10/31/2010

Going the Distance

遠距離恋愛 彼女の決断(☆☆☆)


振られて気落ちしていた彼と、NYでインターン中だった彼女がバーで出会って意気投合するが、彼女は夏が終わればサンフランシスコに戻って学期を終えなければならない。それを承知で始まった関係だったが、互いに去りがたく、遠距離恋愛として続けることを選択する。大陸の東と西、時差もあれば、ハイシーズンの航空機代が2000ドルを越えることもある。離れている寂しさや、不安を与えるような周囲の助言に負けず、誠実に関係を続けようとする二人だったが、NYで職を得ようと努力しても報われない彼女に、地元の新聞社からのオファーが出たことで決断を迫られる。

ロマンティック・コメディ。えーと、コメディの方が少し強め。台詞でもシーンでも下ネタ系が多いから注意が必要だが、明るく笑えるレベルの節度は保っている。とはいえ、子供に見せるもんでもないので、国内でもR-15指定になっているのだね。

ところで、本作主演のドリュー・バリモアとジャスティン・ロングといえば、ここ数年、くっついたり離れたりとお騒がせなカップルとして有名だ。まあ、実のカップルがスクリーン上でカップルを演じると悲惨な結果になることが多いのは知ってのとおりだが、本作はどうか。この二人、もちろんその熱々ぶりで勝手にやってろ、と思う観客もいるのだろうが、素直に見ると、スクリーン上で格好いいところばかり見せようとするのではなく、情けなかったり下品だったりするところも素顔や本音に近いところも、普段着な感じをあっけらかんと晒すあたりが悪くない、と思うのである。そして、やっぱり、スクリーン越しに見ても本当に2人の相性がいいことがよく分かる。まあ、最近(また)破綻したらしいけどさ。恋人同士でもあり、仲の良い友人同士でもあるような、いい空気がそこにある。

この映画は、二人が以前に共演した『そんな彼なら捨てちゃえば』とは違って、ドリューのプロダクション(Flower Films)のものではないが、映画の内容や作品のテイスト、演じるキャラクターに至るまで、いかにもドリュー・バリモア(そして、ジャスティン・ロング)の映画だという先入観を裏切らない。実に「らしい」仕上がりである。だから、この2人が、この2人が出ていた作品が好きなら、まずまず楽しめるはずだ。

例えば、コメディ部分の微妙に下品なテイストも、それを嫌がらずに演じてみせるドリューの個性の反映であるし、過去のコメディ作品で彼女が体当たりで見せた下品ネタを思い出すことだろう。やたら映画ネタが多く、そのうちいくつかは80年代ネタであるのもドリューの趣味が強く反映されているように見える。(80年代映画ネタでは爆笑必至のシーンがある!)またキャラクターの設定でも、過去の回り道の結果年齢がちょっと高いヒロイン、というところに、回り道をいっぱいしてきたドリューの人生が重なって見える。2人の職業属性にしても、新聞記者を目指すドリューって、以前にも高校に潜入するライターってやってたし、CMで"Mac君"をやっていたジャスティン・ロングにはやはりお堅い職業ではなく、レコード会社勤務が似合う。ジャスティン・ロングの微妙に行けていない感じや誠実さは、『そんな彼なら捨てちゃえば』や『スペル』でも同じイメージで描かれていた路線だし、ユーモアのセンスは御存知の通りだ。

ことほど左様に、観客の映画的記憶と主演2人の個性をうまく利用した仕上がりで、楽しい時間を過ごせる佳作だと思う。惜しむらくは、こうした作品が全国ロードショーではなく非常に限られた劇場でしか公開されない日本国内のマーケット状況である。昔は地方だと2本立て興業が主流で、1本では勝負できないこういう小さい作品でも、何かのついでに「出会う」ことが可能だったし、それが結果的に映画ファンの裾野を、見られる映画のジャンルの幅を広げていた面もあったように思う。結局、こういう作品はレンタルやCATVのマーケットにしか活路がない時代なのかと思うと、ちょっと寂しい。

ああ、そうそう、「おせっかいなヒロインの姉」という定番ポジションで、クリスティーナ・アップルゲイツが好演。このひとがこういう役をやるようになったか。一昔前ならキューザック姉の独壇場だったんだが。

10/30/2010

El Secreto de Sus Ojo (The Secret in Their Eyes)

瞳の奥の秘密(☆☆☆☆)

米アカデミーで外国語映画賞をかっさらって番狂わせ呼ばわりされたアルゼンチン映画である。米国でTVドラマなども撮っているベテランのフアン・ホセ・カンパネラ監督作品。まあ、他のノミネート作が未見なので比較してどうこう云えないのが残念であるが、本作、非常にオーソドックスな娯楽映画でありながら、なかなか見ごたえのある力作、映画らしい映画である。

