告発のとき(☆☆☆★)
イラクに派兵されていた息子が帰国後まもなく無許可離隊・失踪したとの連絡を受けた父親。軍警察での経験を活かして自らの手で捜査を始めた彼だったが、そのかいもなく、無残な姿で発見された息子と対面する。地元警察と軍警察の狭間で息子の死の真相を探るうち、誇りと愛国心に満ちていた男の目に、イラク戦争を通じて変質した米国の今が映し出されていく。出演はトミー・リー・ジョーンズ、スーザン・サランドン、シャーリーズ・セロン。ポール・ハギス脚本・監督。
この映画は失踪した息子の謎を、これまでも数々の作品で「追跡する男」を演じてきたトミー・リー・ジョーンズが追うミステリーとして幕を開ける。ほどなくして息子の無残な死が明らかになったあとも、誰が殺したのか、なぜそのようにして殺されなければならなかったのかを縦糸に、最後まで「ミステリー映画」のフォーマットから逸脱することなく、寸分の迷いも感じさせぬ足取りで、物語が語られていく。「告発のとき」などという邦題は、「ミステリー映画」というより「法廷映画」だろう、という意味で、つけた人間の言語センスが疑われる。
軍組織の壁に阻まれながらも事実を積み上げ真実に迫っていくトミー・リー・ジョーンズは、『逃亡者』&『追跡者』で決定的としたイメージに、つい先日公開されたばかりの『ノー・カントリー』の余韻も重ね、完璧である。プロフェッショナルなたたずまいに、押し隠した胸のうちが透けて見える、そんな繊細な感情表現を、おなじみの仏頂面で「礼節と規律を重んじる軍人上がりのまじめな男」というキャラクターを、パンツに折り目をつけたり靴をそろえたり、あるいは「トップレスの女性(すら)も ma'am」と呼称するなどの細かな所作を積み上げて肉付けしていく丁寧な演出も光る。
しかし、この映画のポイントは、ミステリー仕立てのなかで浮き彫りにされる米国の病にこそある。国家の都合と欺瞞で戦場に送り込まれ、人間性を崩壊させた若者たち。盲目的な愛国心を笑うのでなく、いかんともしがたい格差や貧困を嘆くのでなく、それを利用し、そこにつけこみ、大義のない戦争に駆り立てた責任を誰が背負うのか。そして、傷つき変質した社会を誰が癒すのか。この映画は、主人公が南米移民の用務員に星条旗の掲げ方を指南するエピソードで、それを象徴的かつ印象的に表現して見せた。国家は内なる危機に瀕しており、すでになす術を持たない状況だと。誰かの救いの手を待つしかない、そういうことなのだろうか。
ポール・ハギスの名声を確立させた監督作『クラッシュ』は、現実の厳しさを小さな奇跡によってファンタジーに昇華させ、かすかな希望の余韻を残して幕を閉じた。しかし、この作品に希望はない。主人公の信じた正義、主人公が誇りに思った米軍、無条件に愛した米国という国家は、幻想だったとまではいわずとも、失われて久しいものであるとの現実認識に至る悲痛な物語であるからだ。その重さは、いくらこの作品が「ミステリー映画」の骨格を借用していようとも失われることはない。それがこの映画の美徳であり、欠点でもある。ポール・ハギスの誠実な仕事には敬意を表すが、一方で、彼の生真面目な資質は、多くの観客にとって、この映画への敷居の高さにつながるだろう。また、何度も見たい映画か?と問われたら、その生真面目ゆえの重苦しさに「一度でいいや」と思わせてしまうところもある。
田舎町で生活のために仕事を続けているシングル・マザーの刑事を演じたシャーリーズ・セロンは好演しているが、映画の中での扱いの大きさのわりには見せ場がなく、残念。偽サインを見破るだけでは、ちょっとどうかと思うのだ。また、主人公の息子の軍における仲間を演じた若い役者たちは平坦で印象に残らない。戦場で撮影された動画ファイルを復元しながらストーリーを引っ張っていくアイディアは秀逸だったが、「息子」が傍観者ではなく当事者の一人でもある状況での撮影は作為的だと思うし、動画へのノイズ混入が激しすぎて何が映っているのかわかりづらく、期待通りの効果を出せていないのではない。
6/29/2008
6/14/2008
Indeana Jones and the Kingdom of Crystal Skull
インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国(☆☆☆★)
冷戦下、超能力研究も進めるソビエト連邦は、神秘の力を持つと考えられるクリスタル・スカルを追い、ロズウェル事件の調査にも関わったインディアナ・ジョーンズ博士に協力を強要する。すんでのところを脱出したインディは拉致された旧友が残した手がかりをもとに、黄金都市の謎に迫っていく。現実で経過したした時間にあわせ、50年代に設定と舞台を移したシリーズ復活作は、50年代の冒険活劇として王道の記号を散りばめてみせる。ナチスに変わるのはソビエト連邦であり、超自然的オカルトアイテムにもUFOとリトル・グレイの影がちらつく。人間が作り出したとてつもない破壊力の象徴は、ネバダの実験場で炸裂する核爆弾だ。してみると、クライマックスではそれを凌ぐオカルト・パワーが炸裂することは、むしろ必然。そのこと自体には全く抵抗がないのだけれど、どうも世間の受けは良くないようで。
