9/29/2009

Land of the Lost

マーシャル博士の恐竜ランド(☆☆)


『俺たち~』シリーズ(?)で、日本でも局所的に名前が知られるようになってきたウィル・フェレル主演最新作。ブラッド・シルバーリング監督による本作は、1974年製作による子供向けSFi ドラマで、後にカルト化した『Land of the Lost』をゆる~くリメイクしたものである。また、リメイクといっても、ストレートなリメイクではない。「カルト・クラシック」のバカバカしさや幼稚さにおちょくりをいれる「公式な」パロディというのが一番正しいところだろう。「公式」というのは、本作の制作に、オリジナル版の製作者であるシド&マーティ・クロフトが関わっているからであるわけだが、クリエイター自らが陣頭指揮を執って、旧作のタイトルもそのままに、パロディ仕立てのリメイク劇場版を作るというひねくれ具合が面白いところだと思う。

さて、お話のほうであるが、邦題タイトルで想起されるような、「タイムトラベルで恐竜時代にいく」という話ではないし、「恐竜を現代に連れてきて遊園地で見世物にする」話でもない。次元の裂け目から、恐竜や類人猿、トカゲ人が跋扈する別の世界に迷い込んでしまったおとぼけ科学者ご一行の、すっとこどっこいな冒険談である。まあ、冒険といったところでたいした冒険ではなく、類人猿をお供にし、恐竜に追われ、トカゲ人に襲われ、麻薬でハイになるといった程度のことではある。

映画の基本がパロディであることから、チープで安っぽいTV版の雰囲気をそのまま再現することに主眼があり、特撮も敢えてローテクっぽく、着ぐるみはあくまで着ぐるみらしく、作り物は敢えて作り物らしいというのが基本線である。つまり、その情けなさが笑いのネタになっている、ということだ。こんな安っぽく見えるものにビッグ・バジェットを投じて熱を上げるという太っ腹には感心せざるをえまい。チープさが基調のビジュアルのなかで、CGIで描かれる恐竜だけは何故だか妙に気合が入った出来栄えで、邦題についつい「恐竜」と入れたくなった心情も理解できるところである。恐竜のできがよいがゆえに他の部分の安っぽさが際立っているようにも思う。

映画のノリはウィル・フェレルの芸風にあわせたものである。この人の笑いは昔でいえばチェビー・チェイスあたりのそれに近いようにも思うのだが、まあ、はっきりいって面白いんだか面白くないんだかわからないところもあって、脚本や演出でその芸風を活かしきれるかどうかで出来が左右する部分が大きいのである。そんな意味で、今回の敗因は、この男の芸風と監督との相性ではないかと思う。そもそもブラッド・シルバーリングという人はコメディ畑の人ではないから、面白いコメディアンの芸をそのままカメラに収めれば、面白いに違いない、とでも思っているに違いない。本当はこういう企画なんか、例えば、かつてのジョン・ランディスのようなコメディの呼吸がわかる監督が手がけていれば、爆笑必至の仕上がりだっただろうと思うのだが、どうだろう。

Crank : High Voltage

アドレナリン:ハイ・ボルテージ(☆☆)


結果としてということだとは思うのだが、90年代を沸かせたアクションスターたちがどんどん失速し、ビデオ・ストレートなゴミ映画でお茶を濁ようになったなか、00年代を代表するB級アクション映画の顔といえば、ジェイソン・ステイサム、なのである。今年はつい先日公開された『トランスポーター』シリーズ最新作とあわせてときならぬステイサム祭り状態だ。あちらではアウトローながらスタイリッシュなヒーローを演じ、こちらではその悪人顔を活かした過激な殺し屋を演じてみせている。まあ、どんなに演技をしてみせたって、ジェイソン・ステイサムはジェイソン・ステイサムにしか見えないあたりも「アクションスター」らしくて素敵だ。

