10/30/1998

Vampires (John Carpenter's)

ヴァンパイア・最後の聖戦(☆☆☆)

監督の名前を前面に押し出して売る映画は実はそんなに多くない。が、カーペンターノ映画は昔からそんなんだった。いつもタイトルの前にJohn Carpenter’s とついているんだからたいしたもんだ。米国内での配給がなかなか決まらずしばらくお蔵入りだったらしいこの作品も監督名を全面に押し出しての公開となった。そして、いわゆる「ベンベン節」で始まるこの作品、いかにもカーペンターな怪作である

ローマ法王を頂点にいただくバチカンの特命を受けてヴァンパイア退治を行っている男たちが主人公で、昼間でも活躍できるように秘密の儀式を行おうとしている吸血鬼軍団、そして、その強力なリーダーと対決をするという話だ。

まず、なんといっても荒野に居並ぶジェームズ・ウッズらヴァンパイア退治人たちの格好良さ。余計な説明なしに、いきなり一軒屋に潜んでいるヴァンパイアの一団を退治するところから始まるテンポのいいスタート。あばれるヴァンパイアをワイヤーで日のもとに強引に引きずり出して燃やしてしまうあたりが何気にブルーカラーのノリである。妙にもったいつけないあっけなさが逆に躍動感につながっていて快感。

そう、この冒頭だけでこの映画がどんな映画かはわかる。こいつは西部劇系のアクションであって、おどろおどろしいホラーでは、ない。シーンのつなぎに無駄がなく、省略を利かせつつも丁寧。やはりカーペンター、只者ではない。

とても面白い映画なのだが、ヴァンパイア退治の方法が単調であることが欠点か。杭も十字架もきかないときたら日の下に引きずり出すしかないんだけど、これの繰り返しにばかりであまり工夫がない。あと、想像のつくことだが、せっかくシェリル・リー(ローラ・パーマー!)をキャストしておきながら、登場まもなく敵の大ボスに噛まれ、あとは熱で浮かされたようにうんうんうなっているだけという無駄遣い。女には興味がないのか。

恐怖を期待してはいけないし、アクションのつるべ打ちも期待してはいけない。特別目新しいものもない、それがこの作品だ。だが、この映画にあるアクションのリズムと呼吸がたまらない。映像的なクライマックスは、映画が始まって間もない部分で挿入される、ロードサイドのモテルの大虐殺か。娼婦たちと戯れているバンパイアハンターたちを襲う大ボス。ここはスピード感と血のりの量、有無を云わせぬ迫力で、気がついてみればこれを超える描写は最後まで出てこなかったんじゃないかね。

10/23/1998

Pleasantville

カラー・オブ・ハート(☆☆☆★)

未来は予測がつかないから素晴らしい。そう、心から思いたくなる作品である。

全てが完璧な理想的家族とコミュニティ。火事はなく、雨は降らず、浮浪者はおらず、セックスも知らない。とうぜんエイズはなく、そしてなにより・・「白黒」だ。そんな50年代のテレビ番組 ("Pleasantville") 世界に入り込んでしまった現代の少年・少女らが「無菌状態」のコミュニティに持ちこんでしまった「何か」。それによって変化を強要される町の人々の混乱をコメディタッチで描くファンタジー映画である。

本作は、『ビッグ』、『デーヴ』の脚本化として知られるゲイリー・ロスの、製作・脚本を兼ねた監督デヴュー作。トビー・マグワイア、リース・ウェザースプーンに加え、ウィリアム・H・メイシー、ジョアン・アレン、JT・ウォルシュ、ジェフ・ダニエルズら演技派が脇を固めるキャスティングだ。

この作品、最近良くある懐古趣味かと思えば、そうではない。むしろ、それとは正反対に、変化を受け入れ、その先に進んでいくという価値観を、メッセージとして発信しようとしている作品である。それと同時に、最初の1歩を踏み出すのに必要な勇気についても語っている。そんなストーリーの中で、感情について、個性について、個人の意思についての力強い物語が展開される。

その前提として、「イノセンスの喪失」が語られる。何も知らず、知らないことで平和に、幸せに暮らしていた人々がそうではいられなくなる。エデンの園にもたらされた知恵の実、それがここでは本物の感情だ。テレビの世界に入ったとたんに白黒映画となってしまうこの映画は、町の人々が感情を手に入れるにしたがって色彩を取り戻していく。この映像表現は単純な思いつきに思われるけれども、何とマジカルだ。

