4/16/2011

Sucker Punch

エンジェル・ウォーズ(☆☆★)


ザック・スナイダーが妄想力を爆発させて自分の好きなものを詰め込んでみせた『エンジェル・ウォーズ』は、思ったほどつまらなくもなかったが、いわれるほど面白いとも思わない。

話の構造は複雑である。現実世界で妹だか姉だかを殺した罪を背負わされて精神病院に閉じ込められ、ロボトミー手術をされそうになっている少女がいる。この少女の妄想では、精神病院が猥雑なショークラブを兼ねた娼館となり、治療の一環として行われている演劇は見世物としてのショーとなる。自分を含めた患者は、自由を奪われ性的な接待を強要される娼婦だ。映画のほとんどは、この妄想の第一階層とでもいうべき「娼館」を舞台に、仲間同士が協力しあってここを抜け出そうとする自由への戦いとして描かれていく。

妄想の第一段階において重要な作戦を実行する際、主人公である少女が「踊る」ことで周囲の注意をひきつけるという描写がある。ちなみに、この「踊り」はあからさまに性的な行為のメタファーであり、現実世界ではそうした行為が行われていることが暗示されている。が、レイティングに考慮して明示的には描かれていない。それはともかくとして、この少女が「踊る」あいだ、妄想の第二段階が発動する。踊っているあいだ、少女とその仲間は、スコット・グレン演じる「賢者(Wise Man)」に導かれ、サムライ+SF+戦記ゲーム調の世界でミッションを完遂すべく、戦闘少女アニメ風の衣装を身にまとい、日本刀やロボット兵器で激しいバトルを繰り広げていく。

第二段階の妄想である「戦場」を戦い抜き、5つの鍵となるアイテムが揃ったとき、少女たちは「娼館」を抜け出して自由を勝ち取るのだ。ロボトミー手術により記憶や感情を失う前に、精神病院から脱出することができると信じて。

現実(精神病院)・妄想第一段階(娼館)・第二段階(アニメ&ゲーム風の戦場)、というのが本作の構造である。しかし、さらに観客をはぐらかすかのように、エンドクレジットではなぜか主要キャストが舞台で踊り歌う姿が映し出されるのである。そして、全てが舞台上で展開されたショウ、虚構であるという可能性も提示される。精神病院の舞台で演じられている「ショウ」に、ロボトミー手術の場面があることが、そうした解釈を後押しする。

本作の底流にある「想像力がつらい現実を生き抜くための唯一のよりどころになる」という話は、過去にも幾度となく描かれてきたものではあるが、想像力の産物たる映画を暗闇で鑑賞することに喜びを見出す我々観客の琴線に触れるテーマであって、本作の面白いところである。また、現実と虚構を複雑に交差させた物語の構造も、唯一無二のユニークさというわけではないとはいえ、なかなか面白い。また、物語としての落ちのつけ方も少々ヒネリがあって面白い。

しかし、本作の表面的な「売り物」であるところの、妄想世界におけるバトル・シークエンス、ミッション遂行のプロセスの映像表現が決定的につまらない。もしかしたら、小さなテレビ画面でみたらそこそこ面白いのかもしれないが、TVゲームのCGI映像の枠を出ておらず、「アクション」になっていないし、映像表現に凝るばかりでミッション遂行に欠かせないはずのスリルもサスペンスもなにもない。この一連のシークエンスに関していえば、ストーリー的には、あるいは、ストーリーを語るという観点からは、まったく無価値の時間である。妄想世界が展開してストーリーが進むのではなく、妄想世界に入るたび、無用にストーリーが弛緩し、停滞するのだ。

また、このシークエンスが現実(もしくは妄想第一段階)で行われている行為のメタファーとしてシンクロしているはずなのだが、そのシンクロ具合がよく見えない。たとえば鍵を入手する、地図を入手するといった「ミッション」が、どういうかたちで妄想世界に置き換えられているのかが明確につながると、「燃える」のだが、実際のところ踊っている間に妄想バトルが展開し、きがついたらミッション完了となっている。これは、先に指摘したスリルやサスペンスの欠如とも同根の問題で、本作がつまらない最大の理由といえる。繰り返される停滞した時間の退屈さにはひたすら腹が立った。

