9/04/2008

Gurren Lagann (Part I)

天元突破グレンラガン・紅蓮篇(☆☆☆)

面白いと噂に聞いていたガイナックス製作のTVアニメ『天元突破グレンラガン』、これはその劇場版で、TVシリーズに新作カットを加えて再構成した前半部分の総集編。来春公開予定の後編につながるということで、物語的には途中のところで幕が下りる。TVシリーズの総集編的劇場作品の常として、基本的にはTVシリーズをみていたファンを相手にした商売であるわけで、最低限、わけが分からなくならない程度の配慮をしながら1本の作品として作っていくのだとしても、ものすごいスピードで様々なエピソードが展開され、同様に、すざまじいテンポでキャラクターやメカが登場して変貌して退場して、まあ、そういう説明は必要がないくらいにご承知のこととは思うのだが、一見さんにはハードルが高いものである。

で、「噂」を聞いて、この劇場版(前編)を観てみようかと思った私は、まちがいなく「一見さん」であって、そういう意味で、シリーズのファンと同じように細部に突っ込んで、あそこが残ってここが切られて、ここがリテイクされて、ここがこう順番が変わり、ここがこう意味や内容が変わった、などというのは分かるはずもなければ、そういう楽しみ方ができるわけがない。

ここでは、それを前提にして話をしたいのだが、この作品を予備知識無しに単独で見て、少なくとも話の大筋はわかった。基本的な設定はなんとなくわかったが、気がついたら話が大きくなっているので、どこまで本当にわかっているかは不明である。話の展開は、概ね脳内補完できる範囲であり、そのためのヒントのかけらは転がしてくれてあるとおもうのだが、脳内で補完したものと、実際のTVシリーズで描かれていたことがどの程度一致するのか、話の飛び方、エスカレーションの仕方がわりと激しいので、かなり心許ない。

では、それでつまらなかったのか、という話になるのかというと、そうではない。かなり楽しかったのである。よく分からないなりに、画面に溢れるエネルギーには圧倒されるものがあった。おそらく、TVシリーズの企画時点でも念頭にあったに違いないのだが、昨今の紙芝居のように動かない深夜アニメと違い、いわゆる「アニメ」の原初的な、「アニメ」ならではのハチャメチャな感覚と、お金や時間がないなりに蓄積されてきた独創的な表現力、それに負けない登場人物たちのアクションや行動力、熱い台詞の掛け合いや、壮大で意表をついたSFマインド溢れる話の展開に、大いに魅了された。考えてみれば宮崎駿の『崖の上のポニョ』だって、わけの分からない作品であり、わけが分からないなりに動画の持つ躍動感に身を任せる面白さという観点から評価せざるを得なかったわけで、それが「あり」だというなら、これも「あり」なのだと思うのだ。ロボットものだからといって、TVの総集編だからといって、安っぽいとか低俗だとかいう理屈は成り立たない。

ただ、一方で思うのは、やはり「劇場作品」として、2時間なりなんなりの枠の中で物語を語ることを前提に作られた作品のほうが、ストーリーテリングの観点からは当然優位にあって、それなりの話数を重ねた作品を再編集・再構築するのはいろんな意味で思い切りも必要だろうし、工夫も必要だろうということだ。本作の場合、2本の劇場映画にリニアに圧縮して物語を語るアプローチは、そうする上でいろいろな努力や工夫がなされたにしろ、従来よくあるところの「総集編的劇場版」の枠を出るものではない。一見にとってはハードルが高くありつつも、たとえばエヴァンゲリヲンの "Death篇" のように、ファン限定といった割り切りがないので、シリーズのお試しサンプルとして鑑賞することもできる。それは商売上は必要なことだろうし、現に、私はそれをみて「楽しい」と思えたのだから悪くない仕上がりである。だが、作品の内容に比して、劇場版総集編を作るアプローチとしては保守的なのではないだろうか、などと論ずるのはないものねだりのような気もしてきたので、最終的な評価は後編を見てから下すことにしようと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