2/28/2009

Australia

オーストラリア(☆☆☆)


この映画は、先住民族であるアボリジニと白人入植者の混血の子供のナレーションで幕を開け、白豪主義の終焉と2008年2月に行われた"The Stolen Generation" に対する公式な謝罪についてのテロップで幕を閉じる。("The Stolen Generation" とは、白人と現地人のあいだに生まれた子供を「文明化」する目的で家族から引き離し、孤児院等に強制的に収容する政策によって、自らの出自と文化的背景を奪われた混血児たちのこと。この映画にも重要な役回りで登場。)そこに、この映画に『オーストラリア』というタイトルがつけられている真意を知る。単なるハッタリでも、伊達でもない。

先行して公開された米国などの市場で興行的に不発に終わったことで、宣伝に困った(に違いない)配給が「女性誌絶賛!」などとわけのわからないコピーを書くのも致し方ないことだろうし、その「女性誌」とやらの三文ライダーどもがとても表層的な観点から「絶賛」しているのも当然のことなのかもしれないが、この映画は単なるエピック・ロマンスでもなければ、観光誘致映画でもない。もちろん、オーストラリア出身のヒットメイカー、バズ・ラーマンが『ムーラン・ルージュ!』以来、久し振りに手掛ける作品で、オーストラリア出身の監督とスター俳優らが一同に会し、莫大な予算をかけて実現した企画であるというのも事実だ、が、それだから『オーストラリア』というのは短絡というものだろう。もちろん、第二次世界大戦勃発前後を舞台としたエピックであり、ニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンという美男美女が美麗な衣装に身を包んで主演するアドベンチャー・ロマンス大作の顔をしているし、オーストラリアの雄大でダイナミックな景観がシネマスコープ・サイズの横長画面にぐわーっと広がるのも見所で、それを売り物にするのが真っ当な商売というものだが、それだけでは、この作品のタイトルを説明できまい。

つまり、これは、『風と共に去りぬ』などで連想されるようなハリウッドの古典的エピック大作のスタイルを借りて、「オーストラリア」という国のなりたちと姿を描こうという野心的な企画なのである。ノンフィクションに逃げてダラダラ歴史を追うのではなく、フィクショナルな物語の中にそれを凝縮しようというわけだ。広大で豊かな大地に築かれた先住民族の文化的基盤。それを破壊しながら半ば暴力的に作られた白人入植者たちの世界と、今日に至る牧畜文化と食料供給国としての起源。異なる文化の不幸な衝突。いまだに正確な実態がつかめていない "The Stolen Generation" の問題や、その背後にあった白人文化の優越を信じて疑わぬ差別的文明観と、それに基づく政策。英連邦の一員としての依存関係から、やがてはアジア太平洋地域の一員として自立していく運命。この映画は、辛くて醜い現実を含めた過去の歴史を正面から受け止め、その上で、ひとつの国家としての将来への希望や展望を描こうとしているのである。それを描いているから、タイトルが『オーストラリア』、となるわけだ。

そうしてみると、この映画がアボリジニと白人の混血の少年であるとか、その祖父である呪術師に代表される「アボリジニ文化」を描いているのは、ハリウッド風のエピック大作にオーストラリア風味を足すための飾りではないということが明白であろう。クライマックスの日本軍による空襲が、アトランタ炎上を置き換えるための単なるスペクタクルであったり、個人の力を超えた大きな災厄の象徴である以上の意味を持ちうることも理解できるだろう。2時間45分の長尺であるが、前半は独占農場主の横暴と陰謀に知恵と勇気で立ち向かう弱小農場主という典型的な対立構造のなかで1500頭の肉牛を移動させるというスペクタクル西部劇として、後半は戦火迫る時代を背景にした愛憎のロマンス劇とスペクタクル・アクションとして、軽く楽しめてしまうところが逆に映画に対する誤解を招いているようにも思われる。バズ・ラーマンは、持ち味のスピード感溢れるリズムと編集は武器として残しながら、いつもの装飾過剰な作り物っぽさを売り物にするスタイルを捨て、いつになく正攻法である。考えてみれば、大仰な舞台設定に美男美女を並べたエピック大作、という仕掛けそのものが「作り物」の典型であるとすれば、これもまた、彼の得意とするところなのかもしれない。

最後にひとつ。ヒュー・ジャックマンの役柄だが、"drover" は「家畜などを移動させる者」の意で、通称に過ぎず、劇中では本名が登場しない。西部劇セッティングで「名無しの男」を演じる彼の容姿からは、どこか、若き日のクリント・イーストウッドの雰囲気が濃厚に漂ってくるのであった。

0 件のコメント:

コメントを投稿