話はこんな感じ。

引退した刑事裁判所の元書記官が、かつて手がけた婦女暴行殺人事件の顛末を小説にしようとするところから物語は幕を開ける。アメリカ帰りの若く有能な女性判事補や同僚の助けを得、苦心の末に真犯人の逮捕に至った事件であったが、終身刑のはずの犯人は裏取引で釈放されてしまい、命の危険を感じた主人公はブエノスアイレスを離れ、田舎に身を隠すことになった。過去の煮え切らない思いが主人公を小説執筆に向かわせるのである。また、主人公にはもう一つ、決着のついていない感情があった。それは、いまや検事に昇進したかつての上司に対する秘めた想いである。高卒叩き上げの主人公は、その想いを表向き口にすることができずに彼女の元も去らねばならなかったのだ。25年もの空白の時を超え、ドラマはどのようなかたちで決着を見せるのか?

この作品、単なる筋立てだけであれば、とりたてて新しいものでもなく、まあ、他の国でもリメイクできるんだろう。しかし、アルゼンチンの現代史や司法制度を背景に描かれる本作の空気までは再現できまい。まあ、例えていうなら、良質な韓国映画のような感じだろうか。なんというか、こう、理屈だけで割り切れない情念のようなものが、歴史に翻弄され、渦巻いているのである。

主人公と上司の関係。殺人事件の被害者の夫の亡き妻への愛情と、犯人逮捕への執念、そして怨念。当時の不安定な政治状況や、それによって失われてしまった時間。これを、「現在から過去を創作物の形で振り返る」という多層構造で描く着想がよかった。そう、映画の中で語られる「過去」のシーンは、主人公が(願望も含め、ある程度都合よく脚色して)書いた小説の中の出来事であって、本当にそのとおりだったとは限らない。そういうところが、ラストに向けて地味ながらジワリと効いてくる。

この映画で、なにより素晴らしいと思うのは、セリフで一から十まで説明しようとはしていないことである。役者の力も大きいのだが、ここぞという場面では、一瞬の映像で状況や人物の感情を雄弁に語ってしまう。特に、主人公らが確固たる証拠も何もなく直感と思い込みで確保した容疑者の取調べシーンは凄かった。アルゼンチン映画なので、スペイン語を解さない当方としては字幕に頼って、ある種、もどかしい思いをしながら映画を見ているわけだが、それだけに、セリフも字幕も関係なく、役者の視線や演技、編集のカット割り、それだけで、その場面で起こっていることのすべてが氷解するがごときに理解させられてしまう瞬間のインパクトは強い。そういう瞬間、映画を見る幸福に包まれる。

映像と演技の力で、劇中、タイトルの「瞳の奥の秘密」の持つ2重、3重の意味合いが次第に明らかになっていくのだが、そのプロセスが非常にスリリング。主演のリカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミル、実にいい俳優だ。

10/16/2010

Eat, Pray and Love

食べて、祈って、恋をして(☆★)

えーと、週末の朝なんかのTV番組で、よくわからないタレントを担いだ海外紀行コーナーがあるでしょ。さすがにあんなのよりは面白いんだけど。

売り出し中の作家が、離婚し、理解できずにすがる夫を退け、若い男と付き合うがうまくいかず、イタリアにいってイタリア男から伊語を学んでパスタやピザを食べ、インドに行ってNY出張もこなす売れっ子グルの観光地的な道場で修行し、バリにいってインチキ臭いゴロツキのラテン系エクスパットと恋に落ちる話。

まあね、作り手とジュリア・ロバーツは世界各国巡りで楽しかったんだろう。しかし、映画を見ているこちらとしては、彼女が出かける先がちっとも魅力的ではない。(これを見て、「素敵」と思っちゃった観客は、おそらく人生を考え直したほうがいい。)

これが、主人公のお気楽さを馬鹿にし、批判的に見せるという深遠なる意図があってこうなっているというのなら、すごい作品かもしれない。

だって、結局のところ、行く先々で、主人公と同類の「お気楽な外国人旅行者・エクスパット」の類と、「それを食い物にしたい現地人」の狭く特殊なサークルにこもっているだけで、ちっともその殻を破りはしないのだ。

これを表面的に見て素敵だと思え、というのは普通に考えるとおかしくないだろうか。ある種の批評的な視点があると思わなければ納得のできない、いかにも変な描写の連続である。