そんなわけで、本作、予告編を見て創造してたほどつまらなくもなかったのだが、キリヤ君あたりが作っているものより知性と志を感じるというレベルの話であって、細部のビジュアル表現に楽しみを見出せない限りは辛い作品というほかない。本作をフリーハンドで作り上げたザック・スナイダーは、『ガフールの伝説』と続けて興行的な失敗となったこともあるのだが、予定される次作(スーパーマンの新作)で監督としての真価を見せねばならない正念場にあるだろう。

Cannonball Wedlock (婚前特急)

婚前特急 (☆☆★)


一癖もふた癖ある男女がひと悶着起こしたりいがみ合ったりしながら、気がついてみたら互いに惹かれあっていく、という類の映画はハリウッドの大定番であって、当方も昔から好物にしているものだから、和製スクリューボール・コメディだという本作の評判を聞きつけて、とりあえず観る気をそそられた。

同時に5人の彼氏をとっかえひっかえしながらお気楽に恋愛を楽しんでいる主人公が、友人の結婚を機に彼氏の査定と整理をしようとして始まるお話しである。普通のスクリューボール・コメディだと、観客にとってカップルになる主演の男女は自明なのだが、、映画が始まった時点では、(実際のところ、映画がある程度進んでいくまでは)主演女優と対になる相手が誰なのか、明確に示されない点で、変化球である。しかし、スクリューボールの変化球、というのも馬から落ちて落馬したみたいな話だな。

で、その変化球の部分が本作の面白いところではある、と思う。なにせ、「相手役」ってのが、通常のロマンティック・コメディでは絶対に相手役にならないようなキャラクターなので、本当にそういう方向に話が転がっていくのかどうか、懐疑的になりながら観るというのもスリリングだし、それがもたらす「すっとぼけ」な感じも本作の面白いところだ。

でも、ちょっとテンポがのろいんだなぁ。それに、話の帰結には唐突感がある。「イヤな」ヒロインの表面には見えていなかった魅力や、そういう「イヤ」な行動をとってしまう理由なんかも踏まえながら、「人間」としての成長が描けていたら違っていただろう。相手の男もそうだ。いろいろ揺れる複雑な気持ちみたいな部分がそっくり欠如しているので、なんで突然ヒロインになびくのか、さっぱり理解できない。

こういう展開なら、ヒロインはハートブレイクなままで終わったほうが自然だ。つまり、いやな女なんだから、その代償は払うべきである。男はお嬢さんに惚れたまま結ばれてハッピーエンド、にするほうが自然だ。その上で、ヒロインの気持ちを察したお嬢さんは自分に夢中で周りの見えていない男を諭してヒロインを慰めにいかせ、ヒロインは自分の非を認めて新たな出人生に向かい合っていく、、というエンディングになるんじゃないのだろうか。

評判では吉高由里子がいいっていうのだけれど、正直、それはちょっとどうなんだろうか。演技が硬いし、鼻にかかったい歩本調子の声も魅力がない。フィジカルに良い動きを見せているシーンもあるから、コメディエンヌとしての将来性までは否定しないけれど、本作レベルで褒め倒すのは違うだろう。本作の脚本が描ききれていない、「イヤ」な女の裏側にある本当の魅力を演技でカバーして見せろっていうのも荷が重いのだとは思うが、それができちゃうのがスターってもんだろう。なんか、小動物がくるくる動いてるから可愛い、っていうレベルではちょっとなぁ。

一方、浜野謙太はすごい。何だ、この存在感と自然体は。和製ザック・ガリフィアナキスになれるんじゃないのか?衝撃的に面白いのだが、ミュージシャンが本業っていうからまたびっくりだ。

4/02/2011

The Fighter

ザ・ファイター(☆☆☆★)

ボストンの北西50キロ、メリマック川沿いに開かれたマサチューセッツ州第4の歴史的な(つまりは斜陽の)工業都市、ローウェルを舞台に、実在のボクサーであるミッキー・ウォードが噛ませ犬状態から抜け出して世界チャンピオンになるまでを、家族の絆と葛藤を軸にして描いた作品である。

感動?心を打つ?熱くなる?まあ、そういう映画としてみることはできる。もちろん、ボクシングが好きな人には、かなり実際の試合の再現度が高いなどといった見所も多い、らしい。・・・・のだが、当方、そんなことよりなによりもなによりも、「化け物屋敷の中に一人だけ、普通の兄ちゃんが迷い込んでしまった」映画として、変な楽しみ方をしてしまった。

