9/28/2008

Nights in Rodanthe

最後の初恋(☆☆★)

ダニエル・スティール原作で、過去にも同じ作者の『メッセージ・イン・ア・ボトル』をプロデュースしたことのあるデニース・ディノヴィ製作、共演3度目のおなじみリチャード・ギア&ダイアン・レインという布陣で作られたジョージ・C・ウルフ監督作『最後の初恋』。もう、想像以上のことはおこらないし、想像以上のものが見られると期待するほうがおかしい、絵に描いたような「中年ロマンス」なので、そういうのが嫌いな人は劇場に近寄らないほうがよい。(云われるまでもないか。)結ばれてハッピーエンド、ともいかないほろ苦さを用意して涙を絞る。

そう、いわゆる、"chick flick" であり、かつ、"teer jerker"って、みんなが馬鹿にする類だ。まあ、馬鹿にされても仕方がない。そういう映画なんだもの。

ふたりが出会う海辺の宿の佇まいがすごい。嵐がきたら一発で吹き飛びそうなものだが、そこはフィクションということなのか、もしかしたら実際に建ってるのか知らないが、わけありの男女が嵐の近づく海辺のこんな宿で一緒にいたら、そりゃなんかがなくちゃ不自然だ、というのを、圧倒的説得力で見せるセット(なのか本物かは知らないが)。舞台はノース・キャロライナ、夏休みに過ごすにはなかなか素敵なロケーションかもしれない。

脚本は舌足らずなのに、なんとなく説得力のあるカップルになってしまうギア様とダイアン・レインはさすが、キャリアの違いを感じさせてお見事である。しかし、それを言い出したら、やっぱり脚本は舌足らずなのに、そのキャラクターの存在そのものに圧倒的な説得力を与えてしまうのがこの人、恐るべし、スコット・グレンだ。彼の役どころは、医師であるリチャード・ギアが医療事故で死なせてしまう女性と長年連れ添った夫だ。要は、リチャード・ギアの心の傷を説明するためだけに設定された人物なのだが、スコット・グレンがこのもの静かな田舎のおっちゃんを演じると、あら不思議、台詞にない心の声まで聞こえてきて、なんかよく分からない行動も納得させられてしまうのである。この人、すごく好きな役者なのだが、最近、へんな役やちょい役ばっかりで実に惜しい。

劇場作品としてはデビュー作となるジョージ・C・ウルフだ。期待していなかったが、終盤、ちゃんとわかっている演出を見せてくれる。そのシーン、ダイアン・レインが、ある出来事があって投函されることのなかった手紙を読むところなのだが、凡庸のなかでも凡庸なやからだと、ダイアン・レインが手紙を読み始めると同時に、手紙を書いたリチャード・ギアの声で内容の朗読が始まり、観客の涙をしぼりつつ、ダイアン・レインも泣く・・なんてことをやらかす。しかし、この監督はベテランの演技人であるダイアン・レインを信じ、彼女の演技をたっぷりと楽しませてくれた。こんな具合だ。手紙を手に取ったダイアン・レインが、静けさの中、それを読み始める。読み進む。やがて、こらえきれなくなった感情が胸の奥からあふれでて・・・って、いや、まぁ、そもそも陳腐の塊のような作品なので、そこのところは致し方ないのだが、これをじっくり、腰をすえて、粘って、静けさの中で見せた。ワンカット。こういう瞬間、映画を感じる。ちょっとした幸せを感じる。まともな脚本がくれば、もうすこしまともな作品を撮れる人かもしれない。

蛇足。その昔、予告編でコーラ・ポールのキャッチーな唄ががんがん流れていたのに、それが本編では一切使われていない曲で、当然サントラにも収録されていなかったため、ちょっとした騒動(?)になった映画があった。ご存知、『シティ・オブ・エンジェル』(ワーナー)だ。今回、ワーナー大プッシュ中のダニエル・パウダーとやらの歌が「テーマ(イメージ?)ソング」とやらで、予告編でがんがん流れていたけれども、「どうせ使われていないんだろ」とたかをくくっていたら、あの事件(?)に懲りていたか、ワーナー。ぐぉ、全く意表をつかれたぜ。日本版だけエンディング音楽を差し換えて、突如ダニエル・パウダーがっ!英語だったらいいっつーもんじゃないでしょ。『P.S. アイ・ラブ・ユー』で徳永英明が流れた衝撃と同じレベル。日本語かどうかなんか関係ない。おまえら、勝手に映画をいじるなっ!(怒)

