6/13/2009

The Wrestler

レスラー(☆☆☆☆)


本作の主人公は、ローカルな会場での巡業で食いつなぐ80年代に栄光を極めた初老のプロレスラー、ランディ" the RAM" ロビンソンである。トレイラー・パークに一人暮らし、家賃の支払にもこと欠くなか、平日はスーパーで働き、週末には満身創痍の体に鞭を打つように巡業に出かける生活である。もちろん愛車は(自らのリング・ネームにかけて)クライスラーの「Dodge Ram」だ。家賃未払いで締め出されたときは車の中で一夜を明かす。ある日の試合後、控え室で心筋梗塞を起こした男は、心臓のバイパス手術を受けて一命を取り留める。いつ復帰できるかと尋ねる男に、医師は引退を勧告するのだった。いったんは普通の生活をしようと試みるが、元来プロレス以外の世界を知らない不器用な男だ。結局最後は自らの命も顧みず、そこで死ぬのが本望とばかりに観客の歓声響くマットの上に戻っていく、そういうという話である。筋立てだけをなぞるなら、やくざ映画などで何度も繰り返されてきた定番中の定番だといえるだろう。そんな話が、(WWEのような上場企業が主催するド派手なイベントとは天と地ほどに異なる)うらびれた地方巡業のプロレスを舞台にして語られていく。

プロレスは「ショウ」だ。中でも米国のそれは過剰なほどに肉体を酷使する「ショウ・ビジネス」である。そこにはキャラクターがいて、筋書きがあり、演出がある。だからといってそれを演じてみせるレスラーたちの肉体的過酷さが和らぐというものでもない。むしろ、観客を熱狂させるためなら何でもありの世界だからこその、目を背けたくなるような厳しさがそこにある。本作のみどころのひとつは、そんなプロレスの舞台裏を飾ることなく切り取って見せるところにある。この映画には、主人公と同じような境遇の、傷だらけ、薬漬けの男たちが登場する。いつか成功を掴むことを夢見た若者たちも登場する。いかにショウを盛り上げ、観客を熱狂させるか試合の流れやキメ技を打ち合わせ、凶器に使う小道具を探しにハードウェア・ストアに足を運び、リングの上では建築用の大型ホチキスを体に打ち付けたり、仕込んでおいた剃刀の刃で流血を演出したりする。痛々しくもあるが、あまりに真剣であるがゆえのそこはかとない可笑しさに片目を塞ぎつつも笑ってしまう、そんな不思議にユルい世界がつづられていく。そんな世界と、そこに生きている人間の姿が誇張なしに描かれていく。

そう、これはフィクションだし、そこにいるのは役者であるし、どのシーンをひとつとっても狙い通りに撮るための「演出」が介在しているのは分かっているつもりである。しかし、この映画を見ていると、実在する人間たちの現実の姿を、(演出などというものを抜きにして)ただそのままカメラで切り取ってみせているのではないかという錯覚を覚えてしまう。これはいわゆるニセ・ドキュメントである「モキュメンタリー」スタイルの作品ではない。それに、手持ちカメラで撮影対象に後ろから迫っていくような特徴的なスタイルが印象的だからといって「ドキュメンタリー・タッチ」などという安易な言葉で括ってしまうことには激しく抵抗を覚える。しかし、かつて、『Requiem for a Dream』の超絶的なモンタージュに代表されるような、突き抜けて技巧的な作品作りで名声を得たダーレン・アロノフスキー監督が、かくも斯様なスタイルで作品を完成させたという事実に驚きを禁じえない。技巧や小細工を配してキャラクターの内面に深く入り込んでいく静かな気迫。例えるなら、サム・ライミが得意な大技・小技を抑制して『シンプル・プラン』を撮ってみせたときの驚きと同様の衝撃である。この人が、こんな成熟した映画を撮れるとは創造だにしなかった。

