12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。

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