Achilles and the Tortoise

アキレスと亀(☆☆☆)

ここ最近の北野作品は、考えていること、やりたいことはわからないでもないし、それ自体には興味深いものがあるとしても、できあがった作品としてはは本当に見るに耐えかねる惨状を呈していたわけで、熱心に追いかけてきたつもりの当方としてはかなり辛かった。いや、もちろん作っている本人のほうがもっと辛かったのはいうまでもないのだろうけどね。残念なことに、同じことをやるならヴィジュアル・イメージの引き出しが多い分だけ、デイヴィッド・リンチとかのほうが(「映画」としては相当わけが分からないのにもかかわらず)圧倒的に面白いわけで、そういうレベルの作品しか作れないのなら、劇場にかけて金を取って見せるというのは失礼だろう、とすら思うのである。

たぶん、前作『監督・ばんざい!』で「監督」としての苦しみを、あまりにもくだらないかたちで作品化して見せたことで、すこしは吹っ切れたのだろうか。同じ路線(アーティストとしての自らを省みる3部作)の延長線上にある思考・考察を、オーソドックスな商業映画のフォーマットとストーリー(として受容が可能なもの)のなかで展開しているのがこの『アキレスと亀』だといえる。

作品は大雑把に3幕構成になっているのだが、主人公の幼年期を丁寧に描いて、ある意味、一番「普通の映画」に近い第1部が一番つまらない。少年が「絵」に引かれていくプロセスは彼独特のタッチでいい感じだ。そののめりこみ方にある種の狂気をはらんでいるところを感じさせるのもいい。ただ、設定を説明しなければならないという意識からか、これまでになく説明調なのが困る。だいたい、これまで役者のやる「演技らしい演技」をかたくなに排除してきたはずの彼にして、中尾彬がコントのように大げさでつまらん芝居をみせるのを許してしまったのはどうしたことか。中尾彬本人は名芝居のつもりでさぞ気持ちよかったんだろうけどさ。

映画は、第2部、第3部とどんどん面白くなっていく(といっても、どんどんくだらないことに入れ込み、どんどん身近な人が死んでいくわけだ)が、それぞれのパートで主人公を演じる柳幽霊と北野武本人が全く似ていないこと、柳幽霊は寡黙だったのに、北野になると突然よくしゃべることなど、いや、年をとったら四角い顔になっておしゃべりになることもあるかもしれないが、1本の映画としては整合性・一貫性を書き、まるで違う人物のように見えるのはやはり、減点ポイント。とはいえ、いちいち皮肉のきいたエピソードを、(これだけ人を殺しながら)ほんわかとしたユーモアで包んでみせる独特の「喜劇」センスは、やはり個性的であり、魅力的といえる。エンドレスでくだらないエピソードが続いていくが、『菊次郎の夏』のように映画のバランスを崩してしまうこともなく、きっちりタイトにまとめられている。

夫婦愛の話、などとして売りたい気持ちもわかるし、そういう側面がないとはいわないが、全編これ死の気配が漂う、彼以外では撮りえない残酷喜劇。まずは、復調であると喜びたい。

Iron Man

アイアンマン(☆☆☆★)

ああ、ロバート・ダウニーJr。クスリ絡みで一線を干された彼が、TV『Ally McBeal』の第4シーズンで復活し、大人の演技で最高のキャラクターを作り出してくれたとき、あまつさえ、歌声まで披露してくれたとき、どれだけ嬉しかったことだろうか。そして、毎週、TVでその演技を見るのがどれだけ楽しかったことか。そして、再びクスリによって番組降板を余儀なくされたとき、どれだけ寂しかったことか。彼のいなくなった件の番組は、翌シーズンからあらぬ方向に向かい、視聴率低迷で打ち切られた。(まあ、第5シーズンはジェームズ・マーズデンが陽の目を浴びるきっかけにはなったけどね。)

もちろん、近年ではデイヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』なんかに脇で出ていい演技をみせてくれていたので、「復活」といういいかたはちょっと失礼だと思う。もともとがコメディアンゆえに『トロピック・サンダー』みたいなので気を吐くというのもわかる。しかし、まさか、マーベル映画でアメコミヒーローを演じるとは、演じさせてもらえるとは、思いもよらなかった。この映画の魅力の1つは、間違いなく、意表をついたキャスティングでこの主役、「戦う社長」を演じる彼、である。

