3/27/2009

Doubt

ダウト あるカトリック学校で(☆☆☆★)

主要な登場人物は4人である。その4人が、全員アカデミー賞にノミネートされたのだからスゴい。これは役者の演技を見せる映画であり、役者の演技をこそ見る映画なのである。ジョン・パトリック・シャンリィがトニー賞&ピュリッツァー賞W受賞の戯曲を自らの手で映画化した作品であるが、いかにも舞台劇というスタイルのこの映画、これをわざわざ映画にする意味がどこにあったのか、と存在意義を問われてもしかたがないように思う。しかし、ひとつだけ、はっきりいえることは、映画化のおかげで、ここに揃った芸達者な俳優たちの文字通り火花散る演技合戦を見ることができたのである。そのことだけで、十分といえる充実した104分である。

舞台は、JFK暗殺事件の衝撃も生々しい1964年、ブルックリンのカトリック教会併設の学校である。ここの神父を演じるのが曲者フィリップ・シーモア・ホフマンである。カトリック教会も時代の流れにあわせて開放的になり、信者に歩み寄っていくべきであると考える温厚かつ進取的な人物として描かれている。彼と相対することになるのが学校の校長であり、これを演じるのがメリル・ストリープだ。こちらはガチガチに保守的で、自分の役割としても厳格さであり、不寛容さを前面に押し出すことを厭わない人物である。この二人、どう考えてもはじめから反りがあっていなかったはずだ。そこに、「疑念(=doubt)」が持ち上がる。白人ばかりの学校にやってきて馴染めないでいる黒人の少年。神父がこの少年を連れ出したが、戻ってきた少年の息がアルコール臭かったと、また、少年の態度がどことなくおかしかったと、そう伝え聞いた校長は、神父と少年の「不適切」な関係を疑い、執拗な追求を始めるのである。校長に疑念の種を撒いてしまったのは、エイミー・アダムスが演じる純真そのものを絵に描いたようなシスターである。もう一人の重要な人物は、問題になる黒人の少年の母親で、これを演じるのがエイミー・アダムスと並んで助演女優賞にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスである。

この映画で大事なところは、神父と少年のあいだに不適切な関係があったのかどうか、というところではない。神父が善人なのか、疑わしい人物なのかということも関係ないし、真実は最後まで明かされない。不適切な関係があったに違いないという「疑念」に取り付かれるうちに疑いが大きくなり、誰にも幸福をもたらさない結末へと突き進んでいってしまうプロセスそのものが映画が目を向けるポイントなのである。それとて、悪意によるものではない。むしろ、信念に基づき、自己犠牲すらも厭わぬ善意の行為であるから余計にタチが悪いともいえるし、恐ろしいともいえるのである。時代や価値観が大きな転換点を迎えていた60年代を舞台にすることで、神父と校長との緊張関係を重層的につむぎだしているが、テーマそのものは現代に通ずる普遍性を持っている。なにしろ、ブッシュが存在した証拠の見つからなかった「大量破壊兵器」を理由にイラクに戦争をしかけた時代に書かれた戯曲なのだ。誰が正しかったのか、などというのは、疑念がもたらした結果の惨状を前にしてさしたる重要性を持たない。誰が何を云おうと、取り返しはつかない。

フィリップ・シーモア・ホフマンは、その人柄の良さ、寛容さや知性の高さ、現代を生きる人間の価値観からも好感を持ちやすい人物でありながら、「疑惑」が真実なのかどうなのか、どちらにも解釈できる曖昧さを残した演技が最高である。こういうどこか得体の知れない感じ、裏表があるのかないのかわからない両義性みたいなものを演じることにかけては、彼の十八番ではないか、という感じがする。一方で、これで15回目のアカデミー賞ノミネートとなったメリル・ストリープは、近作『マンマ・ミーア!』との落差も凄まじく、揺ぎ無い信念ゆえに疑念に取り付かれて歪んでいく様をかなり大げさに演じているといえよう。その迫力たるやすごく、眼鏡越しの視線には観客も凍りつくほどであるが、少し類型的な演技になってしまっているかもしれない。本作の見所は、そのメリル・ストリープとヴィオラ・デイヴィスが会話を交わすシーンで、たかだか10分程度のこのシーンでヴィオラ・デイヴィスの見せた演技の破壊力は、さしもの大女優もたじたじで映画全体をさらっていくほどのインパクトがあった。注意深く核心を避け、いいにくい言葉を避けながら、間接的な表現で語りつくそうとする脚本は役者にとっても、観客にとっても刺激的な経験だといえるだろう。

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