされていると困るのだが、これはかつてZAZがやっていたようなナンセンスものでもないし、たとえばScary Movie シリーズがやっているような単純なスプーフもの(=おバカ映画)ではない。これは、時にブラックな皮肉の効いた風刺劇とでもいうようなもので、その対象は特定の映画というわけではなく、ハリウッドの映画作りと俳優を中心に、エージェント・プロデューサーなど、その周辺の人種を笑いのめそうというのだから怖いもの知らずである。俳優とエージェントについてはそれなりに救いもある描き方がなされているのだが、ダイエット・コーク中毒のハゲデブ(ただしチビではない)ハーヴェイ・ワインスタインをメインに創作された大物プロデューサーの描写だけは容赦がない。それをハゲ&デブ・メイク(チビはメイクではない)で真剣に熱演する某サイエントロジー信者の、目が笑ってないあたりの恐ろしさときたら、もう、なんと表現したものか。このひと、結局、この映画をさらってしまった。

まあ、俳優の描き方には救いがあるとはいうものの、スタローンやチャック・ノリスといった筋肉俳優や、ダニエル・ディ・ルイスやラッセル・クロウのような演技派俳優は笑って済ますことができたとしても、意外に冗談の通じないやつであることがばれてしまっているエディ・マーフィは多分、怒るだろうな、などと想像するのもまた楽しかったりする。当然、期せずして人気大爆発のロバート・ダウニーJrの、このコメディに出自をもつ超絶演技派俳優の力技を堪能するだけでも入場料金の元はとれる。もう、いかようにでも楽しめる作品である。

もちろん、ベン・スティラーのギャグのセンスは相変わらず冴えている。しかし、ネタも濃ければ見せ方も濃く、東南アジアのジャングルを舞台にむさくるしい男たちが出てくるという画面もまた濃いため、分かる・分からない以前に、合う・合わないというファクターはあるので誰にでも薦められるかというと難しいのだろう。また、さすがに1億ドル級の大作とあって、『ズーランダー』にあったようなリラックスした気楽なくだらなさを積極的に許容する余裕には欠けるところが少々息苦しくはあって、その辺が少々物足りない。次は、もっと小さな予算の気楽なやつで一発、お願いしたいよね。

11/22/2008

1408

1408号室 (☆☆☆★)

『地下室の悪夢』や『ブロス・やつらはときどき帰ってくる』といったクズものを追いかけて数少ない上映館を捜し歩いたころに比べたら、『ミスト』やら『1408号室』といったまともな出来の作品を、まともな劇場で見ることができた今年はなんと幸せなことだろうか。そう、スティーヴン・キング原作の『1408号室』は、まともな役者を使い、真っ当な演出で見せる、とてもまともな映画なのであった。その事実だけで、まずはめでたい、そんなふうに思ってしまう。

これはいわゆる「邪悪な家」ものの変種である(個人的な気持ちとしては、「呪われた」というのとはちょっと違う)。邪悪な家といえば、あの『シャイニング』の原作がそうなのだが、一般に評価の高いキューブリックの映画版はその「家(ホテル)が邪悪」という原作のポイントにはかなり無頓着であったのも事実である。まあ、それが、「やつはホラーをわかっていない」という原作者の評価につながったのだろう。短編を土台としてわりと自由に膨らませように脚色している今作は、この「部屋そのものが邪悪であり、その邪悪なる存在が、人間の心の一番弱いところにつけこんでくる」というところを物語の要諦において、オカルトを信じない作家の、心の奥底に眠っている感情の澱を抉り出していく。

ジョン・キューザックが演じる主人公は作家である。かつては真っ当な小説でデビューしたこの男、いまでは「オカルトスポット」を訪ね歩いて怖さを評価付けするような本で生計を立てている。主人公の生業を説明した映画は場面をNYの名門ホテルに移す。ミステリアスな「招待」によって、辛い思い出の残るこの街やってきた主人公が最初に対峙するのがサミュエルL・ジャクソン演ずるホテルの支配人だ。独特の台詞回しとギョロ目を武器にした、ものすごい迫力と威圧感。基本的にジョン・キューザックの一人芝居になるこの作品のなかで、Aリスト級の役者が向かい合って演技を披露するこのシーンは大きな見所のひとつである。サミュエル・L・ジャクソンが得意な、演出過剰といってもよい大芝居をたっぷりと楽しむのが正解だろう。個人的には、これだけで元がとれるくらい面白かった。

主人公は、当然のことながら支配人の制止を無視して、いわくありげな部屋に入ることになる。序盤戦は安っぽい脅かしも含めて、B級ホラー調で始まる。中には、見せ方や音楽、効果音などなど故に「ホラー」になっているが、冷静に考えると、おいおい、それって怖いのか?みたいな小ネタばかり。隣の部屋のひそひそ声も、水やお湯の出がおかしい蛇口も、まともに動作しないエアコンも、使い方が良く分からない目覚ましラジオが突然へんな時間に大音量で鳴り出すのも、確かに嫌、だ。しかし、そんなものは怪奇現象とはいえまい。「オンボロ・モーテルにとまってしまった怖がりキングの妄想が爆発」したんだとなんだな、と思ってみているとかなり笑える。しかし、こんなものでもどんどん積み重なっていくことで、主人公の精神は次第に追い詰められていく。解決法を見つけたと思えば、結局のところそれが徒労に終わるという展開を繰り返していくうちに、観客は、心理的な(そして物理的な)逃げ場を失っていく主人公の、そのプロセスに感情移入させられ、主人公同様の閉塞感や絶望感を共有させられる。これが、この映画が醸し出す恐怖の源泉となる。

主人公を演ずるジョン・キューザックがうまい。先に述べたように、全編、ほぼ一人芝居状態であるが、超常現象なんて何ほどのものとふてぶてしく振舞っていた男が、徐々に「部屋」のペースに巻き込まれて正気を失い、大きな決断にいたるまでの心理状態に、説得力をもたせている。最後の最後に至って、オカルトなど信じないといっていた彼が心の奥底で、それとは反対の何かを切望していたことが示唆されるが、このあたり、彼の演技に泣かされるのだ。80年代から彼を見ている当方としては、この人が「娘を失った父親」を演じるような年になるとは信じ難いことなのだが、こちらもそれだけ年をとったということか。

2大俳優の演技対決、というのとはちょっと違うが、実力十分の役者たちが大芝居を打つさまは、映画館で見るに十分な理由足る。キングの短編ホラーの映画化で、ここまで力の入ったものを見られるとは予期しないだろうから、得した気分になれること請け合いだ。スウェーデン出身、ハリウッド・デビュー作となるミカエル・ハフストローム監督、なかなかやるじゃないか。

11/21/2008

Diary of the Dead

ダイヤリー・オブ・ザ・デッド(☆☆☆★)

ジョージ・A・ロメロ脚本・監督による「ゾンビもの」最新作の登場だ。死者が甦って人々を襲う事件が発生する。自分たちが目にしたものを全てカメラに収めようとする主人公らであったが、行く先々で衝撃的な出来事に遭遇し、また、既製の報道機関が信用できなくなり、記録を残すことへの使命感のようなものが芽生えていく。出演はミシェル・ローガン、ジョシュ・クローズ、ショーン・ロバーツら見覚えのない顔で、前作『ランド・オブ・ザ・デッド』と比べても低予算なのが見て取れる一方、そこらへんの学生、という設定ゆえのリアリティはあるわけで、一石二鳥とはこういうことだ。

結局、「ネットで誰もが情報発信できる世界」と、「ドキュメンタリー風ビデオ主観映像」のアイディアをうまく融合できたのかというと、必ずしもそうでないと思うのである。世界中の様々なところから、真贋さまざまな映像が寄せ集められ、編集され、世界が終わっていくさまを多面的多重的に見せる映画かと勝手な想像をしたりもしていたのだが、内容はといえば、卒業映画製作にとりくんでいた学生の一団が遭遇する恐怖とその顛末を追いかけたオーソドックスなストーリーを、ドキュメンタリー風主観映像で見せているということだ。

もちろん、登場人物のひとり(場面によって複数)がカメラを抱えていること、という事実が、恐怖や病的な笑いにつながっていたり、登場人物間のドラマを生み出すきっかけになっていたりと、ストーリーと密接に関係しており、本策が単なるルックスだけの安易な物まねではないことは明らかだ。こうした設定が作劇上どのように活きてくるのか、徹底的に考えられ、練られ、消化されていなければこういう芸当は難しかろう。

また、このスタイルは作り手の問題意識とも密接にリンクしている。

この作品では、既存のメディアの情報操作や権力による報道管制に対する不信や嫌悪と、誰もが自由に情報発信できる世の中の可能性や希望が描かれている。一方で、単なる傍観者としてカメラのこちら側に立つことにより、主体者であるカメラの向こう側とのあいだにうまれる溝も描いている。また、極限の状態に置かれた人間の倫理観やモラルについても赤裸々に描きだすことに成功している。映像としての過激な人体破壊で観客を楽しませながら、無見識にゾンビを射撃の的のように扱うひとびとの精神構造のおぞましさも、主観映像のカメラ越しに描き出されている。

そうした社会性や批評精神を色濃く湛えながら、しかし、この作品は徹頭徹尾ホラー映画であり、娯楽作品であることから逃げたりしないのである。尋常ではない出来事に遭遇した、普通の人々のサバイバルを、ある種の病的なユーモアと共に描いていくその語り口は王道だ。刺激の強さや生理的嫌悪感のみに頼らず、こけおどしのサウンドやエフェクトに依存せず、世界が終わっていくさまを目の当たりにする恐怖、闇の中からたち現れる生ける屍の恐怖を、人あらざるものに変貌した親しい人間を目の当たりにする悲しみや葛藤を、正攻法で見せる。オールド・ファッションかもしれないが、時代遅れではない。70歳を超えるゾンビ・マスターの腕は、いまだに衰えていないばかりか、的確だ。

P.S. I Love You

P.S. アイ・ラブ・ユー(☆☆★)

『300』でのマッチョぶりが記憶に新しいジェラルド・バトラーと、『ミリオンダラー・ベイビー』でのタフさが目に焼きついたヒラリー・スワンクに、それぞれのイメージを覆すスウィートなロマンスをやらせようという企画そのものについては、なかなか良いと思うのである。もちろん、二人に凶暴なカップルの暴走とか、お互い死ぬまで譲らない離婚闘争(『ローズ家の戦争』かよ!)とかをやってもらっても結構だと思うのだが、この秋のもう一本のほうのロマンス映画のカップル(リチャード・ギア&ダイアン・レイン)のように手垢のついた予定調和とは違った新鮮さがあるではないか。

そして、ストーリーである。先立ってしまった夫が自分の死後の妻を思い、先回りをしていろいろな手配や仕掛けを済ませた上で10通の手紙でメッセージが届くように取り計らう。死んだはずの夫の指図で行動をするうち、夫のいない新しい人生に踏み出していけるようになる妻。思いを残した死人があれこれ残されたものの世話を焼くファンタジーな話も過去にはあったが、これとは似て非なる「死者が残した手紙とその計画」というアイディアはロマンティックだし、面白い。

しかし、この映画、どうにもピリッとしない。脚色と監督を兼ねるのはリチャード・ラグラヴェネーズ。まず、導入が悪い。2人の仲の良い様子はどうせ回想を挟み込んだ展開になるのだから、冒頭で描かなくともよかろう。また、主人公の姉妹に関わるエピソードも賑やかしのつもりかもしれないが、本筋の邪魔である。さらに、主人公を脇で見ている男との関係を描くエピソードは、「主人公の自立」と「死者の思い出との決別」という観点で柱にしたいのか、単なる付け足しなのか、描き方が中途半端。それに「10通の手紙が届く」というのだから、せめて、どのメッセージが何通目かわかるように、物語にアクセントをつけながらリズムを刻んでいけばもう少しテンポよく仕上がったんじゃなかろうか。この程度の内容の映画で2時間を越えるのは出来の悪い証拠と考える。

脇の出演者では相変わらずキャシー・ベイツが巧い。リサ・クドローはお笑いパートで、ジーナ・ガーションやハリー・コニックJrにはには見せ場なし。こうしてみると意外にも豪華キャストだったのね。無駄使いな感じだけどさ。

最後に文句。ポスターにある、『プラダを着た悪魔』プロデューサーX『マディソン郡の橋』脚本家って何よ。近寄ってみてみたら小さな字で名前が確認できるというならわかるけど、主要スタッフの記載のない看板やポスターばかりなのな。最近、「XXのスタッフが送る」とか、わけのわからん宣伝がまかり通っているのだが、名前を書きなさい、名前を。あと、日本版主題歌とかいって、音楽を勝手に差し替えるのやめてくれないかな。ディズニー・アニメの日本語吹替版じゃないんだから。ターゲットとする女性観客がそんなのを喜ぶと思っているのが、いったい「侮辱」といってよいのか、もしかして、ほんとうにそんなんで喜ぶほど観客層の頭がユルいのか、どっちが真相なのかは知らないけどね。

11/14/2008

Letherheads

かけひきは、恋のはじまり(☆☆)

藤子F不二夫の死後に作られた『ドラえもん』映画をみて、ドラえもんをみているというよりも、ドラえもんに関する研究発表を聞かされているような気分になったことがあるが、これはまさにそんな感じの一本であった。

つまり、ジョージ・クルーニーが本作を作るに当たって数多くの古き良きスクリューボール・コメディーを見て研究したというが、スクリューボール・コメディに関する講釈をきかされているような感じで、ちっとも笑えないし、ちっともロマンティックでないあたりが致命的な1本だと思う。出来てまもないプロ・アメリカンフットボールを舞台にしたロマンティック・コメディ、というのが狙いだと思うが、それぞれの要素がバラバラでうまく噛み合っていない上に、テンポまで不必要にのろい。困ったなぁ。

以前に見た白黒作品『グッドナイト&グッドラック』(力作!)を見たときにもどこかで感じていたのだが、ジョージ・クルーニーが監督した映画を見ていて感じるある種の窮屈さは、結局そういうところにあるのではないか。決して下手ではない、むしろ技巧もあるし、志や狙いもわかるのだが、あらかじめ決めたコンセプトからはみでないように注意深くコントロールされて作られた故の息苦しさ。画面が活きていない。空を飛ぶ蝶でなく、ピンで留められた標本。料理でなく、埃をかぶった蝋細工見本とまでいったらいいすぎか。

アメフト草創期の実話に着想を得たと思しきキャラクターやエピソードの面白さまでは否定するものでもなく、脚本段階ではさぞ面白く読めたであろう。衣装やプロダクション・デザインも大変によい仕事で時代を再現、お気軽な映画にしては入念なつくりは、さすがハリウッドである。

11/09/2008

Red Criff Part-I

レッド・クリフ Part-I(☆☆☆)

『七人の侍』で言えば、役者が揃って舞台が整って、はい、「休憩」というところで映画が分割され、Part-II に続くというのだから、生殺しだ。まあ、前半戦で2時間半もあるのだから続けてみるのはきついのも事実。

登場人物も多ければエピソードも豊富な三国志を映画にするとなれば、常に、焦点の定まらないものになる危険がつきまとうわけだが、「赤壁の戦い」に絞った脚色と、本当のメインキャラクター以外の登場人物に説明しなくても分かるだろうといわんばかりの類型化を施した脚色で、長尺の割に単純で分かりやすい作品になっている本作は、とりたてて熱心な三国志ファンでなくとも置いていかれることはないあたりが興行的には塩梅が良く、とはいえ、コアなファンがあーでもないこーでもないと講釈を垂れたり、これまでにないスケールで映像化されたその世界に酔ったりするにも都合がよいという、絶妙のさじ加減。

では、ジョン・ウー好きにはどうかといえば、そりゃ、もちろん、ハリウッドでの近作2本の精彩のなさを補って余りある「漢祭り」が繰り広げられ、、、といいたいのはやまやまだが、登場人物と舞台設定の紹介に終始するこの Part-I までのところではちょっと物足りなさが残る。確かにトニー・レオンと金城武が目と目で通じ合ってしまったり、楽器の音色と旋律で会話してしまったりする超絶描写にはグッとくるし、合戦シーンの凝った組み立てや振り付けには目を奪われもするのだが、ドラマとしての盛り上がりが後半に持ち越されているだけに、どこどうしても熱さに欠ける。その不満はPart-II で晴らしてくれるものと期待を込めての評価としよう。

作品そのものとは関係のないことだが、「名前が難しいし、似たような顔で誰が誰だか分からない」などと言い出す「ゆとりな顧客」に配慮してか、字幕版では「大河ドラマかよっ!」と呆れるほど、しつこいほどに人物名をテロップで挿入していて、これがもう、たいへんに目障りであった。ジョン・ウーは少なくとも主要なキャラクターに対しては一目見て誰が誰だか分かるようなキャスティングをしており、それぞれの役者のメイクやいでたちも個性的で、これが見ていて分からないとなれば、字幕で笑いどころを教えてくれるバラエティ番組を見過ぎて、脳味噌が腐ってしまっているのだろう。冒頭の日本語による状況説明パート挿入は、一瞬、吹替版に入ってしまったかと焦ってしまったとはいえ、特大のヒットを狙う以上、あってもよい配慮の範疇かと許容できるが、作品中、画面を汚すだけのTV放送と見まごう白文字テロップは必要最低限に絞ってもらいたいものだ。

10/25/2008

The Other Boleyn Girl

ブーリン家の姉妹(☆☆☆★)

16世紀、英国国王ヘンリー8世は流産と死産を繰り返し世継ぎとなる男子を産むことができないキャサリンとの「婚姻の無効」をローマ教皇に申し立てるも認められることがなかったため、教皇庁との断絶を選び、英国国教会を成立せしめるに至る・・・などと書くと面白くもなんともないのだが、この映画は、堅苦しい世界史教科書の記述の裏側にあるスキャンダラスな史実を基に、女たらしで飽きっぽいヘンリー8世と、姉妹ともにヘンリーの愛人となったアンとその妹メアリーの3人を中心にすえた、下手な昼メロが吹き飛ぶようなドロドロの愛憎メロドラマとして仕上がっており、娯楽性十分の一本だ。この作品は、そういう下世話なところが面白いのであって、ソープオペラのようだという非難はお門違いだろう。

何よりもまずキャスティングが豪華。邦題にもなっている「ブーリン家の姉妹」を、この秋それぞれ別の主演作も公開されているナタリー・ポートマン(『宮廷画家ゴヤは見た』)』とスカーレット・ヨハンソン(『私がクマにキレた理由』)が演じ、ヘンリー8世はエリック・バナという布陣。背が低く色黒でやせっぽちで小賢しいアン・ブーリンをポートマンに演じさせる一方で、色白豊満な美人といわれる妹をヨハンソンに演じさせるキャスティングは、ビジュアル的も実力的にもこれ以上望みようがあろうか、というべきもの。本作の見どころのひとつは2人の演技合戦ということになろう。

