2/14/2010

The Disappearance of Haruhi Suzumiya

涼宮ハルヒの消失(☆☆)


まあ、熱心なファンが喜んでいるのなら、それ以上なにかいうことはないのかもしれないが、これ、映画としてはダメだろう。

いや、そのとおりに土台となる小説シリーズがあって、アニメシリーズがあって、かなりの数のファンがついている作品である。だから、単独の映画として成立していなくても、背景説明も、人物説明も、状況説明も、全て省略していても、それを以って失敗作だというつもりはない。むしろ、そんな荒業が可能であることは本作のような(特別な立ち位置を確保した)作品にとっての特権であるとさえいえる。

しかしだね。

だいたい、この程度の内容で2時間40分なんていう尺になるのがおかしいのである。それだけの時間があれば、本作が特権的な立場を利用して切って捨てた「一見さん」に向けた説明を全部リピートしてみせたってまだ時間が余ってしかるべきであろう。ディテールの描写や演出にこだわりすぎるがあまり、あるいは、原作をそのまま完全に移植することに執着するがあまり、細部ばかりが肥大した異様で退屈な作品になっていること、そこが映画としてダメだということなのだ。

だが、TVで垂れ流されることを前提としたTVシリーズよりも、情緒や空気を重視し、長い間をつかった演出が多用されていて、作り手が映画館でかけられる作品であることを意識して作っているのは見て取れるところが面白い。過剰なディテール、高度な作画技術に支えられたキャラクターたちの細かい芝居だって、制約の多いTV作品では実現できないことを見せてやろうという、作り手の熱心さだったり、ファン・サービスだったりの表出なのだろう。

映画館で上映される、映画らしさを備えた、しかし映画としては欠陥だらけの商品。ファンのためのお祭り騒ぎ。そんな作品があっても良いが、なぜこういう作品に集まる観客は、並外れてマナーが悪かったり映画館の常識に欠けていたりするのだろうかね?

0 件のコメント:

コメントを投稿