7/25/2009

Mt. Tsurugidake

剣岳 点の記(☆☆☆)

まあ、千人並みの意見になってしまうのを承知の上で言う。もちろん地図を作るために前人未到の山に登った先人たちのドラマには心打たれるものがあるし、いい台詞、考えさせられる台詞もたくさんある。自然と人間の対比も、結果として際立っている。しかしメリハリがない脚本も立っているだけで精一杯といった風情の演技も、要領の悪い演出も、どれをとっても一流とは云いかねるのは紛れもない事実。が、それでもなお2時間超、画面を凝視させるだけのわけの分からない力が漲っている。恐るべき一本、本年必見の一本だ。

いやはや、本当に恐ろしいことに、フィルムには作り手の執念とでもいうものが写るのである。この映画を見て、それを思い知らされない人はいないだろう。この映画の舞台裏を知ろうと知るまいと、よほどの鈍感な観客でない限りは、これがただならぬ映画であることに気づくはずだ。なぜなら、ここにはそれだけの凄みがあるからだ。映画で描かれている通りに登るだけでも並大抵ではない山に、当時の測量隊が持ち運んだ装備や資材と共に撮影機材を担いで登り、場面にふさわしい天候を待ち、演技をさせ、撮影する。他の場所では撮らない。本物だけを撮る。そんな無茶苦茶な映画作りをしようとする木村大作と「仲間たち」の覚悟と志がこの映画を特別なものにしている。他の山やセットで足りない場面を追加撮影しようとすらしない愚直な潔さ。それが全て、画面に映っているのである。映画の中で語られる測量隊の面々の苦労は、この映画を作った狂気の人々の苦労である。それを二重写しにするなというほうが無理な話だ、こうなると、劇映画というよりは「劇映画の体裁を借りた壮大なドキュメンタリー」なのではないか。

そう、これは普通の意味でいうところの「映画」ではないのかもしれない。ただ、そんな奇形の作品でありながら、いや、それだからこそ、他にはない「映画的興奮」を感じさせられるのもまた確かである。それは、昨今の見せ掛けだけは派手なイベント映画であったり、化学調味料とステロイドをぶちまけて感動を強要する映画だったり、放送電波をジャックして大宣伝を繰り広げたりしている大ヒット作とかいう代物には決定的に欠けている要素である。

名だたるベテラン俳優たちが、どこか演技どころではない風情で雪中にたたずむ姿や、普通ならどこかで別取りして編集する「撮れなかったが必要なはずのシーン」がそのまま欠如しているところなど、まあ、普通は見ることのない脱力するような欠陥に溢れた作品ではある。しかし、どれほど欠陥だらけの作品であっても、なお、面白い。これはきっと、一人の映画好きとしては評価ではなく、尊敬をすべき仕事なのだろう。完成度でいえば凡作かもしれないが、唯一無二の作品であることは私なんぞがどうこう口を挟む余地はない。

7/20/2009

Harry Potter and the Half Blood Prince

ハリー・ポッターと謎のプリンス(☆☆)

昨年は『ダークナイト』の超特大ヒットで十分に潤ったワーナーブラザーズが、脚本家ストの影響で弱くなった翌夏のラインナップを補強したいという身勝手なビジネス上の理由のみで公開を先送りにされ、ファンをイライラさせたシリーズ最新作である。

考えてみれば、これは原作が完結したあと最初にリリースされた映画版、ということになる。もちろん、製作準備はは完結巻の発売前から始まっているとはいえ、原作者とのやり取りなどを通じ、最終巻の展開を踏まえた脚色が可能だった最初の作品、ということになる。また、前作からシリーズの舵取りを託されたデイヴィッド・イェーツ監督は、完結巻2部作も引き続き手掛けることが確定しており、その意味においても続く2本の作品を見据えた構成を念頭に置いたことであろう。

普通なら、そういう要素は作品に対してプラスに作用しそうなものだと思う。だいたい、これまでの作品はどこを刈り込んだら良いのか判断が難しく、メリハリの乏しい総花的な動く挿絵集(1, 2) になるか、細部の豊かさや楽しいところを全部刈り込んでしまいその巻のメインプロットをこなすだけのやせ細った凡作(3, 5)になるかのどちらかになっていたし、逆に言えば、観客としてもそれ以上のものを要求しようとは思いもしなかったところがある。ある意味で、今回はそれを脱却する上でまたとない、恵まれた状況にあるはずなのである。しかし、その結果は、残念ながらマイナスに働いている、としか思えない。

