6/07/2008

The Magic Hour

ザ・マジック・アワー(☆☆☆★)

演劇的だといわれ続けてきた三谷幸喜の監督作品だが、各方面で大活躍の多忙な売れっ子でありながら、1997年の監督デビュー作『ラヂオの時間』、 2001年の『みんなのいえ』、2006年の『The 有頂天ホテル』、そして本作と作品を継続的に発表、実績を積み上げてきていることで、映画への取り組みが本気であることを示すと同時に、彼のつくる映画のスタイルそのものが、ひとつの立派な個性として確立してきた感がある。こぢんまりとした初期2作の佇まいに比べると、『The 有頂天ホテル』以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。と、同時に、彼なりの視点と手法で巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきている。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体・再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現のしかたを思いつかない世界ができあがってくるのである。我々は、彼の映画がそういう作品になっていることを了解のうえ、むしろ、それを積極的に楽しもうと劇場に足を運ぶのだ。

監督4作目となる本作では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて街を牛耳るギャングと、「殺し屋役」として雇われた三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇をやらかしている。もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんでくださいね」という「ごっこ遊び」であることは、本作を演劇的といわせる最大の要素であるのはいうまでもない。もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つがこれほどにないまでにわざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。

しかしその一方で、大掛かりなセットのなかを自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないのであろうかつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのである。この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的なごっこ遊び世界という観点で、本作はこれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では三谷幸喜が作ってきた路線のひとつの到着点であると思う。

しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのがうまい。だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話しと、人工的なセットのなかで「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうものである。次々に登場する華やかな役者たちの贅沢な使い方も見所である。彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他作品では見られないような表情を引き出したてみせるあたりの技は、いうまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後語り草になるであろう佐藤浩一のコミカルな一面や、(私にとってあまり好きになれない役者の筆頭である)西田敏行を前作に続き脇で巧みに使いこなしているところなど、見所、笑いどころが満載である。

ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては少々長すぎるのである。何もかも詰め込んで楽しませてやろうというサービス精神はまことに立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは「勘違い」としか言いようがない。勘違いしてほしくないのだが、私自身コメディ好きで、「ドタバタコメディ」を一段低く見ているわけではない。ジャンルによって、適切な尺というのがあるはずだといっているだけである。それに、「136分」というのは、コメディに限らず「長い」映画の部類だろう。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。これをあと30分くらい短く完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのである。これは本人の責任ばかりでもなくって、結局、ヒットメイカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか、などと危惧するものである。

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