5/08/2010

The Shutter Island

シャッター・アイランド(☆☆☆☆)


この映画は、見た目と違う、のである。

といっても、観客を騙すとか、どんでん返し、とか、そういう意味ではない。つまり、そもそも配給元が喧伝するような謎解きサスペンス・ミステリーではないのである。また、様々な映画の記憶やテクニックをマニアックに引用して塗り固めた、シネフィル的な知識をひけらかすだけの作品でもない。名匠が金稼ぎの必要から撮った分かりやすい娯楽作品というのも違う。

では一体なんなのか。すべての鍵は、原作にない、映画で付け加えられた主人公の最後の台詞にある。

Which would be worse, to live as a monster, or to die as a good man?

精神科監獄病棟を舞台に展開される物語である。主人公たちは、FBIの捜査官として監獄病棟のある島に向かい、あとかたもなく失踪したという女性の行方を追う、というのが話の発端である。その過程で、ナチス・ドイツで遭遇したユダヤ人収容所での凄惨な光景の記憶など、事実や幻想が入り乱れつつ、主人公の過去のトラウマがフラッシュバックで甦ってくる。一体、ここで何が起こっているのか、主人公の過去に何があったのか。

舞台となる病棟を作ったのが悪名高い「非米活動委員会」であると劇中で説明されている。非米活動委員会といえば、真っ先に想起されるものがハリウッドも吹き荒れた「赤狩り」である。証言や召喚を拒否した映画人たちは、結果的に職を追放され、表立った活動ができなくなった。そんななか、司法取引に応じて多数の仲間の名前を売ったのがエリア・カザンである。共産主義者の嫌疑があるものとして密告された人間が職を締め出される一方で、カザンはその後も第一線で活躍を続け、数々の作品を残した。

本作の監督、マーティン・スコセッシは、そのエリア・カザンの名誉回復に尽力する立場であった、と理解している。カザンに対するアカデミー賞の特別賞授与(1998)の場で、多くの「気骨ある」映画人が口を静かに結び、席を立つのを拒んだが、プレゼンターとして舞台の上に立っていたのがスコセッシ(と、盟友ロバート・デニーロ)であった。

ちなみに、スコセッシとデニーロといえば、アーウィン・ウィンクラー監督がハリウッドでの赤狩りを描いた『真実の瞬間 (1991)』で役者として共演している。これもまた、面白い符合だと思って、授賞式を見た覚えがある。

本作は、そういう流れのなかに位置づけると、違った意味を持って見えてくると思うのだ。先ほど引用した台詞が、違った意味をもって響いてくる。つまり、カザンのような才能ある映画人が、表舞台に残るために仲間を売るという非情な選択を迫られたことを、裏切り者として、monster として生きることを選ばざるを得ないところに追い込まれたこと。証言を拒み、良き人として表舞台から去っていった数々の映画人のこと。

この映画は、表面的にはデニス・ルヘインの変化球的(だがたまに見かける)パターンのミステリーの映画化で、ディカプリオは得意の眉間のしわを寄せて過去に悲劇的なトラウマを抱えた男を演じている。そのドラマにはなかなか見ごたえがあるし、映像・演出のテクニックもこなれていて一級品の風格がある。

そんなわけで、表面的にも十分楽しめる良作である。が、裏読みをすれば、その奥深さが一層心に残る1本になるように思う。他人の企画による分かりやすい娯楽映画を職人として仕上げたふりをしながら、なかなかの力作。スコセッシもまだまだ捨てたものではない。

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