しかし、実のところ本当に貢献の高いのはピーター・モーガンによる脚本だろう。もちろん、「史実」を元に昼メロドラマをつむぎ出してみせたフィリッパ・グレゴリーの原作小説があってのことだとは思うが、英国史になじみのない観客にもとっつきやすく状況を説明し、政治的な背景にはあまり踏み込まずに愛憎関係にフォーカスをあてていく手際のよさは鮮やかなものである。複雑な人間関係や感情の機敏を実に的確に描いて分かりやすく、かつ、面白い。登場人物は類型的に描写されているように見えるが、それぞれの立場で、それぞれの判断を下すさまが見て取れる。権力欲に取り付かれた新興貴族である姉妹の家族の描写などもさじ加減がよく、権勢を極めるも最後は断頭台で命を落とすアン・ブーリンの空しく哀れな顛末を描く筆致も見事である。遠い昔の愛憎劇を描きながら、単に「現代的」であるのではなく、現代に通じるドラマを見出すことができるのである。

監督のジャスティン・チャドウィックはTVドラマ出身だというが、どうして、TVらしいメリハリと、映画ならではの風格を併せ持つ堂々たる演出で観客を飽きさせず、十二分に名を上げたといえよう。サンディ・パウエルによる絢爛な衣装も見応えあり。

Every Little Step

ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢(☆☆☆☆)

ブロードウェイ・ミュージカルの舞台裏を題材にしたミュージカル、『コーラスライン』の再演にあたっての、ほんとうに入念で、手間隙と時間のかかったオーディションの様子を克明に捉えた秀作ドキュメンタリー。メタ構造となる題材の選び方、企画そのものが一番の勝因であるが、オリジナルの『コーラスライン』(1975年初演)が生まれるまでを、原案者であるマイケル・ベネットのインタビュー・フィルムなどを丹念に集め、きちんと挟み込んでいったことで30年におよぶ歴史の厚みが出た。

初めは何千人もが集まったオーディションも、段階が進むにつれハイレベルの実力者ばかりが残っていく。何ヶ月にも及ぶ長丁場のオーディションのなかで、役を演じることではなく、役を生きることを求められるさまは、まさに素の自分を表に出して語っていく『コーラスライン』の物語さながら。残酷なようであるが、候補者の中で誰が残り、誰が選ばれていくのかを見守るのは、我々観客にとってはスリリングな体験である。カメラは、目の前の候補者の人間性に肉薄するとともに、おある候補者の、あまりのパフォーマンスを前にして審査員一同が期せずして涙を流してしまう瞬間など、ドラマチックなシーンをあまさず捉えていて圧巻だ。また、「前回は良かったのに今回はどうしちゃったの?」といわれた女優さんが、「何ヶ月も前のことなんて覚えていない」と苦悩を吐露する瞬間。この映画の観客にとってはほんの何分か前に目にした姿の記憶が鮮明なだけに、なんとも残酷で心が痛む。

私がかつて見た『スウィート・チャリティ』の舞台で、骨折した主演クリスティーナ・アップルゲイツに代わり主演を張っていたシャルロット・ダンボワーズが、(これもまた役柄と重なるわけだが、『シカゴ』の主要キャストすら演じたことのある)その実績や実力にもかかわらず他と同じゼロからの過酷なオーディションに臨み、オリジナルキャストとしての初主演(キャシー役)を勝ち取っていくところは本作の個人的なハイライトで、厳しいプロフェッショナルの世界を目にして打ちのめされる思いであった。(付け加えると、同じくダンサーである彼女の父親のエピソードも壮絶であった。)

ちなみに、この「再演」であるが、興行としては大成功とはいいかねるもので、すでに幕を閉じてしまっているのである。8ヶ月とか、1年近くかけてオーディションを行っても、1年や2年でクローズとなってしまう、興行の世界もまた厳しいものだ。そこらへんの事情についてはメル・ブルックスの『プロデューサーズ』に詳しい(嘘)。

10/24/2008

Goya's Ghost

宮廷画家ゴヤは見た(☆☆☆)

この秋、立て続けに2本公開されたナタリー・ポートマン出演コスプレ作品のうちの1本がソウル・ゼインツ製作、久々な感じのミロス・フォアマン監督の『宮廷画家ゴヤは見た』である。ゴヤは何を見たのというのか。それは悪名高きスペインの異端審問である。もちろん、モンティ・パイソンのスケッチのことではない。17世紀末のマドリッドを舞台に、ポートマン演ずる商家の娘が異端審問にひっかかり、あんな拷問やこんな拷問を受けるのである。それだけでもみてみたくなるというのに、ポートマンに対してあんなことやこんなことをしちゃう教会権力側の日和見異常人格者を、『ノー・カントリー』で一世風靡したハビエル・バルデムが演じるのである。これは見逃すわけにいくまい。で、タイトルにもなっている時代の目撃者を演じるのが、ステラン・スカルスゲールドなんだけど、こちらはあまり見せ場なし。

スペインの異端審問は16世紀ごろ始まったもので、表向きはともかくとして、ユダヤ教やイスラム教の習慣を守るものを排斥することで政治的な基盤を磐石なものとするため、世俗権力が宗教的権威を利用したものだという。自白を引き出すために拷問が用いられ、自白すれば最悪火刑に処せられる。この映画が描いている時代には下火になって機能しなくなっていたらしく、これもまた映画で描かれているように隣国フランスからの「侵略者」であるナポレオン・ボナパルトの支配下で正式に廃止されることになる。だから、この映画でゴヤが見たのは、異端審問の終焉である、ということもできる。

ハビエル・バルデムが演じる男は厚顔無恥の日和見主義者である。教会権力の示威のために異端審問を利用すべしと進言し、幽閉されているポートマンに情けをかけるふりをして犯し、放逐されればナポレオン側に付き、かつての同僚たちを断罪する節操のなさ。開放されたポートマンに私たちの娘はどこ?と尋ねられれば、この女は気がふれていると主張し、精神病院送りにする非道ぶり。ゴヤはまた、こうした腐敗した人間の絶頂と末路をも目撃する。

物語の中では触媒としてしか機能していない「ゴヤ」を真ん中におくことで激動の時代を切り取って見せようというのが狙い。権力者の肖像画などで稼ぎと名声を得ながら、異端審問の様子をスケッチし市中に流通させるなど、ゴヤの立ち位置そのものもなかなかに面白いと思うのだが、そのあたりについては掘り下げがない。もちろん、それを掘り下げていたら3時間越え確定なので、気軽な映画鑑賞者としてはこのほうがありがたい。

ハビエル・バルデムは、こんな役ばかりでいいのか?とは思うが、ねちっこくて嫌な男を怪演しており楽しませてくれる。ナタリー・ポートマンが文字通り体当たりの熱演なのだが、美人の彼女が悲惨な境遇をボロボロになって熱演すればするほど、その熱演が鬱陶しくなったりもする。いや、まあ、こういう役も演じてみたかったのはわかるけど。彼女をサディスティックにいぢめて見たい向きにはお勧めの一本。

10/23/2008

The Nanny Diaries

私がクマにキレた理由(☆☆☆)

この秋、2本の出演作が立て続けに公開されたスカーレット・ヨハンソンの、1枚看板による主演作がシャリ・スプリンガー・バーマンとロバート・プルチーニ協同脚本・監督作品である『私がクマにキレた理由』。このコンビは『アメリカン・スプレンダー』が評判だったが、現時点で未見。本作は、大学はでたものの就職先がなく、なりゆきからアッパーイーストサイドの富裕家庭で住込みの子守(ナニー)をやることになった女の子の視点で、「上流階級」のクレイジーな生態を暴き出すコメディ。雇い主夫婦を演技巧者のローラ・リニーとポール・ジアマッティ。登場時間は短いけれど印象深いのは主人公の母親を演じるドナ・マーフィ。『ファンタスティック・フォー』の炎男、クリス・エヴァンスが同じ建物に住むちょっといい男役で出演している。

主人公が文化人類学専攻という設定で、「アッパーイーストサイドに生息する未知なる人種のサンプル調査」をしているかのような見せ方が賢い。(だから、雇い主夫婦は終始、観察対象のサンプルという意味で、「ミスターX」「ミセスX」と呼ばれている。)物語の基本構造は女の子が社会にでて、頑張って、自立していく成長譚なのだが、これをありふれた1本とは毛色の違う作品にしているのが作り手の社会風刺、社会批評精神といえる。事実、主人公の雇い主夫婦の描写、彼らのお仲間たちの描写は、いちいち悪意がこもっていて、たいへんに面白い。これをサンプルとして提示することで、「映画向きの特殊な事例(作り事)」ではなく、「(誇張はあるにしろ)一般的な事例」である、という主張がなされていると考えてよかろう。けけけ、全く変わった連中だぜ、金持ちってのはさ。そんな金持ち連中も、この不況の煽りをうけて高級アパートを引き払っているんだろうね、このご時勢。

さて、その雇い主夫婦。どちらかといえば庶民な印象のローラ・リニーに有閑マダムをあて、颯爽としたビジネスマンというより「猿の惑星」なポール・ジアマッティを夫役という、あからさまに見てくれより演技だというキャスティングが素敵である。特に、ローラ・リニー。メリル・ストリープが『プラダを着た悪魔』で演ったように、完璧な悪役の中に一滴の人間味を出させる演技を要求されているのだが、これが難しい。メリルの役は悪役ではあるが「プロフェッショナル」でもあった。しかし、このマダム(やその周囲にいる同類)のやっていること、主張していることときたら、まあ、どこをどうとっても呆れ果てるばかり、もう、どうにもエクスキューズのしようがない。それでも決して平面的ぺらぺらの人間として描かれているわけではなく、彼女(やその同類)なりの立場や悩みがあるわけで、このあたりの脚本のさじ加減は見事というしかないのだけど、その微妙なところをきちんと演じて見せるのだ、ローラ・リニーという女優は。前から好きな女優さんではあったのだが、これにはもう、感心しきりである。

スカーレット・ヨハンソンは、高卒グダグダの『ゴースト・ワールド』に逆戻りまでとは云わないが、大卒なのに世間知らずのグダグダふてくされ系の精神的に幼いキャラクター。ま、彼女ならこの程度の役、簡単なものだろう。もっとわかりやすく、元気ハツラツで可愛い女優さんを使えばこの映画のコメディ指数は高まったかもしれないが、「文化人類学専攻」などというマニアックな役柄でもあるので、ヨハンソンのダラっとした感じがはまっている。しかし、ウディ・アレン作品でのセクシーな魅力はどこへやら。フツーっぽい女の子を演じているからフツーなのかもしれないけどさ。

10/18/2008

Eagle Eye

イーグル・アイ(☆☆☆)

ある日突然テロリストの容疑者に仕立てられた青年は、彼をはめたと思しき謎の相手からの電話の指示に従ってFBIらの追手から逃亡することになる。子供の命をだしにして、同じように電話の指示に従うことを強要された女性と合流した青年は、電話の主に翻弄されるまま、目的も理由もわからず国家規模の事件に巻き込まれていく。出演はシャイア・ラブーフ、ミシェル・モナハン、ロザリオ・ドーソン、ビリーボブ・ソーントン、マイケル・チクリス、ウィリアム・サドラーら。DJ・カルーソ監督。

様々な映画から記憶に残る印象的なモチーフを「いただい」て再構成された、典型的な「巻き込まれ型サスペンス」である。ひとつひとつのネタはリサイクルものなので、映画好きならすぐに古典的作品から比較的最近の映画まで、何本ものタイトルや、あんなシーン、こんなシチュエーションが自然と頭に浮かんでくることだろう。しかし、それを以って本作を否定するのは心が狭い。オリジナリティという観点からいえば取り立てて新鮮味にあふれた映画とはいいかねるかもしれないが、再利用ネタの「再結合」と「再構成」により、ツギハギ映画というのではなく、この映画なりの一貫性のあるスタイルを生み出しているし、そこここに仕掛けられた現代的な味付けで、それなりに楽しめるよう仕上がっている。思うに、B路線の娯楽作品というのは、そもそもそういうものじゃないだろうか。この作品の場合、Aクラスのバジェットのおかげで派手で大掛かりなアクション・シーンもたっぷり用意されているから、普通の観客も退屈しないだろう。気軽な popcorn movie としては、上出来だ。

そういえば、スピルバーグの後押しで一躍売り出し中のシャイア・ラブーフの出演作品を何本かみてきたことになるが、この作品を見て、彼が重宝されているのは、おそらく、観客にとって感情移入しやすい「普通のお兄ちゃん」的な風貌だけではないだろう、と感じた。たとえば、どこにでもすっと溶け込んであまり自己主張しない使い勝手のよさ。これは、作り手側にはポイントが高い。いかにもスター俳優然とした強烈な個性で作品の色を決めてしまうのではなく、企画や脚本が要求する役割に寄り添って見せる、誰にも嫌われることのないある種の無個性ぶり、一方で、それでも画面に埋没しない程度のスター性の適度なバランスも持ち合わせている。そんなところが企画先行型の大作映画では貴重な資質なのだろう。

そういうある種、「無個性」な主役に対して、個性的な役者を脇に配すのも、当代、ありふれたやり口である。この映画も、電話の声であるジュリアン・ムーア(クレジットなし)はいうに及ばず、実力派の見知った顔が並んでいて、ちょっと期待も高まるというものだ。ただ、そうした役者がその個性や演技の技量を十二分に発揮できているかといえば、それはまた別の話。主人公の父親役で顔を見せたウィリアム・サドラーは、ありがちな父子の葛藤や複雑な感情を、エピローグ部分での無口な再登場で味わい深く演じて見せるのだが、いかんせん登場機会が少ない。本編中で何かに巻き込まれても良かったのではないか。あるいは、FBIとは違った立場で事件を追うことになるロザリオ・ドーソンやマイケル・チクリスの役柄も、面白くなりそうなのにキャラクターとしての膨らみがない。まあ、物語に奉仕する部品以上の役割を与えられていないのだから、それも致し方あるまい。そして何より怪優ビリーボブ・ソーントンだ。追手であった男が、最後には主人公と協力して自体の収集に当たるというドラマがあるのだからもう少し何とかなりそうなものを、彼のフィルモグラフィのなかでも凡庸な部類の仕事で、全くのところ精彩を欠く。

監督DJ・カルーソが同じ主演で撮ったスマッシュ・ヒット『ディスタービア』は、なにやら『裏窓』の剽窃だと訴えられて騒ぎになっているが、残念ながら未見である。そんなわけで、『テイキング・ライヴズ』と本作での印象になるが、手堅い娯楽サスペンスの作り手には違いないとして、いかんせん、物語を転がしていくのに精一杯で、キャラクターを膨らませたり、ユーモアを挟み込んだりする余裕が感じられないところが弱いところだろうか。ヒッチコック好きなのであれば、爆発で誤魔化すのではなく、今後もサスペンスを重視した作品を撮っていってほしいところだ。ビッグバジェットとなった本作が、分岐点になると思う。

しかし、本作での『知りすぎていた男』のクライマックス引用は、近作では『ゲット・スマート』に続くもの。本作におけるオマージュとしての必然性はわかるが、こう立て続けに同じネタが続くと、「またか!」と思うのも事実。なんでこんな重なり方をするのだろうか。

10/11/2008

Get Smart

ゲット・スマート(☆☆☆)

ネタ切れのハリウッドが引っ張り出してきたのは、往年のテレビ・ドラマ『それゆけスマート』。テレビで放送されていた件の作品をリアルタイムで見ていたのは私よりも上の世代だが、とはいっても、同じ役者が主演して作られた劇場版だという『0086笑いの番号』は記憶に残っている。爆発すると繊維が消えてなくなるヌード爆弾をめぐってのバカ騒ぎ。調べてみるとこれは1980年になって作られた作品だというから、なんだ、そんなに古くないのね。どおりで見たことがあるはずだ。このシリーズ、馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ、人を喰った感じでクスクス笑わせるのが特徴である。シリーズ・クリエイターにメル・ブルックスが名前を連ねており(本作にもクレジットが残っている)、まあ、ああいうテイストなのね、とわかるだろう。

主演にスティーブ・カレルを迎えてすべてを一新した本作。競演にアン・ハサウェイ、ドゥウェイン"ザ・ロック"ジョンソンを並べ、TVで人気が出たばかりのマシ・オカなんかも脇役として登場。冒頭では顔を見せない悪役だが、特徴的な声でそれと分かるテレンス・スタンプも出ている。監督はここのところアダム・サンドラー組でよい仕事をしていたコメディ専科のピーター・シーガル。まあ、大きくはずすことのない無難な人選だろう。実際、これはこれでバカらしくも面白いネタを満載した水準作だと思う。

もちろん、いま「馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ」て一番面白いのはスティーブ・カレルだと思われるので、このキャスティングでリメイクをやろう、という企画の勝利だといえる。背広をきて真面目な表情をしていれば十分に普通の人で通用しそうな、少し哀しげな目をしたこの男の、ちょっとしたズレから増幅していく違和感をベースにしたお笑いの質が、オトボケ系の本シリーズにぴったりだ。それに、目と口がおおきいとはいえ、とっても美人なアン・ハサウェイを、「全身整形なので身元が割れずにすんだ」という設定のキャラクターに充てるというギャグ、それを堂々と演じてみせるハサウェイはクールな人だと思う(個人的には、これが鑑賞決定要因#1)。

ギャグの密度はそんなに高くないので、ナンセンスギャグの波状攻撃的な作品を期待すると肩透かしを食う。どちらかといえば、一昔前な感じのオーソドックスな作りが、微笑ましい。ちなみに、ほんわか和み系のギャグといえば、思わぬところで登場するビル・マーレーが最高におかしい。ぜひぜひ、彼を見逃さないで欲しい。ビル、あんた、やっぱり最高だ。続編にも出てくれるよね?