さて、本作は『アドレナリン』こと「CRANK」の続編。前作では妙な薬を打たれたせいでアドレナリンの分泌を一定レベル以上に保たないと死んでしまうというバカ設定でテンション高く押し切ったわけだが、今度は移植用に心臓を盗まれた上、代替の人工心臓が止まらぬように充電し続けなければ死んでしまうという、前作を軽く凌駕する無茶な設定である。そんなわけで、今回は「アドレナリン」とは関係ないストーリーだが、邦題は便宜上「アドレナリン」だ。まあ、テンションが高く、観客のアドレナリン分泌を促す映画、ということで、そんなに違和感もないか。人工心臓を止めないために車のバッテリーや高圧電流で充電をしようとする、絶対にまねしたくない数々のシーンにおけるビジュアル的インパクトは凄い。ステイサムの狂気を漂わせた悪ノリ演技も最高である。

前作に引き続き、マーク・ネヴェルダイン&ブライアン・テイラーの共同監督である。エッジが立っているというよりは洗練されておらず荒削り、どこかからの臆面もないイタダキのパッチワークで成立している映像スタイルがB級らしさを際立たせている。正直なところ、アイディアそのものが面白いのであるから、ここまでチャカチャカ落ち着きのない映像にしなくてもよいと思うのだが、当世、これくらいやらないと刺激が足りないとでも思っているのであろう。

また、エロ・グロ・ナンセンスというのか、下品というのか、このシリーズの売り物は、MPAAのレイティングなぞどこ吹く風とばかりに過激な描写にリミットを設けない姿勢、不良性感度の高さである。主人公を初めとして主要な登場人物はみんな何がしかの悪党であるから、周囲の人々を巻き添えにしようが何をしようがお構いなしで、簡単に人が死ぬし、残虐な描写も多い。こういうのを不謹慎だと思ったり、眉をひそめる向きにはとてもじゃないがお勧めできない作品である。ことに今回は、どこかで完全にリミッターを振り切ってしまったような描写が延々と続くので、メインストリームの観客に向けたエンターテインメントとしてはいささかバランスが悪いといえるだろう。前作にも増してキワモノ感が漂う仕上がりであるといっておく。

Oblivion Island: Haruka and the Magic Mirror

ホッタラケの島 遥と魔法の鏡(☆☆☆)


遥 in Wonderland. 予告編を目にしたときには全く興味をそそられなかった本作であるが、上映が終わる前に見に行くことができてよかった。人間がほったらかしにして忘れているモノを狐(のような生き物)がこっそりいただいていく、という民話風のモチーフを、古今東西のファンタジーから借用したアイディアやイメージで発展させた劇場用オリジナルのフルCGIアニメーションなのであるが、これがなかなか、作り手の誠意と熱意が伝わってくる秀作なのである。

母親を早くに亡くした主人公、遥が、神社でみかけた不思議な生き物を追って、穴に落ちるとそこは「ほったらかし」にされていたものを再生して暮らす不思議な国。ここを舞台に母親の形見である手鏡を探す大冒険が始まるのである。先に書いたように、狐を追って穴に落ちるところを手始めに、アイディアのレベルでは過去の様々なファンタジー作品のつぎはぎともいえるストーリーである。通常、日本のマンガなりアニメなりがこういうことをすると、その臆面も工夫もないイタダキぶりに見ているこちらが恥ずかしくなるようなものが多いのだが、本作の場合、借り物のアイディアをうまく咀嚼し、ひとつの物語として統一感をもって練り上げることができており、ネタの出処を推測しながら微笑ましく見ていられる程度に収まっているように思われる。

一番の見所は、タイトルにもなっている「ホッタラケの島」、つまりは穴の向こう側の異世界のビジュアルである。発想の源泉こそあちこちから借りていながらも、独創的なものを作り出そうという意欲は強く感じられる美術面での頑張りも含め、国産作品にありがちな「CGIアニメーションで作ってみました」というレベルを大きく超えている。他の手法ではなくて、CGIアニメーションであるからこそ表現できる世界、しかも、米国製アニメーションの模写ではなく、オリジナリティのある新しいレベルの表現に真っ向から挑み、そしてかなりのところ、成功しているといえるのではないか。事前の宣伝や予告では、この素晴らしさ、驚き、この作品が成し遂げた到達点というものが十分に伝わっていないのではないか。それが作品の興行的不振につながっているとしたらもったいないとしかいいようがない。

