5/28/2011

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マイ・バック・ページ (☆☆☆)


映画評論などで知られる川本三郎の私小説的な原作の映画化で、1970年前後を舞台に、大物活動家気取りの学生が引き起こした朝霞自衛官殺害事件により、かねてより取材の過程でその学生との親交を深めていた新聞社の記者が追い込まれていった葛藤を描く。向井康介脚本、山下敦弘監督。

原作は読んでいないし、そこに描かれたはなしがどこまで事実に基づいているかなどということには興味はない。ただ、リアルタイムでその時代を知る由もない作り手たちによるこの映画を見て、この映画の中には何がしか、普遍的な物語を描くことに成功しているようには思う。その物語というのはこうだ。「それにふさわしい覚悟や実力も定かではないのに、とにかく何かしら事を起こして名を上げ、早くホンモノにならなければ周囲に取り残されてしまうと焦っている男達が、そんな焦りゆえに、引き返すことのできない場所、取り返しの付かない状況に追い込まれていく話」、だ。

もちろん、これは、「エリート気取りの世間知らずな青年が、同じく功名心に駆られた詐欺師的なクズ男に手玉に取られ、大局も見えないまま、青臭い理想にすがって身を持ち崩す話」、でもある。あとになって、「俺、なんで信じちゃったのかなぁ」と。

でも、「なんで信じちゃったのかなぁ」っていうのだけれど、ほら、結局、人間というものは、信じたいと思うことを信じるようにできている生き物なのだ。そして、その信じたいという気持を、そこにつけ込むようにして利用するやつらもいる。はたからみれば、松山ケンイチ演ずる人物の胡散臭さなぞ一目瞭然なんだ。だから、あんな演技、あんな演出じゃ、なんで周囲の人間が騙されるのかわからないっていう人もいるわけだけれど、じゃあ、例えば、「原発は安全、低コスト、CO2を排出しないから環境にも優しいし、原発なしには資源をもたないこの国は立ちゆかない」って、ほら、そんなデタラメの嘘っぱちを勝手に信じておいて、あとになって騙されたと怒っている連中のことはどうなのさ?と思ったりもするわけである。

人は、信じたいと思うものを信じるし、ある時点まで行くと引くに引けなくなって、さらなる泥沼につっこんでいくものだ。それに、詐欺師のたぐいってのは、人のそういう心理につけ込むものだ。

結局、自らの中にある弱さ、焦りが、信じたいと思うものを信じさせてしまったのだという事実を受け止め、良かれと思ってしたことが招いた結末に涙するしかない、そういうほろ苦さは、いまを生きる我々の誰もが共感できるものなのではないだろうか。映画の冒頭で描かれるウサギの死が、まわりまわって、イノセンスの終焉に涙するラストの主人公につながる。そのとき、この映画を観る我々観客もまた、主人公と同じ問いを自らに問わねばなるまい。このシーンの妻夫木聡はいい。最高にいい。『悪人』を経た成長を見せてくれた。

一方の松山ケンイチも頑張った。あの演技を少し過剰だと、周りの人間が何故あんな人間についていくのかわからなくなってしまうという意見も聞くが、それをいうなら、何故未だに「オレオレ詐欺」の類にダマされる人間がいるのかわからない、というのと同じことだ。周りの人間だって彼が本物だと、彼についていくことで自分もまた何者かになれるのだと、信じたかったのさ。松山ケンイチの演技は、この人物をただの得体のしれない詐欺師的クズに見せるのではなく、この人物のなかにある焦燥感や功名心、未熟な思い込みや、おそらく自身で気づいている自分の実力や限界と、それ故の哀しみ、それ故の小物っぷりみたいなものも感じさせてくれた。

この二人に限らず、共演のキャストがみな良い仕事をしている。先輩記者、京大の活動家、ワンポイントで出演している大物。みんないい。

映画の前半、複数人数が部屋で話している場面でのフレーミングや切り替えしのカット割りが少々不自然で気持ち悪いなぁ、と思ってみていたが、映画全体では全景をワンフレームに収めてのだらだらした長回しがやたらに多く、イライラさせられた。ちょっと気取り過ぎ。尺も長い。脚本段階で、何を描き、何を描かないか、すなわち本作のテーマが何なのかについて整理がついていないまま漫然と撮って、編集で何とか見られる状態に仕上げていったんじゃないかと邪推もする。なんだか脚本家・監督のコンビがホンモノかどうか、もう少し見てから判断したって遅くないかとは思った。

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