1/21/2011

The Social Network

ソーシャル・ネットワーク(☆☆☆☆★)

主人公がルームメイトに「Facebook」のアイディアを語るシーンで登場する「カリビアン・パーティ」のイけてなさには本当に涙が出たね。あれほどまでに「自分を入れてくれるようなクラブのメンバーにはなりたくない」という言葉がしっくりくる情景なんて、そうそうあるものではないだろう。

まあ、それはさておくとして。

この映画で描かれているのが事実と違うであるとか、偏った視点からザッカーバーグが嫌な奴に描かれているとか、フェイスブックを作った動機が違うとか、ついでにいえば、脚本家がインターネットもフェイスブックも全く理解しておらず興味すら持っていないとか、女性差別的な思想を持っているとか、そんな議論は全く意味を成さない。だって、まさに「真実は藪の中」なのだから。

この映画は、主人公であるマーク・ザッカーバーグが2つの訴訟を抱えているところを起点に物語の幕を開ける。ひとつの訴訟は、主人公にSNSサービス系のサイト構築を依頼した双子の兄弟で、アイディアの盗用だと訴えている。もうひとつの訴訟の相手は、かつての主人公のルームメイトだ。創業時のパートナーでCFOでもあったが、会社が大きくなる過程で排除されたことを裏切りとして腹を立てている。

主人公を含めた三者それぞれの立場と主張があるわけだが、この映画は、それぞれの主張を通して過去の出来事を順に振り返っていくという構成をとっている。ここでポイントになるのは、あくまで当事者それぞれの「主観」であって、本当にそのとおりだったのかなぞ、分かったものではない、ということだ。頻繁に登場する被写体深度が浅い(特定の焦点があった箇所以外はボケている)映像は、主観性を端的に表現したもののようにも感じられる。映画で見せられたことは、登場人物の誰かにとっての事実であって、それ以上のものではない。挿入されるイケてる乱痴気パーティの光景なんか、主人公の妄想かもしれない。

もっといえば、一応の原作とされるノンフィクションと同時進行で脚本を創り上げていったアーロン・ソーキンの「解釈」と、それを土台に映画に仕立て上げた監督デイヴィッド・フィンチャーの「解釈」とのあいだにも差異がある。そうしたどちらとも受け取れるような微妙なニュアンスは、そのまま作品に反映されている。だから、普通の映画以上に、映画に向かい合う我々観客の側にも解釈の余地がある。そういう映画の意図的な構造がとても面白いし刺激的だ。

同時に、ものすごい密度の会話劇である。フィンチャーは、これをトレント・レズナーの力を借りた完璧な音響と、隅々までコントロールされた完璧な映像で包みこんだ。誰かの発する台詞以上に、その台詞に対するリアクションや、台詞が飛び交う時間と空間が意識されている。21世紀初頭、誰かのアイディアが凄まじいスピードで世界を席巻していく、この時代の空気、コミュニケーションのかたち、この時代を動かす資本主義の断層、この時代そのもの。会話劇でありながら、音と映像でもう一人の主人公である「時代」を表現してみせるフィンチャーの非凡な力量は圧巻である。

そこで描き出される物語は、決して単純なサクセスストーリーなんかではない。これは、孤独な天才の青春と、彼をとりまく人間(=Social Network)たちの織り成す群像劇なのである。この映画を凄い、と思うのが形式や表現であるとすれば、この映画を好きだと感じ、心が動くのはこのドラマゆえである。それぞれの才能、強さと弱さ、痛みと悲しみを抱えた人間たちが、何かものすごい出来事が起こっている渦中の熱狂と狂騒に飲み込まれ、利用し利用され、傷つき、対立するに至る悲喜劇。そして、優れた青春ものの先例にもれず、キャンパス・ライフや社会を貫徹するカルチャーや価値観、ヒエラルキー、それが引き起こす感情についての、客観的であり、批評性を込めた考察にもなっている。事実ではないかもしれないが、何か、確実に真実に近いところに迫っていると思うのは、この映画のそういう側面だったりする。

最後に苦言を呈したいのは、SONYの仕掛けたあまりにも露骨なプロダクト・プレイスメントである。あんなに誰も彼もがVAIOを使っているなんて、妄想でもなければ単なるファンタジーだ。これには正直、反感を覚えた。逆効果としかいいようがないだろ、あれじゃ。

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