11/28/2008

Suspect X

容疑者Xの献身(☆☆★)

「テレビドラマの映画版」が興行的に幅を利かすようになって、もちろん、出来不出来の差、興行の具合もそれぞれなれど、しかし、一方では常に「こんなのは映画じゃない」と揶揄され続けている現実に、一番忸怩たる思いでいるのは作り手たち当事者なのかもしれない。もちろん、テレビで大衆に受けいれられた方法論に対する自負はあるだろう。しかし、そもそも映画好きが多いのだろうと想像する作り手の側だって、(テレビドラマとは一味違う)本格的な映画を作り、そのように受け入れられ(評価され)たいという思いを抱いているに違いない。本作を見て、そんなことを思った。この映画は、そう、いってみれば、そういう作り手の抱いている心情やコンプレックスの吐露のようなものだ。

東野圭吾の原作を基にしたテレビドラマ・シリーズ『ガリレオ』のヒットを受けて映画化と相成った本作は、当たり前のことながらテレビドラマのキャストや設定、スタッフを踏襲してはいる。しかし、同時に「これは小説の映画化である」との立場やメッセージも発信されたところが興味深い。事実、タイトルに『ガリレオ』の名を冠することもなく原作タイトルをそのまま用い、テレビドラマ発祥のキャラクターにはあまり重要性をおかず、ドラマで確立した毎回のお約束的な表現や描写を反故にし、作品のトーンも明らかに違うものに仕上げてきた。それは、原作のトーンとドラマのトーンの落差をどう扱うかという点における落としどころでもあっただろう。しかし、興行上のリスクを回避するためにドラマの知名度や人気に便乗はするが、自分たちは評価の高いベストセラー・ミステリー小説を「映画」化するのであると、ドラマ抜きで評価に耐えうる映画を作るのだという意識を濃厚に反映した結果が、本作の立ち位置を定義していると考えるほうが自然というものだろう。

そういった意味で、本作はイベントとしての「ドラマの映画版」程度のものではなく、きちんと「映画」足り得ているというのが、作り手の狙いであり主張だと思う。しかし、そういう視点で見ると、これはちょっと物足りない、それもまた事実である。

べつに、テレビドラマ版のファンサービスとでも言うべき冒頭の大掛かりな科学実験や、エンディングで申し訳のように流されるテーマ音楽が映画のトーンと整合性がない、ということをいいたいのではなくて、堤真一と松雪泰子が出ているところは映画の雰囲気があるのに、福山雅治が出てくると全くもって台無しだということでもない。(映画の成り立ちを考えれば、それくらい許してやってもいいじゃないか!)

そうではなくて、本作で描かれるべきドラマの核がどうにも薄っぺらにみえること、そこが物足りないと思うのである。映画の演技ができる俳優を連れてきて、その演技に頼り切れば自然に映画になるわけではない。この映画には、脚本で舌足らずなところをきっと「役者の演技」が補ってくれるだろうという楽観と、TV的な娯楽に慣らされた観客に向けた言葉や理屈による(あまりにも安易な)説明はあるのだが、その中間がない。堤真一演じる男の心情を、本当に納得のいくかたちで描き切れていれば、この映画はもっと化けたかもしれない。感動を呼べる作品に仕上がったかもしれない。そう思うと、つくづく、もったいないことだ。

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