1/17/2009

Quantum of Solace

007 慰めの報酬(☆☆☆★)


『ゴールデン・アイ』、『カジノロワイヤル』と2回連続新ジェームズ・ボンドによる「新章」立ち上げを担ったマーティン・キャンベル監督から、『チョコレート(Monster's Ball)』『ネバーランド』『主人公は僕だった』『君のためなら千回でも』で知られる一見畑違いのマーク・フォースターに監督を交代した、ダニエル・クレイグ主演第2弾(イオンプロ製作ボンド映画第22弾)の本作は、ストーリーが前作『カジノロワイヤル』の直後から始まるフランチャイズ初・直接の続編である。邦題が変なのは、まぁ、大目に見るとして。苦労したんだろうから。

シリーズで最も長尺(144 min.) であった『カジノロワイヤル』から一転、本作の上映時間は106 min と、シリーズ最短の仕上がりであると聞いたときには、いろんな危惧を持ったのは事実であるし、そこまでタイトに切り詰めなくても、映画にボンド映画らしいある種の余裕や遊びを持たせたら良いのに、と考えたのもまた事実なのだが、実際の映画を見てみて考えを改めた。気づかされるのは1時間46分という時間は、ストーリーを豊かに語るためにどれほど多くの可能性を秘めているのか、ということ。そして、改めて思うのは、近年の娯楽映画の多くが、どれほど怠惰に、無駄な長尺化を許容しているかということである。

もともとボンド映画は娯楽アクションとしては比較的贅肉の多い作りになっていて、2時間を越える尺の作品が多いのである。そして、その「余裕」とでもいうべき部分にシリーズらしいお約束やお楽しみが含まれていたわけで、本作がボンド映画とは「何か違うもの」になってしまっていることを心配したのはそういうわけがある。確かにこの新作はものすごいテンポでストーリーが展開されるから、もうすこし「タメ」や「間」、もっといえば休憩できる時間ががあってもよいかと思う瞬間がないわけではない。しかし、短く切り詰めていくことで話が分かりにくくなっているわけではないし、前作からの大胆な路線転換の延長線上にあるとはいえ、ただのアクション映画ではない、「ボンド映画」らしさのかけらはそこここに散りばめられているのだ。それに、単にストーリー展開を追うだけの作品でなく、そこに濃密なドラマや世界観が詰め込まれているのを目にすると、やっぱり優れた娯楽映画はこうでなくてはいけないのではないか、そんなふうに思う。中味もないのに2時間半近くひっぱる愚作が氾濫する今日この頃、ジャンル違いの監督が作り上げた筋肉質の娯楽活劇がそんな風潮に対してちょっとした刺激を与えることになればよいのではないか。

さて、内容面での大きな注目ポイントは2つある。

最も注目に値するのは、前作に引き続き思わぬ形で再登場する工作員に対し、ボンドが通称とは異なる本名を尋ねるシーンだ。これは翻って、尋ねている「ジェームズ・ボンド」の、その名前すら、固有の誰かを指す名前ではなく、人から人へ引き継がれてきたコードネームである可能性を示唆するものである。そうすると、前作「カジノロワイヤル」以来のこのシリーズは、ボンドが殺しのライセンスを取得し、我々がよく知っているあの「ボンド」になるまでを描く「前史」であるとか、シリーズ設定をご破算にしてリニューアルしたというのではなく、21世紀、新たに「ボンド」を襲名したある男の、新しいストーリーを描いていくのだということを明確にしたということになるだろう。これまでもファンのあいだでは、過去のボンド映画における(設定としての)ジェームズ・ボンドの生まれた年代や活躍した時代を勘案しながら、それぞれの時代にそれぞれ異なる人物が「ジェームズ・ボンド」という(伝統の)名前を襲名して活躍していたのではないか、という仮説が提起されたりしていたが、本作ではいよいよそれを映画シリーズの設定に取り込むよ、という宣言がなされたと考えてよいだろう。そうすると、当然「M」も、CIAではあるけれど「フェリックス・ライター」も、未登場の「Q]だって同様。過去をリセットするのではなく大きな意味で包含し、役者が変わったり男が女になったり白人が黒人になったりしたっていいじゃない、ということにもなる。そして、それは新しい時代の新しいボンド映画を作るという覚悟の表明でもある。

もうひとつの注目は、ボンドが闘う「敵」の姿である。それは、かつての冷戦下では東側の諜報機関であったり、悪の天才が率いる「世界規模の犯罪組織」(=スペクター)であったりしたわけであるが、冷戦の終結や、過度のマンガっぽさを排除するため、それらの「敵」は表舞台から去った。それに変わって登場したのが組織の裏切り者や麻薬王、暗躍するマスコミ王やらの「暴走する個人」であった。しかし、前作『カジノロワイヤル』を引き継いだ本作における敵は、そうした「個人」ではなく、しかし、特定の国家や体制にも依存しない(顔の見えない)組織だ。そこには理念はない。台詞にもあるように右か左か、独裁か民主主義かなんてどうでもよい。宗教も関係ない。組織の目的は単に利己的な巨大利権の追求で、その実現のためには様々な表向きの様々な顔(今回はエコを語る企業体)を使い分けながら国家をも手玉に取るのである。ある意味で、かつての「世界規模の犯罪組織」が、現代的にリニューアルされたといってもよいのだが、その背景にあるのは21世紀の新しいリアリティであり、新しい世界観だ。そのなかで、かつてでさえ荒唐無稽なものとして決してリアリティを獲得するまでには至らなかった「世界的な犯罪組織」を描くことに成功しているということを、とても面白いと思った。

本作では劇中において米英両国の政府が決して「善悪」を判断基準に行動するものではなく、国家の利己的な目的において(すなわち石油資源の確保のために)どのような悪党とでもベッド・インする存在であるという(現実的な)認識と、主人公らが所属する諜報機関(CIAなりMI6)もまた、国家の意思を遂行するための組織でしかないという突き放した認識の描出がなされているのがさらに面白いところである。映画の中での米英両国は結局のところ騙されていただけというオチがつくため、「悪党(でもあり、愛した女の仇)」を追う主人公の行動と、国家の損得は矛盾しないかたちで決着がつく。ただ、それはむしろ例外というか、偶然とでもいうべきことなのではないのか、そんな疑念が複雑な余韻となり、本作は幕を閉じる。

その他雑感。前作で原作通りのレシピで登場し、爆発的人気の呼び水となった「ヴェスパー・マテーニ」。これをチャーター機で移動中のボンドが次々に飲み干すというシーンは、ちょっとしたお楽しみシーンである。前作以来、ジュディ・デンチ演ずるMの出番と役割が増しており、ボンドとMの人間関係もひとつの見所になっている。また、トスカ上演中の劇場を舞台に織り込むなど、リニューアルしたシリーズなりの「ボンド映画」らしさの工夫が感じられる。アクティブで主体的なヒロインだけでなく、対になるような昔のボンドガール風の女性を両方登場させるあたりや、『ゴールドフィンガー』へのオマージュとなるオイルまみれの全裸死体など、タイトな中にもファンへの目配せがあり好感が持てる。ああ、あとアリシア・キーズとジャック・ホワイトのデュエットとなる主題歌は、「Another Way to Die」というタイトルも新鮮味がなくがっかりだが、曲そのものも凡庸、そのうえ音楽担当の御馴染みデイヴィッド・アーノルドも関与していないため、劇中の音楽ともリンクしないなどいいところなしだ。エイミー・ワインハウスのヤク中とお騒がせが度を越して主題歌から降板させざるを得なかったのは結果から見ると大きな痛手だろう。

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