一方、その「異世界」との落差を出したかったのだとは思うのだが、穴のこちら側の日常を描くシーンはまるでダメ。風が吹いても木の葉ひとつ揺れない伝統的リミテッド・アニメーション風の立体感のない書割背景のなかで、妙に滑らかで重量感のない立体的CGIキャラクターたちが不自然なまでに滑らかに動くのに違和感があって見ていられない。仮に日常と非日常を対比で見せたいのであれば、いっそのこと、日常シーンにおけるキャラクターの表現からCGIらしさをとりはらい、2D手書き風の、「動かさない」表現で見せる手もあったのではないだろうか。映画全体における日常シーンの比率が高くないので作品にとって致命的とまでは思わないが、それでも映画の冒頭と締めくくりが映画に与える印象の重要性を思えば、このパートによるダメージは小さくない。CGIだからこうなってしまう、という消極的な諦めではなく、異世界パートで見せたような「こういう表現であるべき」という姿勢で考え抜いて欲しかったと思う。

9/28/2009

火天の城

火天の城(☆★)


信長から安土城築城をいいつかった熱田の宮大工が、当時、世界的にも前例のない5層7階建の壮麗な巨大建築を完成させるまでのドラマである。原作ものであるから映画に対する評価とは別になってしまうのかもしれないが、戦国時代劇の主人公が宮大工で、一世一代の大仕事を成し遂げるために「コンペ」を勝ち抜き、苦心惨憺の末仲間の協力を得ながらプロジェクトを完遂させるという題材、そして視点にオリジナリティがあり、たいへんに面白い。それが映画としての面白さには全くつながらないところが、これまた逆の意味で面白い。

まず、主演俳優で萎える。これだけの規模の時代劇を支えなくてはならないのだから、主演に重量級の俳優が必要であることは理解ができるのだが、かといって、その役者の体重までが重量級である必要はなかったと思うのである。西田敏行は個人的に苦手な俳優なのだが、それが理由でいっているのではない。モデルとなった人物が実際にどんな体形をしていたかは知らないので無責任なものいいかもしれないが、戦国の世、たとえ一門を率いた棟梁とはいえ、一介の職人、宮大工の棟梁が、あんなにぶよぶよ太っているというのではリアリティもなにも台無しだ。西田敏行がいかに名優であろうとも、いかに職人としての名演技を披露しようとも、あの体形のまま出演するのでは逆立ちしたって宮大工の棟梁には見えない。もし、仮にモデルとなった本人が立派な体格をした男であったというのであれば、劇中、台詞のひとつでも何でも、なんらかのフォローがあってしかるべきである。

他のキャスティングもいろいろ妙である。次長課長の河本準一が秀吉もなにかの冗談のようだが、笹野高史や夏八木勲も登場した瞬間から変なオーラを放っており、笑いを取るためにでてきたようにしか見えない。主人公の娘役、福田沙紀も時代劇にあわない顔立ちをしている。わざわざ「息子」から「娘」に変えてまで出演させる理由がわからぬ大根演技は苦痛以外の何者でもない。変なキャストが並ぶ中では椎名桔平の信長は真っ当で、寺島進が意外にも職人風情を漂わせていたのはさすがは畳屋さんの息子だなぁ、と納得がいくところだった。

さて、安土築城という大仕事、プロジェクトX的に描いていけばそれ自体がドラマとなり、面白くなるに違いない。それなのに、築城にまつわるプロセスをひとつひとつ丁寧に盛り込んで見せるかわり、家族であるとか、男女の仲であるとか、あまりにも陳腐なエピソードを、あまりにも陳腐なやりかたで並べてみせた脚本のセンスのなさには心底あきれる。原作からのエピソードの取捨選択も誤っているのだろう。忍者の話はあれほど唐突に盛り込むくらいなら、全部カットでも全く問題ないだろう。もちろん、ものづくりのプロセスにおいては人としての葛藤がある。仕事に没頭する影に、それを支える家族の存在がある。しかし、それも描き方の問題だと思うのである。結果として、現代のVFXの力を借りなければ映像化できないスケールの大きい話のはずが、スケールの小さい凡庸な話に貶められてしまったのでは本末転倒も甚だしい。劇場を埋めた年配の観客はこの程度で満足するだろうという舐めた姿勢があったかどうか、逆に、こういう「人間ドラマ」を盛り込んだオーソドックスな話にしなければ観客が満足する娯楽映画にならないと考えたのか。やはり、非凡な題材が凡庸に堕すのは、凡庸な才能によるのであろう。