クライマックスがドルームワークスの『イーグル・アイ』と同じ某ヒッチコック作品を引用したもので、まあ、超有名作の超有名ネタゆえに被ってもおかしくないのだが、数年前にフジテレビな映画でも引用されていたがゆえ、またですか!と思わないでもない。コメディに引用やパロディはつきもとはいえ、意外にネタもとにできる作品が限られているのかもしれないという気がした。

9/28/2008

Nights in Rodanthe

最後の初恋(☆☆★)

ダニエル・スティール原作で、過去にも同じ作者の『メッセージ・イン・ア・ボトル』をプロデュースしたことのあるデニース・ディノヴィ製作、共演3度目のおなじみリチャード・ギア&ダイアン・レインという布陣で作られたジョージ・C・ウルフ監督作『最後の初恋』。もう、想像以上のことはおこらないし、想像以上のものが見られると期待するほうがおかしい、絵に描いたような「中年ロマンス」なので、そういうのが嫌いな人は劇場に近寄らないほうがよい。(云われるまでもないか。)結ばれてハッピーエンド、ともいかないほろ苦さを用意して涙を絞る。

そう、いわゆる、"chick flick" であり、かつ、"teer jerker"って、みんなが馬鹿にする類だ。まあ、馬鹿にされても仕方がない。そういう映画なんだもの。

ふたりが出会う海辺の宿の佇まいがすごい。嵐がきたら一発で吹き飛びそうなものだが、そこはフィクションということなのか、もしかしたら実際に建ってるのか知らないが、わけありの男女が嵐の近づく海辺のこんな宿で一緒にいたら、そりゃなんかがなくちゃ不自然だ、というのを、圧倒的説得力で見せるセット(なのか本物かは知らないが)。舞台はノース・キャロライナ、夏休みに過ごすにはなかなか素敵なロケーションかもしれない。

脚本は舌足らずなのに、なんとなく説得力のあるカップルになってしまうギア様とダイアン・レインはさすが、キャリアの違いを感じさせてお見事である。しかし、それを言い出したら、やっぱり脚本は舌足らずなのに、そのキャラクターの存在そのものに圧倒的な説得力を与えてしまうのがこの人、恐るべし、スコット・グレンだ。彼の役どころは、医師であるリチャード・ギアが医療事故で死なせてしまう女性と長年連れ添った夫だ。要は、リチャード・ギアの心の傷を説明するためだけに設定された人物なのだが、スコット・グレンがこのもの静かな田舎のおっちゃんを演じると、あら不思議、台詞にない心の声まで聞こえてきて、なんかよく分からない行動も納得させられてしまうのである。この人、すごく好きな役者なのだが、最近、へんな役やちょい役ばっかりで実に惜しい。

劇場作品としてはデビュー作となるジョージ・C・ウルフだ。期待していなかったが、終盤、ちゃんとわかっている演出を見せてくれる。そのシーン、ダイアン・レインが、ある出来事があって投函されることのなかった手紙を読むところなのだが、凡庸のなかでも凡庸なやからだと、ダイアン・レインが手紙を読み始めると同時に、手紙を書いたリチャード・ギアの声で内容の朗読が始まり、観客の涙をしぼりつつ、ダイアン・レインも泣く・・なんてことをやらかす。しかし、この監督はベテランの演技人であるダイアン・レインを信じ、彼女の演技をたっぷりと楽しませてくれた。こんな具合だ。手紙を手に取ったダイアン・レインが、静けさの中、それを読み始める。読み進む。やがて、こらえきれなくなった感情が胸の奥からあふれでて・・・って、いや、まぁ、そもそも陳腐の塊のような作品なので、そこのところは致し方ないのだが、これをじっくり、腰をすえて、粘って、静けさの中で見せた。ワンカット。こういう瞬間、映画を感じる。ちょっとした幸せを感じる。まともな脚本がくれば、もうすこしまともな作品を撮れる人かもしれない。

蛇足。その昔、予告編でコーラ・ポールのキャッチーな唄ががんがん流れていたのに、それが本編では一切使われていない曲で、当然サントラにも収録されていなかったため、ちょっとした騒動(?)になった映画があった。ご存知、『シティ・オブ・エンジェル』(ワーナー)だ。今回、ワーナー大プッシュ中のダニエル・パウダーとやらの歌が「テーマ(イメージ?)ソング」とやらで、予告編でがんがん流れていたけれども、「どうせ使われていないんだろ」とたかをくくっていたら、あの事件(?)に懲りていたか、ワーナー。ぐぉ、全く意表をつかれたぜ。日本版だけエンディング音楽を差し換えて、突如ダニエル・パウダーがっ!英語だったらいいっつーもんじゃないでしょ。『P.S. アイ・ラブ・ユー』で徳永英明が流れた衝撃と同じレベル。日本語かどうかなんか関係ない。おまえら、勝手に映画をいじるなっ!(怒)

Achilles and the Tortoise

アキレスと亀(☆☆☆)

ここ最近の北野作品は、考えていること、やりたいことはわからないでもないし、それ自体には興味深いものがあるとしても、できあがった作品としてはは本当に見るに耐えかねる惨状を呈していたわけで、熱心に追いかけてきたつもりの当方としてはかなり辛かった。いや、もちろん作っている本人のほうがもっと辛かったのはいうまでもないのだろうけどね。残念なことに、同じことをやるならヴィジュアル・イメージの引き出しが多い分だけ、デイヴィッド・リンチとかのほうが(「映画」としては相当わけが分からないのにもかかわらず)圧倒的に面白いわけで、そういうレベルの作品しか作れないのなら、劇場にかけて金を取って見せるというのは失礼だろう、とすら思うのである。

たぶん、前作『監督・ばんざい!』で「監督」としての苦しみを、あまりにもくだらないかたちで作品化して見せたことで、すこしは吹っ切れたのだろうか。同じ路線(アーティストとしての自らを省みる3部作)の延長線上にある思考・考察を、オーソドックスな商業映画のフォーマットとストーリー(として受容が可能なもの)のなかで展開しているのがこの『アキレスと亀』だといえる。

作品は大雑把に3幕構成になっているのだが、主人公の幼年期を丁寧に描いて、ある意味、一番「普通の映画」に近い第1部が一番つまらない。少年が「絵」に引かれていくプロセスは彼独特のタッチでいい感じだ。そののめりこみ方にある種の狂気をはらんでいるところを感じさせるのもいい。ただ、設定を説明しなければならないという意識からか、これまでになく説明調なのが困る。だいたい、これまで役者のやる「演技らしい演技」をかたくなに排除してきたはずの彼にして、中尾彬がコントのように大げさでつまらん芝居をみせるのを許してしまったのはどうしたことか。中尾彬本人は名芝居のつもりでさぞ気持ちよかったんだろうけどさ。

映画は、第2部、第3部とどんどん面白くなっていく(といっても、どんどんくだらないことに入れ込み、どんどん身近な人が死んでいくわけだ)が、それぞれのパートで主人公を演じる柳幽霊と北野武本人が全く似ていないこと、柳幽霊は寡黙だったのに、北野になると突然よくしゃべることなど、いや、年をとったら四角い顔になっておしゃべりになることもあるかもしれないが、1本の映画としては整合性・一貫性を書き、まるで違う人物のように見えるのはやはり、減点ポイント。とはいえ、いちいち皮肉のきいたエピソードを、(これだけ人を殺しながら)ほんわかとしたユーモアで包んでみせる独特の「喜劇」センスは、やはり個性的であり、魅力的といえる。エンドレスでくだらないエピソードが続いていくが、『菊次郎の夏』のように映画のバランスを崩してしまうこともなく、きっちりタイトにまとめられている。

夫婦愛の話、などとして売りたい気持ちもわかるし、そういう側面がないとはいわないが、全編これ死の気配が漂う、彼以外では撮りえない残酷喜劇。まずは、復調であると喜びたい。

Iron Man

アイアンマン(☆☆☆★)

ああ、ロバート・ダウニーJr。クスリ絡みで一線を干された彼が、TV『Ally McBeal』の第4シーズンで復活し、大人の演技で最高のキャラクターを作り出してくれたとき、あまつさえ、歌声まで披露してくれたとき、どれだけ嬉しかったことだろうか。そして、毎週、TVでその演技を見るのがどれだけ楽しかったことか。そして、再びクスリによって番組降板を余儀なくされたとき、どれだけ寂しかったことか。彼のいなくなった件の番組は、翌シーズンからあらぬ方向に向かい、視聴率低迷で打ち切られた。(まあ、第5シーズンはジェームズ・マーズデンが陽の目を浴びるきっかけにはなったけどね。)

もちろん、近年ではデイヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』なんかに脇で出ていい演技をみせてくれていたので、「復活」といういいかたはちょっと失礼だと思う。もともとがコメディアンゆえに『トロピック・サンダー』みたいなので気を吐くというのもわかる。しかし、まさか、マーベル映画でアメコミヒーローを演じるとは、演じさせてもらえるとは、思いもよらなかった。この映画の魅力の1つは、間違いなく、意表をついたキャスティングでこの主役、「戦う社長」を演じる彼、である。

そして、この映画のもうひとつの魅力は、スーツを開発する過程をきっちり見せるところ。do it yourself 感覚というか、なんというか、自宅ガレージにてプロトタイプをつくり、実験し、改良しといった、一見して地味なプロセスを順を追ってみせた、これが、この映画のオリジナリティだろう。もちろん、『スパイダーマン』でも地味にスパイダースーツを作成していたし、『バットマン・ビギンズ』では耳のパーツを中国の工場に大きなロットで発注して云々、というしみったれた会話で笑わせてもらったが、それらとは明らかに違う、「男の子」心をくすぐり、なんだか無意味に興奮させられる描写がここにある。

で、改造したりパワーアップしたり、新スーツを開発したりするんでしょ?いやぁ、わくわくするなぁ。(呆)

もちろん、アクション映画としても、ラストの対決に『ロボコップ2』の延々と続くロボ対決を想起させられる見せ場を用意しており、ちゃんとポイントは押さえた作りになっていて、いわゆる popcorm movie というか、お気楽に楽しむには最高の作品である。

が、別に複雑な話でもなんでもなく単純明快で分かりやすいこんな映画が「3億ドル(US)」の大ヒットとなると、作った側もさぞびっくりしただろう。もちろん、ポスト・911、ポスト・イラク戦争の娯楽映画であるからして、単純に中東の悪者テロリストをやっつけろ、というほど単細胞ではない。悪を撲滅するためにばらまいた兵器がテロリストに回り、自らの身に火の粉が降りかかってくるという背景設定は、どこか、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』で描かれたムジャヒャディン転じてアルカイダな構図を思い起こさせ、皮肉でもある。そこに、世界に兵器をばらまいていた死の商人が改新して世直しをするという前向きでポジティブなメッセージがはまり、ダウニーJrの「改心と復活」が二重写しになった。そんなコンテクスト抜きに、これほどの特大ヒットは説明もつかない。

映画は、シールズの長官を名乗る謎の眼帯ハゲ、「ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)」が登場しておしまい。日本では公開の順番が逆になったが、『インクレディブル・ハルク』では、ダウニーJr 演じる「社長」が同様の出演を果たしており、うわさされるマーベル・ヒーロー大集合映画『Avengers』の前フリとなっている。もちろん、これから映画化されるはずの「ソー」だの、「キャプテン・アメリカ」だのがコケたら、どうなることか知らんけど。

9/23/2008

Hancock

ハンコック(☆☆☆)

ヒーローものといえば、アメコミ原作全盛の昨今。しかし『キングダム 見えざる敵』で名を上げたピーター・バーグ監督によるこの映画、『ハンコック』は、アメコミを原作に持たないオリジナル脚本の作品だ。まあ、ウルトラマンが暴れたら街が破壊されるといった、過去、一瞬だけ面白かった「考察」の類の延長線上というか、無茶をして周囲に甚大な被害をもたらすというので嫌われ者になっている「悩めるヒーロー」の物語である。自暴自棄でアル中で素行の悪い超人というオフビートな役柄にウィル・スミス。この「超人」のイメージチェンジに協力しようとする冴えない男をジェイソン・ベイトマンが、その妻をシャーリーズ・セロンが演じている。

まあ、想像していたよりは面白かった。なにしろ、『キングダム』はともかく、デビュー作『Very Bad Things(ベリー・バッド・ウェディング)』の酷い出来栄えで、コメディの担い手としてのピーター・バーグにはあまり信用を置いていないからだ。

ただ、この作品を一概に「コメディ」と言い切るのには違和感があるかもしれない。なにしろ、いま、興行的に最も安定感のある男、ウィル・スミス主演で独立記念日に公開する大作。製作にはマイケル・マンにアキヴァ・ゴールズマンやら、ジョナサン・モストウまで名前が連なる豪華な布陣だ。人々の注目を集め、大ヒットを宿命付けられている。そんな作品である。だから、「オフビートでオリジナリティの高いコメディ」という側面と、「当代のスーパースターが主演するアクション大作」という側面が、いかに両立・共存しているのかというのが評価のポイントだろう。そして結論を先に言えば、その両立には成功したとは云い難い、中途半端な印象の残る作品だと思う。

実際のところ、この脚本は、確かに業界内で評判をとるだけのオリジナリティがある。主人公が自分に協力してくれる親切な男の、その美人妻にちょっかいを出すというあらぬ展開には思わず吹き出してしまったし、その後の壮大なる痴話喧嘩的ドタバタ騒ぎを経て、「ヒーロー」の持つ神話性のようなところに着地するまとめ方も悪くない。

それゆえに、この脚本が「当代のスーパースターが主演するアクション大作」に向いているのかというと、違うのだと思う。そういう路線を期待する観客は、(それが面白いのかどうkは別として)ほぼ間違いなく「悩めるヒーローがイメージチェンジに苦労するが、強大な敵と戦い勝利を収める過程で自分自身と市民からの尊敬を取り戻す物語」といったような筋立てを期待するものだ。

こういう変化球は、むしろ低予算のコメディにこそ向いている。主人公が、自分協力してくれる善良な男の妻にちょっかいを出す不道徳な展開にしろ、痴話喧嘩の末、けちな犯罪者と対決するという敵らしき敵のないクライマックスにしろ、金をかけた大作映画にしては地味でしみったれている。

コメディ気質をもった軽妙なウィル・スミスは、本来、酒臭くぶっきらぼうで嫌われ者といったキャラクターを、こういうひねくれたコメディで演じるにはぴったりの役者だった。しかし、ここのところの彼は大きな存在になりすぎて、俺様スーパーヒーロー体質が染み付いてしまい、それがスクリーンからぷんぷんと漂ってくるのだからいけない。それもこれも含めて、この企画のパッケージングそのものが誤りだったと云えるのではないか。両立しない2つの要素を、あたかもそんな課題は存在しないかのごとく突っ走った結果がこれ、なんだろう。

9/13/2008

Children of the Dark

闇の子供たち(☆☆☆☆)

阪本順治監督、力作である。題材と持ち味がうまく噛み合って、今年、必見の1本といえよう。

この、ごつごつとしたいびつな塊のような質感と、海外ロケの臨場感がもたらす圧倒的な迫力。まとまりやバランスが良いとは思わないし、説明の過不足や唐突間のある展開も確かにある。だが、身近な日常世界に際限なく閉じていく小さな映画が癒しだなんだともてはやされたりする邦画のなかにこの作品を置くと、その異様なまでに突出した違和感に頼もしさを感じるのである。外を向き、社会的な矛盾と正面から向き合おうとする意欲。困難に負けず初心を貫く気力、その結果として映画が獲得したスケールの大きさはどうだ。そう、こんな映画をもっとみたい。こういうジャンルの映画がもっとあってもいい。世界の今と向き合う映画作家がいなければ、観客もまた、どんどん退行し、内へ内へとひきこもっていってしまう。発展途上の国で裕福な国の人間が行う幼児売買春や臓器移植の闇。梁石日(ヤンソギル)の小説を原作に、硬く、重い本作の題材と正面から切り結び、しかし、深刻なだけのつまらない映画ではなく、エネルギーに満ちた社会派のエンターテインメントとして作り上げた阪本監督以下のスタッフに、リスクの高さを恐れずに参加した意欲ある若い役者たちに、最大限の賛辞をおくりたい。

この映画の面白さは題材の衝撃度に加え、フィクションならではのドラマティックな「作り事」を交えながら、現実に立脚したリアリティを徹底的に突き詰めているところにあるだろう。監督がこだわったというタイでのロケは、何よりも雄弁に、「リアリティ」を伝えている。一方で、それは本作がタイの暗部ばかりを強調したり、フィクショナルである部分まで真実であるかのように伝わるのではないかという懸念につながってもいるが、本質的な部分では、この作品がノンフィクションではないから価値が減るわけではないし、現実を歪曲しているからといってタイのイメージが悪くなる、というものでもない。世の中にはその程度にしか映画を理解できない浅はかな観客がいるというだけのことである。

凄惨な「リアリティ」を、遠い国のよそごとであるとか、とんでもない絵空事だと感じさせないのは、そこに一般的な観客のすむ世界と映画の中の世界をつなぐ役割を担うキャラクターを配置しているからである。もちろん、それは「若者代表」のように登場する宮崎あおいと妻夫木聡の役割なのであるが、物語のなかで担っている役割の重さからいえば、宮崎あおいが演じる「無知と無垢な善意だけを武器に<自分探し>にボランティアとしてやってきた世間知らずの女の子」であろう。そのような設定であるがゆえに、このキャラクターの言動にはいちいちイライラさせられることになる。しかし、そこが宮崎あおいの実力というのか、下手な役者なら単なる足手まといの嫌われ役になりかねないところを、観客と同じ視点で現実と対峙し、驚き、怒り、悲しみ、結果として普通の観客が映し鏡として自らを投影し、あるレベルでは呆れながらも、あるレベルでは共感できるキャラクターになっているところがすごいのである。

本来、脇である宮崎あおいが強い印象を残す一方で、本来、ストーリーを動かす役割を担っている江口洋介が冴えない。途中までは力強く作品をリードしていくものの、最後の方で大きく失速し、映画の「顔」になり損ねた。それは役者としての彼の力量の問題だけでなく、彼の人物像について唐突で不自然なオチをつけている脚本の問題であると思う。もちろん、正義感のジャーナリストが悪を暴くというような単純なストーリーを嫌い、観客一人ひとりのなかにある複雑な感情や、深く考えずに加害者の側に回っている可能性などを示唆しようという意図や意欲は理解できるが、あまりに舌足らずで説明不足であった。もちろん、江口洋介という役者が、曖昧で両義的な得体の知れない演技を得意とする、たとえばたとえば、フィリップ・シーモア・ホフマンのような曲者役者であったならば、この程度の脚本の不備は軽々と乗り越えられるのかもしれない。だが、それを江口に求めるのはさすがに無茶、奇跡が必要というものだろう。まあ、そんな問題もこの作品の魅力や価値を減ずるものではないのはいうまでもないことだ。

Wanted

ウォンテッド(☆☆☆★)

実のところ、それほど興行的ヒット作に恵まれているわけではないアンジェリーナ・ジョリーだが、本作が1億ドル越えのヒットとなって一安心といったところではないか。本作での彼女は、もしかしたら、過去のどの作品よりも、「観客が観たいと思うアンジー」になっている。まるであてがきをしたような役柄を格好良く演じておいしいところをかっさらっていくのだから、まあ、これで当たらなければ彼女のゴシップ価値はともかく、興行価値に疑問符がつくところだったかもしれない。しかし、続編ができたとして、どうやって出演するか、それが問題だ。何しろ、本作の主人公は彼女ではなく、ジェームズ・マカヴォイなのだから。いっそ、主人公のタナムスさんの出演しない前日譚とかにしちゃうのも手、かな。