そもそもスティーヴン・スピルバーグが志向するオールド・ファッションな冒険活劇と、ジョージ・ルーカスがこだわった50年代B級SFi 風味が噛み合っていない、という指摘は、スピルバーグが最後までその展開に乗り気しなかったという事実を暴露されたといっても、あまり意味がないことのように思われる。だいたい、このシリーズは人知を超えたオカルトをネタとしてきたわけで、今回の事件もその範疇を超えてはいないのではないか。ただ、かつての3部作は、人知を超える力の「源」までは言及することなく曖昧にしてきたから、それを見せてしまう今回は少し無粋だとは思う。
とにもかくにも、懐かしい音楽に乗って、懐かしいヒーローが銀幕に戻ってくるのだから、とやかく言わず楽しむのが吉、という文脈でしか評価されない宿命にある一本だろう。ちょうど、北米版で出揃ったDVD版『ヤング・インディアナ・ジョーンズ』シリーズを見ていたところだったので、「妙にお堅くて遊び心にかける件のシリーズと比べれば、観客が求めているインディはこうでなくちゃなぁ」と思って、素直に喜んでしまった私なぞは得をした気分である。これは、やはりそういう観客にむけた同窓会的お祭り映画なんだろう。出演できない俳優たちをいろいろな工夫で登場願っているあたり、正しい配慮だ思う。今回登場しなかったキャラクターは、ぜひ次回作で。やるんでしょ?どうせ。
なんだかんだといって肯定論者の当方ではあるが、数多くの一流どころの手を経てデイヴィッド・コープの手で整理整頓された脚本は、文字通り、さまざまな脚本家が残した断片をつなぎ合わせた印象であることには違いがない。スピルバーグの手腕と相まってその場の刺激や興奮を作り上げることには成功しているが、いろいろな要素が有機的に絡み合ってこないから、残念ながら、物語としての面白さには欠けている。背負ってしまった「看板」の重さやそれぞれに我の強いステイクホルダーのことを思えば、こういう脚本にならざるを得ないのは理解できるが、これでは、何人ものスクリプト・ドクターの手を借りて完成される無個性な大作映画とかわらない。まあ、自身の監督作はともかく、脚本家としてのデイヴィッド・コープの得意なことって、まさにこういう状況でのツギハギ仕事にあるわけで、空中分解しかけたプロジェクトをゆだねる相手として、彼の起用は正しい判断のかもしれぬ。
スピルバーグの演出は、相変わらず幼稚で悪趣味で、下手な誰かが取ったら面白くもなんともないようなアクション・シークエンスをスリル満点ユーモアたっぷりのジェットコースターライドに変えてしまうのだから恐れ入る。もともと雇われ仕事の気楽さで始めたこのシリーズ、今回もよい息抜きになったのではないか。今回は撮影の担当が、さすがに高齢で引退済のダグラス・スローカムに変わって、近年の盟友であるところのヤヌス・カミンスキーに変わっているのだが、スピルバーグと組むと暗く重たいカミンスキーも自らのタッチを封印、スローカムが作った明るくコミックっぽいルックスに近づけようと最大限の努力をしているというのが伝わってくるところが可笑しい。
冷戦下、超能力研究も進めるソビエト連邦は、神秘の力を持つと考えられるクリスタル・スカルを追い、ロズウェル事件の調査にも関わったインディアナ・ジョーンズ博士に協力を強要する。すんでのところを脱出したインディは拉致された旧友が残した手がかりをもとに、黄金都市の謎に迫っていく。現実で経過したした時間にあわせ、50年代に設定と舞台を移したシリーズ復活作は、50年代の冒険活劇として王道の記号を散りばめてみせる。ナチスに変わるのはソビエト連邦であり、超自然的オカルトアイテムにもUFOとリトル・グレイの影がちらつく。人間が作り出したとてつもない破壊力の象徴は、ネバダの実験場で炸裂する核爆弾だ。してみると、クライマックスではそれを凌ぐオカルト・パワーが炸裂することは、むしろ必然。そのこと自体には全く抵抗がないのだけれど、どうも世間の受けは良くないようで。
そもそもスティーヴン・スピルバーグが志向するオールド・ファッションな冒険活劇と、ジョージ・ルーカスがこだわった50年代B級SFi 風味が噛み合っていない、という指摘は、スピルバーグが最後までその展開に乗り気しなかったという事実を暴露されたといっても、あまり意味がないことのように思われる。だいたい、このシリーズは人知を超えたオカルトをネタとしてきたわけで、今回の事件もその範疇を超えてはいないのではないか。ただ、かつての3部作は、人知を超える力の「源」までは言及することなく曖昧にしてきたから、それを見せてしまう今回は少し無粋だとは思う。
とにもかくにも、懐かしい音楽に乗って、懐かしいヒーローが銀幕に戻ってくるのだから、とやかく言わず楽しむのが吉、という文脈でしか評価されない宿命にある一本だろう。ちょうど、北米版で出揃ったDVD版『ヤング・インディアナ・ジョーンズ』シリーズを見ていたところだったので、「妙にお堅くて遊び心にかける件のシリーズと比べれば、観客が求めているインディはこうでなくちゃなぁ」と思って、素直に喜んでしまった私なぞは得をした気分である。これは、やはりそういう観客にむけた同窓会的お祭り映画なんだろう。出演できない俳優たちをいろいろな工夫で登場願っているあたり、正しい配慮だ思う。今回登場しなかったキャラクターは、ぜひ次回作で。やるんでしょ?どうせ。