普通の兄ちゃんとは、本作の主演、マーク・ウォルバーグである。

一方の化け物とは強烈な怪演を互いに競い合うクリスチャン・ベール、メリッサ・レオであり、普段とは違った役柄を熱演するエイミー・アダムスであり、観るに耐えないクズっぷりを演じてみせる主人公の(父親が一緒だったり違ったりする)7姉妹役の女優たちだ。

ご存知の通り、「化け物」たちのなかから3人がアカデミー賞にノミネートされ、2人が受賞。それも、いい演技というのじゃなくて、強烈な演技だ。

本作が怪演づくめになるのもさもありなん、と思う。なぜなら、主人公をとりまく人々が、ともかく凄まじいのである。『ミリオンダラー・ベイビー』のときも、家族のクズっぷりを容赦なく描く脚本と演出に仰け反った。が、こっちは実話だ。しかも、実在の人物らが役作りやらなんやらに協力している。普通、こんな描写をされて、OK出すか?というレベルで、ありのままといえばそうなのかもしれないが、社会の底辺で生きるどうしようもない人々の姿がリアリズムで活写されるのである。

もちろん、そもそも同じような階層を出自とし、実在のミッキー・ウォードをローカル・ヒーローとして崇めるウォルバーグ自らがプロデュースも手掛けた本作である。こうした社会の底辺で生きる人々に対して向ける視線は決して冷たいものではない。冷たくはないのだが、綺麗ごともない。その描写は、笑っていいものなのやら、頭を抱えていいものやら、唖然呆然といったところである。まあ、どちらかといえば笑っていいんじゃないだろうか。いや、そうやって見るほうが絶対に楽しい。

メリッサ・レオ演ずる大迫力の母親は、男を取り替えながらうじゃうじゃ子供を作って、強圧的に家族を支配している。アイリッシュ系のカトリックだから余計、貧乏人の子沢山ということなんだろう。無学な7人姉妹は、いい年して一体何で生計を立てているのかわからない。いつも母親のうちでグダグダたむろして、エイミー・アダムス扮する主人公の恋人を罵っているのだが、「お前らこそどうなんだ!」と問い詰めたくなるウザさ。この姉妹が連れ立ってエイミー・アダムスのところに殴り込みをかけるシーンは全編でも最高の笑いどころ、ともいえる。

クリスチャン・ベールが演じているのは、元ボクサーで主人公に手ほどきをした腹違いの兄貴。この男、ひがなクラック・ハウスに入り浸りのヤク中で、HBOが作ったヤク中ドキュメンタリーの題材になっている。母親がクラック・ハウスに乗り込んでくると、あわてて裏の窓から飛び降りて逃げるさまは、いい年してどこかの悪ガキそのものだ。金が必要なら作ってきてやる、と、仲間に協力させて詐欺・恐喝に走るようなバカ兄貴は、ベールの演技によって面白おかしくなっている部分があるとはいえ、とことん迷惑な人間なのだ。

要は、なんだかんだで、主人公のファイトマネーにぶら下がっている面倒な家族が、「お前を守ってやっている」とか何とかいいながら、一番の足かせとして主人公の足をひっぱっている構図なのである。少しはまともな人間である父親や恋人は、主人公を家族から切り離そうとする。しかし、家族への情が厚い主人公は、そう単純に割り切ることもできないし、主人公を知り尽くした兄貴のアドバイスやサポートも必要としている。

本作の、ドラマとしての面白さは、むちゃくちゃな家庭環境に置かれた主人公の、家族との絆や愛憎、葛藤の部分にある。主人公と、それをとりまく人々の対立や反目が、夢の世界チャンピオン奪取というひとつの目標に向かって、休戦から共闘へと変わっていくところが推進力となって映画を盛り上げていく。そのドラマ運びの巧さには、格闘技好き如何を問わず載せられることは間違いない。

当初の予定通りダーレン・アロノフスキーが撮っていたら、どんな映画になっていただろうか、と想像するのも面白い。本作で本当に賞賛されるべきは、このプロジェクトに粘り強く取り組み、最終的にはデイヴィッド・O・ラッセルを表舞台に連れ戻し、共演者たちに華を持たせ、自分は黙々と体作りと誠実な演技に取り組んだマーク・ウォルバーグなのだろうと思う。