コンペにおいて模型に火をつけ、吹き抜け構造だと火が回るのが早いという実演をしてみせ、信長に吹き抜けを作ることを断念させたというエピソードを盛り込んでおきながら、結局のところは儚く焼失したという歴史の皮肉がしっかりと利いていないのももったいない。これは城を作った人たちの物語であるから、城が炎上しても舞を舞う暇がある、という台詞に呼応した炎上シーンまで描くべきだとはいわない。3年後に焼失、という事実の提示の仕方とエンドマークの打ち方、タイミングひとつで変わるものだと思うのだが、いかがなものだろうか。

Nonchan Noriben (のんちゃんのり弁)

のんちゃんのり弁(☆☆)


まあその、なんだ。まじめで誠実につくられたオーソドックスなコメディだとは思う。聞けば、95年~98年連載で未完におわったマンガが原作で、1997年・98年に昼ドラ枠でTVドラマになっているという。

緒方明監督による本作に関する最大の謎は、この企画をなぜ、2009年の今、改めて劇場映画にしなくてはならないのかがさっぱりわからないことである。経済的に厳しい環境の中で、女性の自立だ、頑張る女性への応援歌だ、という意図なのかもしれないが、古いマンガを持ち出してこなければならないあたりに、原作なしのオリジナル脚本ではお金が集めにくいという事情が透けて見える、というべきなのか。

さて、これは、「30代の子持ち女性がダメ亭主と別れて再出発をしようとする話」である。手に職もなく、就職口もみつからない主人公が弁当屋を開こうと思い立ち、まずは居酒屋の弟子として料理修行に勤しむようになる。映画のタイトルから、「一人の女性が弁当屋を開業し、起動にのせるまでの奮闘期」のようなものを想像していると、ちょっと肩透かしを食う。

弁当屋をやろうと思い至るまでにふらふら、思い至ってからもふらふら。元亭主とのドタバタや、かつての同級生との恋愛模様がぐだぐだと続き、クライマックスは元亭主との乱闘騒ぎ。映画の中での「弁当屋」の扱いは、単なる添え物にすぎないと感じる。映画の最初のほうで、主人公が作る弁当をアニメーションで解説してみせたりするが、そこまでするなら、徹頭徹尾、主人公と弁当に焦点を当てるべきではなかったか。もっと主人公の弁当に対する思い入れや工夫、好きでやっていたことをビジネスにしていく上での壁や葛藤などを描いたら新味があったように思う。

主演の小西真奈美は相変わらずの人形のような童顔で、突拍子もない主人公をいきいきと演じていて、コメディエンヌとして頑張っているとは思うのだが、これは演じているキャラクターの問題かもしれないのだが、どこか一本調子でイライラする。母親役の賠償美津子や、居酒屋の主人役の岸部一徳は、そりゃ、巧いにきまっているのだが、あまりに予定調和。はまりすぎるのも退屈だというのがなかなか難しい。

Air Doll

空気人形(☆☆☆★)


是枝裕和脚本・監督の新作。男の性欲を満たすために作られた等身大の人形が、心を持ち、外の世界の美しさを知り、恋心を覚える。好きな人が出来ても、一日の終わりには持ち主のもとに帰り、抱かれる。それが彼女の役目、存在する理由だから。いっそ、心などないほうが楽だろうに、と切なくなる。行為を強要されたあとで人形が自らの股間の部品をとりはずし、洗面所でそれを洗う姿、その即物的な描写は、切なさを通り過ぎて哀しくて仕方がない。そして、そんな空虚さが他人によって満たされる喜び、それは誰もが指摘するように、この映画の白眉である。