この映画の面白さは、「本当の意味で現地の社会やカルチャーを知ろうとはしないのに、世界のすべてを見た気になって、ちょっと親しくなった現地人のために寄付を募って人道支援なんかもやっちゃった気分の、いかにも米国的な自己欺瞞女のポートレイト」を、意図してか意図せずしてか、かなり露骨にスクリーンに映し出してしまったこと、だ。

で、この映画の失敗は、おそらく意図していなかったから当たり前なんだろうけど、ここで描かれた主人公の姿や行動に対する批評性を明確に感じられず、表面的には単なるお気楽映画にしか見えないことだろう。いや、じっさい、骨の髄までお気楽映画なのかもしれないけどさ。

要は、この映画を間に受けることが出来る人は(それはそれで)幸せだし、この映画を逆説的にせせら笑いながら見る人も楽しめる映画でもあるが、素直に見るくらいなら昼寝していたほうがマシな作品である、、、あ、見る前から分かっていたはずことを書いてしまった;

The Expendables

エクスペンダブルズ(☆☆)

軍事独裁の南米小国に殴りこみをかけ権力者を排除するという依頼を引き受けた最強傭兵チームが、現地で手引きする女性を救助するとともに、麻薬権益独占のために裏で糸を引く元CIAを倒すために奮闘する、という話。

『ロッキー』、『ランボー』の2大シリーズの無茶な続編をそれなりに仕上げたうえで中ヒットに導いたことで自信を深めたに違いないシルベスター・スタローン(共同脚本・監督・主演)が、見るからにむさ苦しい肉弾系アクション・スターや格闘系スターを集めて完成させた80年代風殴り込みアクション映画である。考えて見れば孤独なヒーローか、せいぜいコンビもの止まりだったスタローンが、一歩引いて「チームもの」をやっていること自体が新機軸。

まあ、本作にもカメオ的に出ているブルース・ウィリスがTVのコメディ・スターから転身した『ダイ・ハード』の登場によって、この手の映画は表舞台から消え去ったわけで、この映画が身にまとう懐かしい雰囲気は、だからそれだけで褒め讃えたくもなるのだが、いや、それでもこれ、出来のいい映画ではないよ。

こういう映画では筋書きなんてどうでも良いと思われがちだが、主人公らの活躍に気持ちよく喝采を送るためには、それなりの条件が整っていなくてはならないものだ。そもそも敵は憎らしい悪党でなければならないし、主人公らにブチ殺されて当たり前と思える輩でなければならない。実のところ、本作はその根本的なところで失敗しているのである。

もちろん敵の本丸たる「元CIA」は私利私欲のみの傲慢で嫌な男である。傀儡の将軍やその配下も横暴な振る舞いだ。

・・・が、直接的な描写は多くない。記号としての「悪党」、つまり、こいつらは悪いヤツですよ、という設定だけで十分なケースも多々ある。が、本作における主人公らの無敵さ加減と描写の残虐さ加減を前にすると、どうにも釣り合いが取れいるとは言い難いのだ。

スタローン演出は『ランボー/最後の戦場』の路線を踏襲しており、バイオレントな残虐描写が頻出する。味方は無傷(とまではいわないが)なのに、敵方は為す術も無く次々に血祭りというのでは、「丸腰の住民を虐殺するミャンマー軍」とあまりかわらない。いったいどちらが悪人か。

また、祖国を売った父に反抗する将軍の娘、将軍と娘の和解、将軍と元CIAとの決別などというプロットが混入してくるからややこしい。

現地案内人が実は「将軍の娘」だというヒネリは面白い。が、これを活かすには、終盤、例えばこんな展開が必要だ。"将軍が改心し忠実な部下たちと一緒に元CIAを一掃すべく蜂起するも、軍隊を掌握した腹黒い副官の裏切りにより、忠実なはずの軍隊がすべて元CIA側につき一瞬で鎮圧、将軍は娘の手の中で息を絶える。そこ主人公らの怒りのボルテージが上がり・・・"ってな感じ。ね?

この映画では、将軍のいうところの「忠実な部下」たちは、元CIAらが将軍を射殺した後も、思考停止のまま元CIAの私兵よろしく、主人公らの前に立ちふさがり、意味なく虐殺され続けるだけだ。それは、「敵方が私利私欲で2つに分裂し、その混乱に乗じて主人公らが両派を一掃する」話、なら良いのだけれど、将軍と娘のプロットとは全く整合性がとれない。

そんなこんななので、本来熱血盛り上がりになるはずの壮絶なクライマックスも、目的の見えない軍隊相手に主人公らが暴虐を尽くすだけ。そこには悪党を一掃することへの爽快感がない。そんな映画を楽しめるのか?・・・まあ、部分的にはね。スタローンは義理堅く、出演させたスターや格闘家それぞれに見せ場を作っていて、そういうところは好印象だし、例の3人がスクリーン上で一堂に会するところは、そういうシーンがあることを知っていても息を飲む。

