2/21/2009

Changeling

チェンジリング(☆☆☆☆)


20名もの子供が拉致誘拐、虐待、殺害されたという特異で常軌を逸したゴードン・ノースコット事件。広大な国土を持つ米国という国では、ひとの目の届かぬところで実に身の毛もよだつ恐ろしい「事件」が起こっているものである。そうした事件そのものが、あるいは、そうした事件の記憶のようなものが、都市伝説となったり、様々なホラー映画のモチーフになったりしていくのだろう。こんにち、どこの国でも残酷で殺伐とした事件のひとつやふたつは転がっているものだが、あの国の成り立ち、伝統、そして精神的風土のどこかに、猟奇的で尋常ではない事件を誘発する暴力的な遺伝子が埋まっているのではないか、とすら邪推したくなる。遺伝子といえば、LAPDという組織の腐敗ぶりもまた、過去から連綿と受け継がれてきたのだね。

それで、ゴードン・ノースコット事件である。こんな事件を材にとるのであれば、たとえホラー映画ではないとしても、猟奇ミステリー、サイコ・サスペンスのように「事件」とその顛末を描き、捜査に奔走する者たちを中心に据えて主筋とするのが普通のアプローチだろうか。しかし、この映画は面白い角度から題材に切り込んでみせるのである。好評を博したSFi TVシリーズ『バビロン5』などで知られる脚本家J・マイケル・ストラジンスキーは、事件の被害者のひとり(と考えられる)幼い息子を誘拐された母親の物語としてこれを描き、「事件」はその発端でしかないのである。事件を起点にして、最愛の息子を拉致された母親が遭遇することになる想像を絶する理不尽の連鎖、それこそがこの映画の本題である。主人公が、結果としてではあるが、小さな希望のともし火を胸に、腐りきった権力構造と孤独に闘い通していく姿にこそ、この映画の焦点が向けられている。そうなると、これはスクリーンの中と外の両方で官僚主義と闘ってきた男、クリント・イーストウッドが、いかにも惹かれそうな壮絶なドラマだ。

そのイーストウッド、常連となる親しいスタッフを中心に映画を撮り続けているのはご存知の通りだが、今回の作品では1920年代末期~30年代前半、その中での時の流れをも再現してみせる美術、衣装の完璧さに唸らされ、それを、退色した落ち着いた色調の中にイーストウッドの好む光と影の強烈なコントラストを効果的に配した撮影に感嘆させられる。この堂々たるルックスはどうだろう。イーストウッドの無駄なく、しかし、正攻法のストーリーテリングと相まって、ここには他の映画が持ち得ない風格が漂っている。新作にして、すでにクラシックの領域に達している、といってもいいだろう。

そして、演技陣だ。もちろん、各種映画賞で候補に挙げられたアンジェリーナ・ジョリーは、『17歳のカルテ』でアカデミー賞を獲って注目を集めるようになったここ10年くらいのキャリアのなかで最も充実した演技だ。一人息子を働きながら育てるシングル・マザー。お洒落な帽子を被り、ローラースケートを履いてフロアを移動するモダンで有能な電話交換台のスーパーバイザー。息子を思い流す涙。真っ当なことを正当に主張し通す強さ。昨秋の『ウォンテッド』も記憶に新しいなか、あそこからの落差には、単なる人気者として世間を騒がしているとはいえ、女優としての実力、底力を感じさせる。ところで近年、イーストウッドの映画は、たくさんのアカデミー賞俳優とノミニーを輩出してきているのはご存知の通りである。たとえば、『ミスティック・リバー』のショーン・ペン(主演賞受賞)、ティム・ロビンス(助演賞受賞)、マーシャ・ゲイ・ハーデン(助演賞ノミニート)、たとえば『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンク(主演賞受賞)、モーガン・フリーマン(助演賞受賞)、イーストウッド自身(主演賞ノミネート)。もともと実力のある俳優たちであるとはいえ、これは尋常なことではないし、偶然ではあり得ない。また、ジョン・マルコヴィッチ以外は名前の知られたスターがいないのだが、各々が役に溶け込んだかのように見えるキャスティングの的確さ、見事さも含め、そこはやはり、「監督の映画」なんだという思いを強くする。

この映画の終盤で絞首刑の様子がかなり克明に描かれている。立会人や見物人たちの前で、死を恐れ、嫌がる死刑囚が階段を上らされ、首に縄をまわされ、頭に袋をかけられ、足元の板が外れて落ちる。そこで終わりではない。落ちて宙吊りになった体が、足が、苦しそうにもがき、痙攣し、やがて動かなくなる。淡々とした撮り方だからこそ、生々しく、そして強烈なインパクトのあるシーンである。単に、「死刑が執行された」という事実を述べるだけであれば、ここまでの見せ方をするまい。そこから目をそらさなかった主人公の驚くべき強さを描くのが目的であろうし、この男が幼い子供たちに行った異常な犯罪に対する作り手の強い憎しみの現れでもあろう。しかし、同時に、ここまでしてこの男を死刑に処したところで、事件で失われた命も、主人公の息子も帰ってくるわけではないというやるせなさも伝わってくる。たとえ法の下の正義とはいえ、公権力が一人の人間の命を奪う「暴力」が死刑である。そして、近年の作品の中で暴力の否定というテーマを繰り返し描き続けてきたのがイーストウッドだ。そんな男が、このシーンを、このように撮ったことに対する興味は尽きない。

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