そして、この映画のもうひとつの魅力は、スーツを開発する過程をきっちり見せるところ。do it yourself 感覚というか、なんというか、自宅ガレージにてプロトタイプをつくり、実験し、改良しといった、一見して地味なプロセスを順を追ってみせた、これが、この映画のオリジナリティだろう。もちろん、『スパイダーマン』でも地味にスパイダースーツを作成していたし、『バットマン・ビギンズ』では耳のパーツを中国の工場に大きなロットで発注して云々、というしみったれた会話で笑わせてもらったが、それらとは明らかに違う、「男の子」心をくすぐり、なんだか無意味に興奮させられる描写がここにある。

で、改造したりパワーアップしたり、新スーツを開発したりするんでしょ?いやぁ、わくわくするなぁ。(呆)

もちろん、アクション映画としても、ラストの対決に『ロボコップ2』の延々と続くロボ対決を想起させられる見せ場を用意しており、ちゃんとポイントは押さえた作りになっていて、いわゆる popcorm movie というか、お気楽に楽しむには最高の作品である。

が、別に複雑な話でもなんでもなく単純明快で分かりやすいこんな映画が「3億ドル(US)」の大ヒットとなると、作った側もさぞびっくりしただろう。もちろん、ポスト・911、ポスト・イラク戦争の娯楽映画であるからして、単純に中東の悪者テロリストをやっつけろ、というほど単細胞ではない。悪を撲滅するためにばらまいた兵器がテロリストに回り、自らの身に火の粉が降りかかってくるという背景設定は、どこか、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』で描かれたムジャヒャディン転じてアルカイダな構図を思い起こさせ、皮肉でもある。そこに、世界に兵器をばらまいていた死の商人が改新して世直しをするという前向きでポジティブなメッセージがはまり、ダウニーJrの「改心と復活」が二重写しになった。そんなコンテクスト抜きに、これほどの特大ヒットは説明もつかない。

映画は、シールズの長官を名乗る謎の眼帯ハゲ、「ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)」が登場しておしまい。日本では公開の順番が逆になったが、『インクレディブル・ハルク』では、ダウニーJr 演じる「社長」が同様の出演を果たしており、うわさされるマーベル・ヒーロー大集合映画『Avengers』の前フリとなっている。もちろん、これから映画化されるはずの「ソー」だの、「キャプテン・アメリカ」だのがコケたら、どうなることか知らんけど。

9/23/2008

Hancock

ハンコック(☆☆☆)

ヒーローものといえば、アメコミ原作全盛の昨今。しかし『キングダム 見えざる敵』で名を上げたピーター・バーグ監督によるこの映画、『ハンコック』は、アメコミを原作に持たないオリジナル脚本の作品だ。まあ、ウルトラマンが暴れたら街が破壊されるといった、過去、一瞬だけ面白かった「考察」の類の延長線上というか、無茶をして周囲に甚大な被害をもたらすというので嫌われ者になっている「悩めるヒーロー」の物語である。自暴自棄でアル中で素行の悪い超人というオフビートな役柄にウィル・スミス。この「超人」のイメージチェンジに協力しようとする冴えない男をジェイソン・ベイトマンが、その妻をシャーリーズ・セロンが演じている。

まあ、想像していたよりは面白かった。なにしろ、『キングダム』はともかく、デビュー作『Very Bad Things(ベリー・バッド・ウェディング)』の酷い出来栄えで、コメディの担い手としてのピーター・バーグにはあまり信用を置いていないからだ。

ただ、この作品を一概に「コメディ」と言い切るのには違和感があるかもしれない。なにしろ、いま、興行的に最も安定感のある男、ウィル・スミス主演で独立記念日に公開する大作。製作にはマイケル・マンにアキヴァ・ゴールズマンやら、ジョナサン・モストウまで名前が連なる豪華な布陣だ。人々の注目を集め、大ヒットを宿命付けられている。そんな作品である。だから、「オフビートでオリジナリティの高いコメディ」という側面と、「当代のスーパースターが主演するアクション大作」という側面が、いかに両立・共存しているのかというのが評価のポイントだろう。そして結論を先に言えば、その両立には成功したとは云い難い、中途半端な印象の残る作品だと思う。

実際のところ、この脚本は、確かに業界内で評判をとるだけのオリジナリティがある。主人公が自分に協力してくれる親切な男の、その美人妻にちょっかいを出すというあらぬ展開には思わず吹き出してしまったし、その後の壮大なる痴話喧嘩的ドタバタ騒ぎを経て、「ヒーロー」の持つ神話性のようなところに着地するまとめ方も悪くない。