ゲイリー・ロスは失われたイノセンスに対する郷愁を描くが、先に述べたように、これは過去をひたすら賛美し、そこに戻ろうとする映画ではない。『ビッグ』を思い出すといい。大人の姿をした主人公と恋に落ちた女性は「子供の世界は、もう一度体験した」といい、最後には彼女自身の属する世界に戻っていったではないか。今回の映画はそこから一歩進めて、我々が得たものについて、我々が得る未来について語ろうとしているように思えるのである。

変化しないのが当たり前であった世界にもたらされた「変化」に直面した人々。予測のつかない将来に対する動揺、恐怖、拒絶、希望などは、そのまま現実を生きるわれわれの姿と重なる。そして誰もが持っている経験-始めての体験に胸を躍らせたり、不安に怯えたりしたことを思い起こさせもする。

出演者はそれぞれに見せ場があり、ここ一番では誰もが最高の魅力を振り撒いている。中でもジェフ・ダニエルズはキャリアで最高の役どころではなかろうか。不安におののきながらも凛として自らを貫く役のジョアン・アレンの繊細な感情表現にも打たれたが、変化を恐れる頑固な保守派を演じて映画を引き締めたJTウォルシュにも喝采だ。

メッセージを声高に主張するのではなく、コメディとしてさりげなく提示するセンスとバランス感覚。それは、ゲイリー・ロスの過去の脚本作品でも証明済みだ。脚本家出身の監督にありがちな律儀さはあるが、本作のテイストはまさしく、彼の脚本作品で感じられたものと同じ。大いにオススメしたい一本である。

Apt Pupil

ゴールデン・ボーイ(☆☆☆★)

ハロウィーンのボックスオフィスには『チャッキーの花嫁』のように血まみれの派手なホラー映画の方がお似合いだ。地味なキャストで死体が一つ、しかも残酷シーンは巧妙に画面の外に押しやって見せたこの作品は観客を呼びこむ訴求力がない。キングのファンも云うだろう、あのシーンがなかった、このシーンもなかった、何であんな結末なのか、分かっていない、物足りない、と。

そう、これは、『スタンド・バイ・ミー』の原作 (“The Body”) も収録されたスティーヴン・キングの傑作中編集「Different Seasons」からの待望ノ映画化作品である。『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガー監督が97年に撮り上げていたが公開が先延ばしになっていたもので、出演はブラッド・レンフロとイアン・マッケランである。

田舎町に住む好奇心の強い優秀な少年が、近所に住むドイツ訛りの老人が実はナチスの戦犯で、アウシュビッツの虐殺などに関与していたことをつきとめる。この「熱心な生徒」は証拠をネタに老人を脅し、過去の体験談を聞き出していく。ユダヤ人虐殺の様子を語るうち、次第に葬り去った過去が蘇ってくる老人と、悪夢にさいなまされながら、何かが変わっていく少年。そういう話である。

この映画は、観客に想像力を要求する作品である。もし、それが可能なら、実はなかなか恐ろしい映画に仕上がっているのではないか、と思う。血のりや殺害シーンなど、グラフィックな恐怖をすべて切り捨てたところに、戦慄が残った。作り手に自信がなければできない判断ではないか。

ブラッド・レンフロとイアン・マッケランは息詰まる演技を見せて完璧である。次第に内部から決定的な変化を遂げていく少年をきっちり演じられるレンフロは、なかなか見所がある。達者な子役から、青年俳優への難しい転換期にあって、この先も期待したいと思う。一方、初めはしょぼくれた老人として登場するマッケランの、やがて発散させる異様に迫力のある凄みも特筆ものである。

これはそんな2人の、「父親と息子」の物語でもある。少年が老人の家に出入りし昔話をせがむ。2人は次第に親しく、小さな秘密を共有するようになる。やがて老人は病に倒れ、少年は大人になる。そんなクリシェを作為的にひっくり返していてみせるのがこの作品。なにしろ少年が老人から継承したのは悪と云う怪物なのだ。