さて、アクション新次元とか何とか、派手な口上とともに流された予告編の、奇天烈なアクション描写を見て、正直、期待したというよりは不安になったのが本作である。『マトリックス』の奇妙なアクション映像が成功したのは、変になっても当たり前の物理法則を超越した「仮想世界」という設定があってのことであり、その後のB級作品群は、映像表現だけ後付で真似をしたからそこには何の意味もなく、必然もない。だから、面白くない、あるいはお笑いになってしまったわけである。そういう意味で、現実世界で物理法則を無視する能力を持った殺し屋集団が、温泉に使って怪我を治癒しながら過激なバトルを繰り広げるという本作『ウォンテッド』は、強引な力技だ。その開き直りっぷりがあまりに堂々としているので、突拍子もないアクションもなんでも持ってこい、といったかんじに観客も大嘘に乗せられてしまうといった具合で、まあ、それもありかという気分になる。

カザフスタン出身であの(話が面白くないわけではないが、映画としてはいまひとつ雑で乗り切れない)『ナイトウォッチ』シリーズのティムール・ベクマンベドフとかいう監督の、ハリウッド・デビュー作にあたるわけだが、これまでの作品をみても、あんまり細かいことを気にするタイプじゃないのがいいほうに作用しているんではなかろうか。

もちろん、映画の手柄というよりは原作(コミック)によるものだと思うが、設定が面白い。歴史の影に姿を隠した秘密結社というか、殺し屋集団「フラタニティ」というのがある種の職能集団に根ざしており、織機の生み出す織物のランダムな目の乱れを天命を読み解き、暗殺ターゲットを決め、指令を出してきたなどというあたりの、ありそうでなさそうなトンデモ・アイディアの、なんと素敵なことか!指令を受けて実行する組織だと、そもそも指令を出す「権力」構造との関係に制約を受けてしまい、歴史を超越しようとするとどうしても陳腐な「陰謀」説もどきに堕してしまう。この映画の「フラタニティ」は、自立的な集団である。すなわち、指令を出すのは万能コンピュータ(=神)に相当する機械であり、「ご神託」が授けられ、組織内にそれを解釈する存在がいて、その解釈どおりに実行をする、というかたちをとっている。それゆえに、世俗権力や、世の宗教、他の(胡散臭い)秘密結社とは無縁でいられる。と、同時に、組織内部に自壊要因を抱えていることにもなる。これはなかなか秀逸なアイディアではあるまいか。

織機が織り出す「ご神託」を解釈する男、すなわち、組織の実力者を演じているのが、いつものモーガン爺さんだ。誰が語っても絶対に胡散臭いことを、運転手から神様まで、はては大統領からバットマンの秘密兵器開発係まで演じてしまうモーガン・フリーマンに語らせるだけで、いかんともしがたい説得力が生み出されるマジックを目にするのは楽しいアトラクションである。もちろん、そのマジックに頼っているのはこの作品に限ったことではないのだが、ここまで唯一無二の存在になってしまうと、「モーガン・フリーマンの存在しない世界」を想像するのが恐ろしくもなってくる。だって、そうでしょ。かなりの割合の娯楽映画が成立しなくなるよ!

Nim's Iland

幸せの1ページ(☆☆)

『幸せの1ページ』とは、よく分からない邦題である。まあ、お子様向けアドベンチャー映画で、しかも日本で原作が広く知られているわけでもなく、ジェニファー・フラケット&マーク・レヴィン協同脚本・監督という作り手がアピールになるわけでもなく、特別な売り物はなにもないという、商売のたいへん難しいシャシンである。ジョディ・フォスター視点で、自らの殻を破って1歩踏み出すことで幸せへの扉がひらけるんですよー的なOLさんが元気になれる系映画として売ろうという魂胆なんだろうが、いや、でも、これはそういう映画じゃないだろっ。

要は、無人島に一人取り残された女の子が一人で頑張るという映画の、刺身のツマとして挟み込まれたお笑いパートがジョディ・フォスターの役割である。島に女の子が一人取り残され、それを知っているのは自分だけという状況に、少女を何とか助けなくてはと奮起してしまった潔癖症引きこもり作家が島に着くまでの珍道中。そんなに苦労したところで、あんた、何の役にもたたないじゃん!と誰もが思うわけだが、本人はそう思っていないというのがお決まりとといったところ。このパート、ツマのはずなのだが、そのわりに上映時間に占めるウェイトが高く、しかも、本筋なんかよりずっと面白いので、映画としてはなんともバランスの悪い構成になっている。

いっそのこと、島や女の子を全て画面から追い出して、全編引きこもり作家の主観だけで押し通したら、いや、そもそも彼女を呼び出した無人島の少女なんて実在するのかどうか、作家の妄想ではないのか、なんてことになったりして、もっと面白いに違いない。が、もちろん、原作付き(『秘密の島のニム』by ウェンディ・オルー)の映画としてはそういう極端なこともやりづらかろう。

まあ、スクリーンにジョディ・フォスターが映っていれば満足という私のような観客にとっては、いびつな構成の本作も全く問題がない。ここのところ闘うヒロインやへヴィーな題材が続いていたジョディとしては、『マーヴェリック』以来になるコメディ演技で、相変わらず、何をやらせても過度にうまく、必要以上に観客の心を掴んでしまう彼女の可愛らしいところが堪能できる。それ以外に見せ場があるかといえば、『リトル・ミス・サンシャイン』で達者なところをみせた子役、アビゲイル・ブレスリンの成長振りだろうか。しかし、うわ、これ、少女虐待じゃあるまいかというような虫喰いシーンがあったりして、違う意味ではらはらしてしまう。えらいな、君。よく耐えたね。

Departures

おくりびと(☆☆☆★)

TV局(TBS)が製作に絡んだ作品としては例外的といってよい評価だったのではないか。モントリオールで最高賞を獲得した勢いに乗って公開された『おくりびと』を上映する公開直後の劇場の場内は、普段映画館ではみかけない熟年カップルなどで満席に近く、その熱気に驚かされると共に、題材に対する興味の高さも感じさせるものだった。彼らも概ね満足したのではないか、と思う。大々的に宣伝される騒がしいばかりの洋画や、TVドラマの延長に過ぎない邦画ヒット作に馴染めなかったであろう客層が、これをみて、「ああ、日本映画の良さってこういうものだったよね」と感じ入るのは間違いないだろう。私自身、予定をやりくりして劇場に足を運んでおいてよかったと満足した。

この作品は、映画として、まずその題材に対する目の付け所の面白さ、鋭さがある。これを、うまいエピソードを組み合わせながらバランスの良い物語にまとめあげた脚本もいい。だいたい、なにかとあちこちにでしゃばってくるTVの構成作家とかいう類には好感をもっていないのだが、今回の、この小山薫堂の仕事には素直に敬意を表したいと思う。脚本の筋の良さを活かし、静謐ななかにもユーモアを忘れない大衆娯楽映画として仕上げた滝田洋二郎の演出は、この作品を格段に親しみやすいものにしているし、役者たちからも概ね良い演技を引き出していると思う。長い間企画を暖め、自ら主演して実現させた本木雅弘の佇まいの美しさも特筆すべきものだし、決してTVサイズの画面には収まらない山崎努の怪演技もズバりと決まっている。

もちろん、残念なところもある。全てがよいだけに、ダメなところが目立つ、といってもよい。その筆頭は広末涼子だ。このキャラクターは本来、納棺の仕事にそれなりの偏見や感情をもつはずの「一般の人」、つまり観客の代表としての視点を提供すべき役割としてそこにいるはずである。それなのに、画面の中の彼女は単に心が狭くわがままで偏見をもった嫌な女にしか見えない。昔から思っているが、このひとは演技が下手なだけでなく、声も悪い。一本調子でぎゃーぎゃーわめかれると、本当に辟易とする。このキャスティングは失敗であるし、正直、本来意図されたとおりの役割を果たせないことによって、映画のレベルを落としてすらいると思う。

もうひとつの残念なことは、久石譲の音楽が少々でしゃばりすぎであること。主人公の(元)職業にあわせたチェロを主体としたメインテーマは悪くないのだが、なにぶん、「大衆映画」的に過剰に音楽がついていることもあって、このひと特有のミニマルな反復が耳に障るようになってくる。まあ、この程度のことは、もしかしたら映画で泣きたいと思っている多くの観客の涙腺を刺激するうえでは必要、かつ、効果的なのかもしれないが、もう少々の自制があれば、本作はなお、格の高い仕上がりになったのではないかと思う。

9/04/2008

Sky Crawler

スカイクロラ(☆★)

『ビューティフル・ドリーマー』は面白かった。パトレイバーも面白かった、と思う。。『甲殻機動隊』はいろいろな影響を与え、『マトリックス』の誕生に貢献した(といういいかたをしておこうか)。

でも、これはダメだろう。つまらないよ。押井守の信者の皆さんには申し訳ないが、これは映画になってない。少なくとも、商業映画として、全国の劇場にブッキングして、広く人さまに見せる作品にはなっていない。お友達をよんで、ご自宅でプライベートスクリーニングでもなんでもやっていてください。なんか見ていて腹が立ってきた。

何が問題かといえば、「設定」はあるけれど「ストーリー」もなければ「ドラマ」もないということに尽きるのではないか。なお悪いことに、ここには「設定」を説明しようという積極的な努力もない。まあ、宣伝用のチラシでも読んでくれということかもしれないが、違う言い方をすれば「チラシ」を読み終わった時点というのがこの作品に対する満足度が最も高い瞬間であって、あとはどんどん落ちていくだけだ。

戦闘機によるファイティングシーンなどはフェティッシュな意味でこだわりに満ちているのかもしれない。でも、のっぺりとした平面的なキャラクターを使ったトラディショナルな2Dアニメーション映画のなかで、デジタル技術が作り出した3Dの戦闘機が飛び交うのって、どう見ても不自然。CGIが映画の中で浮いていて、別の映画を切り貼りしたかのようである。

このあたりは、『イノセンス』などでも同様のことを感じるわけで、積極的に3Dと2Dの見え方のギャップを埋めようとする意思があるのかないのかすらよくわからない。百歩譲って、3Dと2Dが同居するのも表現の一つと割り切るとして、3Dを使う表現上の利点がよく分からない。緻密かもしれないし、そういうレベルの表現を手書きでやるよりはコスト削減になるのかもしれない。しかし、絵が動く、命のないものに命が吹き込まれるというアニメーションの持っている原初的な興奮はそこにないばかりか、絵を動かすことによるダイナミズムもない。重力もない。なにもない。遠近法は正確かもしれないが、遠近法を無視したゆがみがもたらす興奮もエネルギーもない。

もちろん、ここで描かれる世界において、ダイナミズムもエネルギーも必要ではないのだろう。ただただ活きている実感の乏しさを、体温の低いキャラクターと体温の低い声の演技で淡々と描いているのだから、そもそもそういう指摘がお門違いだというのかもしれない。しかし、空で戦っている中にだけ生きている実感があるという話ではなかったのだろうか。3Dと2Dという手触りの異なる表現を同居させている意味も、そこにあるのではなかったのだろうか。残念ながら、空戦シーンにもまた生気はなく、ただただデジタル由来の冷たい絵があるだけであった。それを面白がれるというのなら、面白がったらいい。しかし、それが映画なのか、それが商業映画なのかというと、断じて違うのだといっておきたい。

Gurren Lagann (Part I)

天元突破グレンラガン・紅蓮篇(☆☆☆)

面白いと噂に聞いていたガイナックス製作のTVアニメ『天元突破グレンラガン』、これはその劇場版で、TVシリーズに新作カットを加えて再構成した前半部分の総集編。来春公開予定の後編につながるということで、物語的には途中のところで幕が下りる。TVシリーズの総集編的劇場作品の常として、基本的にはTVシリーズをみていたファンを相手にした商売であるわけで、最低限、わけが分からなくならない程度の配慮をしながら1本の作品として作っていくのだとしても、ものすごいスピードで様々なエピソードが展開され、同様に、すざまじいテンポでキャラクターやメカが登場して変貌して退場して、まあ、そういう説明は必要がないくらいにご承知のこととは思うのだが、一見さんにはハードルが高いものである。

で、「噂」を聞いて、この劇場版(前編)を観てみようかと思った私は、まちがいなく「一見さん」であって、そういう意味で、シリーズのファンと同じように細部に突っ込んで、あそこが残ってここが切られて、ここがリテイクされて、ここがこう順番が変わり、ここがこう意味や内容が変わった、などというのは分かるはずもなければ、そういう楽しみ方ができるわけがない。

ここでは、それを前提にして話をしたいのだが、この作品を予備知識無しに単独で見て、少なくとも話の大筋はわかった。基本的な設定はなんとなくわかったが、気がついたら話が大きくなっているので、どこまで本当にわかっているかは不明である。話の展開は、概ね脳内補完できる範囲であり、そのためのヒントのかけらは転がしてくれてあるとおもうのだが、脳内で補完したものと、実際のTVシリーズで描かれていたことがどの程度一致するのか、話の飛び方、エスカレーションの仕方がわりと激しいので、かなり心許ない。

では、それでつまらなかったのか、という話になるのかというと、そうではない。かなり楽しかったのである。よく分からないなりに、画面に溢れるエネルギーには圧倒されるものがあった。おそらく、TVシリーズの企画時点でも念頭にあったに違いないのだが、昨今の紙芝居のように動かない深夜アニメと違い、いわゆる「アニメ」の原初的な、「アニメ」ならではのハチャメチャな感覚と、お金や時間がないなりに蓄積されてきた独創的な表現力、それに負けない登場人物たちのアクションや行動力、熱い台詞の掛け合いや、壮大で意表をついたSFマインド溢れる話の展開に、大いに魅了された。考えてみれば宮崎駿の『崖の上のポニョ』だって、わけの分からない作品であり、わけが分からないなりに動画の持つ躍動感に身を任せる面白さという観点から評価せざるを得なかったわけで、それが「あり」だというなら、これも「あり」なのだと思うのだ。ロボットものだからといって、TVの総集編だからといって、安っぽいとか低俗だとかいう理屈は成り立たない。

ただ、一方で思うのは、やはり「劇場作品」として、2時間なりなんなりの枠の中で物語を語ることを前提に作られた作品のほうが、ストーリーテリングの観点からは当然優位にあって、それなりの話数を重ねた作品を再編集・再構築するのはいろんな意味で思い切りも必要だろうし、工夫も必要だろうということだ。本作の場合、2本の劇場映画にリニアに圧縮して物語を語るアプローチは、そうする上でいろいろな努力や工夫がなされたにしろ、従来よくあるところの「総集編的劇場版」の枠を出るものではない。一見にとってはハードルが高くありつつも、たとえばエヴァンゲリヲンの "Death篇" のように、ファン限定といった割り切りがないので、シリーズのお試しサンプルとして鑑賞することもできる。それは商売上は必要なことだろうし、現に、私はそれをみて「楽しい」と思えたのだから悪くない仕上がりである。だが、作品の内容に比して、劇場版総集編を作るアプローチとしては保守的なのではないだろうか、などと論ずるのはないものねだりのような気もしてきたので、最終的な評価は後編を見てから下すことにしようと思う。

8/30/2008

The Mummy: Tomb of the Dragon Emperor

ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝(☆☆★)

1999の1作目、2001年の2作目, 2002年のスピンオフ『スコーピオン・キング』以降、少々間の空いた第3作。奇しくもシリーズが手本にした『インディアナ・ジョーンズ』シリーズ最新作と公開時期がぶつかった。

本作では舞台をシリーズ当初のエジプトから中国に移している。こうなると、もはやなんでもアリ。ああ、そういえば、ついに邦題『ハムナプトラ』って、何の意味もなくなっちゃんですね。

シリーズのヒロインを演じていたレイチェル・ワイズが残念ながら降板しマリア・ベロが後を引き継いだが、主人公を演じるブレンダン・フレイザーはもちろん、へっぽこジョン・ハナーも復帰。加えて、これが大事なところだが、ジェット・リーが悪役で、ミシェル・ヨーも出演。監督も正続を手がけたスティーヴン・ソマーズから、たまには失敗作もあるとはいえ娯楽映画を撮らせて信頼の厚いロブ・コーエンに交代。

この出演者、この監督ならと、とりたててシリーズへの興味はないのだが、一見の価値はあるかなと出かけてみた。

このシリーズは、そもそもはユニバーサル・ホラー『ミイラ再生』のリメイク製作を発端にしている。が、これまでも、そんな源流はどこへやら、自由に脚色・展開されてきた。もちろん、インディアナ・ジョーンズが代表するような、クラシカルな冒険活劇を手本にしているには違いないが、なにしろ1999年、つまり、スターウォーズで言えば新三部作のスタートした夏に第1作が公開されたという事実が象徴的なように、CGI を全面導入したダイナミックなVFXを売り物にしたファンタジー要素が大胆に融合されているところが他とは異なる個性になっている。

いろいろ変化はあったとはいえ、今作も基本的な路線は同じ。ドラゴン好きのロブ・コーエンが手綱を握ったこともあってか、悪役ジェット・リーは当然のごとく凶悪(だがどこか愛嬌のある)ドラゴンに変身し、砂塵のなかをミイラの大軍勢が激突する。

ジェット・リーにミシェル・ヨーという、素晴らしいアクションスターを迎えておきながら、VFXで埋め尽くされた画面のなかで映画ファンが2人に期待するような活躍と見せ場はそれほど多くない。また、前作で誕生した息子が成長した設定で登場するのだが、主人公ブレンダン・フレイザーの大冒険というより、妻や息子も一蓮托生、「オコーナー家族の珍道中」とでもいうべきファミリー映画路線に舵を切った節がある。それは興行的には意味があるかもしれないが、主要キャラクターが増員した分だけ描写が薄くなり、とっちらかっただけという印象を受けた。

前作までの、「サービス満点」といえば聞こえはいいが、切るところを忘れたかのように何でもかんでもてんこ盛りでお腹一杯、、、というソマーズ路線からは離れ、真っ当な娯楽活劇に仕上がってはいる、とは思う。しかし、前作までにはあったある意味でヘンテコリンで荒削りなパワーというか、勢いのようなものはない。そうなると、これはこれで、とりたてて見所のない平凡な娯楽大作以上のものではないわけで、微妙な感じである。

そうはいっても、家族での暇潰しにはこんなさじ加減が丁度良いのかもしれないし、ある世代の観客には、すでに本シリーズが「お馴染み」の「懐かしい」作品となっていて、主人公を初めとするキャラクターに再会するだけでも楽しいと思うのかなぁ。でも、リアルタイム「ハムナプトラ」世代より、リアルタイム「インディアナ・ジョーンズ」世代のほうが、ずっと幸せだと思うよ。正直なところ。

2010年公開を目指してアステカを舞台にした続編を企画中という話もあるが、どうなることかね。

8/22/2008

The Forbidden Kingdom

ドラゴン・キングダム(☆☆☆)

