1/24/2009

Nobody to Watch Over Me

誰も守ってくれない(☆☆★)


『おくりびと』がグランプリを獲った2008 年のモントリオール映画祭で脚本賞を得たという、君塚良一脚本・監督作品である。未成年による殺人事件において容疑者の家族に向けられる悪意というテーマの着眼点は新鮮であり、そういった社会的なイシューを盛り込んだ「娯楽メロドラマ」という範疇ではそれなりに良くできた作品といってよい。しかし、事前に高まっていた期待値からいえば平凡で、どちらかといえば残念な出来栄えである。それはこちらが勝手に期待したのが悪いのかもしれないが、可能性を感じる題材であったがゆえにもったいないな、という考えがあっても良いのではないかと思う。

まず、これは日本人観客に限定された指摘にならざるを得ないので、本当の意味で客観的に映画を観た観客は別の印象を受けるのは承知の上で書くが、主演の佐藤浩市を例外として、周囲を取り巻く役者たちがどれもこれもテレビで使い古され、見飽きた顔の羅列であることに、入場料を払って「映画」を見にきたつもりでいる私はまずもってげんなりさせられたのである。そして、そういう「お茶の間俳優」たちが、そろいも揃ってテレビドラマと同じレベルの、絶対に一線を越えない演技をしている。劇場版というのであれば、いつも見知った顔をスクリーンで眺めるということ自体が目的であり、付加価値を生むイベントである。しかし、オリジナル企画である本作の、テレビドラマ的な既視感はマイナス要因以外の何者でもない。

バストアップの切り返しや顔のアップばかりが幅を利かせ、引きの画が少ないこともこの作品から映画らしさを奪っている。これはテレビドラマの、テレビ画面サイズの演出だろう。こういう映画を平気で撮ってしまうような作り手たちは、自分の作品を劇場の、それなりのサイズのあるスクリーンで見ているのだろうか?と疑問に思うことがある。もちろん編集用の小さなモニター画面で見栄えは悪くないのだろう。TV放映時に茶の間で流し見をする視聴者の目にも違和感がないだろう。しかし、映画館の暗闇に身を沈め、視界を埋め尽くすスクリーンを凝視している観客の目には、この息苦しさは耐え難い。人物にカメラが寄るということは、それだけ画面の余白が減るということだ。画面に奥行きや広がりは感じられないし、役者たちもその全身ではなく「顔」で演技を、表現をしようと熱演する。それがどれだけ暑苦しいことか分かっているのだろうか。

臨場感のあるドキュメンタリー・タッチを目指したというが、それについてもそう。確かに、ある種のシーンで臨場感を生み出すのに成功していることまで否定するものではないが、対象寄りのカメラで画面が揺れればドキュメンタリー・タッチだと、何か勘違いしているのではないだろうか。ドキュメント感って、そういうものではないだろう。だいたい、「お茶の間俳優」をこれでもかと起用したことでそこは予定調和の世界と化しており、この映画からすでに「ドキュメント感」は失われているのだ。そして、映画が「今起こっていること」ではなく、主人公である刑事の「過去」や「傷」などという領域に踏み入ることで、それは、メロドラマとしての力は獲得しつつ、ドキュメント・タッチからはどんどんかけ離れていっている。ルックスとしてのドキュメント感や、役者の素の表情を引き出すライヴ感というのも分からないわけではないが、編集の悪さも手伝って、見せ掛けだけの安っぽさしか感じられない。まあ、もっといえば、本作の音楽もドキュメント・タッチというよりはお涙頂戴だ。

主人公らを追い詰める推進力として、ネット上を起点とした悪意の暴走を取り扱っているが、これを新しいということもできるだろうし、その描写を以って短絡的なネット批判・ネット悪者論になっているという批判もある。2008年の現在を描く上で避けられない要素について、現実離れしているといわれようが、ネット上でただただ傍観者的に誹謗中傷が繰り返されるだけでなく、現実的な行為とリンクしてエスカレートしていくという一歩踏み込んだ描写を盛り込んだところは評価すべきである。ただ、物語の展開上、新しいメディアが誘発する悪意の、その容赦のなさばかりが強調され、旧メディアが踏み込めないような草の根の機動力や即時性を武器とした良い意味での可能性などには言及されないところには、作り手の(無意識か意識的かは別として)一面性を感じないわけではない。それは、旧メディア側、すなわち、特に、TVに対する突っ込みの甘さにも現れている。それは、本作品が旧メディアにおける最大の既得権者であるところのTV局出資による作品であることも関係しているに違いない、などと勘ぐりたくもなる。

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