3/04/2011

Doraemon (2011)

ドラえもん 新・のび太の鉄人兵団 はばたけ天使たち(☆☆★)


なんだろう、この違和感は。

いや、無論、声優や絵柄のことなんかじゃないよ。私は、「大山」ドラを懐かしみ、今のシリーズを頭ごなしに否定する立場、じゃない。原作が好き、藤子Fの作品が好き、そして映画(一般)が好き、それだけのことなんだが。

藤子F氏が存命中の作品は、「思いがけず感動させられる」作品であった、とは思う。が、それを当たり前のように受け止めてきた世代が作り手に回るようになったからなのか、昨今のドラえもん映画は、「泣かせる」こと、「感動させる」ことが前面に出過ぎていて、そこが気持ち悪くて仕方がない。結果として感動してもらえる作品なのではなく、感動させることを目的とした、ある種の本末転倒がそこにあるように思うのである。これは、この風潮は、誰がなんと言おうと、断固否定する立場に立ちたい。

で、ここからの話は、そういう前提にたってのことだとして読んでいただきたい。今年の作品固有の問題かというと、そうでないような気もするのだが、それはさておくとしよう。

本作は、わりと丁寧に、そして良心的に作られた作品といってもよいだろう。そこまで否定するつもりはないが、どうも、釈然としない。これは、説明過多、感情過多で、しかも子供に媚びすぎではないのか。また、これも重要な問題だと思うのだが、原作・大長編シリーズの中でも、特に本作に固有の面白さが分かっていないのではないか。

ご存知のとおり、本作は、人気作『のび太の鉄人兵団』のリメイク(というか、2度目の映画化)である。表面的に一番大きな改変ポイントは、土木作業用ロボットの「頭脳」を、子供っぽく擬人化されたヒヨコ形状のマスコット・キャラクターとして描いたことである。

原作・前作ではこの「頭脳」に対し、ドリルを使った人格改造ともとれる表現があったのを覚えているだろうか。それは乱暴だと、腕力より話し合いで解決という方向に変えたいという発想は良し。「頭脳」は改造してよくても、ゲストキャラクターであるリルルにはそれをしない、という、ダブル・スタンダードといえる状態だったのも気になってのことだろう。

が。しかし。「人格改造」がダメで、同意を得ないまま外見を自分たちにとって<親しみやすい>ものへと外科的に整形手術をするのが許容されるという価値観はなんなのだろう。一体全体、そういう「思想」は、どこからくるものなのか。中身も気に入らないが、まず見た目を「可愛らしく」変えてしまえというやり口がどれほど乱暴で、差別的であることか。そのことに何故、誰も気がつかず、異論を唱えなかったのか。まずこの時点で、私は寒気がするほどの薄気味悪さを感じ、本作に対する印象が決定的に悪くなった。

もし、上記に上げた人格改造やダブル・スタンダードの問題だけであれば、こんな手もある。例えば、「地球侵略のために偏った価値観をプログラムされていた(本来無害な)単純作業用の人工知能を、マインド・コントロールから解放する」くらいの表現にするとか。

いや、それでは駄目な理由があったのだと思う。この気持ち悪い整形ヒヨコを出したのは、単純に上記のような理由だけではなかったはずなのだ。

このマスコット・キャラクターは、そういう表層的な矛盾解決のためだけに登場させられたわけではない。そうではなくて、のび太や静香たちとの交流によって変化する敵の先兵・リルルの心境の変化を、誰にでも分かりやすく言葉で語って見せ、なおかつ、あざとく観客の涙を絞るために用意されたものなのだ。そのために、この作業ロボットの「頭脳」が、本国では被差別種であったこと、リルルとの交流や絆というバックストーリーまで用意しているあたり、必死だなぁ、と思うのである。

しかし、原作(あるいは前作)は、そうまでしなければ説明不足だっただろうか。感動不足だったのか。そんなことはあるまい。そうしなければ(原題の観客には、あるいは子供の観客には)伝わらないと観客の知性をナめてかかっているのである。そうしなければ感動できないと思い込んでいるだけのことではないだろうか。

これは、「泣ける」を売り物にする陳腐なTVドラマや安っぽい邦画と同じビョーキだ。その病に、この作品も侵されている。

それに、あの女子供ウけを狙った整形ヒヨコの舌っ足らずな子供っぽさはなんなのか。もちろん、その造形そのものが藤子Fらしくないとまではいわない。「チンプイ」あたりに登場したマール星人のように見えなくもないデザインだからね。しかしボーリング球としか思えない丸い玉がぴょこぴょこ飛び跳ねてオヤジ声で恐ろしい計画を語り、悪態をつくというシュールさが藤子Fの真骨頂だとしたら、ピッポとかいう名をつけられたこのキャラクターはいかにも子供に媚びているだけで気持ち悪いったらありゃしない。

あるいは、「媚び」ではないのかもしれない。もしかしたら、「ボーリング球」を動かして感情表現をしてみせ、なおかつ観客の感情移入を誘うのは難しい、ということなのかもしれない。でも、だとしたら、それこそアニメーション的には腕の見せ所のはずで、それをやってのけることができないと、逃げたと謗られても致し方ないのではないか。

申し訳ないが、これでもまだ貶し足りない。

この物語は異星人による侵略SFであり、価値観の異なる2つの世界の戦争(War of the Worlds)、しかも地球側にとって、主人公らにとって絶望的に不利な闘い、である。それを勇気や知恵、SF的な工夫によって乗り越えていく。今回のリメイクは、 そういう物語であることからくる恐怖感や絶望感、孤独や不安といった感情や、スリル、サスペンスといった要素が全く欠落しており、その点では完全な失敗作である。

冒頭、敵国「メカトピア」が地球を侵略しようとしていることが明示され、更に、ゲストキャラクターであるリルルもそこで登場させている。それが、そもそも「わかって」いない。巨大なロボットなり、リルルといったキャラクターの正体、目的が伏せられていることから生じる不安感やサスペンスが面白いのではないのか。ロボットに搭載された兵器の破壊力に気づいたとき、その目的がリルルの口から明かされたときの「のび太」(と読者)の衝撃。それをむざむざ手放すなど、愚の骨頂。

圧倒的に不利な状況で鏡面世界に敵の兵団を誘いこむ作戦を立て、実行に移すプロセスを精緻に描かないのは何故なのか。金属探知する防衛線を張り、無人の街をパトロールする緊張感あふれるシーンはどこに消えたのか。襲われた静香を危ういところでのび太が救うという名シーンは、異変を察知して静香の家に向かうのび太たちを見せてしまったら台無しだということに何故気付かないのか。

感動を売り物にするまえにやるべきことがたくさんあるはずである。そのなかのひとつは、映画好きでSF好きだった原作者が毎回意匠を凝らして作り出した、ついつい大人も夢中になってしまうようなストーリーを、その基本に忠実に語ることであるはずだ。

ただただ観客の涙を絞りたいなら、「鉄人兵団」である必要はないし、もっといえば、ドラえもんである必要すら、ない。本作は、仕切りなおした新シリーズのなかでは、(また、4本目となるリメイク映画のなかでは、)「恐竜」と並び出来がよい方だとは思うが、いや、見せて欲しいのはこんなんじゃないんだ。正直言って心底がっかりした。悲しい。

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