それゆえに、この脚本が「当代のスーパースターが主演するアクション大作」に向いているのかというと、違うのだと思う。そういう路線を期待する観客は、(それが面白いのかどうkは別として)ほぼ間違いなく「悩めるヒーローがイメージチェンジに苦労するが、強大な敵と戦い勝利を収める過程で自分自身と市民からの尊敬を取り戻す物語」といったような筋立てを期待するものだ。

こういう変化球は、むしろ低予算のコメディにこそ向いている。主人公が、自分協力してくれる善良な男の妻にちょっかいを出す不道徳な展開にしろ、痴話喧嘩の末、けちな犯罪者と対決するという敵らしき敵のないクライマックスにしろ、金をかけた大作映画にしては地味でしみったれている。

コメディ気質をもった軽妙なウィル・スミスは、本来、酒臭くぶっきらぼうで嫌われ者といったキャラクターを、こういうひねくれたコメディで演じるにはぴったりの役者だった。しかし、ここのところの彼は大きな存在になりすぎて、俺様スーパーヒーロー体質が染み付いてしまい、それがスクリーンからぷんぷんと漂ってくるのだからいけない。それもこれも含めて、この企画のパッケージングそのものが誤りだったと云えるのではないか。両立しない2つの要素を、あたかもそんな課題は存在しないかのごとく突っ走った結果がこれ、なんだろう。

9/13/2008

Children of the Dark

闇の子供たち(☆☆☆☆)

阪本順治監督、力作である。題材と持ち味がうまく噛み合って、今年、必見の1本といえよう。

この、ごつごつとしたいびつな塊のような質感と、海外ロケの臨場感がもたらす圧倒的な迫力。まとまりやバランスが良いとは思わないし、説明の過不足や唐突間のある展開も確かにある。だが、身近な日常世界に際限なく閉じていく小さな映画が癒しだなんだともてはやされたりする邦画のなかにこの作品を置くと、その異様なまでに突出した違和感に頼もしさを感じるのである。外を向き、社会的な矛盾と正面から向き合おうとする意欲。困難に負けず初心を貫く気力、その結果として映画が獲得したスケールの大きさはどうだ。そう、こんな映画をもっとみたい。こういうジャンルの映画がもっとあってもいい。世界の今と向き合う映画作家がいなければ、観客もまた、どんどん退行し、内へ内へとひきこもっていってしまう。発展途上の国で裕福な国の人間が行う幼児売買春や臓器移植の闇。梁石日(ヤンソギル)の小説を原作に、硬く、重い本作の題材と正面から切り結び、しかし、深刻なだけのつまらない映画ではなく、エネルギーに満ちた社会派のエンターテインメントとして作り上げた阪本監督以下のスタッフに、リスクの高さを恐れずに参加した意欲ある若い役者たちに、最大限の賛辞をおくりたい。

この映画の面白さは題材の衝撃度に加え、フィクションならではのドラマティックな「作り事」を交えながら、現実に立脚したリアリティを徹底的に突き詰めているところにあるだろう。監督がこだわったというタイでのロケは、何よりも雄弁に、「リアリティ」を伝えている。一方で、それは本作がタイの暗部ばかりを強調したり、フィクショナルである部分まで真実であるかのように伝わるのではないかという懸念につながってもいるが、本質的な部分では、この作品がノンフィクションではないから価値が減るわけではないし、現実を歪曲しているからといってタイのイメージが悪くなる、というものでもない。世の中にはその程度にしか映画を理解できない浅はかな観客がいるというだけのことである。

凄惨な「リアリティ」を、遠い国のよそごとであるとか、とんでもない絵空事だと感じさせないのは、そこに一般的な観客のすむ世界と映画の中の世界をつなぐ役割を担うキャラクターを配置しているからである。もちろん、それは「若者代表」のように登場する宮崎あおいと妻夫木聡の役割なのであるが、物語のなかで担っている役割の重さからいえば、宮崎あおいが演じる「無知と無垢な善意だけを武器に<自分探し>にボランティアとしてやってきた世間知らずの女の子」であろう。そのような設定であるがゆえに、このキャラクターの言動にはいちいちイライラさせられることになる。しかし、そこが宮崎あおいの実力というのか、下手な役者なら単なる足手まといの嫌われ役になりかねないところを、観客と同じ視点で現実と対峙し、驚き、怒り、悲しみ、結果として普通の観客が映し鏡として自らを投影し、あるレベルでは呆れながらも、あるレベルでは共感できるキャラクターになっているところがすごいのである。