なんだかんだといって肯定論者の当方ではあるが、数多くの一流どころの手を経てデイヴィッド・コープの手で整理整頓された脚本は、文字通り、さまざまな脚本家が残した断片をつなぎ合わせた印象であることには違いがない。スピルバーグの手腕と相まってその場の刺激や興奮を作り上げることには成功しているが、いろいろな要素が有機的に絡み合ってこないから、残念ながら、物語としての面白さには欠けている。背負ってしまった「看板」の重さやそれぞれに我の強いステイクホルダーのことを思えば、こういう脚本にならざるを得ないのは理解できるが、これでは、何人ものスクリプト・ドクターの手を借りて完成される無個性な大作映画とかわらない。まあ、自身の監督作はともかく、脚本家としてのデイヴィッド・コープの得意なことって、まさにこういう状況でのツギハギ仕事にあるわけで、空中分解しかけたプロジェクトをゆだねる相手として、彼の起用は正しい判断のかもしれぬ。
スピルバーグの演出は、相変わらず幼稚で悪趣味で、下手な誰かが取ったら面白くもなんともないようなアクション・シークエンスをスリル満点ユーモアたっぷりのジェットコースターライドに変えてしまうのだから恐れ入る。もともと雇われ仕事の気楽さで始めたこのシリーズ、今回もよい息抜きになったのではないか。今回は撮影の担当が、さすがに高齢で引退済のダグラス・スローカムに変わって、近年の盟友であるところのヤヌス・カミンスキーに変わっているのだが、スピルバーグと組むと暗く重たいカミンスキーも自らのタッチを封印、スローカムが作った明るくコミックっぽいルックスに近づけようと最大限の努力をしているというのが伝わってくるところが可笑しい。
6/07/2008
21
ラスベガスをぶっつぶせ (☆☆☆)
この映画の原題は『21』である。これは、エースを「11」、絵札を「10」として数字を合計し、「21」を超えない最大の数が勝つというブラックジャックのルールに由来するものだ。ブラックジャックというゲームでは、どういう状況のときにどうプレイすべきか、統計学的に有利と考えられる基本戦略がある。それに忠実であれば、あくまで確率の話だが、それほど負けが込むことを避けられるはずである。そういう性質のゲームであるから、確率を自分の味方につけるべく、さまざまな方法が研究された。ゲームでカードが配られる毎にデッキに残った未使用カードの種類に偏りが生じ、確率的な有利不利もそれにつれて変化する。映画好きなら記憶にあるであろう、『レインマン』ではダスティン・ホフマン演ずるレイモンドが場に登場したカードを全て記憶、残りカードを把握することによってプレイを有利に進めて大勝するという描写があった。あれは特殊な設定で、かつ、誤解を招きかねない大げさな描き方が成された例であるけれども、この映画の主人公であるMITの学生たちが試みるのも基本的には同じことである。全てのカードを記憶する代わりに、場に現れたカードを独特のカウント方法によって「数え」ていく (= card counting) ことで、残りカードのコンディションを推測しようとするものである。プレイヤーに有利な状況だと判断すれば仲間を呼び込み、掛け金を増やすなどの積極策で打って出る。不利な状況であれば消極策で損失を減らすという「作戦」だ。
この話は、実際の事件に材を撮ったベン・メズリックの原作("Bringing Down the House")を元にしており、M.I.T. に入った貧乏学生が、"card counting" を教え込んだ優秀な学生たちを使って荒稼ぎを繰り返している「教授」の誘いにのり、次第に深みにはまっていくというものだ。映画はここに「自らの欲望を満たすために悪魔に心を売った主人公が味わう絶頂と絶望、友情と葛藤、再起と成長」という大定番のプロットを見出して再構成、淡い恋模様を交えて、スリルと苦味を伴う青春映画の佳作に仕上げて見せた。実際はアジア系の学生が多かったはずの主人公グループを白人主体のグループとして描いたことで物議を醸したが、実話に題材を求めた娯楽映画、商業映画という観点からは非難に値するほどのものでもあるまい。ギャンブルと裏世界の青春といえば、マット・デイモンとエドワード・ノートンが共演する変化球的佳作『ラウンダーズ』も記憶に新しいが、こちらの方がより定型的な教訓を含んだハリウッド青春映画を志向している。それもまた、小説より奇なる実話を単純化して台無しにしたとの非難を受ける理由には違いないのだろうが、定番(フォーミュラ)の強靭さをナめてはいけない。そこには長い年月に渡ってテストされ続けてきたストーリーテリングのエッセンスが凝縮されているのだから。
