11/25/1998

Psycho (1998)

サイコ(98年版)(☆☆☆)

これはダメな映画なのか、ダメな企画なのか。また、愚かな行為なのか、それとも興味深い試みなのか。映画の出来映えが悪いのか、それとも、この映画の存在自体が汚点なのか。

個人的には、議論の余地なく切り捨てるべきというよりは、この中にすら見いだされるチャレンジ精神や、結果としての出来栄えを検証して楽しむのが良いと思うのだが。

何はともあれ、悪評しか見当たらぬ、ガス・ヴァン・サントの新作『サイコ』である。もちろんいうまでもない、アルフレッド・ヒッチコックの1960年作、『サイコ』の野心的、というよりは実験的なリメイク作だ。

アルフレッド・ヒッチコックの作品中で米国では最大のヒットを記録したのが『サイコ』だという。大金を横領した女性が偽名で宿泊した「ベイツ・モーテル」。経営者のノーマン・ベイツは裏手に聳える屋敷で老いた母親と暮らしているという。この女性の後を追い、私立探偵や妹、女性の恋人が次々にモーテルを訪れるが、予期せぬ事態に巻き込まれていく。その彼らの運命やいかに、という話。ルール違反すれすれの大胆な構成、有名なシャワー・シーンのモンタージュと、そのシーンで使われた不協和音の音楽は、この映画を観ていない人にもお馴染みのはずだ。

本作のことをさきほど実験的なリメイク、と呼んだのだが、ガス・ヴァン・サントはこれを「リプロダクション」と呼んでいる。それはなぜか。オリジナルと同じ台本を使い、基本的にはオリジナルと同じショットをワンカット、ワンカット再現しているのだという。え、それなんの意味があるの?

もちろん、現代の俳優が出演している。舞台も一応、現代だ。アン・ヘッッシュ、ヴィンス・ヴォーン、ジュリアン・ムーア、ウィリアムH・メイシー、ロバート・フォスターらだ。音楽はバーナード・ハーマンの音楽を復元し、編曲。これを担当したのはヴァン・サント作品が続いているダニー・エルフマンの仕事だ。オリジナルは白黒撮影の作品だったが、今回はカラー。撮影はクリストファー・ドイルである。

そもそも、こんな作品ができてしまう背景には、「白黒映画じゃ商売にならん」という商売上の目論見があるはずだ。白黒映画への着色といえば、かつてのメディア王、テッド・ターナーが、CATVでの放送などを睨んで進めた名作群の着色(カラライゼーション)が大きな議論を呼んだことが記憶にある。CATV、パッケージソフト、デジタル衛星放送と、膨らみ続ける2次使用で、「白黒」に慣れていない大衆を搾取する上で有利になると考えての「カラー」化、だ。

そんな映画会社の思惑を逆手にとったのが、今回のガス・ヴァン・サントの、誰もやったことのない「企て」であるといえる。ヒッチコックの撮影台本にアクセスし、6週間の撮影期間まで忠実に守ったという凝りぶりで、当時は技術的に困難で断念したという(触れ込みの)冒頭の空撮を復活させたりもしている。

作品の製作過程と製作手法そのものを再現するという大仕掛け。野心的な画家が巨匠の作品を精緻に模写するかのようなもんだな。作品への冒涜というのなら、もともと白黒で撮影されたものに、作り手の関与のないままに着色する野蛮な行為は間違いなく冒涜といえるが、この作品で試みられたような「実験」は、実験であったり、習作という範疇において興味深いといえなくもない。

役者たちもオリジナルと変わらない台詞や動作という制約の中で、90年代のリアリティを紡ぎ出すという難役を、これまた実験的な意味で楽しんでいるように見える。ただ、いくらオリジナルを模してみても、ヴィンス・ヴォーンはアンソニー・パーキンスにはなれない。そこらあたりが、結果的に作品の雰囲気を変えてしまっており、役者次第で作品が変わってしまうということくらいは本作によって証明できたんじゃあるまいか。

この映画、映画そのものはそこそこ楽しめる。なにせ、オリジナルが面白いんだからあたりまえだ。でもオリジナルを観ていたら、これを見る意味はあんまりないし、オリジナルを観ていないなら、ぜひともオリジナルを見るべきだ。そういう意味で、得をしたのはメジャーの予算で堂々とこういう実験をやりおおせたガス・ヴァン・サントだけであり、カラー化で一儲けを企てた映画会社は不評と批判で評判を落とした。リメイク・ブームのなかでもっともユニークなこの試みは、もっともたちの悪い冗談として記憶されることだけは間違いない。

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