この夏、ジェット・リーとミシェル・ヨーが共演して Dragon Emperor がなんちゃらかんちゃらというミイラ映画が公開されたかと思えば、こちらはなんと、我らがジャッキー・チェンとジェット・リー(ことリー・リンチェイ)、 2大アクション・スターがまさかの競演を果たしたという、それがロブ・ミンコフ監督の『ドラゴン・キングダム』である。この2人の競演を可能にしたのがハリウッド資本というのが不思議な縁のなせる業。

内容はへっぽこ異世界ファンタジーである。白人のボンクラ少年の主人公がカンフー映画を貸してくれる中華街の老人と関わっているうちに異世界に迷い込み、現実世界に戻るため、ひょんなことから手にした「如意棒」を「孫悟空」に返さなくてはならないというものだ。リンチェイとジャッキーはファンタジー世界において少年と目的を同じくする旅の道連れとして登場する。せっかく大スターが競演するのだから、白人少年を真ん中に置いた生煮えファンタジーなんぞと聞くとがっかりだが、愛嬌のある少年顔ながらシリアスで悲壮感溢れるドラマがお似合いのリンチェイと、テクニカルながらもコミカルな動きでユーモア感覚のあるジャッキーの、互いの持ち味が活きるような話というのもなかなか難しそうだ。

監督のロブ・ミンコフという男、ディズニー出身だ。『ライオン・キング』で知られ、『スチュワート・リトル』やら『ホーンテッド・マンション』やらで実写映画に進出。どうやらカンフー好きらしい。ファミリー・ピクチャーならそこそこ大丈夫そうだが、歴史的な作品を任せるのに適切かと問われたら、やっぱり不安が先に立つ。

こういった、両雄並び立つタイプの作品で、この監督、しかもなまくらファンタジーなどというから、どうせろくなものは見られないという諦めをもって劇場に足を運んだが、期待値の低さゆえか、少なくとも作り手がジャッキーなり、リンチェイなりに敬意を持って作っているということと、観客が観たいものをよく理解していること、それだけで好感を持った。

観客が観たいものといえば、もちろん、ジャキーとリンチェイのカンフー対決だ。

この映画、2人が敵と味方に分かれるような脚本ではないが、ジャッキー酔拳VSリンチェイ少林寺、それぞれお得意のスタイルで激しいバトルを繰り広げるシーンが用意されている。このシーンの演出も、短いショットを編集でつないで誤魔化すいんちきアクションとは違う。不満がないわけではないが、米映画としては頑張っているといっていい。

ちなみにこの対決、最初の脚本にはなかったらしいのだ。「せっかく2人が競演するというのに闘わないなんてのはダメだ」という監督の意向を受けて変更したのだと聞く。演出の腕前はともかく、観客の求めるものを理解したイイヤツである。だって、これが本作最大唯一の見所なんだから。もしこれがなければ、いったい何のための映画なのか、ということになってしまうところだった。

本作では、カンフー映画やショーブラザーズ作品に対する大小数々のオマージュが捧げられているという。それは、監督の資質だけによるものではなく、脚本もまたその一端を担っているのである。これを書いたのは、おなつかしや、かつて『ヤングガン』シリーズで本物のビリー・ザ・キッドを描くことに尋常ではないこだわりを見せたジョン・フスコなのである。このひとは、高校中退後ブルース・ミュージシャンとして全米を放浪、などという不思議な経歴の持ち主で、これまでのフィルモグラフィが示すとおりネイティブ・インディアン関連(『サンダーハート』)や馬関連(『スピリット』、『オーシャン・オブ・ファイヤー(Hidalgo)』)など、特定のテーマにおいてマニア気風とこだわりを発揮してきた。それは分かっていたのだが、まさか、少林寺拳法までかじっていようとは!現在はタイを舞台にリメイク企画が進行している『Seven Samurai』の脚本を手掛けているというが、さて、どうなることやら。

8/21/2008

The Incredible Hulk

インクレディブル・ハルク(☆☆☆)

一応、北米で1億ドル級の興行成績をあげたアン・リー監督版『ハルク』の記憶も薄れてはいないというのに、早くも「仕切りなおし版」ハルクの登場である。そこそこのあたりをとったとはいえファンらからのブーイングの声が大きかったのだろう。シリーズとして続行するには問題があると見るや、なかったことにして作り直してしまうあたりをフットワークのよさというべきか、他にネタがないからと見るべきか。いずれにせよ、マーベル・コミックにとっては重要なキャラクターを半死の状態で放置するわけにはいかないということなんだろう。

今回の仕切り直しでは、小気味のよいB級アクション『トランスポーター』シリーズやジェット・リー主演の『ダニー・ザ・ドッグ』で名を上げたルイ・レテリエを監督に指名したあたりが、そもそも名匠アン・リーとは方向性が違うよ、という強いメッセージを発している。まあ、それだけならわざわざ見ようとも思わないのだが、主演に連れてきたのは曲者エドワード・ノートンで、しかも、一読した脚本がくそつまらんからと、(クレジットこそないものの)ほとんど全部、自分で書き直してしまったというエピソードを聞いて、俄然興味がそそられたのである。とはいえ、のんびりしているうちに上映スクリーン、上映回数がどんどん減らされて、追いかけが大変だったのだが、あいかわらずこの手の映画は日本で受けないねぇ。

アン・リー版ではたっぷり時間をかけて描かれたハルク誕生に至るパートを、「作り直すたびにそこからやり直すのでは面倒くさいよね?」とでもいわんばかりにバッサリ切り落とし、回想シーンで処理するあたりがいい感じだ。映画が始まった段階で、主人公は逃亡先ブラジルに潜伏中なのだ。心の平安を手にするための修行に励みつつ、元に戻るための研究を続けていた主人公だが、思わぬ手掛かりによって居場所を突き止められ、映画はあっという間にスリリングなチェイスに突入。観客がひととおり飽きてきたくらいのタイミングで緑の怪物が「うがーっ」と登場、追っ手を蹴散らす・・・という、この映画の導入のテンポの良さは娯楽映画として好スコアをあげたい。多少ガチャガチャしたアクション演出も不問とする。これで波に乗った映画は、追手の先頭にたつティム・ロスが変貌した化け物と、ハルクの一騎打ちまで一気に突っ走る。

アン・リー版の「人間ドラマ」路線が重くてかったるかったとはいえ、それを抜きには原題のコミックヒーローものが成立しないのもまた事実。当然、そのことを分かっている作り手たちは、観念的な禅問答やらを抜きにして、それらを全部ひっくるめて主人公とリヴ・タイラーの関係、二人の葛藤とラブ・ストーリーへと、とても分かりやすく収斂させているのが脚本のうまいところだろう。クライマックス、醜く変貌したティム・ロス怪物と、われらが緑の怪物の一騎打ちは、巨大な肉の塊がぶつかり合う激しいアクション・シークエンスになっているが、街を破壊しながらの大アクション・シーンは、まるで怪獣映画を見ているかのような迫力と面白さ。クレバーなノートンと、荒削りながらパワフルでスピード感のある演出を見せるルイ・レテリエという組み合わせは、想像以上にいい効果を生んだようだ。

エンディングのあとで、本国ではこれに先立って公開された『アイアンマン』の主人公が顔を見せ、マーベルヒーロー大集合映画への布石を打っているのでお見逃しなく。

8/16/2008

Starship Troopers 3 : Marauder

スターシップトルーパーズ3(☆☆)

ポール・ヴァーホーヴェンの製作への復帰や、シリーズの脚本家エド・ニューマイヤーの監督デビュー、第1作のヒーローであるジョニー・リコ(キャスパー・ヴァンディーン)の再登場、ブラックでシニカルなユーモアの復活、そしてついに登場するパワードスーツなど、話題にこと欠かないシリーズ最新作であるが、勘違いしてはいけないのは、前作と今作はシリーズ第1作とは異なり、そもそも劇場公開を前提としないビデオ・マーケット向けに作られたもので、当然、製作規模から何から根本的に異なるという点だ。デジタル技術の発達で、低予算でもそこそこ見られるVFXを実現できるようになったからかろうじて成立しているものの、そもそも並べて比較するようなレベルの品質を保てているわけではない。

そういう意味で、シリーズ1作目とはテイストが違い、これでは『遊星からの物体X』だろう、などと悪口を言われたフィル・ティペット監督による前作のほうが、低予算映画としてのセンスと戦略が光っていたと思う。今作には「歌う指揮官」とか、宗教の問題だとか、脚本家としてのエド・ニューマイヤーの思いついた面白いネタや、もう少し突っ込めば面白くなったであろう題材は散見されるのだが、基本的には第1作の縮小再生産にしかなっていないのである。なんでもいいからあのテイストで楽しませてほしい、という向きにはこれでもいいのかもしれないが、これだったら第1作を繰り返し見ているほうが楽しいだろう。

VFXは予算なりで、頑張ってはいるものの安っぽい。主演に復帰したキャスパー・ヴァンディーン自体も安いといえば安いが、そのほかのキャストはもっと安いし、演技もそれなりである。売り物のひとつだったパワードスーツ「マローダー」は、デザインがもっさりしているし、あまり活躍しないうちに映画が終わってしまうので、原題サブタイトルにまでしてアピールするのは反則技のように思われた。

Star Wars: The Clone Wars

スターウォーズ:クローンウォーズ(☆☆)

冒頭、慣れ親しんだ20世紀FOXファンファーレでなくWBのタイトルから始まることに、これほど違和感を感じるとはね。われながら不思議な気分だ。

『episode III』から3年、TVシリーズとして企画されたCGIアニメーション・シリーズの初回拡大版エピソードが劇場公開作品として登場だ。劇場公開作6本があれば、無限に増殖を続ける小説群やらなんやらの派生品にはあまり興味のない「不熱心」なスターウォーズ好きではあるが、ふと通りかかった新宿ミラノ座のロビーで観客に愛想を振りまいていたベイダー卿やらインペリアル・トルーパー様等ご一行にフラフラと誘われ、急遽予定を変更しての鑑賞と相成った。(そのおかげで急速に劇場・上映回数を減らされてきていた『インクレディブル・ハルク』を追いかけるのに苦労する羽目になろうとは...)

今回の『The Clone Wars』であるが、以前にカートゥーン・ネットワークで放映され、DVDでも2巻発売された「Clone Wars」 と同じく、episode II (開戦)とepisode III (終戦)のあいだに起こった出来事という設定で、ジェダイと分離主義者のドロイド軍、ダーク・シスやその配下の者たちの戦いを描いていくTVシリーズということだ。今回劇場公開される「第1話」では、誘拐されたジャバ・ザ・ハットの息子を奪還する任務についたアナキン・スカイウォーカー、新たに登場するアナキンの弟子、そしてオビワン・ケノービが、背後にあるダーク・シスの陰謀に巻き込まれるストーリー。クライマックスは「アニメ版」でも登場した強敵、アサージ・ヴェントレスとの大アクション・シーンである。

まあ、スターウォーズ・シリーズのスピンオフといえば、『イウォーク・アドヴェンチャー』や『エンドア』の昔から「お子様ランチ」であることが宿命付けられており、本作もそんなものだと思ってみる分にはお話の部分について大きな不満はない。また「新三部作」においてはCGIが全面的に導入されたため、俳優が演じているキャラクター以外は実質的にCGIアニメーションといって差し支えない状態になっていたのはご存知のとおりである。だから、CGIアニメーションの本作だが、実写シリーズ好きの私のような観客でも、細かいことを言わなければ違うのは登場人物(とストーリー)だけなんじゃないか、というくらいに連続性を体感できるのが楽しいところだといえる。

実際、背景やメカ類に関してのCGIのクオリティは、TVシリーズ向けとはいえ、(あれから3年の技術進歩を踏まえて)劇場の大スクリーンにかなり耐えられるものになっている。仮に俳優を用いた実写キャラクターを使えば、そのまま実写作品としても通用するかもしれない。低予算映画のCGIだと、このレベルに全く手が届いていないだろう。ただ、実写シリーズクオリティに迫るCGIを、「実写」として見せないで、あくまでアニメーションとして見せるというのが、本作の方向のようだ。実写版シリーズではやらなかっただろうというような、アニメならではの大胆な構図やカメラワークを随所にみることができ、目を楽しませてくれる。そのあたりは、やはり意識的にやっているのだろうと思う。

一方、キャラクター造形に関しては、これは敢えてということだと思うが、実写を志向したものではなく、いかにも「アニメ」といったディフォルメがなされており、その癖のあるデザイン・センスには好き嫌いが残るだろう。朗報は、ボイスキャストがよいことだ。声優のキャスティングはC3PO(アンソニー・ダニエルズ)、メイス・ウィンドゥ(サミュエルL・ジャクソン)、デュークー伯爵(クリストファー・リー)を除き、実写版とは異なっているのだが、これが、それぞれのキャラクターの雰囲気をよく掴んでいて出来がいい。そのおかげか、映画を見ていくうちに最初は気になっていたキャラクターデザインも、なんでもいいや、という気分になってきた。

お話しについては前述のとおり「お子様ランチ」である。やはり米国人の考えるところの「アニメ」観に則って、TV放映を前提に狙いとする視聴者層(ローティーンの男子、だろう)にあわせ、「対象年齢」をグッと下げてきている。アナキンと若い女弟子のやり取りや、「ジャバの息子」の描き方、物語の展開など、やはり「子供向けの派生シリーズ」以外の何者でもない。ただ、子供騙しにしては、それ以外のファンに向けたサービスも忘れてはいないので、多くを求めなければいい暇潰しにはなる、が、まあ、所詮はその程度の作品である。

8/03/2008

The Dark Knight

ダークナイト(☆☆☆☆★)

ティム・バートンはかつて、闇の仕置き人バットマンが存在してもおかしくのない世界、闇の怪人たちが跋扈してもおかしくのない街を作り上げ、どこかに似ているけれどもどこにも存在しない箱庭都市「ゴッサムシティ」を舞台としたファンタジーとして『バットマン』、『バットマン・リターンズ』を作った。それは、かつて人気のあった荒唐無稽なTVシリーズとは違ったが、かといって、現実の地続きにある世界とも違った。

ジョエル・シュマッカーがメガホンを引き継いだ続く2本では、おそらくそこらへんには職人監督的な無自覚のまま、箱庭世界観の延長線上でカラーでポップでゲイ・テイスト満載なマンガを展開した挙句、シリーズの興行的命脈を使い果たした。

クリストファー・ノーランが『バットマン・ビギンズ』でシリーズのリニューアルを手掛けたとき、我々は、彼がかつてのバットマン映画のような「箱庭」に更なるリアリティを与えようと演出のテイストを変えてきたのだと思った。

映画の舞台がゴッサムシティに留まらない点で、ある種の不整合感を感じないわけではなかった。しかし、演出のタッチがリアリティ重視であっても、デザインや設定がハードな方面に寄っていても、ブルース・ウェインがいかにしてバットマンになったのかが詳細に語られても、「これは架空の世界を舞台にした物語である」と、信じて疑うことはなかった。だって、ゴッサムシティを縦横に走るあのモノレールや、敵となる犯罪集団の存在や計画の荒唐無稽さ。他にどのような解釈があるというのだ?

演出のタッチが変わっても、本質的な意味で映画の立ち位置がバートン版と変わらないのであれば、ノーラン版は面白くない作品だと感じられた。ノーラン版のゴッサムシティはバートンの美意識を反映したかつてのセットに比べると独創的でもなければ芸術的でもなく平凡だなぁ、と思ったし、ゴツゴツしたバット・モービルを見て、昔のやつの方が優美だったなぁ、と思った。粋じゃないし、狂ってもいない。

そして、この夏登場した『ダークナイト』を見た。これはもちろん『バットマン・ビギンズ』の続編であり、新シリーズの2本目ということになるが、前作ともあいだですらテイストが異なっているのである。そして、ここにきて初めてノーラン版バットマンがこれまでのそれと何が違うのかということが理解できた。

つまり、これは、ゴッサムシティとバットマンを現実の世界に連れ出す思考実験なのだ。

その意味で、まずスーパーヒーローやスーパー・ヴィランンが活躍する箱庭を構築しようとするアプローチとは対極にあるといってよい。前作でも狙ったベクトル自体は同じだったのかもしれないが、結果として不徹底、中途半端だったのではないか。本作は、その反省に基づいてあらゆる意味で徹底的にノーランの意図する「バットマン」が描かれている。

本作において、ゴッサムシティは現実に(北米のどこかにNYなどと並んで)存在する都市として明確に位置づけられた。そして、現代社会においてヒト・モノ・カネがひとつの都市を越えて移動するように、ゴッサムもまた、現実の世界とつながっている。これは、言葉で説明される設定ではない。これは説得力のあるビジュアルと、物語の展開の中で語られていることだ。

街のセットを組むかわりに、現実に存在する都市(主としてシカゴ、部分的にNY)でのロケーション撮影を徹底したことがそう。ストーリーも(前作に続いて)ゴッサムを飛び出し、ブルース・ウェインは街を出た悪党を「捕獲」するため香港にまで足を伸ばす。それは、我々の知る現実と地続きの世界だ。部分的に用いられたIMAXのカメラと大型フィルムが実現した圧倒的な密度の情報量と息を呑む臨場感が、そのコンセプトを強固に補強してみせる。

そんな世界でブルース・ウェインことバットマンが激突するのは、前作のラストで「予告」がなされていたとおり、最大の宿敵、ジョーカーである。覚えているだろうか、ティム・バートン版では、ジョーカーがブルース・ウェインの両親を殺した犯人であるという(原作とは異なる)設定を作り上た。そして、バットマンによって工場廃液に突き落とされて異様な姿に変貌したジョーカーとの因縁において "You made me!" - "I made you, you made me first." というやりとりがあったこと。アプローチを異にする本作だが、ここでも同じテーマが繰り返される。

闇の仕置き人・バットマンの存在が狂気の愉快犯・ジョーカーを呼ぶのか?卵が先か、鶏が先か、突き詰めて、バットマンとは何か。そして、正義とは何か。ジョーカーを演じるヒース・レジャーが、脚本が巧みに描き出した狂人像を、なんとも得体の知れない凄みで体現してみせて圧巻だ。史上最狂、最高の悪役の誕生をスクリーン上で目にする前に、この才能溢れる若き俳優の訃報を耳にしなくてはならなかった無念。

クリストファー・ノーランと6つ違いの弟であるジョナサン・ノーラン、それにブレイド・シリーズなどでアメコミ銘柄の注目株となったデイヴィッドS・ゴイヤーは、バットマンという素材を使い、ビッグバジェットの娯楽大作の皮をまとった神話的な犯罪ドラマを紡ぎあげた。ノーラン兄のアクション演出は前作より進歩した程度だが、CGIに頼らない迫力満点・度肝抜かれる大型アクション・シークエンスを連打して、文句を云う口を封じてみせる。無駄に豪華なキャストがそれぞれの持ち場をしっかりと演じて、ドラマの重さをしっかり支えている。

