6/07/2008

21

ラスベガスをぶっつぶせ (☆☆☆)

この映画の原題は『21』である。これは、エースを「11」、絵札を「10」として数字を合計し、「21」を超えない最大の数が勝つというブラックジャックのルールに由来するものだ。ブラックジャックというゲームでは、どういう状況のときにどうプレイすべきか、統計学的に有利と考えられる基本戦略がある。それに忠実であれば、あくまで確率の話だが、それほど負けが込むことを避けられるはずである。そういう性質のゲームであるから、確率を自分の味方につけるべく、さまざまな方法が研究された。ゲームでカードが配られる毎にデッキに残った未使用カードの種類に偏りが生じ、確率的な有利不利もそれにつれて変化する。映画好きなら記憶にあるであろう、『レインマン』ではダスティン・ホフマン演ずるレイモンドが場に登場したカードを全て記憶、残りカードを把握することによってプレイを有利に進めて大勝するという描写があった。あれは特殊な設定で、かつ、誤解を招きかねない大げさな描き方が成された例であるけれども、この映画の主人公であるMITの学生たちが試みるのも基本的には同じことである。全てのカードを記憶する代わりに、場に現れたカードを独特のカウント方法によって「数え」ていく (= card counting) ことで、残りカードのコンディションを推測しようとするものである。プレイヤーに有利な状況だと判断すれば仲間を呼び込み、掛け金を増やすなどの積極策で打って出る。不利な状況であれば消極策で損失を減らすという「作戦」だ。

この話は、実際の事件に材を撮ったベン・メズリックの原作("Bringing Down the House")を元にしており、M.I.T. に入った貧乏学生が、"card counting" を教え込んだ優秀な学生たちを使って荒稼ぎを繰り返している「教授」の誘いにのり、次第に深みにはまっていくというものだ。映画はここに「自らの欲望を満たすために悪魔に心を売った主人公が味わう絶頂と絶望、友情と葛藤、再起と成長」という大定番のプロットを見出して再構成、淡い恋模様を交えて、スリルと苦味を伴う青春映画の佳作に仕上げて見せた。実際はアジア系の学生が多かったはずの主人公グループを白人主体のグループとして描いたことで物議を醸したが、実話に題材を求めた娯楽映画、商業映画という観点からは非難に値するほどのものでもあるまい。ギャンブルと裏世界の青春といえば、マット・デイモンとエドワード・ノートンが共演する変化球的佳作『ラウンダーズ』も記憶に新しいが、こちらの方がより定型的な教訓を含んだハリウッド青春映画を志向している。それもまた、小説より奇なる実話を単純化して台無しにしたとの非難を受ける理由には違いないのだろうが、定番(フォーミュラ)の強靭さをナめてはいけない。そこには長い年月に渡ってテストされ続けてきたストーリーテリングのエッセンスが凝縮されているのだから。

主人公を演じるのは、『アクロス・ザ・ユニバース』でも注目を集めたジム・スタージェスで、数学の天才に見えるかどうかは別として、ロボット・コンテストに夢中になっていそうなgeekには見えるし、学費を貯めるために手を染めた「悪事」にはまり、人間性が変わっていくさまをそれなりの説得力と魅力で演じていて、ブレイクが近いことを伺わせる。ヒロインに抜擢されたのは『ブルークラッシュ』が印象に残るケイト・ボスワースで、『Legally Blonde (キューティ・ブロンド)』で名をあげた本作の監督、ロバート・ルケティックとは『Win a Date with Tad Hamilton! (アイドルとデートする方法)』に続く2度目の顔合わせだ。そういう若いキャストを誘惑するメフィストフェレスを演じるのは、本作のプロデュースも務めるケヴィン・スペイシーである。まあ、彼が得意なタイプの役柄で、なんら想像の範疇を超えることもないが、この胡散臭い役柄を軽く演じて若手の役者たちとのキャリアの違いを見せつけている。カジノ側でイカサマ摘発に血道をあげる強面の男をローレンス・フィッシュバーンが迫力たっぷりに演じてここでの役割を全うしている。複数エンディングが撮られたというが、劇場公開版はいかにも米国的な強かな生き方をパンチと皮肉が効いたタッチで決めて、なかなか鮮やかである。

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