主人公を演じるのは、『アクロス・ザ・ユニバース』でも注目を集めたジム・スタージェスで、数学の天才に見えるかどうかは別として、ロボット・コンテストに夢中になっていそうなgeekには見えるし、学費を貯めるために手を染めた「悪事」にはまり、人間性が変わっていくさまをそれなりの説得力と魅力で演じていて、ブレイクが近いことを伺わせる。ヒロインに抜擢されたのは『ブルークラッシュ』が印象に残るケイト・ボスワースで、『Legally Blonde (キューティ・ブロンド)』で名をあげた本作の監督、ロバート・ルケティックとは『Win a Date with Tad Hamilton! (アイドルとデートする方法)』に続く2度目の顔合わせだ。そういう若いキャストを誘惑するメフィストフェレスを演じるのは、本作のプロデュースも務めるケヴィン・スペイシーである。まあ、彼が得意なタイプの役柄で、なんら想像の範疇を超えることもないが、この胡散臭い役柄を軽く演じて若手の役者たちとのキャリアの違いを見せつけている。カジノ側でイカサマ摘発に血道をあげる強面の男をローレンス・フィッシュバーンが迫力たっぷりに演じてここでの役割を全うしている。複数エンディングが撮られたというが、劇場公開版はいかにも米国的な強かな生き方をパンチと皮肉が効いたタッチで決めて、なかなか鮮やかである。
この映画の原題は『21』である。これは、エースを「11」、絵札を「10」として数字を合計し、「21」を超えない最大の数が勝つというブラックジャックのルールに由来するものだ。ブラックジャックというゲームでは、どういう状況のときにどうプレイすべきか、統計学的に有利と考えられる基本戦略がある。それに忠実であれば、あくまで確率の話だが、それほど負けが込むことを避けられるはずである。そういう性質のゲームであるから、確率を自分の味方につけるべく、さまざまな方法が研究された。ゲームでカードが配られる毎にデッキに残った未使用カードの種類に偏りが生じ、確率的な有利不利もそれにつれて変化する。映画好きなら記憶にあるであろう、『レインマン』ではダスティン・ホフマン演ずるレイモンドが場に登場したカードを全て記憶、残りカードを把握することによってプレイを有利に進めて大勝するという描写があった。あれは特殊な設定で、かつ、誤解を招きかねない大げさな描き方が成された例であるけれども、この映画の主人公であるMITの学生たちが試みるのも基本的には同じことである。全てのカードを記憶する代わりに、場に現れたカードを独特のカウント方法によって「数え」ていく (= card counting) ことで、残りカードのコンディションを推測しようとするものである。プレイヤーに有利な状況だと判断すれば仲間を呼び込み、掛け金を増やすなどの積極策で打って出る。不利な状況であれば消極策で損失を減らすという「作戦」だ。
この話は、実際の事件に材を撮ったベン・メズリックの原作("Bringing Down the House")を元にしており、M.I.T. に入った貧乏学生が、"card counting" を教え込んだ優秀な学生たちを使って荒稼ぎを繰り返している「教授」の誘いにのり、次第に深みにはまっていくというものだ。映画はここに「自らの欲望を満たすために悪魔に心を売った主人公が味わう絶頂と絶望、友情と葛藤、再起と成長」という大定番のプロットを見出して再構成、淡い恋模様を交えて、スリルと苦味を伴う青春映画の佳作に仕上げて見せた。実際はアジア系の学生が多かったはずの主人公グループを白人主体のグループとして描いたことで物議を醸したが、実話に題材を求めた娯楽映画、商業映画という観点からは非難に値するほどのものでもあるまい。ギャンブルと裏世界の青春といえば、マット・デイモンとエドワード・ノートンが共演する変化球的佳作『ラウンダーズ』も記憶に新しいが、こちらの方がより定型的な教訓を含んだハリウッド青春映画を志向している。それもまた、小説より奇なる実話を単純化して台無しにしたとの非難を受ける理由には違いないのだろうが、定番(フォーミュラ)の強靭さをナめてはいけない。そこには長い年月に渡ってテストされ続けてきたストーリーテリングのエッセンスが凝縮されているのだから。
主人公を演じるのは、『アクロス・ザ・ユニバース』でも注目を集めたジム・スタージェスで、数学の天才に見えるかどうかは別として、ロボット・コンテストに夢中になっていそうなgeekには見えるし、学費を貯めるために手を染めた「悪事」にはまり、人間性が変わっていくさまをそれなりの説得力と魅力で演じていて、ブレイクが近いことを伺わせる。ヒロインに抜擢されたのは『ブルークラッシュ』が印象に残るケイト・ボスワースで、『Legally Blonde (キューティ・ブロンド)』で名をあげた本作の監督、ロバート・ルケティックとは『Win a Date with Tad Hamilton! (アイドルとデートする方法)』に続く2度目の顔合わせだ。そういう若いキャストを誘惑するメフィストフェレスを演じるのは、本作のプロデュースも務めるケヴィン・スペイシーである。まあ、彼が得意なタイプの役柄で、なんら想像の範疇を超えることもないが、この胡散臭い役柄を軽く演じて若手の役者たちとのキャリアの違いを見せつけている。カジノ側でイカサマ摘発に血道をあげる強面の男をローレンス・フィッシュバーンが迫力たっぷりに演じてここでの役割を全うしている。複数エンディングが撮られたというが、劇場公開版はいかにも米国的な強かな生き方をパンチと皮肉が効いたタッチで決めて、なかなか鮮やかである。
The Magic Hour
ザ・マジック・アワー(☆☆☆★)