本作を1本の作品としてある程度の独立性を重んじるのであれば、本来、タイトルにもなっている「謎のプリンス」にまつわるプロットを中心に置くべきであろうが、この作り手はそれを本筋とは離れた「脇道」と考えたのか、その扱いが非常に軽いものにした。当然というべきか、必然というべきか、1本の作品としての軸を失った本作は、本当のクライマックスを前にして今しか挿入のタイミングがないに違いない「能天気な学園恋愛コメディ」と、最終2部作への伏線でしかない不穏でダークな前振りが分裂症気味に同居するまとまりのない作品になってしまっている。もともと派手な見せ場を欠くのがこの巻の特徴ではあるが、やり方次第でクライマックスはもっと派手に盛り上げられたはず。しかし、最終2部作との住み分けを踏まえてのことか、スケール感に乏しい地味な展開に終始するばかりだからフラストレーションが溜まる。まあ、想像した範疇とはいえると思うのだが、本作は結局のところ、地味な中継ぎというのか、次回作に向けた壮大な予告編という存在から一歩たりとも逸脱しようとしないのである。これでは、さすがに退屈だ。

主演の少年・少女俳優たちは立派な若者へと成長し、最終2部作への準備も整ったな、と思わせるものがある。華やかな英国名優辞典と化したシリーズではあるが、今回はジム・ブロードベントが加わって怪演を披露、確かに、毎度毎度のゲスト・キャラクターの存在は、シリーズに新鮮味をもたらす効果があることを再確認できた。一方、少年・少女の成長に合わせて(当たり前のことであるが)レギュラー陣の疲れと老化が目立ってきており、まあ、無理のないいい具合のところで完結を迎えることができるかどうか、あと少し、キャストの無事と健康を祈りたい。

7/13/2009

Knowing

ノウイング(☆☆☆★)


世間的には『アイ、ロボット』の、となるのかもしれないが、私にとっては『クロウ 飛翔伝説』、『ダークシティ』で並々ならぬ映像感覚を披露してくれたアレックス・プロヤスの新作、それが本作である。物語の構造的には、もしかしたらMナイト・シャマランの作品などにも通じるところがあるのだが、そこは監督の資質の違いというべきか、ハッタリで押し切るのではなく、びっくりするようなスペクタクルを織り込んでバランスの良い娯楽映画となっている。

一見してよくある「ディザスター・ムーヴィー」の顔をしている本作ではあるが、これは世界規模の様々な災厄、地球滅亡の危機に、どう人類の英知をもって挑むのか、生き残りをかけて人々がどう行動するのかを描いた作品というわけではない。この世の中に人知を超えた存在があるということを前提(We are Not Alone)として、聖書が「黙示録」で予言するところの世界の終末が実際に訪れるとしたら、こういうことなんだよ?と描いてみせるのがこの作品なのである。

しかし、それを以ってこの作品を宗教的な映画だと決め付けるの早計であると思うのである。実は、この映画の本当の面白さは、宗教的モチーフで作品を埋め尽くしながら、総体としては全く宗教的でない、その不可思議さにあると思うのである。例えばシャマランの『サイン』という作品は、宇宙人襲来などという大仰な仕掛けを取り払ってしまえば、信仰を失った宗教者が全ての物事は偶然ではなく必然であると悟りを開き、再び信仰を取り戻すという物語であった。その主人公を演じるのがキリストの殉教を映画にしたメル・ギブソンであることも含めて、極めてキリスト教的、宗教的な映画だといえる。それに比べて、本作はどうか。「信仰」というものと、「救済」のあいだに全く関連性がない。宇宙人の声を聞くことができる「ニュータイプ」だけが救済の対象だ。主人公の父として宗教者は登場する。が、その父や、父と和解した息子が救済されるという話でもない。善とか悪とかの話ではなく、地球規模の災害は科学的に説明しうる自然現象として描かれる。実態として、キリスト教的な(キリスト教徒には理解しやすい)モチーフを散りばめた作品ではあるが、信仰という地平からは大きく離れたところで作られているのが本作だといえるだろう。あまつさえ、異端信仰(ペイガニズム)を描いたカルト映画のリメイクに主演しちゃうような感性を持つニコラス・ケイジが主演しているあたりからして、本作をキリスト教的プロパガンダと見るには無理がある。むしろ、キリスト教的信仰に対するシニカルで意地の悪い視点を持った作品であるとすら言えるだろう。

いまや「すごい映像」では誰も驚かなくなってしまった時代に、アレックス・プロヤスの特異な映像センスは「表現」のレベルで作品の随所に現れていて、月並みと言わせぬだけの力がある。よくあるCGI映像のように見えて、どれとも似ていないシーンで楽しませてくれるところがよいのである。ニコラス・ケイジが飛行機事故現場に遭遇する一連のシークエンスなどはその代表であろう。グチャグチャに壊れた飛行機の機体のなかから、乗客らが姿を現しては行き倒れになるあたりの生々しさ、なす術のなさからくる絶望感。このあたり、これまでにみたことのないレベルの表現として見事であった。そういう意味でいえば、映画のクライマックスとなるシーンが『未知との遭遇』の域を超えていないことや、人類の新天地として描かれる星の風景に新味がないところは陳腐であるとも思うのだが、逆に言えば、そこは誰がやっても同じになってしまうほど、先人の表現が完成されていたか、あるいは人間の想像力の限界か、といったところなのであろう。