ま、最後に長渕剛の日本版主題歌とやらが流れてきて、すべてがどうでも良くなってしまうわけだが; 日本版主題歌は、100歩譲って、せめて吹替版だけにしてくれないもんかね。

10/10/2010

Legend of the Guardians: The Owls of Ga'Hoole

ガフールの伝説(☆☆☆)

なんだか国内興業では盛大なコケ方をしているようだが、古くからの『スター・ウォーズ』ファンには本作が劇場から駆逐される前に鑑賞することをオススメする。せっかくだから3Dで。

舞台は(おそらく)フクロウたちが文明を築いている世界。種族によらず役割を果たし共存する立憲王政的な共和国と、特定種族の純血性を土台に他の種族の隷属を求める悪の帝国が歴史的な戦いを繰り広げ、悪は滅び去ったはず、だった。・・・が、悪の皇帝(?)は生き延び、帝国は密かに版図を拡大しつつあった。しかも、いつの日かやってくる決戦の日に備え、フクロウ一族に対して圧倒的なパワーを発揮する未知の秘密兵器の完成を急いでいた。そんななか、英雄たちの伝説を聞かされてのどかに育った主人公とその兄は、飛行訓練も満足に終わらぬうちに帝国に拐われ、こともあろうか兄のほうは帝国軍の兵士として見出され、順応させられていく。悪の要塞を抜けだした主人公は、伝説の勇者たちが住むというガフールの地を目指して旅立つのだった。

そんでさ、目の前にいた老人が伝説の勇者だったりさ。頭で考えずに砂嚢で感じろ、とかなんとか教えを受けちゃったりさ。炎燃えさかる中でのダークサイドに落ちた身内との決闘があったりさ。罠にかかって全軍一網打尽の危機に主人公が秘密兵器の中枢をシャットダウンしてさあ反転攻勢だ、とかさ。ここ一番のところでフォースを使え、じゃなくて砂嚢を使え!とかさ。ひとまず悪の親玉を倒して共和国の王と后の前で表彰されるとかさ。悪の残党は捲土重来を期して撤退とかさ。

もう、すっげーSW濃度が高いんだからっ!燃えろといわれなくても燃えますって。

そんな話を、CGIアニメーションとはいえ、『ドーン・オブ・ザ・デッド』、『300』、『ウォッチメン』で名を上げたザック・スナイダーが監督しているんだよ?

まあ、騙されたと思って観てほしい。SW好きなら存外に楽しめることを保証するからさ。

それはともかく。

原作である『ガフールの勇者たち』シリーズは、フクロウの生態を伝えるノンフィクションにするつもりでリサーチしてたのが、ファンタジー仕立ての児童文学に転化したものだという。本作にも、擬人化しながらも過度なキャラクター化を避けたフクロウたちのデザインや、排泄物としてのペレット、食事としての(おいしい)芋虫などの表現が残っていて、比較的に実写寄りのキャラクター・デザインになっているはそんな背景もあってのことだろう。

その結果、この絵柄、子供向けにはリアルで怖い、気持ち悪いと思われるのだろうが、これが意外なことに、ヒロインや妹は「萌え」可愛いく描かれているし、悪いやつは悪く、格好いいやつは格好良く、味のあるやつは味のあるキャラクターになっている。このあたりのバランスはうまい。同じスタジオが手がけた『ハッピー・フィート』と同じ感覚だ。

残念ながら吹替版が市場を席巻しており、当方もオリジナル音声を聞いていないのだが、実力者が脇を固めた吹替版の出来栄えは悪いものではない。映像におけるキャラクターの描き分けを補強するものになってから見分けがつかなくなるなどの懸念もない。だいたい、主人公の兄の声に、浪川大輔(新3部作・クローンウォーズのアナキン・スカイウォーカーの声)というキャスティングが洒落ているじゃないか。

原作シリーズの前半4分の1くらいをダイジェストしながら再構成しており、駆け足しでドラマが薄くなっているような印象は否めない。が、とにかくビジュアル面は見ごたえがある。モフモフしたフクロウの毛並みも気持ち良さそうだし、空を飛び、鉄の仮面や爪を身にまとったフクロウたちが壮絶な空中戦を繰り広げる様も3D映像で迫力たっぷりである。そしてザック・シュナイダーが得意とする『300』スタイルの可変スピードと回り込むカメラでアクションを見せる演出も案外3D表現との相性が良い。このスタイル、もう食傷気味だ、などとは馬鹿にはしていられないかもしれない。また、3Dの奥行き感を活かした集団戦の演出には新規性も感じられる。