だいたい娯楽映画の長尺化は作り手が無能な証拠だと思っているが、この作品の 152分は別格。見終わって映画3本分の疲労感が残るが、これ以上望みようのない幕切れがもたらす余韻と共に一分一秒ももらさず味わいつくしたい大傑作である。この夏、これを見ないで何を見るというのか?つべこべ言わずに劇場に走るべし。

Čeburaška

チェブラーシカ(☆☆☆★)

2001年に日本に紹介され、一世を風靡した『チェブラーシカ』の人形アニメーションだが、その後、権利関係で問題が起こって大変な状況だったらしい。そうしたややこしい問題を全てクリアした上で全4話、デジタルリマスターの完全版が、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」配給で公開されるというのでイソイソと劇場に出かけた。あまりこだわりなくとびこんだところ、日本語吹替版の上映であったが、まあ、ロシア語で話されても当方、理解不能だし、人づてに聞くところではこの日本語吹替版が秀逸で可愛らしいとのことだったので、それを堪能することとした。これは、南の国から送られてきた果物(オレンジ?)の箱のなかに詰められていた、小さくて茶色い毛むくじゃらの生き物「チェブラーシカ」が、友達を作り、周囲の人々と交流していく姿を描いたお話しである。原作エドゥアルド・ウスペンスキー、キャラクター設定・美術レオニード・シュワルツマン、監督はロマン・カチャーノフ。日本語吹替版でのチェブの声は大谷育江(ピカチュウの人だってさ)。4話あわせて70分程度の上映時間であった。

ロシア史上、最も愛される人形童話だという。ロマン・カチャーノフによるこの作品の製作年代は1969年の「ワニのゲーナ」、1971年の「チェブラーシカ」、1974年の「シャパクリャク」、1983年の「チェブラーシカ学校へ行く」と、長い期間にわたっているが、続けてみてもそれを感じさせないところが丁寧に作られた作品であることを感じさせる。この作品が作られたころの背景となっている旧ソビエト連邦下の社会や人々の生活についての理解が心許ないので、お話し、設定等々、なぜそういう展開になるの?それはいったい何?という小さな疑問はいっぱい生じるのだが、それもまた、自分の知らない世界を覗いているような好奇心をくすぐられるところである。チェブラーシカらがあこがれるボーイスカウトのような集団活動の様子や、公害問題、学校を修理しているはずの怠惰な労働者の姿などは面白く見た。辛らつになり過ぎない程度の社会風刺をはっきりと含んだ物語には、そこはかとない物悲しさと切なさを湛えた不思議な魅力がある。

しかし、もちろんそれを支えているのは、なんといってもキャラクターたちの表情や演技だ。チェブラーシカや友人となるワニのゲータらのキャラクターが生き生きと動くのをみていると、それだけで飽きることはない。これこそまさに、命のない人形に命を吹き込む(=アニメート)技術というものであろう。CGI時代の安易な作品には決定的に欠けている作り手の魂とでもいうべきものがそこに宿っている。物を動かして生命を宿らせることへの執念を感じさせるのである。考えてみれば、アニメーションの魅力とは、それに尽きるといえるのではないか。結局、この作品が人々の心を捉えて話さないのは、単にキャラクターが可愛いからではないのである。

Ponyo on a Cliff by the Sea

崖の上のポニョ(☆☆☆☆)

たまたまなのかもしれない。が、この日、私が見た回では、映画が始まる前はものすごい熱気に満ちていた満場の観客が、映画の終了と同時に、どのように反応してよいものか戸惑っているかのように静まり返ってしまった。なんとなく気持ちは分からないでもないが、しかし、みんな、何を期待して劇場に足を運んだというのだろうか。大方、「トトロ」のように明快なストーリーラインとまとまりをもった作品を期待していたのだろう。(もっとも、そういう観客のほとんどが、「トトロ」のときには劇場に足を運びすらしなかったことは、皮肉であるが悲しい現実である。)

いわゆる起承転結というか、物語がきっちりと構成された普通の作品を、よもや宮崎駿に求めようとはさらさら思っていない。リアルタイムで見てきた観客として、彼がそういう作品をやりつくしてしまい、「いまさらそんなんじゃないだろ」と思っている感覚も、今回出された各種のインタビューを精読するまでもなく、良くわかっているつもりである。だから、本作の壊れ方が並大抵でないのも想定の範囲内であると同時に、むしろ、そんな作品を作る自由を得た天才が、なにを見せようとしているのか、何を作りたいのかに興味を持っている。

本作はかなり明確に子供に見て欲しいと思って作っただけのことはあって、表面上は少年と異形の少女の出会いと約束を主題としたハッピーエンドのようなストーリーラインを持っている。が、その背景で町は沈み、船は座礁し、魔力は解き放たれ、古代魚が溢れ出し、気がついたらあの世とこの世がつながって溶け合い、まるで世界の終焉とでもいうべき事態が進行していく。理由も語られなければ説明もない。主人公は幼い男の子であり、彼は自分の興味の範囲外のことを詮索しようとしないからだ。

とはいえ、この映画をみる「大人」の観客としては、この、決して長くはないフィルムに描きつくされたものを目にして驚愕せざるをえまい。もう、ストーリーがどうとか、金魚(人面魚?)が海にいるかどうかとか、そんな生き物をいきなり水道水に放りこんでよいものかどうかとか、そんな瑣末なことを問題にしている場合ではないのである。

これは、子供が親を呼び捨てにし、親は嵐の中子供を家に一人残して出かけてしまい、老人が蔑ろにされて老人ホームのような場所に閉じ込められているような世の中は一度滅びた方がいい、と云っている、そういう作品なのであろうか。

それにしても、子供に自分の名前を呼び捨てにさせる「親」が、いきいきとしていて魅力的に過ぎないだろうか。「千と千尋」のときのように、あからさまな「豚」としては描かれていない。この「親」は自らが置かれた立場で精一杯頑張っている人間だ。老人たちとて、多くは自分の置かれた環境に満足しているように見えるし、そんなに悪い待遇を受けているようには描かれていない。

ただ、そうした常識的なお仕着せを嫌うある一人の老婆が、物語の中で最も重要な役割を果たすことになるのは偶然ではないだろう。主人公たちが道中でくぐるトンネルは、やはり異界への扉と考えるのが適切だろうし、そう考えれば、あの町だけでなく、もしかしたら映画の画面では描かれていない外の世界、全ての世界が一度水没し、滅んでしまったという見方も成り立つ。

滅ぶ世界の中で、何を残すのか、何を残したいのか、これは、観客一人ひとりが、そんなことを自由に考えさせるだけの余白がたくさん残った作品である。

ただ、この作品の面白さを、そういう「理解」、違った言葉でいうなら「深読み」にのみ求めるのはやはり間違っている。もしかしたら、本作のアニメーションとしての面白さ、表現の豊穣さを楽しむ上ではそんなことは余計なことだ。

ますます「商品」として大量生産、大量消費される「アニメ」が望んでも得られないような体制で、予算と時間をたっぷりとかけ、動かない「絵」に生命を吹き込み(=アニメート、とはそういうこと)、そうして完成させられた躍動する動画の贅沢さ、それを映画館の大スクリーンで体験する至福は他の何にも代えがたいものである。

本作では「絵」の精緻さ、リアルさを追求する路線を放棄し、敢えてシンプルで柔らかい線、大胆なディフォルメで描かれた絵に無理やり原点回帰してみせたことが、アニメーションが本質的にもち得る力の凄さを改めて思い起こさせることにつながっている。これを見て、楽しめばいいのだと思う。それを楽しめないというのは、やはり、何か先入観や思い込みにとらわれていて、目の前で展開する尋常ならざる仕事の成果を感じ取る力が脆弱になっているということではないか、とも思う。

しかし、いくら子供向けに作っていると作り手が主張し、もちろん、表面上は子供たちが単純に楽しめるマンガ映画になっているとはいっても、これほどまでに大胆で狂った作品が、商業作品として全国のスクリーンを席巻し、多くの観客が詰め掛けていることそのものが摩訶不思議な事態であり、もしかしたら、奇跡的とでもいいたいくらいに、ものすごく幸せなことなのだと思う。ビジネスとして成立している限りにおいて、芸術家は創造の自由を得られる、そんなことを、これほどまでに雄弁に物語る映画を他に知らない。

7/26/2008

The Happening

ハプニング(☆☆☆★)

NY。ある日突然、人々の行動が狂い、次々と自殺を始める。初めはテロリストの攻撃かと原因はわからない。米国北東部の大都市から次第に小さな町々へ、現象は広がっていく。フィラデルフィアに暮らす主人公は、不仲な妻、友人の娘を連れあてのない逃避をはじめるが、行く先々に死体が転がる。

ハプニング、という言葉はもちろん、カタカナ語として通用するのだが、印象としては「偶発的で軽いちょっとしたアクシデント」という意味のみにおいて受け止められるのではないか。敢えて罪の意識を感じさせないために「ハプニング・バー」などという名称を発明したやつがいるくらいだ。しかし、ここで起こる事象は、そんな軽いものではない。

公開されるや、早速罵詈雑言を浴びせかけられているMナイト・シャマランの新作は、「宇宙からの侵略者の話かと思えば、妻を失った聖職者が信仰を取り戻す話」だった『サイン』や、「恐ろしい怪物の出る森の中に孤立したコミュニティの謎の話かと思えば、目の見えない少女の初めてのおつかいの話」だった『ヴィレッジ』などとよく似ていて、「奇怪な現象に見舞われた人類がいかに生き延びるかという話」ではなく、「不仲な夫婦が互いに向き合い、互いへの思いと絆を取り戻す話」なのであった。まあ、不仲といっても実態があるのかないのかといった程度の不倫疑惑、正直なところ、もう少しのっぴきならない関係にしておかないとドラマに気づいてもらえないのではないだろうか。

物語の構造という観点から見ると、これは、エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』ではなく、スピルバーグの『宇宙戦争』である。主人公はただただ状況に翻弄される「普通のひと」であり、何が起こっているのかもわからなければ、それをどうこうすることもできない立場にいる。米国北東部を襲った怪異の正体は、登場人物たちにもわからないし、映画を見ている我々にもわからない。あくまで、怪異に襲われた主人公の、状況に対する心理とリアクションを追っていく映画なのである。主人公が怪異の謎を解き、闘い、世界に平和をもたらすことを望むようなお話しが好きなら、悪いことは言わないから近寄らないほうがよい映画である。『宇宙戦争』は一般には不評をかこったから、その意味で「一般」的な観客向きの映画ではないのかもしれない。

また、この映画で描かれる「怪異」は、ただただ主人公の行動を動機付けるためだけに存在するものである。まあ、いわゆる肥大化した「マクガフィン」といえるだろう。多くの観客が物語の本質とは異なるものに気をとられ、それについて何の説明もないことに怒るのは、だから本来は全く筋違いなのだが、仕方ない側面もある。なぜなら、この映画がいかにも怪現象そのものを描いたパニックムービーであるかのように装い、それを売り物にした商品としてパッケージされ、喧伝されているからである。どう考えても意図的なミスリードだ。その昔、コケ脅しのCムーヴィーを買い付けてきた配給会社がやっていた手口に似ている、といえなくもない。もちろん、今のメインストリームの観客には、そういう稚気を笑って楽しむだけの心と時間の余裕があるとは到底思われないので問題になるだろう。だけど。まあ、この映画の場合は作り手の側もそういうミスリードを前提としているところがあるわけで、それを笑って楽しむセンスは観客として必須の資質だと思われる。

ともかく、シャマランはその「マクガフィン」に世界の終末、もっといえば、人類の終末というモチーフを選んだ。ある日突然主人公を襲う「怪異」は、宇宙人などというわかりやすい外敵の姿を借りず、増えすぎたレミングの集団が自らを死に駆り立てる(というのは捏造らしいが)かのごとく、ただただ自死を選び、死体が転がっていくというイメージの羅列。こことのころはかなり嫌な感じに仕上がっており、この作り手が、スピルバーグのある種わかりやすい鬼畜さとは違ったセンスの持ち主であることが見てとれて、なかなかに面白い。そういえば、出世作における死人たちのイメージも、相当嫌な感じだった。単に観客を不快にさせる過激で陰惨な表現は好きではないのだが、彼の作り出した陰鬱なイメージは、タク・フジモトの優れたカメラ・ワークと相まって、なかなか見ごたえがある。

してみると、この映画に最も近いものは何かといえば、黒澤清の『回路』ということになるだろう。あの映画の衝撃的な飛び降り自殺シーンや、幽霊が躓く戦慄のシーンに匹敵するイメージこそないが、種としての人類が終わっていく嫌な感じには通低するものがある。

それならば、この映画が非難されるべきは説明がないことでもオチがないことでもなく、世界の破滅ではなく、世界の破滅の「前触れとなる兆候(サイン)」を描いて満足してしまったことだと思う。あのとってつけたようなエンディングに変わり、希望のかけらもなく、世界が終わっていくところで幕を閉じることができたのなら、違った評価もあったのではないだろうか。

関係ないが、植物が原因だというイカレポンチに感化され、プラスチックの置物にまで語りかけるシーンは、ホアキン・フェニックスのアルミホイル帽子に匹敵する爆笑シーンであった。こんなところにもシャマラン演出独特の個性が出ていると思う。出演はマーク・ウォルバーグ、ズーイー・デシャネル、ジョン・レグイザモら。みな、普通の人々の役を素直に好演。

7/19/2008

Speed Racer

スピードレーサー(☆☆☆★)

『インベージョン』の撮り直しを請け負ってジョエル・シルバーに媚を売ったアンディ&ラリー・ウォシャウスキーが、ご褒美に撮らせてもらった狂気の無駄遣いは、「マッハGo Go Go!」ぶりの徹底加減に唖然とし、その突き抜け具合に感動する、原色溢れる壮絶な怪作である。

とにかく、宣伝の方向性を完全に誤っている。

" 「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が描く、 革新のスピード世界!" じゃないだろ。

" あの伝説のタツノコ・アニメ、「マッハGo Go Go!」を完全再現!ハリウッドが本気で挑む、超絶の映像体験!" でしょ。

そうしたら、かつてTVの前で胸を熱くした世代(って相当上なんだけど)の観客が劇場にかけつけ、もうちっといい商売が出来たに違いないのだ。場内、それほど悲惨な客の入り。これを大劇場でみる機会がありながら、本来この作品を楽しめるはずの観客はどこにいったのやら。もったいない。

宣伝が誤っているから、この作品に対する批判もみんな筋違いで的外れだ。レースシーンがアニメかゲームのようだって?当たり前じゃないか、アニメを再現しているんだから。実写映画じゃなくて、実写マンガなんだよ。だから、わざとテカテカなんだよ。ガキがうるさい?サルが鬱陶しい?しょーがないじゃないか、あーいうのが出てくるのが子供向けアニメのお約束だったんだから。視聴者が一番感情移入できるキャラなんだよ。お話しが子供向けで幼稚だって?だって、それを変えてしまったら「マッハGo Go Go!」じゃなくなっちゃうだろ!

実写映画である以前に「実写マンガ」とでもいうべき作品において、同じく実写マンガの先達である『フリントストーン』に引き続きカートゥーン・キャラクターを演じる巨漢ジョン・グッドマンのアニメ的な存在感や、実写映画ではなかなか仕事に恵まれないらしいギョロ目・巨乳・低身長の個性派クリスティーナ・リッチの想像を超えるアニメぶりは特筆に値するだろう。真面目な映画専門かと思われたスーザン・サランドンの(これまた)ギョロ目も、実はとても漫画的だったことに気付かされる。本作では『イントゥ・ザ・ワイルド』で評判のエミール・ハーシュにすら、全く2次元的で何の奥行きもないアニメキャラになることを強要し成功しているが、日本から参加の真田広之の演技は「マンガ」になっておらず、登場シーンが少ないのも納得である。韓国から傘下のピとかいうひとも無駄に気合が入っていて落第点。

エンドクレジットで流される楽曲に、あらなつかしや、あのテーマ曲がミックスされているところは感嘆ものである。ぜひドでかい画面とぶっ飛びの音響で体感すべき。「マッハGo Go Go!」をいまやるのであれば、これ以上のものはないと断言できよう。もちろん、なぜ、いま「マッハGo Go Go!」をやる必然性があるかといえば、技術的に可能だからということと、作り手にとって愛着がある作品だから、という以外に理由はないが、成功し、力や後ろ盾を得て、自分が大好きな作品を題材にとりあげることができるクリエイターたちの幸せ、祝祭気分を共有できるのもまた、幸せというものじゃないだろうか。

Cribmers' High

クライマーズ・ハイ(☆☆☆☆)

原田眞人監督による『金融腐食列島・呪縛』、『突入せよ!「あさま山荘」事件』に続く、いってみれば「昭和の大事件シリーズ」第3弾は、横山秀夫の原作を元にし、日航機墜落事故に遭遇した地元紙記者たちの姿を描く本作、『クライマーズ・ハイ』である。同じ小説を原作とした先行作品として、2005年、 NHKが力の入った2部構成のドラマを放送、好評を得ており、正直、今更?他にネタはないの?という気持ちもないわけではなかった。が、(雄弁な自作擁護の声は大きくても作品そのものは微妙な出来が多い)原田眞人もなぜか「この」路線に限ってはハズレがないし、堤真一に堺雅人という魅力的なキャスティングを聞いて完成を楽しみにしていた1本である。そして、その期待は裏切られなかった。なんだかんだといって、本年の日本映画を代表する1本に仕上がっているといってよいだろう。

この映画での強烈な見所のひとつは、「新聞社」の仕事ぶりを、極端に短いショットの積み重ねと畳み掛けるような大量の台詞によって同時に様々なことが進行していく緊迫感や緊張感と共に臨場感満点に再現してみせるところだろう。こういう見せ方にかけたは原田眞人の独壇場ではないか。比較対象を世界に広げても突出して巧いと思うし、彼の過去作品で試みられた類似シーンと比べても、今回のものは格段に効果的であった。

こういうある種の集団が主役となるシーンは、やはり、出演している役者のレベルにも左右されるものだが、個性的な顔が並ぶアンサンブル・キャストは実力者揃いで、みな、目の前の仕事に真剣な「プロ」の顔になっていて、しかも集団の中に誰一人として埋もれていない。役者の層が厚い米国映画ならともかく、ともすればどこかで見たような顔ばかりが並んでしまう日本の映画においては、このキャスティングひとつとっても傑出したものだと感嘆した。それも相まって、このフィルムには仕事をする人間、「プロフェッショナル」の格好良さ、彼らが個人として、チームとして仕事に集中するときに感じるであろう高揚感とでもいうものが焼き付けられている。そして、それはそのまま、「日航機墜落」という大事件に直面した主人公らの高揚感("cribmers high")に文字通りつながるのである。

