12/22/2008

Body of Lies

ワールド・オブ・ライズ(☆☆☆★)


レオナルド・ディカプリオにとっては『ブラッド・ダイヤモンド』に続く「社会派娯楽アクション大作」路線の第2弾、リドリー・スコットにとっては『ブラックホーク・ダウン』、『キングダム・オブ・ヘヴン』に続く「文明の衝突」シリーズ(?)第3弾、か。イスラム過激派組織の自爆テロを押さえ込むために、テロ組織の首謀者の手がかりを追う主人公・CIA現地工作員(レオナルド・ディカプリオ)が、本部のあるラングレーでスパイ衛星の映像を見て衛星電話で勝手な指示を出したり、隠密裏に作戦を発動させたりするCIAの中東局長(ラッセル・クロウ)のせいで右往左往させられ、酷い目に合う。「実録・スパイはつらいよ」だな。打ち手のなくなったCIAは、主人公の発案により、本物のテロ組織を炙り出すために、架空のテロ組織とテロ事件をでっちあげるという大胆かつ巧妙な自作自演作戦を決行する。

CIAといえばその胡散臭いイメージはおなじみだが、おそらく、近年の娯楽映画の中でこれほどCIAが間抜けに見えたのも珍しいのではないか。ラッセル・クロウ演ずる主人公の上司が取り立てて間抜けというのではなく、一応は百戦錬磨の曲者であり、鼻持ちならないとはいえ切れ者であるはず。そんな人物の判断や行動が、結果として現場を混乱させ、任務の遂行を困難にもする。この映画では、こういうちぐはぐの背景に現地カルチャーに対する米国の無理解と米国的手法(ひいては米国的な価値観)に対する過信があることを、現地の言葉を自在に操り、現地のカルチャーに溶け込もうとする現場工作員たる主人公との対比において描き出していく。そう、自分たちこそが世界の中心で、自分たちは全てお見通しで、自分たちが一番賢いという米国の思い上がりだ。(思えば、そういう「思い上がり」の幻想を砕かれて混乱に陥った様を描いたのが『ブラックホーク・ダウン』だ。)これは、ジョージW・ブッシュがどうの、共和党がどうのといったレベルの話ではないので、本作が米国で受けが悪いのも納得がいく。

では、主人公である現場の工作員は異文化に理解を示すわれらがヒーローなのか、というと、それも違う。レオナルド・ディカプリオをここにキャスティングしている意図は、彼の理想主義的で青臭いイメージをこのキャラクターに被らせることにあるだろう。彼は分かったつもりでいる。現実が見えているつもりでいる。しかし、彼は若く、底が浅く、ナイーヴである。緊迫した情勢のなかでの現地人との恋愛ごっこに興じるあたりが典型だ。それゆえの罰であるとまでは言わないが、ディカプリオは劇中でさんざん肉体を傷つけ痛めつけられる。犬にかまれ、同僚の骨の破片が食い込み、捕らえられ、指をつぶされ、拷問を受ける。

この物語で本当に「大人」なのは誰か。それは、主人公が協力を願い出るヨルダン情報局のトップ(マーク・ストロングが役得の好演)である。これは、本作と同じリドリー・スコット&ウィリアム・モナハン脚本による『キングダム・オブ・ヘヴン』において、清濁併せ呑む懐の深さと静かで洗練されたリーダーとしてイスラム世界の長・サラディンを描いていたのに呼応するものだと考えられよう。CIAと手を組み、原理主義テロリストの掃討作戦にも協力をするが、独自の行動規範や手法、情報網を駆使し、彼を欺こうとするものの常に一歩、二歩先にいるのが、このマーク・ストロング演じるキャラクターである。西欧社会との接点であり協力者であるが、簡単に利用される男ではない。ミクロにおいて全てを手玉に取りながら、マクロにおける互いの世界の最大利益を考えることのできる男なのである。

この映画は興味深い様々な要素をありったけつめこんで見せるために、アベレージのハリウッド娯楽映画に比べるとストーリー・ラインが必要以上に複雑に感じられ、うまく整理がついていないように感じられる。複雑な世界情勢を単純な娯楽映画のフォーマットに流し込む過程で、どちらも立たず中途半端になったきらいもある。フォーミュラのはっきりした娯楽映画に振るならば、スコット(兄)よりもスコット(弟)のほうがうまく手綱をさばいて見せただろう。しかし、善悪のはっきりしない混沌の中にエンターテインメントを見出すことができれば、これは意外に見応えがあり、示唆に飛んだ作品だといえる。

0 件のコメント:

コメントを投稿