老人の話に聞きほれるうち、少年は怪物に心を蝕まれていく。老人にとってもそれは記憶の底に埋めた過去でしかなかったが、少年に語り聞かせるうち、それは活きた「怪物」になる。二人はお互いを脅す。しかし脅し脅される関係と同時に存在するゲイ・テイストさえにおわせる親密さ。(もちろん、片方がイアン・マッケラン故に、そして、監督がブライアン・シンガーであるがゆえに、その気配は濃厚に漂うのである。)

やがて怪物は「過去」の存在ではなく、現実の「恐怖」となる。怪物は現在の生活を侵食し、やがて少年は心の中に怪物を飼うようになっていく。

原作を随分刈り込んだが、精神的には比較的忠実な脚色だと感じさせる。そこかしこにはっとさせる冴えたサスペンス演出があり、何でもないシーンで画面に力が満ち溢れている。ホラーという言葉やスリラーという言葉でくくりきれないこのドラマは、もしかしたら金曜の晩にひとりで観るのに相応しい。映画館の暗闇が似合う作品だ。

10/19/1998

Holy Man

ホーリー・マン エディ・マーフィはカリスマ救世主(☆☆★)

仕事を失う危機にあるTVプロデューサーは、新たにパートナーを組まされたメディア・コンサルタントとともに、TVショッピング専門局の建て直しを図ろうとするが、そんな折りにであった正体不明の「聖人」を番組に出演させてみたら、彼の本音トークが大当たり。TVショッピングはいつしか宗教的体験の場に変わっていく。

その「聖人」を演じるのはこの男、エディ・マーフィ。

そうなると、大方が期待するのは、マーフィが主演でペテン師かサギ師の似非宗教家を演じ、ジェフ・ゴールドブラム演じるTVプロデューサーの生活を掻き乱す、そんな爆笑コメディなのではないか。ところがこの映画は反対に、主人公ゴールドブラムのもとに素性の分からないマーフィが現われ、仕事と人生に行き詰まっていた中年男の心を開き、魂を救済して去っていく。これはなんだか、出会いと別れ、再生の物語なのである。

脚本は、『いまを生きる』などで知られるトム・シュルマンである。彼が書いた『おつむてんてんクリニック』という作品があって、リチャード・ドレイファス演じる精神科医がビル・マーレー演ずる患者に掻き回され精神的に壊れてしまうという話であった。本作は、どうも、それと表裏一体の構造にある。主人公が壊されるかわり、生を取り戻すのである。

一方、視聴者のいらないものまで売りつける行き過ぎた商業主義の現実を、エディを通じて批判して見せる。それに終わらず、そうしたホンネが逆に大人気を博し、なんと商品の売上が爆発的に伸びたりする顛末は、完全に風刺コメディである。ここのギャグにもう少しキレがあったら、毒があったらなぁ、と思わずにはいられない。

マーフィ演じる「聖人」は、最後まで正体不明であるが、裏が有りそうで、なさそうで、しかしやっぱり裏がない。ビョーキだがピュアな心の持ち主だったマーレイと同じように、このキャラクターも純粋な存在である。力みの抜けたエディ・マーフィは、これこそが新境地といえるような、新しさを感じさせられる。

コメディとしての出来上がりは中途半端に感じるが、ピリッとした批評精神と妙に爽やかな後味、後半に向けた物語の加速感は、捨てがたい。魅力的な失敗作というか、意外な拾い物、としておこう。スティーブン・ヘレック監督作って、その程度の作品が多いんだよな。

10/16/1998

Practical Magic

プラクティカル・マジック(☆)

面白い作品に出会うためには、ともかく沢山の映画をみるしかない。沢山の映画を見るということは、山ほどのクズ映画を見るということに等しい。そして、これはそんなクズ映画の中でも、何をクズと呼べば良いのか確認するためには格好のテキストになるような作品じゃないかと思う次第である。

魔女の血筋にあたる姉妹を主人公に、成り行きで殺してしまった妹の暴力的な恋人をめぐってひと騒動という話である。主演はニコール・キッドマンとサンドラ・ブロック。ダイアン・ウィーストやアイダン・クイン、ストッカード・チャニングらが共演。原作つきの映画化作品で、監督は、俳優としても知られるグリフィン・ダン。ああ、「狼男アメリカン」ノ人ですね。

