7/04/2009

The Reader

愛を読むひと(★)


テープの声を聞き、単語の数をカウントし、本に書かれた文章と照らし合わせ、The という単語に印をつける・・・・この文字が「THE」なんだ!・・・って、おいこら、ちょっとまて。ドイツ語の定冠詞は"The" じゃないだろ。

私はSFものが好きだから、遥か昔、銀河の彼方の人々がまるで英語で会話をしているかのように聞こえることに慣れている(が、宇宙船の操作パネルに英語が書いてあるのはどうかと思う)し、24世紀になればユニバーサル・トランスレーターによって互いの言語を意識しなくてもコミュニケーションがとれるようになることを知っている。だから、例えば芸者さんの映画でみんなが英語で話をしていたり、トム・クルーズのいくところ、日本だろうとドイツだろうと、みんな英語で会話が通じたりすることについてはかなり寛容である。それらは、「日本語吹替版」という文化が存在するのと同じように、観客に向け、便宜的に「英語」に吹きかえられている、あるいは、英語で話しているように聞こえるのだと「理解」をしているからである。むかし、『レッドオクトーバーを追え!』を見たとき、始めはロシア語で会話をしていたソビエトの軍人たちが、ある人物の口元をアップで捉えたカットを境に互いに英語で話し始める、という演出がなされていたことに感心した。「本当はロシア語で話しているんだけど、ここからは便宜上、英語に切り替えますよ」という目配せを「口元のアップ」のカットひとつでやってのけたのだ。最近では、『ワルキューレ』の冒頭。ドイツ人主人公によるドイツ語のモノローグに、いつしか(同じ声による)英語のモノローグが重なっていく、という演出があった。「本当はドイツ語なんだけど、この映画、便宜上、英語で進めさせてもらいますよ」という前置きである。

さて、前置きがいささか長くなってしまったが、本作においては、まさにその「言語」こそが問題なのである。

「朗読者」というタイトルで翻訳もされたこの映画の原作は、ドイツ人がドイツ語で書いたものであり、ドイツの歴史に材をとり、ドイツを舞台にした大ベストセラー小説である。しかしながら、この映画はワインスタイン・カンパニーが製作する米国映画だ。そして監督のスティーヴン・ダルドリー、脚本のデイヴィッド・エア、演技賞を獲った主演女優ケイト・ウィンスレット、みなそれぞれ尊敬に値する仕事をしてきた一流の映画人であるが、みな英国人である。なぜドイツの映画界は自分でこれを映画化できなかったのかなぁ、といってみても仕方がない。世界を相手に商売をするうえで、あるいは、十分な制作費を調達する上で、こうでなければならない事情もあったのだろう。また、先に述べたように、日本の芸者を中国人俳優が英語で演じていることにすら「寛容」な観客である私は、そうした製作体制の結果として、この映画が「英語」映画になっていること自体に異議を申し立てるつもりもない。

しかし、ここにはもうひとつ微妙な問題が絡んでくるのである。この作品は、ドイツにおける戦争犯罪にまつわる表面的なストーリーラインの裏で、いわゆるリテラシーの問題、「読むということ、聴くということ、書くということ」の意味が重要な主題として扱われているのである。しかるに、たとえ英語映画として作られたとしても、「本当はドイツ語を読み、聴き、書いているのだけれど、便宜上英語でやらせてもらっていますよ」というエクスキューズの必要性と重要性は、かつてなく高いのである。たとえ登場人物が英語で会話を交わそうとも、テープに録音された朗読が英語であろうとも、「本」に印刷された言語は、街の看板と同じく「ドイツ語」でなければなるまい。そうでなければ、「ドイツ語の読み書きはできるんだけど、英語の読み書きができなかった人の話」になってしまったり、戦時下のドイツでは公的な文書は英語で書かれていたことになってしまう。

その意味で、これを英語映画として作ることは初めからハードルが高かったのである。しかし、「便宜上」とはいえ英語映画であることを選んだ以上、作り手はその難題を解決する表現方法を真剣に考えるべき義務を負ったのだ。それなのに、作り手は、その困難に立ち向かうことを選ぶのではなく、安易な道に逃げた。これが一流の人間がやる仕事とは思われない。本作が、結果として作品の核心に触れるテーマを軽んじたことについて、強く否定し、軽蔑し、非難する意思を示すために、本論評においては最低評価となる「★」とする。

そのことを除くと、映画は真面目に、丁寧に作られていて、ケイト・ウィンスレットも熱演である。疑問に思う編集もあるが、概ね上質な映画であることに異議を挟むつもりはない。まあ、「☆☆☆」といったところが妥当か。

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