作品全体としての完成度は並の範疇を出ないところもあるので、内容的に「取り急ぎSW好きにお勧め」とした。が、この秋、見る価値のある3D映画は3Dカメラで撮ったことを売りにする『バイオハザード』ではなく、こちらだと断言したい。もひとつ言えば、CGI全盛の今日、「CGIによる実写志向のアニメーション」と、「CGIを多用するVFX映画やパフォーマンス・キャプチャー作品」などの垣根は完全に崩壊したことが、人材面での越境というかたちで表出した作品群の、そのなかでもかなり要諦となる1本として、アニメーションながらザックス・スナイダーの手癖が満載の本作は必見。ていうか、とにかく見ろ。劇場で。3Dで。打ち切り前に。急げ急げ!

Knight and Day

ナイト&デイ(☆☆☆★)

男女、(多少は旬を過ぎたかもしれないが)誰にも真似のできないオーラを放つスーパー・スタア・カップルが共演する楽しいロマンティック・アクション・コメディ。

しかも、ジャンルを問わず佳作を撮り続ける職人、ジェームズ・マンゴールド監督が、ハリウッドお得意の「巻き込まれサスペンス」、「スクリューボール・コメディ」、「スパイ・アクション」の3つのジャンルを掛け合せてみせる。尺は1時間50分。伏線をきっちり回収し、少し心温まる気持ちのいい幕切れ。これ、文句なしの「お気楽ポップコーン・ムーヴィー」の快作、だろ?

思うにトム・クルーズ、案外、こういう映画をやってきていない。彼のフィルモグラフィには、俳優としての演技やプロデューサーとしての嗅覚を評価して欲しい映画、はたまた、映画ファンとしての自己満足といった映画は多いのだが、純粋に「スターであることに自覚的に応えてみせるだけの映画」という意味では、『カクテル』くらいしか思いつかない。

しかも、今回は、自分の胡散臭いイメージそのものをパロディにしてみせる余裕まで見せてくれる。そう、『ミッション・インポッシブル』のようにスーパー・スパイが活躍する映画、ではなく、事件に巻き込まれたキャメロン・ディアス側の視点で、正体のわからぬ胡散臭い男に振り回される話になっているのが技ありだと思うのである。

しかし、『バニラ・スカイ』であれだけ散々な扱いを受けていながら、脚本を読んでトム・クルーズに声をかけたというキャメロン・ディアスもよく分かっている。なにより、演技者としても「キャアキャア騒ぐ頭からっぽのめんどくさいけど可愛いブロンド女」を嬉々として演じてみせ、40も近いのに堂々と赤ビキニを着てみせるあたり、あのゴールディ・ホーンの絶頂期に並び称されるべき愛すべきコメディエンヌぶりではあるまいか。(ゴールディ・ホーンは50になってもパンチラやってたけどな。)トム・クルーズとの息もあっていて、掛け合いの間が抜群。

脇役にも『ダウト』でメリル・ストリープ相手に一歩も引かなかったヴィオラ・デイヴィスを起用したり、胡散臭い裏切り者といえばこの人、ピーター・サースガードを起用し手抜かりはない。

気になることがあるとすれば、明るく楽しい映画に似合わず「悪人」とはいいきれない人がたくさん死ぬことか。武器商人配下は構わないのだが、単に職務に忠実なだけのFBI職員たちはいい迷惑である。「悪の組織」を相手に戦うときには「敵」という記号として了解できるのだが、今回のようなケースでは少し気になるものだ。

とはいえ、ロマンティックな光景を楽しめる世界各地の特徴的な場所をロケしてまわり、段取りがめんどうなところは薬で眠って(眠らせて)すっ飛ばし、楽しい見せ場だけをテンポよくつなぐ手際のいい構成。主演の二人がかなりの割合のスタントをこなしているようにも見え、作り手のサービス満点ぶりが心地良い。ちょっと、古きよきハリウッド映画の現代版といった風情で

10/09/2010

Resident Evil: Afterlife

バイオハザード IV アフターライフ(☆☆)

同じポール・アンダーソンでも偉くなっちゃった"PTA"の方じゃなくて、中学生映画を連発する愛すべきポール "WS" アンダーソン監督が、シリーズ第4弾に復帰、3D化に挑んだアトラクション映画である。バイオハザード・シリーズとしては第2作目で早くも愛想が尽きたので前作は未見。しかも、アバター同様に3Dカメラで撮影したことが売り物の作品であるにもかかわらず、2D上映での鑑賞であることをお断りしておく。

