7/24/1999

The Blair Witch Project

ブレアウィッチ・プロジェクト(☆☆)

1994年10月、3人の学生がドキュメンタリー映画の撮影のためにメリーランド州の森のなかに踏み入ったが消息を絶ち、一年後、彼らが撮影したと思われるビデオと16ミリのフィルムが発見された。この映画は、そのフィルムに映った3人の、最後の数日間の姿を編集したものである・・・・という設定のモキュメンタリー・スタイルで作られた低予算映画。ダニエル・マイリックとエドゥアルド・サンチェス脚本監督による処女作である。

冒頭でぶっきらぼうに「3人のフィルムメイカーが森の中で消息を絶った。1年後にフッテージが発見された」とテロップが流れるや、その「残された」映像を編集したという設定の本編が始まり、カメラが地面に投げ出され空しく回りつづけたショットで幕を閉じる。

やはり、そのスタイルが注目の的であろう。スタイル、というのは映画そのものだけに留まらず、パブリシティのあり方も含めた「プロジェクト」全体とこの映画のあり方だ。そのプロジェクトの中にこの作品を位置付けたとき、はじめてその面白さと独自性が際立つのである。

逆にいえば、そういうプロジェクトを誘発した、低予算(=無予算?)を逆手にとった発想、この志の高さはたいしたものである。その志とは、偶然なのかもしれない、しかし、特撮やCGで何でも描けるようになってしまった時代に、予算制約を逆手にとって敢えて「見せない」ことで、単なるオドカシや生理的嫌悪感を超えたところにある「戦慄」をこそ産み出そうという、潤沢な予算で作られた大作ホラー映画とは全く正反対の方向性のことである。

観客が目にするのは、道に迷い、地図を失い、同じ場所を繰り返し歩かされて、お互いをの罵りあい、神経が衰弱して行く3人の姿だけである。夜になれば闇の中から正体不明のノイズを聞き、朝になると不気味な石の山や神経を逆撫でするような小枝の人型が周囲の木から釣り下がっている。観客にはそこで何が起こっているのか全く分からないし、説明もされない。丁度、この3人の登場人物たちがそうであるように。

変なもののいいかたかもしれないが、正直なところ、この映画は受身の観客を怖がらせてくれるほど親切に作られてはいない。このぶっきらぼうな映画は、しかし観客に参加することを要求してくるのである。われわれ観客は、スクリーンの登場人物と一体化して、自ら能動的に怖がらなくてはならないのである。そのための材料は映画の内外でふんだんに提供されているから、それらをもとにしながらいろいろ考えをめぐらし、能動的に、主体的に、積極的に、どんどん怖がった人の勝ち・・といえば、まあ、そんなものだ。実際、それができた人は「怖い」といい、出来なければ「くだらない」という。

しかし、スクリーンの中と一体になる、その意味で、極東の島国の観客にとっては、臨場感の源泉である言葉の壁が結構大きいかもしれないとは思う。字幕や吹き替えで見てもなぁ。付け加えていえば、ネット上で展開された様々な情報もそうだ。

言葉といえば、この映画はR指定を受けているのだけれども、どこかに血塗れやヴァイオレンスがある訳ではない。登場人物たちの、全く日常の延長線上にある言葉使いが理由だというのがなんとも皮肉に思えるじゃないか。

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