もちろん、本作を忘れ得ない作品にしているのは世界中で賞賛を集めたミッキー・ロークであることに異論はない。90年台以降も、コッポラ、スタローン、ロドリゲス、トニー・スコットらが脇役や悪役として彼を起用した作品を見てきたし、それらの作品での曲者ぶりや独特の存在感を知っているつもりであるから、今更「カムバック」だなどというつもりはない。が、久々の主演作であるのは間違いない。それに、スタジオから違う役者の起用を強く要求されながらもロークのキャスティングにこだわりぬいて見せた監督を意気に感じたのもそうだろう。体重を大幅に増やし、正にロートルのプロレスラーといった肉体を作り上げ、その圧倒的な身体性をもって「ランディ"The RAM" ロビンソン」というキャラクターを作り上げたロークの入魂の演技は、もはや演技を超えたところで神々しく輝いているかのようである。80年代に絶頂を極めた男がその後に辿った挫折と艱難辛苦は、この役柄の中に確かに結実している。演出のタッチと相まって、現実と虚構の壁が取り払われた魔法のような時間を、我々観客はスクリーンのこちら側で共有することができるのである。この「経験」を幸福といわずしてなんといおうか。

陰鬱であるがユニークなユーモアのセンスをもった映画のなかで、印象に残る美しいシーンが2つある。ひとつは、主人公と疎遠になっていた娘とが海岸沿いのボードウォークを歩くシーンである。もうひとつは、主人公とストリップ・ダンサーが心の距離を縮め、昼間のバーで過ごすひとときだ。いずれも映画の中盤に用意された、主人公の人生にかすかな希望を感じさせるシーンだが、いずれも束の間の喜びに終わるこことが運命付けられたかのような悲しみにも満ちている。それぞれのシーンで、主人公に寄り添うのがエヴァン・レイチェル・ウッドとマリサ・トメイだ。ミッキー・ロークへの賞賛の影で忘れてはならないのは、脇をしっかりと固めた助演女優たちである。

父親に対する愛憎に切り裂かれた心の痛みを好演しているエヴァン・レイチェル・ウッドが昨今の成長株であることはご存知の通りだが、なんといっても、主人公が心を寄せるストリップ・ダンサーを演じたマリサ・トメイがすごいのだ。マリサ・トメイといえば、まだ若いときに(日本では冷遇されたコメディ)『いとこのビニー(1992)』の演技でアカデミー賞を獲ってしまったはよいが、その後、鳴かず飛ばずで年齢を重ねてしまった不遇のひとだと思っている。アカデミーの助演女優賞は、ぽっと出のフレッシュな女優に今後の期待を込めて送られるケースが良くあるのだが、彼女なぞはその典型といえよう。アイドル的コメディエンヌから脱皮を試み、演技面では地味ながらじわじわと評価を高めてきた44歳の彼女が肌も露に演ずるのは、9歳になる息子がいることを隠し、場末のストリップ・クラブで踊る日陰のシングル・マザーである。仕事とプライベートを厳格に分けることで毎日に折り合いをつけている、そんな彼女を、単なる「都合の良い女」ではなく、リアリティのある一人の人間として描いた脚本も素晴らしいが、このキャラクターに深い人間味を与えたトメイの演技もまた、ミッキー・ロークに負けるものではないと思う。

奇しくも本作の日本公開の初日となる2009年6月13日(土)、日本のベテラン・プロレスラーが試合の途中、ファンの歓声の中で命を落とすという「事故」があったことが報じられた。私は体の大きな男たちが裸でぶつかりあい、血を流す姿をエンターテインメントとして楽しむという趣味を持ち合わせてはいないから余計にそう思うのだが、ファンの歓声もまた、因果で残酷なものだ。熱狂する観客の前で、自らの命を差し出してみせかのようにトップロープに登り、ポーズを決め、ファン待望の大技「Ram Jam」を決めるため、限界を超えた心臓を抱きながら宙に舞うミッキー・ローク=ランディ・ロビンソンの姿は、どこか殉教者のような美しさに満ちていた。それまで技巧らしい技巧を抑えに抑えてきた映画は、この大舞台における最高の一瞬を切り取るために、ここぞとばかりのショットと編集を繰り出してみせる。直後、画面の暗転が意味するところは単に映画の終わりを意味するだけのものではない。

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