11/06/1999

Being John Markovich

マルコヴィッチの穴(☆☆☆☆)

この物語の一応の主人公は売れない人形遣いである。彼が生活のためにファイル整理の仕事に就くのだが、ある日ファイルキャビネットの裏に奇妙な扉があることを発見する。ドアの向こうには長いトンネルがあって、その先は、なんとジョン・マルコヴィッチの頭につながっていた!という、支離滅裂な不条理コメディであり、風刺激であり、ラヴ・ストーリーだったり、という摩訶不思議な1本。

そう、なんとも奇天烈な作品なのだ。他人の身体の中に意識を宿すというアイディアだけなら珍しいものではない。しかし、この作品は、そこからどんどんと妙ちきりんな深みにはまっていき、いったい物語がどこに向かっているものか、一歩も先が読めなくなっていってしまうのである。

そもそもファイル整理の仕事に就いた主人公の職場が、オフィスビルの「7.5 階」にある、というところでヤラレた感がある。この設定は、話の展開上ほとんど意味がない思いつきの一発ギャグのようにみえて、不条理な世界への入り口として効果的に機能している。エレベーターを強制的に止め、手動で扉をこじ開けないといくことのできない非日常な場所。天井がやたら低くどこかピントのずれた人々が働くフロア。ここだったら、何が起こっても不思議でない。

そもそもというのなら、主人公の職業が「人形遣い」というところ。これも、身悶えする人形などという、前代未聞の思いつきギャグをやりたいからかと思って見ていると、「人形」としての他人の体を内側から操るという話につながっていく。

そこに、「マルコヴィッチ」である。この名前の響き。あの容姿、あのネズミ目。他の誰かでは成立しそうで、成立しない危うさ。これを思いついた瞬間、そして、本人が出演OKした瞬間、「勝った」と思ったことだろう。

劇中、マルコヴィッチのことを「20世紀におけるアメリカの偉大な俳優だ」と説明する主人公だが、「で、どんな映画にでているの?」と問い返されて具体的な作品名が一つもでてこないというシーンがあるのだが、そういう「名前はしってるんだけど?」というポジションも含めて、絶妙な感じがする。

いや、この映画に足を運ぶような観客だったらもちろん、マルコヴィッチといえばあんな作品やこんな作品といろいろ頭に浮かぶだろうし、本作の主人公を演じているのがジョン・キューザックだから、「お前、『コン・エアー』で共演してたじゃん!」などと思うんだけどね。

そのマルコヴィッチご本人、本作において「世間の自分に対するイメージ」を演じるという機会を得て、実に楽しそうに見える。外見によらず、いいやつなのかもしれない。

ジョン・キューザックとキャメロン・ディアズが汚らしい格好で全く冴えないキャラクターを演じている。特に、『メリーに首ったけ』のイメージでしかキャメロンを覚えていない人には唖然とする変身ぶりなのだが、こんな役を嬉しそうに演じている彼女は面白い人だと思う。マルコヴィッチ体験の後での豹変ぶりは笑えて仕方がない。もう一人、個の二人に比べると知名度で劣るが、キャスリーン・キーナーという女優さんが重要な役をやっていて、たいへんに印象に残る。また、「本人役」でいろんなスターや監督がカメオ出演しているのも楽しいところである。

このユニークな脚本を書いたのはチャーリー・カウフマン、監督は、オフビートな作風のミュージック・クリップの演出で知られるスパイク・ジョーンズ。インディペンデントならではのユニークな感覚と世界。商業主義的なアメリカ映画界からこういう作品が飛び出してきて、しかも興行的にも成功してしまうところが、彼の国の映画産業の強みのひとつだよな。

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