期待通りに主演の二人がいい。映画スターとしての輝きを見せてもらったという意味では、期待以上である。いま、実力も華も兼ね備えて正に旬を迎えたといってもいい堤真一と堺雅人。この二人がスクリーン上で激突するのである。ことに、様々にクセのある役柄を飄々とこなしてきた印象の強い堺雅人から、本作のようなタフでハードな男の色気を引き出してみせられるというのは嬉しい驚きである。大事故の現場に一番近いところにいながら、新聞記者という立場上、自分ではどうにもならないことに対する苛立ちや無力感、悔しさのようなものが良く出ていた。堤真一も様々な役柄を器用に演じる印象を持っているのだが、ここでは映画の柱として常に中心に立っていなければならない役回りを堂々と、孤高のヒーローとでもいうべき存在感で演じ切っている。この人の、映画1本を支えられる看板としての大きさを、ここまで感じさせられたのは初めてのことであった。

原作のストーリーや設定をある程度丁寧に追うだけの余裕があったNHK版と違い、それなりの尺のなかにエッセンスを封じ込めなければならない映画版は、脚色をおこなう際の切り口のようなものや、エピソードや伏線の単純化、取捨選択といったものが重要になってくるし、そこが映画の個性として立ち上がってくる部分だといえよう。本作の脚色は,作り事めいたストーリーを語ることより、現場の臨場感の中から、瞬間瞬間のドラマを拾い上げていくことに重点が置かれているように感じられた。ただ、それが本当の狙いだったのかどうか分かりづらいのは、原作からの取捨選択が時に不完全というか、本筋から離れた枝葉末節と感じられる部分に流れることがあるからだろう。このあたり、変に単純化、省略をせず、猥雑なもノイズのようなものをそのまま残しているのも意図的なものだと好意的に解釈しようと思う。こうした部分に起因する作品としてのイビツさもまた、臨場感や勢いにつながっており、本作の魅力の一部を成しているからである。

また、「当時」のパートに「現在」のパートが時折挟み込まれる構成について、作品に対する没入感を殺ぐようにも感じられ気になっていたが、最後まで映画をみると、このラスト、日本映画というよりはどこか米国文学を思わせるエンディングにつなげるためにはこれ以外の構成はなかっただろうと思い直した。「当時」パートの描写の密度と「現在」パートのそれとの落差が激しいことに根本原因がある以上、ここはいかんともし難いところだろう。まあ、これだけテンションの高い作品である以上、箸休めがあってもよいのかもしれないが、そこが緩急というようなうねりではなく、1か0か、オンかオフかのように極端であることが気になる理由なのであろう。あのラストを余計だとする意見も多いが、そうではなく、あのラストにつなげるストーリーがうまく描かれていない、機能していないことのほうがどちらかといえば課題だったのではないかと考える。

6/29/2008

In the Valley of Elah

告発のとき(☆☆☆★)

イラクに派兵されていた息子が帰国後まもなく無許可離隊・失踪したとの連絡を受けた父親。軍警察での経験を活かして自らの手で捜査を始めた彼だったが、そのかいもなく、無残な姿で発見された息子と対面する。地元警察と軍警察の狭間で息子の死の真相を探るうち、誇りと愛国心に満ちていた男の目に、イラク戦争を通じて変質した米国の今が映し出されていく。出演はトミー・リー・ジョーンズ、スーザン・サランドン、シャーリーズ・セロン。ポール・ハギス脚本・監督。

この映画は失踪した息子の謎を、これまでも数々の作品で「追跡する男」を演じてきたトミー・リー・ジョーンズが追うミステリーとして幕を開ける。ほどなくして息子の無残な死が明らかになったあとも、誰が殺したのか、なぜそのようにして殺されなければならなかったのかを縦糸に、最後まで「ミステリー映画」のフォーマットから逸脱することなく、寸分の迷いも感じさせぬ足取りで、物語が語られていく。「告発のとき」などという邦題は、「ミステリー映画」というより「法廷映画」だろう、という意味で、つけた人間の言語センスが疑われる。

軍組織の壁に阻まれながらも事実を積み上げ真実に迫っていくトミー・リー・ジョーンズは、『逃亡者』&『追跡者』で決定的としたイメージに、つい先日公開されたばかりの『ノー・カントリー』の余韻も重ね、完璧である。プロフェッショナルなたたずまいに、押し隠した胸のうちが透けて見える、そんな繊細な感情表現を、おなじみの仏頂面で「礼節と規律を重んじる軍人上がりのまじめな男」というキャラクターを、パンツに折り目をつけたり靴をそろえたり、あるいは「トップレスの女性(すら)も ma'am」と呼称するなどの細かな所作を積み上げて肉付けしていく丁寧な演出も光る。

しかし、この映画のポイントは、ミステリー仕立てのなかで浮き彫りにされる米国の病にこそある。国家の都合と欺瞞で戦場に送り込まれ、人間性を崩壊させた若者たち。盲目的な愛国心を笑うのでなく、いかんともしがたい格差や貧困を嘆くのでなく、それを利用し、そこにつけこみ、大義のない戦争に駆り立てた責任を誰が背負うのか。そして、傷つき変質した社会を誰が癒すのか。この映画は、主人公が南米移民の用務員に星条旗の掲げ方を指南するエピソードで、それを象徴的かつ印象的に表現して見せた。国家は内なる危機に瀕しており、すでになす術を持たない状況だと。誰かの救いの手を待つしかない、そういうことなのだろうか。

ポール・ハギスの名声を確立させた監督作『クラッシュ』は、現実の厳しさを小さな奇跡によってファンタジーに昇華させ、かすかな希望の余韻を残して幕を閉じた。しかし、この作品に希望はない。主人公の信じた正義、主人公が誇りに思った米軍、無条件に愛した米国という国家は、幻想だったとまではいわずとも、失われて久しいものであるとの現実認識に至る悲痛な物語であるからだ。その重さは、いくらこの作品が「ミステリー映画」の骨格を借用していようとも失われることはない。それがこの映画の美徳であり、欠点でもある。ポール・ハギスの誠実な仕事には敬意を表すが、一方で、彼の生真面目な資質は、多くの観客にとって、この映画への敷居の高さにつながるだろう。また、何度も見たい映画か?と問われたら、その生真面目ゆえの重苦しさに「一度でいいや」と思わせてしまうところもある。

田舎町で生活のために仕事を続けているシングル・マザーの刑事を演じたシャーリーズ・セロンは好演しているが、映画の中での扱いの大きさのわりには見せ場がなく、残念。偽サインを見破るだけでは、ちょっとどうかと思うのだ。また、主人公の息子の軍における仲間を演じた若い役者たちは平坦で印象に残らない。戦場で撮影された動画ファイルを復元しながらストーリーを引っ張っていくアイディアは秀逸だったが、「息子」が傍観者ではなく当事者の一人でもある状況での撮影は作為的だと思うし、動画へのノイズ混入が激しすぎて何が映っているのかわかりづらく、期待通りの効果を出せていないのではない。

6/14/2008

Indeana Jones and the Kingdom of Crystal Skull

インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国(☆☆☆★)

冷戦下、超能力研究も進めるソビエト連邦は、神秘の力を持つと考えられるクリスタル・スカルを追い、ロズウェル事件の調査にも関わったインディアナ・ジョーンズ博士に協力を強要する。すんでのところを脱出したインディは拉致された旧友が残した手がかりをもとに、黄金都市の謎に迫っていく。現実で経過したした時間にあわせ、50年代に設定と舞台を移したシリーズ復活作は、50年代の冒険活劇として王道の記号を散りばめてみせる。ナチスに変わるのはソビエト連邦であり、超自然的オカルトアイテムにもUFOとリトル・グレイの影がちらつく。人間が作り出したとてつもない破壊力の象徴は、ネバダの実験場で炸裂する核爆弾だ。してみると、クライマックスではそれを凌ぐオカルト・パワーが炸裂することは、むしろ必然。そのこと自体には全く抵抗がないのだけれど、どうも世間の受けは良くないようで。


そもそもスティーヴン・スピルバーグが志向するオールド・ファッションな冒険活劇と、ジョージ・ルーカスがこだわった50年代B級SFi 風味が噛み合っていない、という指摘は、スピルバーグが最後までその展開に乗り気しなかったという事実を暴露されたといっても、あまり意味がないことのように思われる。だいたい、このシリーズは人知を超えたオカルトをネタとしてきたわけで、今回の事件もその範疇を超えてはいないのではないか。ただ、かつての3部作は、人知を超える力の「源」までは言及することなく曖昧にしてきたから、それを見せてしまう今回は少し無粋だとは思う。


とにもかくにも、懐かしい音楽に乗って、懐かしいヒーローが銀幕に戻ってくるのだから、とやかく言わず楽しむのが吉、という文脈でしか評価されない宿命にある一本だろう。ちょうど、北米版で出揃ったDVD版『ヤング・インディアナ・ジョーンズ』シリーズを見ていたところだったので、「妙にお堅くて遊び心にかける件のシリーズと比べれば、観客が求めているインディはこうでなくちゃなぁ」と思って、素直に喜んでしまった私なぞは得をした気分である。これは、やはりそういう観客にむけた同窓会的お祭り映画なんだろう。出演できない俳優たちをいろいろな工夫で登場願っているあたり、正しい配慮だ思う。今回登場しなかったキャラクターは、ぜひ次回作で。やるんでしょ?どうせ。


なんだかんだといって肯定論者の当方ではあるが、数多くの一流どころの手を経てデイヴィッド・コープの手で整理整頓された脚本は、文字通り、さまざまな脚本家が残した断片をつなぎ合わせた印象であることには違いがない。スピルバーグの手腕と相まってその場の刺激や興奮を作り上げることには成功しているが、いろいろな要素が有機的に絡み合ってこないから、残念ながら、物語としての面白さには欠けている。背負ってしまった「看板」の重さやそれぞれに我の強いステイクホルダーのことを思えば、こういう脚本にならざるを得ないのは理解できるが、これでは、何人ものスクリプト・ドクターの手を借りて完成される無個性な大作映画とかわらない。まあ、自身の監督作はともかく、脚本家としてのデイヴィッド・コープの得意なことって、まさにこういう状況でのツギハギ仕事にあるわけで、空中分解しかけたプロジェクトをゆだねる相手として、彼の起用は正しい判断のかもしれぬ。


スピルバーグの演出は、相変わらず幼稚で悪趣味で、下手な誰かが取ったら面白くもなんともないようなアクション・シークエンスをスリル満点ユーモアたっぷりのジェットコースターライドに変えてしまうのだから恐れ入る。もともと雇われ仕事の気楽さで始めたこのシリーズ、今回もよい息抜きになったのではないか。今回は撮影の担当が、さすがに高齢で引退済のダグラス・スローカムに変わって、近年の盟友であるところのヤヌス・カミンスキーに変わっているのだが、スピルバーグと組むと暗く重たいカミンスキーも自らのタッチを封印、スローカムが作った明るくコミックっぽいルックスに近づけようと最大限の努力をしているというのが伝わってくるところが可笑しい。

6/07/2008

21

ラスベガスをぶっつぶせ (☆☆☆)

この映画の原題は『21』である。これは、エースを「11」、絵札を「10」として数字を合計し、「21」を超えない最大の数が勝つというブラックジャックのルールに由来するものだ。ブラックジャックというゲームでは、どういう状況のときにどうプレイすべきか、統計学的に有利と考えられる基本戦略がある。それに忠実であれば、あくまで確率の話だが、それほど負けが込むことを避けられるはずである。そういう性質のゲームであるから、確率を自分の味方につけるべく、さまざまな方法が研究された。ゲームでカードが配られる毎にデッキに残った未使用カードの種類に偏りが生じ、確率的な有利不利もそれにつれて変化する。映画好きなら記憶にあるであろう、『レインマン』ではダスティン・ホフマン演ずるレイモンドが場に登場したカードを全て記憶、残りカードを把握することによってプレイを有利に進めて大勝するという描写があった。あれは特殊な設定で、かつ、誤解を招きかねない大げさな描き方が成された例であるけれども、この映画の主人公であるMITの学生たちが試みるのも基本的には同じことである。全てのカードを記憶する代わりに、場に現れたカードを独特のカウント方法によって「数え」ていく (= card counting) ことで、残りカードのコンディションを推測しようとするものである。プレイヤーに有利な状況だと判断すれば仲間を呼び込み、掛け金を増やすなどの積極策で打って出る。不利な状況であれば消極策で損失を減らすという「作戦」だ。

この話は、実際の事件に材を撮ったベン・メズリックの原作("Bringing Down the House")を元にしており、M.I.T. に入った貧乏学生が、"card counting" を教え込んだ優秀な学生たちを使って荒稼ぎを繰り返している「教授」の誘いにのり、次第に深みにはまっていくというものだ。映画はここに「自らの欲望を満たすために悪魔に心を売った主人公が味わう絶頂と絶望、友情と葛藤、再起と成長」という大定番のプロットを見出して再構成、淡い恋模様を交えて、スリルと苦味を伴う青春映画の佳作に仕上げて見せた。実際はアジア系の学生が多かったはずの主人公グループを白人主体のグループとして描いたことで物議を醸したが、実話に題材を求めた娯楽映画、商業映画という観点からは非難に値するほどのものでもあるまい。ギャンブルと裏世界の青春といえば、マット・デイモンとエドワード・ノートンが共演する変化球的佳作『ラウンダーズ』も記憶に新しいが、こちらの方がより定型的な教訓を含んだハリウッド青春映画を志向している。それもまた、小説より奇なる実話を単純化して台無しにしたとの非難を受ける理由には違いないのだろうが、定番(フォーミュラ)の強靭さをナめてはいけない。そこには長い年月に渡ってテストされ続けてきたストーリーテリングのエッセンスが凝縮されているのだから。

主人公を演じるのは、『アクロス・ザ・ユニバース』でも注目を集めたジム・スタージェスで、数学の天才に見えるかどうかは別として、ロボット・コンテストに夢中になっていそうなgeekには見えるし、学費を貯めるために手を染めた「悪事」にはまり、人間性が変わっていくさまをそれなりの説得力と魅力で演じていて、ブレイクが近いことを伺わせる。ヒロインに抜擢されたのは『ブルークラッシュ』が印象に残るケイト・ボスワースで、『Legally Blonde (キューティ・ブロンド)』で名をあげた本作の監督、ロバート・ルケティックとは『Win a Date with Tad Hamilton! (アイドルとデートする方法)』に続く2度目の顔合わせだ。そういう若いキャストを誘惑するメフィストフェレスを演じるのは、本作のプロデュースも務めるケヴィン・スペイシーである。まあ、彼が得意なタイプの役柄で、なんら想像の範疇を超えることもないが、この胡散臭い役柄を軽く演じて若手の役者たちとのキャリアの違いを見せつけている。カジノ側でイカサマ摘発に血道をあげる強面の男をローレンス・フィッシュバーンが迫力たっぷりに演じてここでの役割を全うしている。複数エンディングが撮られたというが、劇場公開版はいかにも米国的な強かな生き方をパンチと皮肉が効いたタッチで決めて、なかなか鮮やかである。

The Magic Hour

ザ・マジック・アワー(☆☆☆★)

演劇的だといわれ続けてきた三谷幸喜の監督作品だが、各方面で大活躍の多忙な売れっ子でありながら、1997年の監督デビュー作『ラヂオの時間』、 2001年の『みんなのいえ』、2006年の『The 有頂天ホテル』、そして本作と作品を継続的に発表、実績を積み上げてきていることで、映画への取り組みが本気であることを示すと同時に、彼のつくる映画のスタイルそのものが、ひとつの立派な個性として確立してきた感がある。こぢんまりとした初期2作の佇まいに比べると、『The 有頂天ホテル』以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。と、同時に、彼なりの視点と手法で巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきている。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体・再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現のしかたを思いつかない世界ができあがってくるのである。我々は、彼の映画がそういう作品になっていることを了解のうえ、むしろ、それを積極的に楽しもうと劇場に足を運ぶのだ。

監督4作目となる本作では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて街を牛耳るギャングと、「殺し屋役」として雇われた三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇をやらかしている。もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんでくださいね」という「ごっこ遊び」であることは、本作を演劇的といわせる最大の要素であるのはいうまでもない。もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つがこれほどにないまでにわざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。

しかしその一方で、大掛かりなセットのなかを自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないのであろうかつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのである。この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的なごっこ遊び世界という観点で、本作はこれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では三谷幸喜が作ってきた路線のひとつの到着点であると思う。

しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのがうまい。だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話しと、人工的なセットのなかで「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうものである。次々に登場する華やかな役者たちの贅沢な使い方も見所である。彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他作品では見られないような表情を引き出したてみせるあたりの技は、いうまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後語り草になるであろう佐藤浩一のコミカルな一面や、(私にとってあまり好きになれない役者の筆頭である)西田敏行を前作に続き脇で巧みに使いこなしているところなど、見所、笑いどころが満載である。

ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては少々長すぎるのである。何もかも詰め込んで楽しませてやろうというサービス精神はまことに立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは「勘違い」としか言いようがない。勘違いしてほしくないのだが、私自身コメディ好きで、「ドタバタコメディ」を一段低く見ているわけではない。ジャンルによって、適切な尺というのがあるはずだといっているだけである。それに、「136分」というのは、コメディに限らず「長い」映画の部類だろう。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。これをあと30分くらい短く完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのである。これは本人の責任ばかりでもなくって、結局、ヒットメイカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか、などと危惧するものである。

5/24/2008

Rambo

ランボー 最後の戦場(☆☆☆)

『ロッキー』に続いて自身のヒットシリーズを復活させてきたシルベスター・スタローン。ロッキーもそうだったが、こちらも自分で脚本・監督を手がける力の入れようだ。変える場所のないベトナム帰還兵の物語として始まったこのシリーズ、回を重ねるたびにわけの分からないものに変貌し、それでもアクション映画として面白い2作目はともかく、「怒りのアフガン」(邦題で)と銘打った第3作などはいろいろな意味で失笑もの、スタローン株の暴落を誘発するきっかけになったのではなかったか。

そんなシリーズの主人公、ジョン・ランボー。アフガンでの一件のあと、国に帰るわけにもいかず、ミャンマーの奥地で蛇とリをしてひっそりと生きていたというのがこの映画の始まりだ。ランボーという男は好むと好まざるとに関わらず、戦闘のプロフェッショナルであり、人殺しのプロフェッショナルなのである。心に深い傷を負った彼であるが、そんな男が自分の本質と向き合う時と場所は、「自らを守ることができない善良で弱い人々が、武力や権力による弾圧に苦しんでいるところにしかない」というのがスタローンの至った結論なのだろう。ミャンマー軍事政権下において苦しむ人々をサポートする(ナイーヴだが善良には違いない)NGOの依頼を受け渋々道案内を買って出たランボーが、最後には問答無用のミャンマー軍大虐殺に至る物語として完成したのが本作である。