主人公である「人形」を、あのペ・ドゥナが演じる。たどたどしい日本語で、性欲処理の代用品を演じる。作り手は、韓国の女優がこれを演じることで、意図をしない意味が、(おそらく、社会的なサブコンテクストが)過度に付与されないか、心配したように伝え聞いた。まあ、それはそうだろう。自らの意図に反して性風俗産業に従事させられている女性たち、特に、海外から人身売買同様にしてつれてこられた女性たちのイメージが重なってみえるのはある程度計算に入っていてもおかしくない。しかし、日本人男性が、性欲処理のために韓国人女性をモノとして扱い、抱く。そのことが、映画とは全く関係がない両国のあいだの過去の不幸な出来事を喚起させてしまう可能性は、確かにあっただろうと思う。そして、もしそんなことになれば、本作は失敗したに違いない。

しかし、ペ・ドゥナという女優の存在感は、やはり、他に代えがたい稀有なものであることを、この映画はわれわれ観客に、改めて教えてくれる。彼女は、余計なものを想起させたりしない。彼女は韓国の女優である、という事実の前に、なによりもまず、女優であり、心を持ってしまった空気人形であった。文字通り空気を入れて膨らませるちゃちな作り物としてのビニール人形と、実際の人間にビニールの継ぎ目を書いて表現される「心を持った人形」がいて、それをひとつのものとして、ひとりの「人形」として、説得力をもってつないでこそ、この作品が描き出すファンタジーが成立する。そんなむちゃくちゃなことが、まるで当たり前のことのようにしてできてしまっている、コントにもならずに表現として完成していることは、実はとても凄いことだと思っているのだが、それを可能にしたのは何よりもまず、ペ・ドゥナというキャスティングであり、彼女の貢献だといえるだろう。

この映画では、いっそ心を持たずにいられたら楽になれるだろうに、と感じている、空虚な日常を生きる人々の姿が点描される。これは、テーマ的、映像世界の空間的広がりのうえでも効果的であると思うのだが、うまく織り込まれているというよりは挿入のされ方が唐突に感じられることがあり、もう少し脚本上の工夫が必要だったかもしれない。また、物語としては終盤での流れにぎこちなさを感じて残念であった。特に、ARATA演ずる青年が良く分からない。空虚であることと、何を考えているのか分からない、のあいだには大きな距離があると思うし、過度な説明を廃した演出や、観客に想像の余地を残す演出と、意味不明・意図不明は別のことだと思っている。オダギリジョー演ずる人形師が登場するあたりまでは文句なしに素晴らしい出来栄えなのだが、イメージや雰囲気を重視する作品が、それに飲まれてしまったのではないだろうか。

9/24/2009

The Ugly Truth

男と女の不都合な真実(☆☆★)

『300』の印象が強烈ながらも、ロマンティック系でもいけることを証明しつつあるジェラルド・バトラーと、テレビで売り出し『幸せになるための27のドレス』も記憶に新しい新参キャサリン・ハイグルが競演する新作。私はロマンティック・コメディ好きであるから、こういうのはともかく見に行っておくものなのである。もともとフォーミュラティックなジャンルであって、よほど酷くなければ、そこそこ楽しめるところもお気楽だ。実際、この作品もそれほどの褒められた出来ではないのだが、笑わせてもらったし、楽しい時間を過ごさせてもらったと思っている。

後から知ったのだが、この作品、『キューティ・ブロンド』、『アイドルとデートする方法(Win A Date With Tad Hamilton)』、『21』と、当方、密かにご贔屓のロバート・ルケティック監督の新作で、『キューティ・ブロンド』の脚本家コンビ(カレン・マックラー・ラッツ&クリステン・スミス)との再タッグ(ストーリー・共同脚本はニコール・イーストマン)作品であったりするのである。いや、それを知ってしまったら、この映画、これで満足というわけにもいくまい。だって、もっとマトモな仕事が出来る人たちなんだから。