本来、脇である宮崎あおいが強い印象を残す一方で、本来、ストーリーを動かす役割を担っている江口洋介が冴えない。途中までは力強く作品をリードしていくものの、最後の方で大きく失速し、映画の「顔」になり損ねた。それは役者としての彼の力量の問題だけでなく、彼の人物像について唐突で不自然なオチをつけている脚本の問題であると思う。もちろん、正義感のジャーナリストが悪を暴くというような単純なストーリーを嫌い、観客一人ひとりのなかにある複雑な感情や、深く考えずに加害者の側に回っている可能性などを示唆しようという意図や意欲は理解できるが、あまりに舌足らずで説明不足であった。もちろん、江口洋介という役者が、曖昧で両義的な得体の知れない演技を得意とする、たとえばたとえば、フィリップ・シーモア・ホフマンのような曲者役者であったならば、この程度の脚本の不備は軽々と乗り越えられるのかもしれない。だが、それを江口に求めるのはさすがに無茶、奇跡が必要というものだろう。まあ、そんな問題もこの作品の魅力や価値を減ずるものではないのはいうまでもないことだ。

Wanted

ウォンテッド(☆☆☆★)

実のところ、それほど興行的ヒット作に恵まれているわけではないアンジェリーナ・ジョリーだが、本作が1億ドル越えのヒットとなって一安心といったところではないか。本作での彼女は、もしかしたら、過去のどの作品よりも、「観客が観たいと思うアンジー」になっている。まるであてがきをしたような役柄を格好良く演じておいしいところをかっさらっていくのだから、まあ、これで当たらなければ彼女のゴシップ価値はともかく、興行価値に疑問符がつくところだったかもしれない。しかし、続編ができたとして、どうやって出演するか、それが問題だ。何しろ、本作の主人公は彼女ではなく、ジェームズ・マカヴォイなのだから。いっそ、主人公のタナムスさんの出演しない前日譚とかにしちゃうのも手、かな。

さて、アクション新次元とか何とか、派手な口上とともに流された予告編の、奇天烈なアクション描写を見て、正直、期待したというよりは不安になったのが本作である。『マトリックス』の奇妙なアクション映像が成功したのは、変になっても当たり前の物理法則を超越した「仮想世界」という設定があってのことであり、その後のB級作品群は、映像表現だけ後付で真似をしたからそこには何の意味もなく、必然もない。だから、面白くない、あるいはお笑いになってしまったわけである。そういう意味で、現実世界で物理法則を無視する能力を持った殺し屋集団が、温泉に使って怪我を治癒しながら過激なバトルを繰り広げるという本作『ウォンテッド』は、強引な力技だ。その開き直りっぷりがあまりに堂々としているので、突拍子もないアクションもなんでも持ってこい、といったかんじに観客も大嘘に乗せられてしまうといった具合で、まあ、それもありかという気分になる。

カザフスタン出身であの(話が面白くないわけではないが、映画としてはいまひとつ雑で乗り切れない)『ナイトウォッチ』シリーズのティムール・ベクマンベドフとかいう監督の、ハリウッド・デビュー作にあたるわけだが、これまでの作品をみても、あんまり細かいことを気にするタイプじゃないのがいいほうに作用しているんではなかろうか。

もちろん、映画の手柄というよりは原作(コミック)によるものだと思うが、設定が面白い。歴史の影に姿を隠した秘密結社というか、殺し屋集団「フラタニティ」というのがある種の職能集団に根ざしており、織機の生み出す織物のランダムな目の乱れを天命を読み解き、暗殺ターゲットを決め、指令を出してきたなどというあたりの、ありそうでなさそうなトンデモ・アイディアの、なんと素敵なことか!指令を受けて実行する組織だと、そもそも指令を出す「権力」構造との関係に制約を受けてしまい、歴史を超越しようとするとどうしても陳腐な「陰謀」説もどきに堕してしまう。この映画の「フラタニティ」は、自立的な集団である。すなわち、指令を出すのは万能コンピュータ(=神)に相当する機械であり、「ご神託」が授けられ、組織内にそれを解釈する存在がいて、その解釈どおりに実行をする、というかたちをとっている。それゆえに、世俗権力や、世の宗教、他の(胡散臭い)秘密結社とは無縁でいられる。と、同時に、組織内部に自壊要因を抱えていることにもなる。これはなかなか秀逸なアイディアではあるまいか。

