3/28/2009

Watchmen

ウォッチメン(☆☆☆)


あちこちで「解説」されている原作のインパクト、アメコミ史における意義やオリジナリティ、その評価については割愛することにしよう。原作者、アラン・ムーアについても同様。私よりも詳しい人間がいくらでもいることだしね。しかし、それを抜きにしては語りようのない作品であること、そこに本作の作品としてのポイントがあることは間違いがない。

思い出してみると、さまざまな監督が本作の映画化にむけた意欲をかたり、さまざまな理由でプロジェクトから去っていった。80年代を代表する、「アメコミ」の歴史に残る『ウォッチメン』という作品の映画化は、実現されることのないプロジェクトだと思っていた。こうして映画化され、公開されるにいたる困難さを思えば、もっと高く評価すべきなのかもしれない。しかし、「原作に忠実」に作られたというこの作品、その忠実さゆえに熱狂すべきなのだろう。しかし、単独の映画としてどうか、原作に忠実であるがゆえに優れた映画足り得ているのか、というのは、また別の問題であるように思う。たとえば、『ハリー・ポッター』の映画シリーズの存在価値が、原作に対しての動く挿絵集としてのそれであるとするなら、本作の価値もその程度でしかないのではないか、という気がするのである。逆の立場で言えば、そもそも歴史的に重要な作品であるところの原作の映画化作品を論じるのに、映画単独としてみてどうなのか、という視点そのものが意味を成すものではないのかもしれない。そして、もしそうであるとすれば、映画としての『ウォッチメン』について、映画好きの立場からどうこういうのは筋違いということになってしまう。

それはともかく。無理を承知で言うならば、本作は80年代にリアルタイムで作られていて欲しかったと思うのである。ベルリンの壁の崩壊や、ソビエト連邦の瓦解の前に作られていたら、この作品は映画としての存在価値も大きいものになったのではないかと思う。21世紀のいま、客観的な目でこの作品を見ると、それこそ、歴史上の重要作品に動く挿絵をつけてみました、ということでしかないのは明白であろう。この作品の舞台が、冷戦が頂点に達し、米ソの全面核戦争が現実味を帯び、人類の行く末がこの上もなく暗いものに思われた時代の気分を色濃く反映させたもうひとつのリアリティ、もうひとつの可能性に置かれている以上、それは現代を生きる我々にとっては過去の出来事に過ぎないのである。今の世界が抱えた憂鬱と恐怖は、本作が描く世界の延長線上にはない。従って、本作はビジネス的、技術的、その他もろもろの「大人の理由」を除けば、いま作られ、公開される必要というか、必然性は全く感じられない。

原作の熱狂的なファンを自認するこの映画の作り手は、ファンである以上なおのこと、そんなことは先刻承知に違いないのである。しかし、原作のファンであるがゆえ、たとえば、911後の世界情勢を反映させるといった作品世界の改変は許されるべきではないと思ったのだろうし、あるいは、いかにも映画らしい単純化もまた避けるべきだと考えたのだろう。それを「熱狂的ファン」ゆえの節度と呼ぶならそうなのだろうし、それこそが本作を、結果としてなのかもしれないが、「動く挿絵」、すなわち、原作に対する従属的な2次創作物とでもいうようなものにせしめた理由であろう。おそらく、精一杯の愛情と技術を注いで作られたであろう本作は、映像的に見栄えのする暴力やセックス、SF的意匠を監督、ザック・スナイダーの力業と美術スタッフのセンスで膨らませ、「動く挿絵」としての高い価値を実現しているのである。そのことについてはなんの異存もない。

しかし、長い原作から本筋に影響を与えないエピソードを割愛するかたちで構成された脚本は、1本の映画としてはどことなく平板で、物語としてのバランスも悪い。ミスリーディングを意図した脇道や、キャラクターや作品世界を説明するための段取りも、原作通りが必ずしも効果的というわけではあるまい。あれもこれも詰め込んで、タメも余韻もなにもなく次へ次へと進めていく語りにも、160分を超える長尺でありながらもせわしなく、余裕がない印象をうける。一般に名前の知れた俳優がビリー・クラダップ程度というキャスティングも、原作の雰囲気を再現することが最優先の英断というべきなのかもしれないが、地味すぎて華が欠けているのもまた事実。もちろん、キャラクターこそが重要であって、それを演じる役者が前に出てしまっては困るという考えも理解はできる。しかし、これだけの長尺を支えるにはもう少し吸引力のある俳優がいてもよいだろう。そういうことを考えていると、12章に分かれた原作本編を、1篇=1時間くらいの続き物TVミニシリーズとして映像化したほうがお似合いだったのではないかという気がしてくるのだ。TVでは表現上の制約があるというのも過去の話で、プレミア・ケーブル局などの選択肢が増えた昨今、暴力を含めた表現上の幅はかなり広くなっているといってもいい。映画として、1本で完結させる方向で企画開発せざるを得ない事情はあったのだろうし、せっかくつくるならTVじゃなくて映画、という気持ちもあったに違いないとはいえ、改めて、内容と合致したフォーマットとは何なのか、真剣に考えてみることの重要性を思った。

そういえば、ハリーポッターのときも「映画よりTVシリーズのほうが向いているんじゃないか」と主張したんだっけ。。。ま、分厚い小説や続き物コミックで、内容を大きく再構成できないという制約を抱えているのであれば、案外、映画よりもTVの方が相性が良いのかもしれない。

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