3/24/2009

Yatter-Man

ヤッターマン(☆☆☆)


例のTVドラマで「ヤッター!」ってのが流行ったから、海外セールスにもプラスになったりして、ね。

さて、『ヤッターマン』である。タツノコ・アニメを、「タイムボカン」シリーズを、ある程度リアルタイムに楽しんできた世代の一人としては、何はともあれとりあえず見に行かねばなるまい。。。一抹の不安を抱えつつ劇場に足を運んだのだが、存外に楽しい時間を過ごすことができた。基本的に三池作品とは相性が悪い当方なので、多くを期待していたわけではない。それを思えば、嬉しい誤算といった感じである。何が楽しかったかといえば、もちろん、懐かしさという要素を抜きにしては語れまい。しかし、それ以上に、作り手が真剣に遊んでいるところ、真面目にバカをやっているところが楽しくて仕方がなかった。

そういえば、昨年は『スピードレーサー (マッハGo Go GO!)』があった。同じタツノコ作品の映画化という意味で、作品に対する愛情よりも作り手自らへのナルシシスティックな自己愛が勝った大愚作『キャシャーン』は原典への冒涜以外の何者でもなかったが、ウォシャウスキー・ブラザーズの『スピードレーサー』には、原典に対する思い入れとリスペクトが溢れていて、なかなか楽しい作品に仕上がっていたことは、いまさら言及するまでのこともないだろう。この『ヤッターマン』も同様、原典に対する愛が溢れた作品である。が、2つの作品のアプローチは似て非なるものである。まるでオリジナルに夢中だった子供が、子供のままの心で、持てる技術の全てを発揮して「完コピ」を目論んだ珍作が『スピードレーサー』だったとするなら、大人になったかつての子供が、大人として、自分なりのフィルターを通すことでオリジナルを再構築したのが『ヤッターマン』といえようか。

つまり、この映画版『ヤッターマン』の面白さがどこにあるのかというと、あの原典をそのまま再現する(あるいは、敢えてしない)ことによって生まれる距離感、つまりは、オリジナルを客観的に考察・解体する過程から生みだされる批評精神やお遊びなのではないか、ということなのである。たとえば、ヤッターマンの2人がヤッターワンの左右にぶら下がるようにして出動するビジュアルをそのまま絵にすると、どうにも乗り心地が悪そうだし、疲れてしまいそうだよね、、、というのがそのままギャグになっていること。彼らがぶら下がったまま、「地球の裏表、ひとっとび」をアニメの通りに再現することから生まれるバカっぽさ。これらの笑いはアニメをそのまま再現するだけでは生み出されない批評的、違う言葉で言うなら、(セルフ)パロディとしての面白さである。また、盛り込まれたギャグの数々にしても毒や悪意が意識的に増幅されており、決して「そのまま」に留まらないのだ。例えばかつての定番ギャグである「全国の女子高生のみなさん」が本作で引用されるとき、そこには明らかに、誰もが見てみぬふりをしていたその「本質的なアブなさ」が曝け出されていたりするのである。

まあ、なにぶんにも、このシリーズの特徴のひとつは子供番組という枠組みを超えて破天荒に暴走する大人のオフザケと、完璧にパターン化された物語のなかで炸裂する、アニメの構造そのものを吹き飛ばしかねない革命的かつ危ないギャグにあったわけだから、単にそれを「完コピ」するだけでは本質的な面白さには迫れまい。かつての視聴者が大人になって、かつてのスタッフと同じ大人の目線で再構築するというアプローチは、本作を成功させる上で不可避だったということができるだろう。

キャスティングのなかで一番違和感のあったのはドロンジョ様を演じた深田恭子の起用であったが、脚本が求めるドロンジョ像がアニメ版とは違った方向性を持っていることもあって、しばらく見ているうちに気にならなくなる。彼女はもちろんのこと、映画を成立させるための部品として、どの役者もよい仕事を見せてくれている。冒頭の廃墟となった渋山をはじめ、美術は異様な張り切りぶりが画面から伝わってきて微笑ましい。映画版だからといって変に構成を崩さず、TVシリーズ1回分の構成を何度か繰り返してエンドまでもっていくアイディアも慧眼。ただ、内容から考えて126分の尺は少々長く、いくら情報量満載で楽しいとはいってもダレる場面が何箇所かあったのは残念だった。ぐだぐだでテンポの悪いところまで再現しなくても良かったんじゃないのかね。

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