御伽噺風に始まって、コメディに向かう様相を呈するが、突然MTV調になったり、重いドラマになったりして、気がつくと中途半端なまま恋愛御伽噺として幕を閉じる。この作品の大きな問題と思われる第1のポイントは、これは一体何の映画なのか、軸足が定まっていないことではないだろうか。いや、簡単にジャンル分けされるのを拒む映画にも面白い作品はたくさんあるが、定番を外そうとした努力が裏目に出ているのが本作ではないだろうか。

望みもしないのに不思議な力を手にしてしまった姉妹が世の中に順応しようとするドラマならそういう話にすべきだし、軽い気持ちでその場しのぎの魔法を使ったらとんでもない騒動になるドタバタ・コメディならそういう話にすべきだ。いい男に飢えた姉妹が恋愛がらみで魔法を使って思いがけないしっぺがえしを食いつつも真実の愛を見つけるロマンティック・コメディならそれでいいし、別の魔法使いが現れてサイキック・ウォーズになるならそれも見たいと思う。

でもこの作品は、残念ながらそのどれにも当てはまらないのである。

第二の問題は物語の構成がなっていないこと。時間にして最初の10分を除く全てが拙い。本筋は行き掛かりで殺してしまったニコール・キッドマンの暴力的な恋人を、さすがにまずいと生きかえらせようとしたりしてうろたえるところから始まる。捜査官が現れサンドラが恋に落ちる。ここに到達するまでに映画がどれだけの時間を無駄な描写に費やしたことか。ろくでなし男によるドメスティック・ヴァイオレンスに苦しんでいるはずのニコール・キッドマンがプールサイドで楽しそうに男たちと戯れているサービスカットを撮る前に、描くべきことがあるだろう。

映画はサンドラの2人娘や母親、叔母さんまで登場させて賑やかこの上ないが、基本的には本筋と関係のない必要のないキャラクターたち。恋の本命アイダン・クインも、重要な役割を担うはずなのに、無駄なシーン、無駄な登場人物、無駄な描写のために割を食ってしまい、単なる脇役程度にしか見えない。映画の中で悪役を引き受けるはずのニコールの恋人も、死ぬまでの間にキャラクターを見せる機会が一度もない人形のような扱い。

こんな出鱈目も逆に珍しい。原作に遠慮して脚色に失敗したのか。それを検証するために原作を探しに行くエネルギーも湧いてこないので、ただただつまらない映画の代表としてのみ、記憶に留めることにする。

10/02/1998

What Dreams May Come

奇蹟の輝き(☆☆☆)

不覚にも何度か目頭を熱くさせられた。生と死の狭間を描く異色作である。『丹波哲郎の大霊界』シリーズの笑えないヴァージョンではあるのだが、死んだら驚いた、ってのはこちらも同じだ。

原作はもはや説明のいらないSF作家、リチャード・マシスンで、これをロナルド・バスが脚色、『エイリアン3』の脚本難航中に宗教色を持ちこんだことで有名な男、フレッド・ウォードの監督作品である。ダンテの「神曲」をやろうというのが趣旨らしい。大それたことを考えるものだ。

幼い娘と息子を失い、今度は自らが事故死する主人公。気がつくと、そこは死後の世界で、イマジネーションが現実化したような奇妙さと美しさを湛えていた。一方、現実社会に一人残された妻は、絶望の余り自殺をとげてしまう。主人公は、家族愛のために天国と地獄を駆け巡る。

主演には『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー助演男優賞を受賞したばかりのロビン・ウィリアムス。共演はキューバ・グッディングJR、アナベラ・シオラ、そしてマックス・フォン・シドー。

この映画、最初に異色だと述べたとおり、男女の幸せな出会いと結婚を見せた後、子供二人を交通事故で殺してしまうという驚きに続き、4年後に飛ぶと、不幸を耐え忍び乗り越えつつある夫婦の姿を見せながら、ある記念日のために妻の元へと車を走らせる夫(主人公)が事故に巻き込まれて死んでしまうという、まあ、尋常ではない幕の開け方をするのである。

しかも、事故に巻き込まれた主人公が死ぬシーンは壮絶だ。事故に巻き込まれ、人助けをしようと車を飛び出したところ、スリップしてきた別の車が頭上から降ってきて下敷きになるのである。ここは映像表現としてもちょっとショッキングで、インパクトがある。