堅物女性TVプロデューサーが男の気を引くため、男の本音をぶちまけて人気を博す男の知恵を借りるのだが、犬猿の仲だったはずなのに、恋の相手を差し置いて、いつしか互いに惹かれあうようになってしまう・・・という話。(マッチョ主義の)男の本音って(所詮)こんなもの、というアケスケな台詞の応酬が楽しく、本作の新鮮味である。が、こういうのは「下品さ」のさじ加減が難しいものである。本作で突出して笑えないシーンは、(おそらく『恋人たちの予感』のメグ・ライアンに着想を得たであろう)レストランでのシーンで、思わぬ成り行きで「大人の玩具」を装着したままである女性が、それと知らずにスイッチをもてあそぶ子供のせいで嬌声をあげるくだりを、たいへんにシツコい演出で見せるところだ。この手の下品なギャグが一線を越えるきっかけはファレリー兄弟の『メリーに首ったけ』だったのだろうが、作品のトーンと方向性を考えなければ目も当てられない惨劇となるのは本作に見るとおりである。

もうひとつ、本作の決定的な弱さになっているのは、互いに馬鹿にし、忌み嫌っていた2人が、いかにして惹かれあうようになるかというプロセスを説得力をもって描けていないことであろう。これは、いってみればロマンティック・コメディの肝である。もちろん、この2人が仲良くなるのがこのジャンルの「お約束」だから、それほどの唐突感や違和感があるわけではないのだが、互いが心のなかで求めていた真剣な付き合いに値する相手が、目の前にいる男/女であると、いつ、どこで、なぜ気がついたのかを説得力を持って描けなければ、2人の関係そのものが一時の気の迷いに見えなくもない。

一方、よくできていると思ったのは終盤、ホテルのエレベーターでの出来事の描き方である。互いが本当の気持ちに気がつき、一歩前に踏み出そうとするのだが、タイミングが悪くことは成就しない、というすれ違い、いってみれば定番のパターンを踏襲しているに過ぎないのだが、それまでのドタバタ基調の作品のトーンを、「ロマンティック」寄りに転調させるのに、脚本、演出、役者それぞれの歯車が噛み合って、ちょっといいシーンに仕上がっている。

9/11/2009

Night at the Museum: Battle of the Smithsonian

ナイト・ミュージアム2(☆☆☆)

ニューヨークの自然史博物館から、ワシントンDCのスミソニアン国立博物館に舞台を移しての第2弾、監督(ショーン・レヴィ)、脚本(ロバート・ベン・ギャラント&トーマス・レノン)も前作に引き続き続投である。もちろん、主演のベン・スティラーと、盟友オーウェン・ウィルソンも帰ってくるし、顔出し程度とはいえロビン・ウィリアムズのセオドア・ルーズベルトも再登場。新顔として、ここのところ絶頂のエイミー・アダムズがアメリア・エアハートを演じ、ベテランのハンク・アザリアが3役兼務で笑わせる。正直、映画の出来栄えはいまひとつなのだが、前作同様、盛り込まれたギャグが秀逸であるから、前作が気に入ったのなら緩いノリの本作もそこそこ楽しめるはずである。

個人的に、本作で一番のお楽しみは、やはりベン・スティラーとオーウェン・ウィルソンの迷コンビ復活、なのである。ベン・スティラー監督主演の怪作『トロピック・サンダー』では、いかにもオーウェンに当て書きしたような役をマシュー・マコノヒーが演じていて、少し寂しい思いをしたものだ。本作の「主演」というレベルでいえばベン・スティラーとエイミー・アダムズのカップルになのだろうし、オーウェン演じる役柄は比較的小さいものであることは否定できない。それでも、オーウェン・ウィルソンからのSOSを受けたベン・スティラーが、仕事をほったらかしてDCに向かい、オーウェン・ウィルソンの命を救うためにスミソニアンを走り回るというストーリー展開がミソなのである。