この映画は、「アフガン」のときのように痛みと無縁の大量の死が描かれているわけではない。メル・ギブソンが自らの監督作で先鞭をつけたような、痛みを伴う血塗れの戦闘が直接的で激しいバイオレンス描写で描かれている点で、これまでの3作のどの作品とも雰囲気が異なる。80年代のアクションヒーローを甦らせておいて、どこで身に着けたのかというような時代に合わせたスタイルの演出を見せるスタローンは、実はものすごく柔軟な才能の持ち主なのかもしれない。しかし、というべきか、それゆえにというべきか、ここには娯楽映画らしいメリハリや息抜きはない。ユーモアもなければ、お約束もない。物語が始まったら一揆阿寒に突っ走る92分なのである。そう、お約束といえば、怪我をしたランボーが、痛そうな自己治療・即席手術をするシーンであったり、一度は捉えられた上、脱出して反撃などといった、これまでのシリーズで見慣れた「印」や定番のストーリー展開がそれに当たるが、この映画にはそのようなものは一切ないのである。最近のハリウッド映画の長尺化傾向にも真っ向から反旗を翻し、(「ターミネーター」あたりを起点にはじまったと思われる)「いつまでも終わらず、永遠に引き伸ばされるクライマックス」になれた観客が、「え、もう終わり?」とびっくりするくらいあっさりとエンドマークを打つ潔さなのである。

しかし、本作の最大の見所は、激しい戦闘が終わったあとだ。なんと、ランボーはこの間の長い道のりの果て、故郷に帰るのである。たしかに、あれから長い時間がたち、いろいろな意味で米国も変わった。その変化をランボーがどう感じるのか、それはわからないが、長ロングショットで捉えたランボーの帰郷、そこにかぶさるジェリー・ゴールドスミスの書いた御馴染みのテーマ曲。そこにはなんともいえない余韻があり、感慨深いものがある。このラストシーンにこそ、この映画を作った価値があったと断言しよう。あとの部分は、正直どうでもいいや。

5/10/2008

隠し砦の三悪人 The Last Princess

隠し砦の三悪人 The Last Princess (☆☆)

正月映画として公開されたリメイク版『椿三十郎』に引き続き、またしても黒澤、1958年の敵陣突破アクション『隠し砦の三悪人』のリメイクが登場である。手掛けているのは樋口真嗣監督。監督作としては『ローレライ』とか『日本沈没』とか、どうにも手放しで喜ぶわけには行かないような凡作ばかりを連打しているが、他者の作品に提供した画コンテや平成ガメラ三部作での仕事から、画作りの巧さには定評のあるところ。個人的にもそういう方面での期待は失っていないので、良くできた脚本さえあれば面白い作品ができるだろうと、手本となる(オリジナルの)作品があるのだから、よもや大きな失敗はないだろうと劇場に足を運んだ次第だが、期待はまたしても裏切られた。

『隠し砦の三悪人』といえば、ジョージ・ルーカスが最初の『スターウォーズ』を作るのに当たって参考にしていることでも有名で、物語の構成やキャラクター、場面によっては構図や演出までにもその影響を見ることができる。

今回のリメイクは、オリジナルの脚本をそのまま使用した『椿三十郎』とは違い、中島かずきによる新たな脚色を行っているのが注目点である。この脚色が『スターウォーズ』を経由して、原典に先祖返りするかのような脚色となっているのが興味深いところだ。オリジナルにはなかった若武者(ではなく、農民だけど)のキャラクターを追加、物語の中心に置いているが、これはルーク・スカイウォーカーの位置付けに当たるのだろうし、オリジナルの主人公にあたる真壁六郎太にはある種、ハン・ソロ的な役割もダブらせている。もちろん敵側の親玉は大仰な黒マスク姿だ。C3POとR2D2のモデルとされた凸凹コンビのコメディリリーフは、逆に1人のキャラクターに集約されている。まあ、新キャラクターを足した分、どこかで引き算が必要になるということか。

一部に、そこまで『スターウォーズ』がやりたいなら、『スターウォーズ』をリメイクしろ、という意見もあるようだが、私自身、『スターウォーズ』に熱狂し、その後にさかのぼって黒澤映画を見た世代であるから、この作品を今リメイクするとなれば、オリジナルが周囲に残した影響をまるごと作品世界に取り込むというアプローチはむしろ自然なことのように思われる。

何にインスパイアされようと構わないが、何か原典の要諦を考え違いしているところにあると思われる。この作品はもともと「降りかかる危機また危機をどのように切り抜けて敵陣を突破する」というそれだけの話であり、テンポ、スリル、スピードが命なのである。だから、これをリメイクするのであれば、まさにそこのところでいかに知恵を絞るか、スリルとスピード感をいかに現代の感覚とアイディアで再現するのかというのが、キモだといえよう。しかし、本作、不思議なことに、その要たる部分に何のアイディアも工夫もない。

その代わり、松本潤が演じる「新主人公」の成長やら、長澤まさみ扮する姫と主人公のラブロマンスやら、横道ばかりに力が注いでいる。スケールの大きいアクションにしようと力を込めるのもいいが、なんだか爆発で誤魔化しているようにも思われる。いや、ここに必要なのはドッカーンというサプライズではなく、はらはらするようなサスペンスではなかったのか。どうせハリウッド流の娯楽大作をテンプレートにしているのだろうが、手本にするものが違うだろう。

要を見誤った脚本も良くないが、キャスティングはもっとダメだ。アクション時代劇の主人公としてヒョロヒョロな松本潤というのは何なのだ。これが成長し、逞しい若者になるというのならともかく、彼にはそういう演技は無理だった。さらに、1人コメディリリーフの宮川大輔のキャラクターも、計算違いだかなんだか、画面に映っているだけで不快である。また、長澤まさみも精彩がない。これは脚本の問題もあるとは思うが、むしろ50年も前に作られた原典のヒロイン像のほうがよほど現代的で魅力的だというのは問題だろう。

オリジナルを尊重して見せた『椿三十郎』も失敗作だったが、現代的に脚色して見せた(はずの)本作もまたこんな体たらくだと、困ってしまう。せっかくオリジナルという面白い映画の手本がありながら、何故このように無残なことになるのだろうか。少なくとも黒澤リメイクを云々いう前に、今回も底抜け大作監督の汚名をそぐことができなかった樋口真嗣には、そろそろ監督をご遠慮いただくことをお願いした方がよいかもしれない。

The Myst

ミスト(☆☆☆★)

異次元というか異世界とこの世の境界線が偶発的に破れてしまい、凄まじいパワーを持つ異形の化け物があふれだしてくるという、ラブクラフトな雰囲気も感じさせるキングの中篇「霧」。この映画は、霧の中に潜む得体の知れないものを前にして、閉じ込められた人間たちがどう行動するのかというドラマを丁寧に描いていることで評価を受けるのかもしれない。しかし、それはこの話を撮る以上は「本筋」として当たり前のこと。むしろ、霧の中を徘徊する宇宙神話的な化け物たちの息遣いを感じさせるスケール感をこそ、評価すべきではないか、と思う。もちろん、「化け物」というのは、9/11 やニューオリンズなど、日常生活に突如襲い掛かった災厄のメタファーとしてみることもできるだろう。今の時代、サブコンテクストに9/11に端を発した社会不安がないわけがない。しかし、本作を覆い尽くす底知れぬ絶望感の源は、あれだけの化け物を出しても決してお笑いに転化させないフランク・ダラボンの確かなホラー魂にこそ根差している。いうまでもないが、この人は無類のキング好きなだけでなく、ホラー映画の脚本で売り出した過去を持っている。

この作品の映画化がフランク・ダラボンの手になる幸せはいろいろあるかもしれないが、やはり、彼のネームバリューによって(派手ではないかもしれないが)確かな実力のある役者が集まっていることだろう。狂信的な宗教おばさんを演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンだけではない、いかにもぼんくらな犠牲者クリス・オーウェンとか、無知蒙昧なブルーカラーぶりが見事なウィリアム・サドラーとか、そしてもちろん、主人公を支えることになる射撃の名手を演じたトビー・ジョーンズらが、見事なアンサンブルキャストを形成している。なにしろ、これまでに安手に映画化されたキングの短編で何が辛いかといって、まず役者のレベルが落ちることであった。(もちろん、ついでに、安っぽくセンスのない特撮にも責任があるのだが。)主演にトーマス・ジェーンという、新しいほうの「パニッシャー」(古いほうはドルフ・ラングレンな。)が起用されたと知ったときの不安は映画を見ることによって完全に払拭された。トーマス・ジェーンも花のある人ではないが、良識があると思っている一般人の代表として適役だった。

議論を呼んでいる「ラスト15分」は、原作が敢えて描かず、読者の想像にゆだねた「その先」にある物語を、徹底的に悪意のある解釈で創造したものである。そういえば、ダラボンは『ショーシャンクの空に』でも余計なエンディングを付け足した人であった。個人的に、下手な付け足しをするくらいなら、絶望も希望も「想像にゆだねる」かたちで余韻を残すのが良いと思うが、昨今、野暮なことに、それでは満足できない観客がたくさんいるらしい。結局、ここでの付け足しは、徹底して「主人公の選択が正しいとは限らない」という絶望を見せることであって、ハリウッドの娯楽映画的な決まりごとから逸脱する描写もあって悪趣味でもあるが、それほど悪くないと思った。キングの小説には『デスペレーション』などを代表として「神の行いの残酷さ」をテーマとして扱った作品がある。実はダラボンによる映画版『グリーンマイル』の一番物足りないところは、原作のラストで描かれたそういう要素の掘り下げが足らず、甘さに逃げたところであった。ある意味、今回のエンディングでそのときの借りを返したものという見方もできるかもしれない。

本作で一番残念なのは、「感動もの」として(騙してでも)売りたいがゆえの日本版ポスターだ。劇中でも主人公の描いていたポスターとして何作品かが登場する大ベテラン、ドリュー・ストラザーンの作になるオリジナル・ポスターが陽の目をみなかったのはいただけない。しかし、感動ものとして売るのはいいけど、一度騙されたと感じた観客が再び映画館に戻ってきてくれるのかどうか、せっかくの力作なのに、期待していたものとは違うという理由だけで満足度が下がったりもするもので、みな遠慮なくネットにそういう不満を書き散らすものなのだから、もうすこし考えてほしいよね。

3/01/2008

L Change the WorLd

L Change the World(★)

映画好きで、ある程度どんなジャンルの映画も見るとはいえ、時間も体力も限られているわけであるから、なんでも片っ端から、というわけには行かない。そこで、明確ではないのだけれども、自分にとって優先順位の高い映画と低い映画を見分ける基準のようなものは持っているし、こういうのは見に行かない、というルールのようなものがないわけではない。『デス・ノート(前編・後編)』からの付き合いだと思って特に高い期待も持たずに本作を見に出かけたが、新しいルールがひとつできた。「ナンチャンがFBIを演じるような映画は2度と見に行かない。」それ、何ていう学芸会ですか?

いや、本当に、これ、作り手は、作りたくもないものを押し付けられて、やけくそになって、ギャグで撮ったんじゃなないかと思った。中田秀夫は何が悲しくてこんな作品を作っているのだ。しかし、恐るべき事実として、どうやら、「どうしようもない脚本を与えられてやっつけ仕事で撮った」というのではなく、本人が脚本作りの初期から関与しているようなのである。おいおい、今後このひとに何を期待したらいいのかがわからなくなったよ。

これは、『デスノート(後編)』のラストでデス・ノートに自らの名前を書いた「L」が、死ぬまでに残された (劇中では描かれなかった空白の)23日間に起こった出来事という設定の話である。その設定のもとで、『デス・ノート』シリーズとは違ったことをやる、「L」の違った側面を見せる、というのが基本的なコンセプトなのだが、ここで何を間違えたのか、「殺人ウィルスを使った世界規模のテロ」などという大仰だが全く興味をそそられないプロットを持ち出したのが第1の敗因。「世界規模」の話で、海外ロケまでしておいて、テロリストにしろFBIにしろ、みんな日本人が日本語で会話する世界で完結するのが第2の敗因。どうせマンガ世界なんだからリアリティにこだわる必要なんかないと思い込んで、『デス・ノート』が決してはずすことのなかったマンガなりのリアリティを放棄したのが第3の敗因。スピンオフなんだから、『デス・ノート』が奇跡的に構築することに成功したある種の箱庭世界のなかに限定して話を展開すればそこそこ見られる作品になったはずなのに、違ったことをやろうとしてそこから逸脱すればするほど、嘘臭さが耐え難くなるのである。

いや、ほんとうに不思議なことだと思うのだが、そもそも『デス・ノート』は嘘臭い映画だった。マンガの中だから許容できるのであって、アニメならともかく実写映画にしようものならとたんに破綻することが目に見えているような作品だった。それなのに、あの映画は、まるで「マンガをアニメ化した」かのごとき力技で、嘘臭い世界を映画の中に限定で現出、成立させてしまったのである。そして、『L』も嘘臭い映画である。しかし、嘘臭さの質が異なる。ここにある嘘臭さは、マンガやアニメのそれではない。現実に立脚して作り上げた(あり得るかもしれない)世界でもなく、注意深く(作品にとって都合よく)作られた独自の世界観に基づく虚構世界でもなく、娯楽映画なんだから、マンガなんだからこんなものでいいんだろ?というダメ邦画の嘘臭さ。匙加減を間違えたというのではなく、そもそもそういったことに必要な注意が払われていない手抜きをこそ感じさせても、予算や技術の制約で致し方なくそうなってしまったという微笑ましさのかけらはどこにも見受けられない。

まあ、いいや。100歩譲って全てがギャグだとしよう。狙って撮りに云った笑いもあるだろう。だが、ナンチャンを「FBI」としてキャスティングするのが狙った笑いだとしたら、その発想が狂っている。そうじゃないか?

で、タイトルなんだけど、「L、世界を変えろ!」なの?「Lが世界を変える」の?前者なら「, 」なり、「;」なり、「:」なり、「L」とそれ以降(サブタイトル?)を区切ってほしいよね。後者なら「chaneges」だ。まあ、こんなだっせー英語タイトルつけちゃう時点で映画に何も期待できないのは明白なんだけどね。

1/19/2008

Sanjuro

椿三十郎(☆☆)

黒澤明監督が『用心棒』に続いて撮った、限りなく続編的な姉妹編が『椿三十郎』である。どちらも三船敏郎演ずる流れ者のサムライが主人公だが、どちらかといえばハードボイルド・タッチの『用心棒』に比べてこちらのほうが軽く、ユーモラス。そこが『椿三十郎』というっ作品で、私のお気に入りのポイントである。

また、この映画はクライマックスの決闘の斬新さで知られている。強いやつと強いやつが延々と死闘を繰り広げるというのではなく、一瞬で決着がつく。どちらが勝ったか、一瞬の間をおいて、ど派手に吹き上がる血飛沫でわかる、、というのが当時の感覚からすれば度肝抜かれる感じではなかったか。古いタイプの時代劇というのが、いろいろな「お約束」で成立をしていたのに対して、刀で切る、切られたら当然血が出るというのを映像にしているわけだが、そういう意味でのリアリティはことさら重視しておきながら、最後の最後にきて、あからさまな映像的な誇張で噴水のように血飛沫が上がるという、その飛躍、その落差によって強い印象が残るんじゃあなかろうか。リアルタイムでなく、80年代になってから映画を見始めたような私のような人間の脳裏にも鮮烈に刻みつけられる、凄いアイディアの名シーンであった。

さて、黒澤リメイク企画が氾濫している今日この頃、織田裕二主演、森田芳光監督でその『椿三十郎』をリメイクし、正月映画としての公開だ。『椿三十郎』が好きだときく森田芳光は、基本的にオリジナルの脚本をそのまま使用して本作を作っているし、多くのシーンがオリジナルそのままの構図で撮影されている。ただし、本作はカラー。オリジナルは白黒だった。

そこで思い出すのが、世紀の愚挙扱いされて黙殺されたガス・ヴァンサント版『サイコ』である。ヒッチコックのオリジナルをショット・バイ・ショットのレベルで忠実になぞり再現するという学生の実験映画のような試みで、スタジオの視点で考えれば、おそらく、テレビで放送しにくい白黒映画をコンピュータで着色処理する代わりに、今のスターを使ってカラー版をつくってしまえということだったのだと思う。完成した映画が面白いかどうかは別として、個人的には興味深い試みだったと思う。例えば、同じ脚本、同じショットをつないだといっても、役者が違い、演技が違えばシーンのニュアンスは違うものになり、映画総体としてはさらに違うものになってしまうという、理屈で考えれば当たり前のことを実際に目にする機会をもらったということだ。

森田版の三十郎は、もちろん役者が違う。織田裕二の好き嫌いはともかくとして、今、「名前で客を呼べるスター」なるものが仮にいるとすれば、彼だという作り手の主張はわかるような気もするが、彼の持ち味は三船敏郎とは異なるのだから、それだけでも映画の醸し出す雰囲気が変わってしまう。織田裕二は彼なりに頑張っているが、オリジナルの脚本そのものが彼の個性に合っていない。そして、テンポが違う。いま、この時代にリメイクをするのであれば、当然、今のスピード感覚にあわせたっ作品になっているべきであるが、96分のオリジナルがなぜか119分と、20分近くも長くなっている。なんでこうなってしまうのか。そして、クライマックスの演出が違う。違うことをして、新しくなって、面白くなっているならいい。しかし、オリジナルであれだけ印象的で鮮やかだったあの決闘シーンが、つまらないカット割りやスローモーションで引き伸ばされた挙句、あまりに平凡なシーンに成り果てているのには呆れてものが云えなかった。監督は、同じ脚本ながら現代的に再構築したといういい方をしているわけだが、それじゃなんだ、96分で語れる話を2時間に引き伸ばすのが現代的で、あの決闘シーンが当時の観客にもたらした衝撃を、細かいカット割りとスローモーションや白黒カットが交じった凡庸な編集が、現代の目で見て新しく、衝撃的だとでもいうのだろうか? いいアイディアがないのなら、オリジナルのままにしておくという勇気はなかったのか。

そんなこんなで、オリジナルを冒涜するかのような「改変」こそなかったが、過去の名作を同じ脚本で現代によみがえらせるというチャレンジは、もう少しうまいやり方があったとは思うが、図らずも失敗したといえよう。tだ、腐っても鯛といういい方が良いのかどうか、さすがにオリジナルの脚本が面白いだけのことはあって、上映時間中とりあえず見ていられるのは事実。演出が冴えなくても脚本さえ良ければ底抜けにはならないという見本としては一見の価値がある、か。