で、2Dで見たのだが、どういう3D効果を狙っているのかは平面でも分かる。まずは古典的な「何かが飛び出す」系の演出。弾丸、コイン、硝子やコンクリート等の破片、巨大な斧や剣、それにゾンビやその口から飛び出す変形した不気味な顎、等々である。もうひとつは、画面の奥行きを活かした「高低の落差」系の演出で、高いところから落下したり上下移動をするシーンが比較的多く登場する。3Dで見ていたら、まあ、遊園地のアトラクション並には楽しめるのかなぁ、と想像する。あと、終末的な世界をスクリーンという窓から覗き見るようなところもあるが、舞台が限定的であるためにそれほどの見せ場にはなっていない。

アクションの演出も、大型の3Dカメラゆえの制約もあるのだろうが、3Dの特質を踏まえたものになっている。つまり、一時期流行した細かいカットをつないで編集で(誤魔化して)見せるのではなく、カットを割らず(CGIワークでごまかしながら)スローモーションや回り込みで見せるタイプの演出になっている。

3Dで見てもいないくせに、実写系の3D作品としての側面に言及するならば、やはり、そこは試行錯誤の途上ながらも着実に進化をしているように見受けられるのだが、題材が題材ゆえか、見慣れた「立体映像アトラクション」に終始し、観客の想像を超えるような新しい要素は見出せはしない。

では、ストーリーを含めたアクション活劇としてはどうかといえば、まあ、前作を見ていないのだから、主人公がやたらめったら強い上に分身までして戦う冒頭・渋谷のプロローグはさっぱり意味不明であることを割り引いて考えても、さして面白いものでもない。見ているあいだはそこそこ刺激が持続するが、ストーリーもなければドラマもない。謎の男は危険な囚人なのか、味方なのか、サスペンスになる前に底が割れる。廃棄された牢獄からゾンビで溢れた市街を強行突破するかと思いきや下水経由の肩透かし。いけ好かない映画プロデューサーは安っぽく敵のしもべに成り下がり、敵ボスはエージェント・スミスの安っぽいパクリ。アクションにも新規性はない。もはやゾンビは背景美術でしかない。続編には色気をだして中途半端な終わり方をする。

もちろん、"WS" の映画に多くを求めちゃいないから、そんなもんだろう、と割り切って暇つぶしに見るなら腹も立たないものだ。しかし、この程度の映画で、ゲームのファンなんかは満足できちゃったりするものなのだろうか。ここには、ゲーム特有のインタラクティブ感や没入感はゼロなんだけど。いや、没入感は3D化で少しは上がっているのかもしれない。だとすれば、この手のジャンルの映画にとって3D化はあるべき進化の方向だろう。

10/02/2010

13 Assassins

13人の刺客(☆☆☆)

往年の東映映画のリメイクが、ジェレミー・トーマス製作・三池崇史監督の東宝映画(配給だけど)ってんだから、なんだか支離滅裂。随分と構えの大きな作品であり、もちろんお金もかかっているようだ。それゆえか、いつになく作り手の意気込みや本気度が画面の隅々に漲り、特に映画前半にはある種の風格すら漂っているのだが、一方で、監督らしい手癖というか、見せなくてもいいグロ、やらなくてもいいエロで、幾分映画が安っぽくなっている部分もある。まあ、それも個性のうちだといえばそうなんだけどさ。いずれにせよ、これだけ大掛かりで複雑な作品を作り上げることの苦労を思うと、拍手を進呈したいと思う。

江戸時代末期を舞台に、残虐な暴君を放置できぬと、密命を受けた男たちが計略を図って暗殺を試みる。手勢は13人に相手は200人。参勤交代の帰国途上、宿場町を借りきって決戦の火蓋は切って落とされる。役所広司、山田孝之、松方弘樹、沢村一樹、古田新太、伊原剛志、伊勢谷友介、六角精児、市村正親、松本幸四郎、内野聖陽、稲垣吾郎、岸部一徳、吹石一恵のオールスター・キャスト。

強大な絶対悪を倒すミッション遂行ものを基本とした娯楽活劇で、売り物は延々と続くクライマックスの集団戦闘シーン。だが、映画の内容は意外や風刺的、批評的である。リメイク時代劇であるが、見せかけではなく内容の面でとても現代的である。

稲垣吾郎演ずる暴君は、「平和な時代に生きる実感を感じられない」と嘆き、他人への想像力もなく自己中心的で残酷な行動をとる男である。もっともらしい理屈をこねはするが、それで何もかもを正当化できるわけもない。これをある種の現代(日本)人と、時折引き起こされるむごたらしい事件がオーバーラップしてくるのは意図的なことだろう。トップアイドル・グループのメンバーらしからぬ嫌われ役を演じた稲垣吾郎の損得勘定は微妙なところだが、このキャスティングはいいアイディアだった。