もうひとつのお楽しみは、古代エジプト王カームン・ラーを演じるハンク・アザリアだ。考えてみれば、前作はロビン・ウィリアムズが出ずっぱりで笑いを誘っていたわけだが、今回、その役割を担うのがハンク・アザリアというわけだ。素顔は見えないけれど爆笑を誘う「考える人」役と、作品の要になる「リンカーン大統領」役までこなしている事実で合点がいくだろう。今回もゲスト的に笑いを振りまくロビン・ウィリアムズほどのネームヴァリューに欠けるハンク・アザリアであるが、その芸の確かさと濃さは折り紙つき、今回、敵の大ボスを軽妙なトークでチャーミングなキャラクターに仕立て上げた。本作を水準まで押し上げる上での貢献が一番大きいのは、この男だといえるだろう。

いずれにせよ、スクリーンの裏側で作り手や出演者が楽しんでいる雰囲気が伝わってくるところがこのシリーズの良さであり、特徴だろう。まあ、2本で打ち止めにするのが良いとは思うけれど、展示物が貸し出された先で大騒動が起こるという設定で、世界各国行脚をしてもらうっていうのでも可、である。

X-Men Origins: Wolverline

X-Men Zero ウルヴァリン(☆☆★)


ヒーロー・チームの活躍を描く『X-Men』 劇場版シリーズ3部作からのスピンオフ第1弾。映画版で中心的なキャラクターとして描かれた人気者、「ウルヴァリン」を主役に、過去に遡ってキャラクターの生い立ちを語るものである。で、原題には "Origins"、おそらく、Origins シリーズとして、他のキャラクターたちの1本立ち企画も進めていることであろう。

新展開を成功させるべく、監督には『ツォツィ』のギャビン・フッド、脚本には『25時』や『君のためなら千回でも』のデイヴィッド・ベニオフを迎えるという、かなり野心的といえる布陣には驚かされた。このメンバーであれば『X-Men』シリーズ屈指の人気者が背負った運命をドラマティックに語ることができると踏んだのだろう。皿の上には魅力的なドラマの材料がふんだんにのっている。強力な治癒能力により不死に近い体を持つ男。同様の運命を持った兄との確執。恋人との束の間の休息と、彼女の死。軍の人体実験と、アダマンチウム合金の骨格の謎。主演で、今回はプロデューサーも兼務する売れっ子ヒュー・ジャックマンは益々格好良くなってきたし、その兄にキャストされ、ヒュー・ジャックマンと因縁の対決を繰り広げることになるリーヴ・シュレイバーもいい役者だ。

しかし、邦題にくっついた「Zero」が端的に示すように、本作はいわゆる「エピソード1」ものの一種である。「エピソード1」ものの火付け役でもあったあの『スター・ウォーズ』の新三部作がそうであったように、既存作品で描かれたできごととの整合性を図る必要性からくる窮屈さであったり、先の出来事がわかっているが故のドラマ作りの難しさであったりという困難を抱えているのがこの手の作品の共通したところで、本作も例外ではない。悪の黒幕、ストライカーを殺すわけにはいかないし、主人公は記憶を、そしてすべてを失わなければならない。もちろん、さまざまなバージョンのコミックで語られたさまざまなバージョンのエピソードの最大公約数的なところとの整合性も気にした結果だろう、予定調和のエンディングに向かい、勿体付けとご都合主義、それにあまりに陳腐なエピソードが羅列されていく。そこにはなんら新鮮な驚きはない。

まあ、それが苦痛にならないのは、107分という、2時間をきった(当世では短めの)上映時間のおかげだろうか。人気シリーズの新作で金のかかった大作だからと気張るのではなく、どうあがいてみても軽い気晴らしの娯楽映画でしかないという事実を作り手が忘れていなかった、ということだろうか。むしろ、監督・脚本の人選からすれば、それは意外なことのように思われる。

黒幕ストライカーが主人公の次に作り出した怪物、「ウェポンXI」ことウェイド・ウィルソン(=デッドプール)は、映画シリーズとしては本作が初登場。せめてこやつくらいは完膚なきまでに叩きのめしてくれるのかと思えば、ありがちな「続編がありますよ」エンドがくっつくことで復活が予告される始末。なんでも、このキャラクターを使ったスピンオフの計画があるらしい。

9/05/2009

Taking of Pelham 123

サブウェイ 123 激突(☆☆☆)