織機が織り出す「ご神託」を解釈する男、すなわち、組織の実力者を演じているのが、いつものモーガン爺さんだ。誰が語っても絶対に胡散臭いことを、運転手から神様まで、はては大統領からバットマンの秘密兵器開発係まで演じてしまうモーガン・フリーマンに語らせるだけで、いかんともしがたい説得力が生み出されるマジックを目にするのは楽しいアトラクションである。もちろん、そのマジックに頼っているのはこの作品に限ったことではないのだが、ここまで唯一無二の存在になってしまうと、「モーガン・フリーマンの存在しない世界」を想像するのが恐ろしくもなってくる。だって、そうでしょ。かなりの割合の娯楽映画が成立しなくなるよ!

Nim's Iland

幸せの1ページ(☆☆)

『幸せの1ページ』とは、よく分からない邦題である。まあ、お子様向けアドベンチャー映画で、しかも日本で原作が広く知られているわけでもなく、ジェニファー・フラケット&マーク・レヴィン協同脚本・監督という作り手がアピールになるわけでもなく、特別な売り物はなにもないという、商売のたいへん難しいシャシンである。ジョディ・フォスター視点で、自らの殻を破って1歩踏み出すことで幸せへの扉がひらけるんですよー的なOLさんが元気になれる系映画として売ろうという魂胆なんだろうが、いや、でも、これはそういう映画じゃないだろっ。

要は、無人島に一人取り残された女の子が一人で頑張るという映画の、刺身のツマとして挟み込まれたお笑いパートがジョディ・フォスターの役割である。島に女の子が一人取り残され、それを知っているのは自分だけという状況に、少女を何とか助けなくてはと奮起してしまった潔癖症引きこもり作家が島に着くまでの珍道中。そんなに苦労したところで、あんた、何の役にもたたないじゃん!と誰もが思うわけだが、本人はそう思っていないというのがお決まりとといったところ。このパート、ツマのはずなのだが、そのわりに上映時間に占めるウェイトが高く、しかも、本筋なんかよりずっと面白いので、映画としてはなんともバランスの悪い構成になっている。

いっそのこと、島や女の子を全て画面から追い出して、全編引きこもり作家の主観だけで押し通したら、いや、そもそも彼女を呼び出した無人島の少女なんて実在するのかどうか、作家の妄想ではないのか、なんてことになったりして、もっと面白いに違いない。が、もちろん、原作付き(『秘密の島のニム』by ウェンディ・オルー)の映画としてはそういう極端なこともやりづらかろう。

まあ、スクリーンにジョディ・フォスターが映っていれば満足という私のような観客にとっては、いびつな構成の本作も全く問題がない。ここのところ闘うヒロインやへヴィーな題材が続いていたジョディとしては、『マーヴェリック』以来になるコメディ演技で、相変わらず、何をやらせても過度にうまく、必要以上に観客の心を掴んでしまう彼女の可愛らしいところが堪能できる。それ以外に見せ場があるかといえば、『リトル・ミス・サンシャイン』で達者なところをみせた子役、アビゲイル・ブレスリンの成長振りだろうか。しかし、うわ、これ、少女虐待じゃあるまいかというような虫喰いシーンがあったりして、違う意味ではらはらしてしまう。えらいな、君。よく耐えたね。

Departures

おくりびと(☆☆☆★)

TV局(TBS)が製作に絡んだ作品としては例外的といってよい評価だったのではないか。モントリオールで最高賞を獲得した勢いに乗って公開された『おくりびと』を上映する公開直後の劇場の場内は、普段映画館ではみかけない熟年カップルなどで満席に近く、その熱気に驚かされると共に、題材に対する興味の高さも感じさせるものだった。彼らも概ね満足したのではないか、と思う。大々的に宣伝される騒がしいばかりの洋画や、TVドラマの延長に過ぎない邦画ヒット作に馴染めなかったであろう客層が、これをみて、「ああ、日本映画の良さってこういうものだったよね」と感じ入るのは間違いないだろう。私自身、予定をやりくりして劇場に足を運んでおいてよかったと満足した。

