8/20/1999

Teaching Mrs. Tingle

鬼教師ミセス・ティングル(☆★)

「スクリーム」「ラスト・サマー」の脚本や、TVドラマ「ドーソンズ・クリーク」で名前を売ったケヴィン・ウィリアムソンが、余勢をかって自作脚本で監督デビューとあいなっったのが本作である。本来、今年(1999年)の春に『Killing Mrs.Tingle』というタイトルで公開を予定されていたが、4月20日にコロラド州コロンバインで起こった高校生の銃乱射事件の余波で公開が延期され、物騒なタイトルも変更になったという。

どんな話かというと、高校生たちが、ミセス・ティングルという、若者の人生に土足で踏み込み、独断の偏見でその未来を破壊してしまう邪悪で怪物的な教師と戦うブラック・コメディである。そこに ”Killing”なんてタイトルがついていたら、そりゃ物騒な、ということになるのも致し方あるまい。

主人公は「ドーソンズ・クリーク」で名を売ったケイティ・ホルムズで、奨学金をとって大学に行くことを夢見ているが、あと少しのところ。そこに、おちこぼれの幼馴染みが歴史の期末試験問題を盗み出してきたことで、主人公にあらぬ嫌疑がかけられてしまう。事情の説明に先生の家に向かったが、成り行き上、学校一性格の悪い先生として名高いミセス・ティングルを監禁することになってしまう。その「鬼教師」を演じるのはヘレン・ミレンだ。

良識的なドラマだと、「鬼教師」のなかにある人間性に触れた生徒たちと先生のあいだで和解が成立して終わるのだろう。ブラック・コメディだったら、一枚上手の教師によって主人公らが人生の教訓を学ばされて終わるとか、両者痛み分けに終わるとか、そんな展開にするだろう。

しかし、そこはケヴィン・ウィリアムソンなのである。どうやらケヴィン君の頭の中は、高校時代の教師への恨みつらみでいっぱいなようで、ろくでもない高校生たちが先生に天誅を加えて終わる、彼的な意味での「ハッピーエンド」になっているのである。でも、これがとても後味が悪いんだ。

おそらく、作品としての計算違いなのは、観客が「頭が悪く自分勝手で無知な高校生たち」に感情移入できなくて、むしろ、「怪物」ミセス・ティングルのなかの人間性に触れ、哀れな教師として同情すら感じてしまうという点にある。そこは、演じる役者の格の違いが出たと入ってもいい。ヘレン・ミレンは悪役としての教師を憎々しげに演じながら、これを漫画的な薄っぺらいキャラクターにするのではなく、血の通った一人の人間としてのリアリティを与えてしまったのだ。

その結果、この映画は意図せずして、「ワルガキどもが、自分の妄想の中で作り上げた<怪物>を恐れ、本来罪のない教師を肉体的にも社会的にも痛めつけ、そのまま罪にも問われることなく逃げおおせてしまうう映画」になってしまった。

若者の気持ちを汲み取るという姿勢はわかるけど、個人的にはこんなバカ高校生どもの人生なんか、「鬼教師」の出番を待つまでもなくメチャメチャになるだろうと思うし、こんなキャラクターどもはまとめてブチ殺してしまいたいくらいなんだけどね。見ているこっちが歳をとったのかなぁ。

モリー・リングウォルドがちょい役で出演していて、これは間違いなくジョン・ヒューズへのオマージュ。それを思うと、ジョン・ヒューズだったらこれをどう描くのかなぁ、と考えてしまう。先生のキャラクターは徹底的にコミック、記号としての大人、役割としての悪役としてコメディにするか、最後まで「分かり合うことの出来ない教師」であっても、互いの立場と尊厳を認め合って終わるか。いずれ、こういう一方的に後味の悪い物語にはならないはずだ。

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