6/28/1999

Big Daddy

ビッグ・ダディ(☆☆☆)

ここのところ、絶好調の売れっ子コメディアン、アダム・サンドラーの新作は、これまでと少し毛色ガ違うけれども、やはりアダム・サンドラーらしい作品になっている。もともとはコロンビア映画からの持ち込み企画を、アダム・サンドラー自身とティム・ハーリヒーでリライトし、これまたおなじみのデニス・ドゥーガン監督で映画化したものだ。

本作でサンドラーが演じるのは、ロースクールを卒業しながらも気ままな生活を好み、NYの高速料金徴収係をしている30過ぎの男である。そんな彼に愛想をつかしたガールフレンドに振られたことをきっかけに、「責任感のある大人」であることを証明しようと、たまたまアパートに転がり込んできた子供と養子縁組してしまうのだが、自分一人の面倒もろくに見られない男が子供の面倒を見られるはずもなく、大騒ぎになるという話。擬似親子モノ、とでもいうか。

仲間内でつくるアダム・サンドラーの映画は、その都度監督やスタッフが少しずつ違っても、どれも共通するテンポやテイストを持っている。だから、脚本家や監督の映画である前に、まず間違いなく「アダム・サンドラー」の映画になっているというのが大きな特徴である。そして、彼の得意とするキャラクターのいろいろな側面を見せられるよう企画を選び、自分のファンに変わらぬアピールをしながら、活躍の幅を広げてきている。幼稚一辺倒のバカ映画から、純情でロマンティックな映画まで、気がつけば守備範囲がいつのまにか広がっている。
母親を失い、本当の父親の元を訪れるつもりで現れた就学年齢すれすれのような子供と、幼児性を剥き出しの「大人になれない大人」を組み合わせるアイディアそのものは、さして珍しくはないかもしれないが、これが、アダム・サンドラーの映画であるところがポイントだと思っている。つまり、「大人になれない大人」はサンドラーの持ちキャラクターそのものであり、彼が大人(あるいは大人になろうとする男)を演じるのは、事実上これが初めてだ。

これは映画の中で主人公が大人へと目覚めるだけでなく、コメディアンとして、俳優としての、アダム・サンドラーのイメージを大きく広げることを意味している。ことに、本作は若い観客を主要なターゲットにした『ウォーターボーイ』のあとだから、この意味は大きい。この映画で、彼と同世代あたりまでの、「大人になりきれない大人」まで観客層を広げることができるだろう。

自分で脚本を書いていて、ハードワーカーであることも知られるサンドラーのことだから、そういう色々な計算を念頭において映画作りをしているのはほぼ間違いあるまい。しかし、この男、計算高いというイメージではない。スタッフにも、キャストにも、仲のよい友人や古くからの仲間を集めて、和気藹々と映画を作っている風情であったり、ゲイのカップルや浮浪者、移民などをギャグとして笑いの対象にしつつ寛容(というか、その他と等価)な扱いをするところであったり、「幼児的で突発的に凶暴性を発揮するキャラクター」を得意とするにしては、人柄の良さがいたるところに滲みでてくるところが、どうにも憎めない。

本作、映画としてはドタバタ一辺倒ではなく、一応筋がしっかり通っている。あくまでコメディの枠の中でという前提ではあるけれど、子供との絡みでは時折繊細な演出と演技をみせるので、最初からシリアスなドラマを目当てにする観客はいないと思うが、でウェルメイドな一本として、上映時間をきっちり楽しませてくれる。サンドラーにとっては重要な転換点になる作品ではあるが、次はまたとんでもないドタバタに振ってきそうな気がして、それはそれで大いに楽しみである。

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