この作品は、映画として、まずその題材に対する目の付け所の面白さ、鋭さがある。これを、うまいエピソードを組み合わせながらバランスの良い物語にまとめあげた脚本もいい。だいたい、なにかとあちこちにでしゃばってくるTVの構成作家とかいう類には好感をもっていないのだが、今回の、この小山薫堂の仕事には素直に敬意を表したいと思う。脚本の筋の良さを活かし、静謐ななかにもユーモアを忘れない大衆娯楽映画として仕上げた滝田洋二郎の演出は、この作品を格段に親しみやすいものにしているし、役者たちからも概ね良い演技を引き出していると思う。長い間企画を暖め、自ら主演して実現させた本木雅弘の佇まいの美しさも特筆すべきものだし、決してTVサイズの画面には収まらない山崎努の怪演技もズバりと決まっている。

もちろん、残念なところもある。全てがよいだけに、ダメなところが目立つ、といってもよい。その筆頭は広末涼子だ。このキャラクターは本来、納棺の仕事にそれなりの偏見や感情をもつはずの「一般の人」、つまり観客の代表としての視点を提供すべき役割としてそこにいるはずである。それなのに、画面の中の彼女は単に心が狭くわがままで偏見をもった嫌な女にしか見えない。昔から思っているが、このひとは演技が下手なだけでなく、声も悪い。一本調子でぎゃーぎゃーわめかれると、本当に辟易とする。このキャスティングは失敗であるし、正直、本来意図されたとおりの役割を果たせないことによって、映画のレベルを落としてすらいると思う。

もうひとつの残念なことは、久石譲の音楽が少々でしゃばりすぎであること。主人公の(元)職業にあわせたチェロを主体としたメインテーマは悪くないのだが、なにぶん、「大衆映画」的に過剰に音楽がついていることもあって、このひと特有のミニマルな反復が耳に障るようになってくる。まあ、この程度のことは、もしかしたら映画で泣きたいと思っている多くの観客の涙腺を刺激するうえでは必要、かつ、効果的なのかもしれないが、もう少々の自制があれば、本作はなお、格の高い仕上がりになったのではないかと思う。

9/04/2008

Sky Crawler

スカイクロラ(☆★)

『ビューティフル・ドリーマー』は面白かった。パトレイバーも面白かった、と思う。。『甲殻機動隊』はいろいろな影響を与え、『マトリックス』の誕生に貢献した(といういいかたをしておこうか)。

でも、これはダメだろう。つまらないよ。押井守の信者の皆さんには申し訳ないが、これは映画になってない。少なくとも、商業映画として、全国の劇場にブッキングして、広く人さまに見せる作品にはなっていない。お友達をよんで、ご自宅でプライベートスクリーニングでもなんでもやっていてください。なんか見ていて腹が立ってきた。

何が問題かといえば、「設定」はあるけれど「ストーリー」もなければ「ドラマ」もないということに尽きるのではないか。なお悪いことに、ここには「設定」を説明しようという積極的な努力もない。まあ、宣伝用のチラシでも読んでくれということかもしれないが、違う言い方をすれば「チラシ」を読み終わった時点というのがこの作品に対する満足度が最も高い瞬間であって、あとはどんどん落ちていくだけだ。

戦闘機によるファイティングシーンなどはフェティッシュな意味でこだわりに満ちているのかもしれない。でも、のっぺりとした平面的なキャラクターを使ったトラディショナルな2Dアニメーション映画のなかで、デジタル技術が作り出した3Dの戦闘機が飛び交うのって、どう見ても不自然。CGIが映画の中で浮いていて、別の映画を切り貼りしたかのようである。

このあたりは、『イノセンス』などでも同様のことを感じるわけで、積極的に3Dと2Dの見え方のギャップを埋めようとする意思があるのかないのかすらよくわからない。百歩譲って、3Dと2Dが同居するのも表現の一つと割り切るとして、3Dを使う表現上の利点がよく分からない。緻密かもしれないし、そういうレベルの表現を手書きでやるよりはコスト削減になるのかもしれない。しかし、絵が動く、命のないものに命が吹き込まれるというアニメーションの持っている原初的な興奮はそこにないばかりか、絵を動かすことによるダイナミズムもない。重力もない。なにもない。遠近法は正確かもしれないが、遠近法を無視したゆがみがもたらす興奮もエネルギーもない。

