1/24/2009

Revolutionary Road

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで(☆☆☆★)


"Hopeless emptiness. Now you've said it. Plenty of people are onto the emptiness, but it takes real guts to see the hopelessness. "

この映画には、主に3つのカップルが登場する。もちろん、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが演じる主人公夫婦。その隣人の、主人公らと同世代の夫婦。そして、主人公らに「レボリューショナリー・ロードの素敵な家」を紹介した不動産屋を演じるキャシー・ベイツと、その夫。不動産屋夫婦はそれなりに年配である。夫は難聴で、補聴器を身に着けている。映画の最後を飾るのは、この3番目、不動産屋夫婦である。キャシー・ベイツが過去を振り返り、主人公夫婦についての(かつては心にもなかった)悪口を語り始めると、その夫は、彼女に好きにしゃべらせたまま、胸のポケットに手をやり、補聴器のボリュームをスーッと下げていくのだ。観客にきこえる音もまた、その補聴器のボリュームにあわせるようにフェイド・アウト。静寂のなかで画面が暗転し、エンドクレジットが入る。

鮮やかなエンディングである。そして、皮肉である。夫婦が正面から向き合うのではなく、理解しようと努力するのでもなく、見なかったこと、聞かなかったこととして受け流すことで見せ掛けの平穏が保たれるのだということか。サム・メンデスの4本目になる監督作は、描かれているテーマの類似性を以って彼自身の『アメリカン・ビューティ』と対になる作品だということができるが、毒のあるコメディとして意図された『アメリカン・ビューティ』と違い、こちらは(リチャード・イェーツの原作に沿った)シリアスなドラマである。しかし、そのブラックで突き放した視点は変わらないむしろ、登場人物たちを断罪しないある種の優しさも感じさせた件の作品より、ストレートに悲劇を描く本作の方が冷たく、皮肉で、意地が悪い。

50年代、米国が夢と希望と活力に溢れていた時代が舞台である。芝生のある郊外の一戸建、専業主婦の妻、TV番組"Howdy Doody Show" を夢中でみつめる子供たち。これは、物事がずっと単純だったと思われていた時代、一見、なんの悩みもない理想の人生が実は「絶望的なまでに空虚」であると直感的に気づいてしまい、そこからの脱出を計画する妻と、現状に流されがちで煮え切らない態度の夫の物語であり、彼らの常軌を逸した行動に心を乱される周囲の(普通の)人々を描いた物語である。先にも触れた不動産屋夫婦の息子が本作で最も洞察力に富み、考えたことを直裁に口に出すキャラクターとして登場し、主人公カップルの心のうちを的確に解説してくれるので、話のポイントは誰にでも容易に理解できよう。もちろん、思ったことをそのまま口に出すこの男は、精神を病んだものとして病院送りになっているのだが、これに対置されるのは不満を押し殺して平凡な生活に甘んじている「普通の」人々である。

実力のある俳優たちの演技で見せる、演技で見せきる作品である。情緒不安定的に突然感情を爆発させるケイト・ウィンスレットの役柄は演じがいがあったろう。薄っぺらで平凡でありながら決してそれを認めることができないレオナルド・ディカプリオの役柄も、そうだ。精神を病んだ男(マイケル・シャノン、儲け役!)に痛いところを突かれてキレるシーンでの熱演なぞ、さぞ気持ちが良かっただろう。そんなであるから、観客の目がどうしても役者に向かうのはいたし方のないことなのだが、一方で、熱演型の役者が自己満足的にわめき散らすだけの作品に終わっていないのは、監督サム・メンデスの力量によるものだと、感心する。前作『ジャーヘッド』は狙いはともかくとして成功作とは云い難いものだったが、舞台監督出身という来歴ゆえか、狭く限られた空間で展開される心理劇を切り取る手腕の確かさは本物だ。今回の撮影はロジャー・ディーキンスであるが、前作からコンビを組むこの二人が切り取る「世界」は、端正な構図のなかに居心地の悪さや不穏な空気、緊張感を盛り込み、日常のありふれた風景に違和感を偲ばせてくる。このスタイルとルックスは、結果として、大御所・故コンラッド・ホールが手掛けた『アメリカン・ビューティ』に似ており、題材だけでなく見た目でも対になる作品との印象を強めている。

この映画で一番好きなシーンは、おそらく多くの男性観客が挙げることであろうが、夫婦激しいやり取りの翌日の朝食のシーンである。柔らかい日差しが差し込むキッチンで、感情を落ち着かせた妻がオレンジを絞り、卵を焼く。即卓で穏やかに向かい合い、少なくとも表面上は束の間の平和な時間を過ごす2人の姿と、その裏側、目に見えないところに流れている不穏な空気。そんなものには気がつきもせず、幸せそうに仕事に出かける単純な夫の笑顔が、愛おしく、痛々しい。諦めなんかではなく、妥協なんかではなく、何かを心のうちで静かに決めた妻の瞳が哀しい。ここのシーンの印象深さが、一転して悲劇に転じる際の落差となる。残酷というのはそういうものだ。

妻の思わぬ妊娠を歯車が狂うきっかけにしているが、現代的な感覚、しかも、日本の観客からすれば、その程度のことで?となるかもしれないが、このあたりは妊娠中絶に不寛容な社会の理不尽さで、本来であればもっといろいろあったはずの夫婦の選択肢を決定的に狭め、追い詰める結果となっている。そんなことも含め、社会の常識とやらいうものは、人を「空虚」な生活に縛りつけるのであり、しかし、それに異を唱えてみたところで決して良い結果が望めないという「絶望」を見てみぬ振りして生きるのが大人の知恵というものなのだということだろうか。それを心から信じられるほどシニカルにはなりきれない。

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