演劇的だといわれ続けてきた三谷幸喜の監督作品だが、各方面で大活躍の多忙な売れっ子でありながら、1997年の監督デビュー作『ラヂオの時間』、 2001年の『みんなのいえ』、2006年の『The 有頂天ホテル』、そして本作と作品を継続的に発表、実績を積み上げてきていることで、映画への取り組みが本気であることを示すと同時に、彼のつくる映画のスタイルそのものが、ひとつの立派な個性として確立してきた感がある。こぢんまりとした初期2作の佇まいに比べると、『The 有頂天ホテル』以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。と、同時に、彼なりの視点と手法で巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきている。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体・再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現のしかたを思いつかない世界ができあがってくるのである。我々は、彼の映画がそういう作品になっていることを了解のうえ、むしろ、それを積極的に楽しもうと劇場に足を運ぶのだ。
監督4作目となる本作では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて街を牛耳るギャングと、「殺し屋役」として雇われた三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇をやらかしている。もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんでくださいね」という「ごっこ遊び」であることは、本作を演劇的といわせる最大の要素であるのはいうまでもない。もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つがこれほどにないまでにわざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。
しかしその一方で、大掛かりなセットのなかを自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないのであろうかつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのである。この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的なごっこ遊び世界という観点で、本作はこれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では三谷幸喜が作ってきた路線のひとつの到着点であると思う。
しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのがうまい。だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話しと、人工的なセットのなかで「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうものである。次々に登場する華やかな役者たちの贅沢な使い方も見所である。彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他作品では見られないような表情を引き出したてみせるあたりの技は、いうまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後語り草になるであろう佐藤浩一のコミカルな一面や、(私にとってあまり好きになれない役者の筆頭である)西田敏行を前作に続き脇で巧みに使いこなしているところなど、見所、笑いどころが満載である。
ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては少々長すぎるのである。何もかも詰め込んで楽しませてやろうというサービス精神はまことに立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは「勘違い」としか言いようがない。勘違いしてほしくないのだが、私自身コメディ好きで、「ドタバタコメディ」を一段低く見ているわけではない。ジャンルによって、適切な尺というのがあるはずだといっているだけである。それに、「136分」というのは、コメディに限らず「長い」映画の部類だろう。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。これをあと30分くらい短く完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのである。これは本人の責任ばかりでもなくって、結局、ヒットメイカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか、などと危惧するものである。