もちろん、ここで描かれる世界において、ダイナミズムもエネルギーも必要ではないのだろう。ただただ活きている実感の乏しさを、体温の低いキャラクターと体温の低い声の演技で淡々と描いているのだから、そもそもそういう指摘がお門違いだというのかもしれない。しかし、空で戦っている中にだけ生きている実感があるという話ではなかったのだろうか。3Dと2Dという手触りの異なる表現を同居させている意味も、そこにあるのではなかったのだろうか。残念ながら、空戦シーンにもまた生気はなく、ただただデジタル由来の冷たい絵があるだけであった。それを面白がれるというのなら、面白がったらいい。しかし、それが映画なのか、それが商業映画なのかというと、断じて違うのだといっておきたい。

Gurren Lagann (Part I)

天元突破グレンラガン・紅蓮篇(☆☆☆)

面白いと噂に聞いていたガイナックス製作のTVアニメ『天元突破グレンラガン』、これはその劇場版で、TVシリーズに新作カットを加えて再構成した前半部分の総集編。来春公開予定の後編につながるということで、物語的には途中のところで幕が下りる。TVシリーズの総集編的劇場作品の常として、基本的にはTVシリーズをみていたファンを相手にした商売であるわけで、最低限、わけが分からなくならない程度の配慮をしながら1本の作品として作っていくのだとしても、ものすごいスピードで様々なエピソードが展開され、同様に、すざまじいテンポでキャラクターやメカが登場して変貌して退場して、まあ、そういう説明は必要がないくらいにご承知のこととは思うのだが、一見さんにはハードルが高いものである。

で、「噂」を聞いて、この劇場版(前編)を観てみようかと思った私は、まちがいなく「一見さん」であって、そういう意味で、シリーズのファンと同じように細部に突っ込んで、あそこが残ってここが切られて、ここがリテイクされて、ここがこう順番が変わり、ここがこう意味や内容が変わった、などというのは分かるはずもなければ、そういう楽しみ方ができるわけがない。

ここでは、それを前提にして話をしたいのだが、この作品を予備知識無しに単独で見て、少なくとも話の大筋はわかった。基本的な設定はなんとなくわかったが、気がついたら話が大きくなっているので、どこまで本当にわかっているかは不明である。話の展開は、概ね脳内補完できる範囲であり、そのためのヒントのかけらは転がしてくれてあるとおもうのだが、脳内で補完したものと、実際のTVシリーズで描かれていたことがどの程度一致するのか、話の飛び方、エスカレーションの仕方がわりと激しいので、かなり心許ない。

では、それでつまらなかったのか、という話になるのかというと、そうではない。かなり楽しかったのである。よく分からないなりに、画面に溢れるエネルギーには圧倒されるものがあった。おそらく、TVシリーズの企画時点でも念頭にあったに違いないのだが、昨今の紙芝居のように動かない深夜アニメと違い、いわゆる「アニメ」の原初的な、「アニメ」ならではのハチャメチャな感覚と、お金や時間がないなりに蓄積されてきた独創的な表現力、それに負けない登場人物たちのアクションや行動力、熱い台詞の掛け合いや、壮大で意表をついたSFマインド溢れる話の展開に、大いに魅了された。考えてみれば宮崎駿の『崖の上のポニョ』だって、わけの分からない作品であり、わけが分からないなりに動画の持つ躍動感に身を任せる面白さという観点から評価せざるを得なかったわけで、それが「あり」だというなら、これも「あり」なのだと思うのだ。ロボットものだからといって、TVの総集編だからといって、安っぽいとか低俗だとかいう理屈は成り立たない。

ただ、一方で思うのは、やはり「劇場作品」として、2時間なりなんなりの枠の中で物語を語ることを前提に作られた作品のほうが、ストーリーテリングの観点からは当然優位にあって、それなりの話数を重ねた作品を再編集・再構築するのはいろんな意味で思い切りも必要だろうし、工夫も必要だろうということだ。本作の場合、2本の劇場映画にリニアに圧縮して物語を語るアプローチは、そうする上でいろいろな努力や工夫がなされたにしろ、従来よくあるところの「総集編的劇場版」の枠を出るものではない。一見にとってはハードルが高くありつつも、たとえばエヴァンゲリヲンの "Death篇" のように、ファン限定といった割り切りがないので、シリーズのお試しサンプルとして鑑賞することもできる。それは商売上は必要なことだろうし、現に、私はそれをみて「楽しい」と思えたのだから悪くない仕上がりである。だが、作品の内容に比して、劇場版総集編を作るアプローチとしては保守的なのではないだろうか、などと論ずるのはないものねだりのような気もしてきたので、最終的な評価は後編を見てから下すことにしようと思う。