また、その暴君を守る側に立つ者たちの描写が面白い。「システムを守り、自らの職務・役割を全うする」とか、「自分の稼ぎや生活を守る」という一見もっともな理由で思考停止に陥り、悪しきものを温存し、先送りし、増長させる組織人だったり、役人だったりの象徴であるからだ。組織の中で無能な神輿を担具ことに対する美学もあるのかもしれないが、それを言い訳にした保身でもある。敵側のリーダーを演じる市村正親が、美学と保身と個人の誇りのあいだで自らに与えられた役割に忠実な男を説得力を持って演じている。

主人公らとて、大義のためには自らの命も投げうつし、無関係の多くの命が失われても已む無しとする暴力的な体制破壊者、テロリストである。また、彼らも平和な時代に「死に場所」を求めているわけで、「大義」を与えられればほいほい乗って行く危うさもある。まあ、さすがに娯楽活劇であるから、主人公らの行動を否定的に描いたりはしない。むしろヒロイックに描かれており、盛り上がるべきところできっちり盛り上がる。が、結局のところ、あとに残るのは死屍累々の虚しさだけである。

ほとんどが農民の末裔のくせに、サムライなんとかとやたら「武士」を美化する昨今の風潮は滑稽であるが、その「武士」なんてものは面倒くさくて、馬鹿らしくて、実にくだらねぇと、サムライをダシにした大チャンバラ娯楽活劇をやりながら唾を吐いてみせもする。これは、そういう映画なのだろう。しかも、血みどろで、泥まみれで、格好良さとは無縁の「戦場」の描写や残虐描写がしかし、この映画の売り物でもあるという自己矛盾にも自覚的なのである。

Villain

悪人(☆☆☆★)

『フラガール』で名を上げた李相日監督の東宝映画である。オーソドックスで誠実に作られたいい作品である。もう少しエッジの立った新しさを求めたくもなるが、ないものねだりかもしれない。だって、『フラガール』・・・も、そういう映画だったし。ただ、前作で蒼井優、松雪泰子が輝いたように、本作で深津絵里、妻夫木聡に実力相応の仕事をさせた手腕については今後も期待したい。

福岡で保険外交員の女性が殺害される。事件当夜に女性を車に乗せて現場に置き去りにした学生の犯行が疑われるが、真犯人は、被害者と出会い系で知り合った長崎の解体工だった。事件後、犯人は同じく出会い系で知り合った佐賀の紳士服チェーン店員の女性と親密な関係となり、共に逃避行を続けることになる。その間、犯人の家族はマスコミに追われ、被害者の家族は抑えきれない怒りと喪失感に苛まされるのだ。

妻夫木聡が演じる「犯人」は、環境・境遇の産物としての悲しい犯罪者である。また、彼に共感し、自首を遮って逃避行に誘う深津絵里演じる女もまた、行き場所のない地方都市で深い孤独を抱えて生きてきた。映画は小説のような描き込みをすることができないかもしれないが、妻夫木、深津、この2人の好演は、その行間を埋めて余りある(妻夫木が山田孝之に見えてくるってのは、ある意味スゴイ)。「暇つぶしで出会い系を使う人が多いのかもしれない、でも本気だった、本気で誰かと出会いたかった」という女。お金でも払わなければ自分のような男と会ってくれる女なんていないと思っていた男。「もう少し早く出会っていたかった」と嘆いてみても、もう遅い。

まあ、映画としては2人の気持ちが通い、逃避行に至るまでが見所であって、そのあとは推進力が失われてしまう。が、素直に白状すれば2人の人生が残酷にも交差する瞬間を誠実に切り取って見せてくれたところに感動したので、それだけで満足しているところがある。2人の孤独な心が通い合う過程に説得力があったし、2人のキャラクターに対して同情というのではなく、立場や境遇こそ違え強い共感を感じられた。原作と比べて説明が足らんとか唐突とかいう観客もいるみたいだが、映画だけ見て十二分に分かるよ、これ。(当方、原作未読だし。)

殺人事件の被害者である保険外交員の女性の、殺されてしかるべきとまでは言わないまでも、ムカつく行動原理や「犯人」に対する侮蔑的な言動も、「現実にいるよね、こういう女」という枠を踏み外して戯画的になる寸前の範囲で踏みとどまり、よく描けていた。満島ひかりは巧いな。享楽的で自己中心的なチャラい学生も、描き方は表層的だが、演技のニュアンスが加わってそれなりの人間味もでていた。舞台となる地方の、東京や都市部とは違った空気もよく映し出さfれていた。