しかし、こんな始まり方をするのにかかわらず、この作品は何故だか「ハッピー・エンド」で幕を閉じるのである。なんじゃそりゃ?と思うだろう。いや正直、この奇天烈な脚本に金を出す映画会社は偉いと思うよ。

死後の世界を油絵の中に入り込んだような表現で見せる映像、そしてそれを実現しているVFXが見ものである。黒澤明の『夢』にあったゴッホどころではない。テリー・ギリアムが『バロン』でやったような、動いている絵画のようなイメージの氾濫。嵐の海から亡者の無数の手が伸びてくるような東洋的なイメージも取り込み、映画の背景という背景を埋め尽くしている。これは、他では観たことのない独創的なものだ。

キャスティング的には、本当に多作なロビン・ウィリアムズには新鮮味を感じなかったのだが、十八番というか、安心してみていられるところはある。キューバ・グッディングJr は、ちょっと面白い使い方をされていて、これがストーリー上の「ひねり」になっているのがね、ああ、そんなやり方があったかと、驚きを感じさせられた。

それにしてもなんと言う映画だろう。家族が霊界で再会する話。それだけのことだ。それほど出来がよいわけでもないのに、不思議な感動があり、忘れがたいイメージがある。ともかく、これはものすごく感動的な「怪作」である

10/01/1998

Small Soldgers

スモール・ソルジャーズ(☆☆☆★)

この夏、全米のウォルマート店頭でタイアップ商品であるスモール・ソルジャー人形が山と売れ残った。本来、子供向けに玩具を売るために作った大予算のイベント映画なのに、やたらマニアックでバイオレンスになってPG13のレイティングをくらい、本来ターゲットとすべき観客が見られなくなっちゃったという、冗談のような自体を引き起こした、その監督の名は、ジョー・ダンテ。

しかも、スモール・ソルジャーたちは正義の味方じゃなくて、悪役なんだぜ。やってくれるじゃん、ジョー・ダンテ。ポスターで大々的にフィーチャーし、おもちゃ会社とタイアップを結んでおきながら、この顛末。

どんな映画になっているのか気になっていたが、どこもさっさと上映を終了してしまったので、観ることが出来なかった。近所の入場料が$2の2番館(?)にかかるという情報を掴み、喜び勇んで見に行ったのが大正解。

この映画、こんな話だ。

とある軍需企業が玩具会社を買収。そこで開発中だった「コマンド部隊」人形と「奇形の怪物」人形の両シリーズは、最新のシリコンチップを埋め込んだ、動き回り知能を持ったおもちゃとして完成され、出荷される。田舎町の玩具店に入荷したこれらの人形は、さっそく騒ぎの種になる。愛すべき怪物人形たちと友情を育んだ主人公は、彼らを殲滅すべくプログラムされたコマンド部隊と対決を迫られる。

迫り来るコマンド人形たち。その声を演じるのはアーネスト・ボーグナインとか、ジョージ・ケネディとか、ジム・ブラウンとか、どこの「特攻大作戦」だよというメンツ。それらの腕がもげ、首が飛び、足が台所のディスポーザーで砕けちり、しまいには芝刈り機でみじん切りという、『プライベート・ライアン』も真っ青のバイオレンス。しかも。死んでも死なないこの人形が名台詞、「戦いに敗れても戦争には負けない」!

おもちゃを破壊して遊ぶ極悪ジョー・ダンテの笑顔が目に浮かぶようだ。なんと清々しい。

要は、ダンテの代表作である『グレムリン』のセルフ・リメイクのようなものである。小さな田舎町、ぱっとしない少年、ちょっと素敵な少女(キルスティン・ダンスト!)、故郷に帰りたがる異形の友人(E.T.?)、そして、しつこく小賢しく意外に強力で危険な悪役の集団。観客層を考えてか少年と少女の年齢が下がっているくらいが目立った違いじゃないか。

筋立てでみれば、特に目新しさはない。田舎町での人形大戦争なので、スケール感も欠如している。子供だましと思うかもしれない。だが、ジョー・ダンテの悪ノリ悪ふざけ具合は相当なもので、実は「大きなお友達」こそ楽しめる、まことに怪作という言葉がふさわしい興行的大失敗作である。強力にオススメしたい。