3/18/2009

Doraemon 2009

ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史(☆☆)


さて、毎年春の恒例となっている「映画・ドラえもん」である。通算29作。リニューアル後の「ドラえもん」映画として第4作、題材は『のび太の恐竜 2006』『のび太の新・魔界大冒険』に次ぐ、藤子F原作を下にした3本目のリメイクである。今回、シリーズ初期の傑作と名高い「宇宙開拓史」を脚色したのは『のび太の新・魔界大冒険』に続く2本目の登板となるシンエイ動画勤務経験を持つ小説家、真保裕一である。まあ、正直、その時点で嫌な予感がしたのである。だって、「新・魔界大冒険」は酷かったからね。原作のあら捜しに終始してあちこち手直しをしたものの、それが結果として作品の面白さにはつながっていないという寂しさ。変な設定で無意味な感動押し売りを付け加えたセンスの悪さ。いらないことをして尺を消費した挙句、タイトルどおりの「魔界」の「大冒険」をばっさり削る意味不明。あのとき、このひとには2度とドラえもんに関わってほしくない、と思ったものだ。

そして本作。結論を先にいえば、やはりがっかりする出来栄えであった。スタイリッシュだった『のび太の恐竜2006』には劣るが、アニメーションそのものとしては頑張っていると思うし、ここのところ続けている小さな遊びの挿入も楽しい。しかし、脚本が酷い。もちろん、原作がよくできているから底抜けになったりはしない。それなりに楽しめる作品であることまでは否定しない。旧作映画版において原作から改変を加えられていたクライマックスの「決闘」をまがりなりにも復活させていることも気持ちとしては評価したい。しかしその描き方は中途半端で、「決闘」の必要性が見えない描写になってしまっている中途半端さはいただけないだろう。それに、何よりも原作を離れて創作されたキャラクターやエピソード、設定の変更がどれひとつとってもうまくいっていないのだ。それは、どう考えても「脚色」を担当した真保裕一の責任が大きいと思うのである。藤子Fの原作をあれこれいじることでより良いものにできるなどという思い上がりを捨て、何も足さず、何も引かず、原作どおりに素直に再映画化してくれさえすれば、こんな不満とは無縁でいられただろうにね。

色々考えていたのだが、なによりも重要な問題として、脚本家だけでなくスタッフも含め、この映画の作り手たちは、原作『のび太の宇宙開拓史』が、SF(すこしふしぎな)アドベンチャーである前に「西部劇」であるということが理解できていないに違いない、という点に思い至った。おそらく、当然のこととして、頭では理解しているのだろう。藤子Fが何を下敷きにしてこの話を作ったか、知識としては知っていないわけがない。しかし、原作者や旧作のスタッフたちの世代が「西部劇」というジャンルをリアルタイムに見て、楽しんできたのに比して、脚色を担当した真保裕一を筆頭にして、今のスタッフたちはみな、西部劇というものから縁遠い人生を送ってきているのではないか。本作の場合、それは致命的なことであった、と思う。西部劇がわからず、そこに愛がないのなら、敢えてこの作品のリメイクに手を出すべきではなかった。他に選択肢だってあっただろうと思うのだ。

例えば、この新版では、舞台となる植民星「コーヤコーヤ星」というのが、国家権力や制度の手が行き届かない「フロンティア」であるという認識が決定的に不足している。だから、そういう描写も成されていない。だいたい、悪事に対して「警察」が動けないのは「証拠」がないからだ、という理屈や台詞が成り立ってしまう世界が、どうして「西部劇」足りうるのか。法の目が及ばない辺境の地だから、住民たちはお金を出し合って保安官を雇う。それが「西部劇」の世界だろう。しかし、過去の出来事ゆえか、人々の事なかれ主義ゆえか、みなが恐れをなしてしまって保安官の引受け手もいない、というのが正しく「ウェスタン」の状況設定というものだろう。そんな無法がまかり通る荒野にふらりと現れた通りすがりのヒーローが「のび太」であり、自衛の手段ももたない人々と友情を結び、悪を倒し、見返りも求めずに去っていく。のび太、come back!これは、そもそもそういう話だったんじゃないのか。ねぇ?

