12/25/2008

The Day the Earth Stood Still

地球が静止する日(☆☆☆)


アイディア枯渇のハリウッド。ロバート・ワイズ監督の1951年作『地球の静止する日(The Day the Earth Stood Still)』のリメイク作、スコット・デリクソン監督。ただ、なんでもかんでもリメイクすればいいものではない、ということは分かっていたのだろう、東西冷戦下の核の恐怖を背景としたオリジナルから、非常に今日的な(つまるところ、流行であるところの)環境というテーマをつむぎだして見せた企画は悪くない。出演はキアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー、ジェイデン・スミス、キャシー・ベイツ、ジョン・クリース。

おそらく、8年間続いたジョージ・W&共和党政権路線に対するあからさまな論評を含むリアルタイムの大作娯楽映画という意味では、タイミング的にも末尾を飾る1本になるのではないか。宇宙からやってきた使者との対話を拒み、他国との協調を選ばず、情報を隠蔽し、自らの思い込みで判断を下し、無謀な攻撃を繰り返す。大統領こそ顔をみせないが、大統領の名代として最前線にたつ、キャシー・ベイツ演ずるキャラクターの振りかざすロジックはまさにここ何年かの米国のありかたそのものであって、それがいかに理性に欠けたナンセンスなものか、SFi 的なシチュエーションのなかで戯画化されることにより、あまりにも明白に浮き彫りにされる。

スコット・デリクソンの演出にはいわゆる「風刺」的な喜劇調が入り込む余地がないが、このパート、もはや、意図せずして喜劇となっているといってよいのではないか。そして、その決着のつけ方が寂しい。国家権力装置の部品として機能せざるを得ない立場のキャシー・ベイツが、個人的な判断により主人公であるジェニファー・コネリーと、宇宙人キアヌ・リーブスの逃亡を見てみぬふりをするという展開なのだが、これ、つまりは、システムは硬直的で変わらないが僅かに個人の良識と良心に希望を託したということだ。間違っていると分かっていても正すことができないという無力感はいったいなんなのだろう。非常時に無能な大統領を拘束してまともな判断のできる人間と置き換える、などということを、米国の映画やドラマは数限りなく行ってきたような印象をもっているのだが、本作にみる諦観は心を寒くさせるに十分である。この何年かの米国では、個人の良識すらも踏みにじられ、押し殺されてきたということを意味してはいまいか。

風刺といえば、ジェニファー・コネリーがキアヌを連れて行く人類最高の知性(の一人)のキャスティングは面白い。キアヌと対話をすべき人物が「政治的な指導者」たちではなく「科学者」である、ということ自体はそもそも脚本が意図する洞察であり、それ自体が文明批評であるが、人類の命運をジョン・クリースが握るというのを、あほらしいとみるか、皮肉と受け取るかによっても本作の評価は分かれるだろう。人類最高の英知はモンティ・パイソンにあり、というのを、私は笑えるジョークだと受け取った。なにしろ、そのほうが面白いからだ。しかし、この映画の演出はあくまで真面目が本分なので、何も知らない観客が観ればなにもなく通り過ぎてしまう。意図してのことか意図せずしてなのか、映画を見る限りは正直なところ判断ができない。

今回の脚本はあちこちで舌足らずであり、ほころびがあるから、脳内で補完する必要がある。作り手の意図が真摯なのは伝わってくるから、こちらも好意的に補完しようとするのだが、しかしそれにしてもキアヌ・リーブス演ずる「クラトゥ」の行動や言動の支離滅裂感は拭えない。映画は物語の鍵を握るひとりである (はずの)少年の関連に随分の時間を割いているのだが、これがうまく機能しさえすればもう少し「クラトゥ」が判断を変えるに至る思考を明確に描くことができたのではないだろうか。少年を演じるジェイデン・スミス、このガキ、小さいのに父親であるウィル・スミスゆずりの鬱陶しさ(俺様演技)で、こんなんを天才子役などと持ち上げてほしくないものだ。3回くらい絞め殺してやろうかと思ったぜ。

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