当方、巨匠扱いの兄リドリーよりも好きなのは弟のトニー・スコットである。その新作が『クリムゾン・タイド』、『マイ・ボディーガード』、『デジャヴ』に続く、デンゼル・ワシントンとの4度目のタッグになる本作『サブウェイ123 激突 』である。1974年作、ジョセフ・サージェント監督の『サブウェイ・パニック』の現代版リメイクにあたる。脚色を手がけたのは期待を抱かずにはおられない名前であるけれど、ハズレも少なくないブライアン・ヘルゲランド。

すでに様々言われているように、やはり「名作」のリメイクはいろいろな意味でハンディを負っていて、常に比較され、出来損ないの烙印を押される運命にあるのだろう。また、トニー・スコットが近作で好んで用いるカチャカチャした映像スタイルに対する生理的嫌悪感であるとか、拒否反応のようなものも強いのは理解できる。(もちろん、このスタイルを過度に褒めるつもりもないのだが、あまたいるフォロワーに比べれば、トニー・スコットは数倍洗練されていると思う。)しかし、公平に見たときの本作は、できの良いところも悪いところもいろいろあるのだろうけれど、娯楽映画の水準作には仕上がっていると思うのである。

問題は、2つ。ヘルゲランドの脚色とトラボルタ、である。

ヘルゲランドは犯人グループの目的を身代金ではなく、金融市場操作においた。昨今注目を浴びる金融問題を映画の空気に取り込むことを目論んだわけで、これはこれで優れた発想だが、狙いほどにはうまくいっているとは思えないのである。市場を動かすために事件を起こして大儲けをはかるというやりくちは、『カジノロワイヤル』の悪党もやっていたことだが、そこでも首謀者と実行犯は別人であった。市場操作が目的であれば、元々金融マンであった悪役の男が選ぶ手段は「地下鉄ジャック」になるだろうか、また、実行犯としてそこに自らの身を置くだろうか、という点について、説得力が弱いだろう。また、映画だから、といえば流しても良いと思うのだが、いくら土地柄を考えに入れても、「地下鉄ジャック」程度の事件で短期間に市場全体にインパクトを与え、映画の中のような資金のシフトを引き起こすことが出来るとは思えないのも弱いところである。

トラボルタもまた、ヘルゲランドによる「説得力の欠如」を補うだけの演技ができていない。まあ、それはどう考えても難しい仕事だと思うのだが、最近は『ボルト』の声だの、ボディスーツと特殊メイクによる『ヘアスプレー』の母親役だのと、あまり目立った活躍のなかったトラボルタであるが、それゆえなのかどうか、どうにもこうにもハシャぎ過ぎである。これでは「市に恨みを持った冷酷な知能犯」でもなんでもない。支離滅裂で危険な狂人、である。

しかしこれに対するデンゼル・ワシントンは本当に素晴らしい。このところ悪役やグレーな役を積極的に演じ、精錬潔癖な良識あるヒーローというイメージに縛られがちなキャリアの幅を意識的に広げてきているのはご存知のとおり。今回の脚色における一番のひねりであり、一番成功している部分は、デンゼルが演じる収賄を疑われて左遷されている地下鉄職員というキャラクターだと思っている。「真面目に勤め上げてきたよき父でありよき夫」の部分はいつものデンゼルの延長線上だろう。しかし、一件実直な男が、実は影で汚職に手を染めているのか、それとも単なる濡れ衣なのか?という点において最後まで予断を許さない曖昧さを残してみせるさじ加減がすごいではないか。いつもよりだらしなく増量した体もいい具合にリアルである。

トニー・スコットは、悪ふざけが過ぎてバランスが壊れた(が、それゆえの妙な魅力が捨てがたい)『ドミノ』の反省もあってか、今回、実は地味になりがちな題材に、適度に派手なアクションをはさむなどして娯楽大作らしいスケール感を付与しつつ、121分、長すぎない尺のなかで緊迫感の途切れさせないきっちりとした商品に仕上げている。傑作とまで持ち上げるつもりはないのだが、このレベルの良質な娯楽映画がコンスタントに封切られてくれると嬉しい、とは思うものである。