原作では植民星である「コーヤコーヤ星」とは別に、悪徳企業体の本社なども置かれている「トカイトカイ星」を登場させることで、「コーヤコーヤ星」のフロンティア性を際立たせていた。この新版では「トカイトカイ星」が登場せず、なぜかフロンティア(=荒野)であるはずの「コーヤコーヤ星」に、たいそうな町まで存在するという描写になっている。こうした改変は主軸となるストーリーを大きく変えるものではないかもしれないが、骨格を成す世界観に対する無理解が成せる業であることは云うまでもない。

西部劇に対する無理解といえば、新たに創作されたキャラクターやエピソードもそうだ。開拓民のひとりとして父親の死を胸に抱えた少女・モリーナを登場させ、死んだと思われていた父親との再会という感動のドラマを差し込むというまったくもって余計な改変をしているのだが、ここでいう「父親」が宇宙船技術者というのだから愚かだというのである。西部劇の伝統に忠実であるなら、わけありの少女の父親は「無法まかり通る開拓星においてひとり正義を貫いた保安官」でなければなるまい。そうすれば、後段で、その娘が町の人々の他力本願をなじるシーンも活きてくるだろう。行きがかり上「保安官」の役割を引受けることになるのび太とのドラマも膨らませることができたはずだ。

そもそも、「モリーナ」と関連するエピソードの追加に関して云えば、そうした設定だけでなく、それ自体がうまく機能していないのだから、脚本家の腕とセンスの問題は相当に根深いのである。本筋は、のび太が「ロップルくん」の危機を夢に見るところから始まるわけだが、その前にワンクッション、この少女と父親に関係する主筋とは関係のない話を挟むことで、物語への導入が遅れ、テンポが悪くなっている。のび太と「ロップルくん」の精神的つながりが主軸になるべきところで、モリーナの視点までが夢に混入してくるというのも軸のぶれにつながっている。のび太の畳の下が最初から不安定な超空間になっていて、「ロップルくん」の宇宙船と謎の星、2つの異なる場所につながっているという設定もダメだ。はじめはある程度安定してつながっているかのように思われた2つの世界の結節点が、悪者による邪魔立て(宇宙船の爆破)をきっかけに離れていくというサスペンスや感情的な切なさがこれによって失われた。宇宙船の爆破は、今回の改変によってモリーナに責任があることになったが、それゆえに、彼女の(裏切り)行為が必然とはいえ切ない別れのきっかけになるということを、理屈だけではなく、絵としても明確に見せることが重要だったはず。そこのところを曖昧にしてしまったのは失敗としか言いようがない。

それよりなにより、この「モリーナ」というキャラクターとそのエピソードが物語の主筋に絡んでこないこと自体がおかしい。もともと開拓星に命を捧げたのは「ロップルくん」の父親だったはず。そういう役割を敢えてこのキャラクターに分散させたことが、物語の分厚さにまったく寄与していないのである。いってみれば存在しなくても話が成立する程度の単なる脇役で、そんなキャラクターと、その肉親との再会を物語のクライマックスにもってくるという構成はどう考えても間違っているとしか思えない。そうまでして陳腐な「感動」の押し売りをしたいのか。そういえば、ゲスト・キャラクターと肉親との再会といえば、「新・魔界大冒険」で付け加えられた改悪のひとつであったわけだが、正直、バカの一つ覚えのように「肉親との再会」ネタを持ち出してきたところに、書き手の引き出しの少なさを見る。

西部開拓時代に荒野を駆け抜けた大型蒸気機関車にバッファローのイメージを足し合わせ、(しかも語呂合わせも楽しい)「ブル・トレイン」が登場せず、普通の宇宙船になってしまったことも改悪といえよう。西部劇をイメージさせる意匠やデザインを排除する意図がわからない。また、惑星のコアにまで達した「コア破壊装置」を止めるのに、力ずくで引き抜くというのも無茶苦茶な話。物語の前段で「タイム・フロシキ」を登場させているのだから、原作どおり、素直にそれを伏線とすればよいのである。知らぬ間に時間が逆戻りしてました、というほうが、よほどセンス・オブ・ワンダーであり、SF(すこしふしぎ)な、いかにも藤子F的な結末だ。クライマックスからラストへの無理な展開、証拠を掴んだ警察が遂に登場するに至る流れも、全てモリーナと父親の再会に決着をつけるためのものであるとするなら、それこそ本末転倒、なんのための新キャラ、新エピソードなのやらということ。頼むから、藤子Fの傑作に泥を塗るような行為は慎んでもらいたい。

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