3/16/2009

The Curious Case of Benjamin Button

ベンジャミン・バトン 数奇な人生(☆☆☆)


ハリケーン、カトリーナが迫るニューオリンズの、とある病室で静かに幕を開けた映画が、一気に時を遡り、逆回転に時を刻む時計のエピソードを語り始めると、スクリーンから不思議な力があふれ出す。CGI の進歩によってなんでも描けるようになってしまった昨今、しかし、それと同時に映画の画面からはある種の「魔法」が失われたのではないだろうか。凄いセット、凄い映像効果も、なんだ、CGI かと思えばスゴくもなんともないように感じてしまうし、そういう先入観でみつめるスクリーンからは、見るものを別世界にいざなう力が確実に衰えてきている。ところが、「80歳の生理機能を持つ体で生まれ、年を経るごとに体が若返っていく」という男を主人公にしたこの怪奇譚の画面には、間違いなくそれがある。観客を途方もない法螺話に連れ込む力、そう、映画のマジック、だ。この映画の見所は、そこに尽きる。

思えば、デイヴィッド・フィンチャーという映像作家の魅力は、そこにあったのだと思う。不本意な作品として世に出さざるを得なかったデビュー作『エイリアン3』にしてから、作品としての完成度は低く、お話も退屈で、お世辞にも褒められたものではなかったが、その映像世界には不思議な魅力が満ちていて、繰り返し眺めていたいと思わせるなにかがあった。『セブン』や『ファイトクラブ』でも独特の「世界」を構築して見せたこの男は、ある種の怪奇性を帯びた本作の物語を、現実と隣り合わせに存在しているのかもしれない、ある種のファンタジー世界に封印して見せた。デジタル技術を駆使しながら描かれる本作の世界は、単なるリアルとは異なる不思議な色を帯びている。摩訶不思議な宿命を背負った男の、どんどん若返っていく肉体を完璧に視覚化した技術もさることながら、そんな大仕掛けを借りなければ語れない物語のテーマへと迫っていく語り口もまた、堂々たるものである。

脚本を書いたのは、ユーモア小説(バカ話、ともいう)『フォレスト・ガンプ』を脚色したことでも知られるエリック・ロスである。Fスコット・フィッツジェラルドの小説にあるアイディアを元に、奇妙な男の一生、出会いと別れを追っていくこの脚本は、確かに『フォレスト・ガンプ』と同じ方法論に拠って構成されている。ある程度の長い期間にわたって一人の人間の人生を追う物語なので、どこか似通ってくるのも不思議ではないという趣旨の本人コメントがあったようだが、構成上の類似はそのレベルに留まるものではない。しかし、確かに似ているこの二本、似ているからこそ際立って感じられるのがその違いである。主人公を歴史の立会人として楽観的にアメリカ現代史を描いて見せることに主眼が置かれたのが『フォレスト・ガンプ』なら、この作品では主人公の生きた背景としての歴史を描こうという意図は希薄である。「歴史」的な要素は、ただただ、物語の中で時間の経過を見せるための道具でしかない。

それよりも、この映画に漂う達観、そして人として避けようのない死の影はどうだろう。肉体と精神のアンバランスを宿命として背負った男の目を通して、人生について、人の生死についての考察を加えることこそが、この作品の中心テーマなのである。そこに、同じように映像技術に熟達していながら監督としての資質や気質がまったく異なるロバート・ゼメキスとデイヴィッド・フィンチャーの個性が重なることで、映画はまったく異なる肌触りを持ったものとして完成したのである。ただ、観客をたっぷりとエンターテインするよりも、冷静に、客観的な距離を置いたフィンチャーの語り口は、滑らかで退屈こそさせないものの、どこかあっさりしており、起伏を欠く。その距離感に知性を感じさせられるが、その分、淡白な印象を与える作品に仕上がっている。

キャスティングが面白い。フィンチャーとは3度目の顔合わせとなるブラッド・ピットであるが、この映画におけるミソは、技術的な助けを借りてどんどん若返っていくブラッド・ピットが、時間の経過と共に、あの『リバー・ランズ・スルー・イット』で見せた、映画好きの脳裏に焼きついて離れないあの輝きを、次第に取り戻していくところである。あの映画、あの一瞬、特別なスターだけが体現できる奇跡的なオーラを、まさか今、追体験できるとは想像だにできない衝撃的な出来事であるが、同じ衝撃は、他の誰かでは再現しようがないという一点において、この映画のブラッド・ピットに代わるキャスティングは考えられないものである。ヒロインを演じるケイト・ブランシェットは、そのあまりに整った美しさと同根の、ある種、能面が持つような得体の知れない薄気味の悪さがポイントではないだろうか。本作の怪奇性を伴ったファンタジー世界との親和性を考えたとき、ここには「親しみやすい隣のお姉さん」的な女優の出番はない。ケイト・ブランシェットのように、何かを超越した存在感こそよく似合うというものだ。

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