演劇的だといわれ続けてきた三谷幸喜の監督作品だが、各方面で大活躍の多忙な売れっ子でありながら、1997年の監督デビュー作『ラヂオの時間』、 2001年の『みんなのいえ』、2006年の『The 有頂天ホテル』、そして本作と作品を継続的に発表、実績を積み上げてきていることで、映画への取り組みが本気であることを示すと同時に、彼のつくる映画のスタイルそのものが、ひとつの立派な個性として確立してきた感がある。こぢんまりとした初期2作の佇まいに比べると、『The 有頂天ホテル』以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。と、同時に、彼なりの視点と手法で巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきている。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体・再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現のしかたを思いつかない世界ができあがってくるのである。我々は、彼の映画がそういう作品になっていることを了解のうえ、むしろ、それを積極的に楽しもうと劇場に足を運ぶのだ。
監督4作目となる本作では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて街を牛耳るギャングと、「殺し屋役」として雇われた三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇をやらかしている。もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんでくださいね」という「ごっこ遊び」であることは、本作を演劇的といわせる最大の要素であるのはいうまでもない。もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つがこれほどにないまでにわざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。
しかしその一方で、大掛かりなセットのなかを自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないのであろうかつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのである。この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的なごっこ遊び世界という観点で、本作はこれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では三谷幸喜が作ってきた路線のひとつの到着点であると思う。
しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのがうまい。だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話しと、人工的なセットのなかで「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうものである。次々に登場する華やかな役者たちの贅沢な使い方も見所である。彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他作品では見られないような表情を引き出したてみせるあたりの技は、いうまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後語り草になるであろう佐藤浩一のコミカルな一面や、(私にとってあまり好きになれない役者の筆頭である)西田敏行を前作に続き脇で巧みに使いこなしているところなど、見所、笑いどころが満載である。
ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては少々長すぎるのである。何もかも詰め込んで楽しませてやろうというサービス精神はまことに立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは「勘違い」としか言いようがない。勘違いしてほしくないのだが、私自身コメディ好きで、「ドタバタコメディ」を一段低く見ているわけではない。ジャンルによって、適切な尺というのがあるはずだといっているだけである。それに、「136分」というのは、コメディに限らず「長い」映画の部類だろう。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。これをあと30分くらい短く完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのである。これは本人の責任ばかりでもなくって、結局、ヒットメイカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか、などと危惧するものである。
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