7/04/2009

The Reader

愛を読むひと(★)


テープの声を聞き、単語の数をカウントし、本に書かれた文章と照らし合わせ、The という単語に印をつける・・・・この文字が「THE」なんだ!・・・って、おいこら、ちょっとまて。ドイツ語の定冠詞は"The" じゃないだろ。

私はSFものが好きだから、遥か昔、銀河の彼方の人々がまるで英語で会話をしているかのように聞こえることに慣れている(が、宇宙船の操作パネルに英語が書いてあるのはどうかと思う)し、24世紀になればユニバーサル・トランスレーターによって互いの言語を意識しなくてもコミュニケーションがとれるようになることを知っている。だから、例えば芸者さんの映画でみんなが英語で話をしていたり、トム・クルーズのいくところ、日本だろうとドイツだろうと、みんな英語で会話が通じたりすることについてはかなり寛容である。それらは、「日本語吹替版」という文化が存在するのと同じように、観客に向け、便宜的に「英語」に吹きかえられている、あるいは、英語で話しているように聞こえるのだと「理解」をしているからである。むかし、『レッドオクトーバーを追え!』を見たとき、始めはロシア語で会話をしていたソビエトの軍人たちが、ある人物の口元をアップで捉えたカットを境に互いに英語で話し始める、という演出がなされていたことに感心した。「本当はロシア語で話しているんだけど、ここからは便宜上、英語に切り替えますよ」という目配せを「口元のアップ」のカットひとつでやってのけたのだ。最近では、『ワルキューレ』の冒頭。ドイツ人主人公によるドイツ語のモノローグに、いつしか(同じ声による)英語のモノローグが重なっていく、という演出があった。「本当はドイツ語なんだけど、この映画、便宜上、英語で進めさせてもらいますよ」という前置きである。

さて、前置きがいささか長くなってしまったが、本作においては、まさにその「言語」こそが問題なのである。

「朗読者」というタイトルで翻訳もされたこの映画の原作は、ドイツ人がドイツ語で書いたものであり、ドイツの歴史に材をとり、ドイツを舞台にした大ベストセラー小説である。しかしながら、この映画はワインスタイン・カンパニーが製作する米国映画だ。そして監督のスティーヴン・ダルドリー、脚本のデイヴィッド・エア、演技賞を獲った主演女優ケイト・ウィンスレット、みなそれぞれ尊敬に値する仕事をしてきた一流の映画人であるが、みな英国人である。なぜドイツの映画界は自分でこれを映画化できなかったのかなぁ、といってみても仕方がない。世界を相手に商売をするうえで、あるいは、十分な制作費を調達する上で、こうでなければならない事情もあったのだろう。また、先に述べたように、日本の芸者を中国人俳優が英語で演じていることにすら「寛容」な観客である私は、そうした製作体制の結果として、この映画が「英語」映画になっていること自体に異議を申し立てるつもりもない。

しかし、ここにはもうひとつ微妙な問題が絡んでくるのである。この作品は、ドイツにおける戦争犯罪にまつわる表面的なストーリーラインの裏で、いわゆるリテラシーの問題、「読むということ、聴くということ、書くということ」の意味が重要な主題として扱われているのである。しかるに、たとえ英語映画として作られたとしても、「本当はドイツ語を読み、聴き、書いているのだけれど、便宜上英語でやらせてもらっていますよ」というエクスキューズの必要性と重要性は、かつてなく高いのである。たとえ登場人物が英語で会話を交わそうとも、テープに録音された朗読が英語であろうとも、「本」に印刷された言語は、街の看板と同じく「ドイツ語」でなければなるまい。そうでなければ、「ドイツ語の読み書きはできるんだけど、英語の読み書きができなかった人の話」になってしまったり、戦時下のドイツでは公的な文書は英語で書かれていたことになってしまう。

その意味で、これを英語映画として作ることは初めからハードルが高かったのである。しかし、「便宜上」とはいえ英語映画であることを選んだ以上、作り手はその難題を解決する表現方法を真剣に考えるべき義務を負ったのだ。それなのに、作り手は、その困難に立ち向かうことを選ぶのではなく、安易な道に逃げた。これが一流の人間がやる仕事とは思われない。本作が、結果として作品の核心に触れるテーマを軽んじたことについて、強く否定し、軽蔑し、非難する意思を示すために、本論評においては最低評価となる「★」とする。

そのことを除くと、映画は真面目に、丁寧に作られていて、ケイト・ウィンスレットも熱演である。疑問に思う編集もあるが、概ね上質な映画であることに異議を挟むつもりはない。まあ、「☆☆☆」といったところが妥当か。