一方、この映画で残念だと思うのは、被害者の父親を演じる榎本明と、犯人の祖母を演じる樹木希林がそのキャスティングも含めて類型的に過ぎ、新鮮味を感じられないことがひとつ。いや、二人とも上手い俳優さんなんだけど、いまや使い古されすぎてコントになっちゃってるレベルじゃないのか。

もうひとつは、毎度毎度ワンパターンの回想だ。経緯を説明する場面になると、「事実これこれでした」と全部(客観)映像にして見せてしまうこと。これは、映画から緊張感を奪っているだろう。特に、犯人の告白については、「本人はこう語っている、聞き手はそう想像したみたいだけど、実際のところどうだったのか?」と観客に疑念を挟む余地を残すことはできなかったものだろうか。

あと、久石譲の音楽が、その使い方ともども凡庸。これは映画の格を下げていると思う。まあ、一時期の大林、初期の北野などの例外を除けば、実写映画での彼の仕事って、あんまりピンとこないことが多いんだけど。

しかしねー。与えられた環境の中で真面目に暮らしている人々の人生が、ちょっとしたきっかけで大きく狂っていく。親と子、人と人の絆であったり、それが希薄な現代社会に生きる孤独であったり、地方の疲弊や退廃であったり、現代風俗の軽薄さであったり、、、というドラマをオーソドックスにやるなら、東宝映画じゃなくて松竹・看板の山田洋次でいいんじゃないか、と思うわけで。(いや、山田洋次の現代劇は、それこそ彼の観念の中にしか存在しない「庶民」なんてのが出てくるからあんまり好きじゃないのだが、でも、彼だったらこの題材をどう料理するかに興味があるんだけどね。)もうちょっと冒険してもいいんじゃないか、この映画。

A Single Man

シングルマン(☆☆☆★)


キューバ危機に揺れる1962年を舞台に、16年連れ添ったパートナーの事故死を克服することができない男が、その人生を終えることと定めた特別な一日の出来事と回想を綴る。愛する者を失った悲しみや絶望を描く映画ではなく、愛する者を失って絶望のさなかにある男が、それでも人生を続けていく意味を些細な日常の中に見出していく物語である。主人公は男で、亡くしたパートナーも男である。その点では色眼鏡で見る向きもあるかもしれないが、ここで描かれているのは性的嗜好に関わりのない普遍的なドラマであって、舞台となる時代背景とあわせて、主人公の切実さを際立たせる役目を果たしているに過ぎないように思う。

主演はコリン・ファース。華には欠けるが、もともと巧い役者である。すでに昨年来、ヴェネツィアを皮切りに数多くの舞台で賞賛されてきたわけだが、これがもう、絶品。ちょっとした身振り、仕草や視線、表情で、自殺を思い立った男のひととなりと感情の変化を説得力をもって見せてくれる。真面目だがどこかにおかしみのある人物像はコリン・ファースの得意とするところだが、周囲に迷惑がかからぬよう完璧に仕度して自殺に臨もうとする主人公の行動にそこはかとないユーモアを感じさせるあたりは彼の真骨頂ではないか、と思う。その一方で、本作のコリン・ファースにはこれみよがしではないセクシーさがあって、目が離せない。全編出ずっぱりで、これは正に彼の演技を楽しむ映画であるといえる。

主人公の「最後の一日」に深く関わりを持つ共演者はジュリアン・ムーアとニコラス・ホルト。ジュリアン・ムーアは紅一点、主人公が男に目覚める前に付き合ったことのある親しい女性という役まわり。かなり重要な役で、見せ場もある。ニコラス・ホルトは、主人公に好意を持ち、行動の異変を察知してつきまとうかわいい男子学生役で、これは儲け役。『アバウト・ア・ボーイ』の変顔の男の子だと知ってびっくり。そういえば、プロデューサーに(『アバウト・ア・ボーイ』監督の)クリス・ワイツの名前があったな。

グッチ、イヴ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターとして一世を風靡したトム・フォードの監督作(脚色も)である。これが伊達や酔狂ではない。人と人のつながりの中に人生の意義を見出してみせる本作は、なんといっても誠実で真摯な作品であるし、構成も巧みで、小品ながら堂々とした出来栄えだ。映像的には彼の美意識が先行して作りこみすぎているきらいもあるが、決して見せかけばかりの空疎な作品ではない。この人は、これからも本業の傍らで映画というかたちでの表現も続けていく人なのではないだろうか。そうだとしたら、次の作品もぜひ見てみたいと思わせる見事な監督デビューであった。