5/16/2009

Eastern Promises

イースタン・プロミス(☆☆☆☆)


昨年の今頃公開されていたという記憶があるのだが、その際は気がつくと公開が終了していて悔しい思いをした。今回、いきつけの劇場において本作の期間限定リバイバル上映があったので、何をさておき劇場に駆けつけた次第である。なにしろ傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の主演、ヴィゴ・モーテンセンと、監督デイヴィッド・クローネンバーグの再度の顔合わせによる新作である。すでに高い評判も聞きつけている。これを見逃すわけにはいくまい。

ロンドンの移民社会に根を張ったロシアン・マフィアにまつわる話しである。冒頭、床屋における唐突で戦慄の殺人シーンに続き、妊娠した身元不明の14歳の少女が血塗れになって病院に担ぎ込まれ、帝王切開で子供だけは辛うじて助けられるものの、少女本人はそのまま絶命するという、生理的にも映像的にも衝撃的なエピソードが連打され、ただごとではすまない雰囲気を濃厚にたたえて物語りは幕を開ける。死んだ少女の身寄りに関するヒントを得ようとした助産士の女が、少女が残した荷物の中からロシア語で書かれた日記を抜き取ったことがきっかけで、ロシア移民の子孫でもある彼女と、闇に巣食ったロシア人犯罪組織とが交差する。助産士を演じるのがナオミ・ワッツで、礼儀正しい組織の「運転手」を演じるのがヴィゴ・モーテンセンである。日記は、貧しいロシア少女が夢を求めて辿り着いたロンドンの地で、もののように売り買いされ、レイプされ、薬漬けにされ、自由を奪われ、売春婦へとその身を落としていく記録であり、その背後にある組織の犯罪の証拠でもあったのである。

導入部からしてそうなのだが、ストーリー・テリングが非常に巧みな映画である。ナオミ・ワッツの家族に代表される表の世界と、犯罪組織の闊歩する裏の世界という対比だけでなく、表ではロシアン・コミュニティの健全な束ね役のようでありながら、裏では犯罪組織の総元締めであるというような、「見た目」と「真実」の違い、起こっている出来事の表層的な意味と裏に隠された真の意図といった具合に、「表」と「裏」が交差しながら観客を翻弄していく脚本はどうだ。静寂のシーンが一転して本性をむき出しにし、目を背けたくなるヴァイオレンスに染まる演出の呼吸。刺青によって強調される肉体性と実在性。きっとこういう話だろう、とたかをくくっていると、その一歩先を提示されて驚き、周到に張られた伏線によって思いもかけぬ結末へと導かれていく、その快感。

噂に聞いていた、ヴィゴ・モーテンセンが裸で立ち回りを演じるサウナでのアクション・シーンは、噂に違わず壮絶そのものである。ロシア・マフィアにとって刺青は自らの生きてきた証、身上書のようなものだという。全身刺青だらけのヴィゴの、その刺青が語る情報を手がかりに、2人の殺し屋が刃物を持って命を狙う。見ているだけの観客にも激しく痛みを伴う肉弾戦が繰り広げられ、体中に傷を負いながらすさまじい戦闘力と精神力で戦う男、ヴィゴに、もう観客の目は釘付けである。結局のところ、一見脇役かのように物語に登場したこの男の、壮絶な生き様がこの映画を貫く1本の柱でもあるということが、最後の最後になって明らかになるわけだが、それを具体的な描写として象徴的に見せるのがこのシーンという言い方もできるだろう。

サウナのシークエンスにも顕著だが、本作の暴力描写の突出した生々しさは、もはや暴力や死が記号でしかなくなったハリウッド製娯楽作品とは一線を画するところで、R18指定もやむを得ないと思わせる強烈なインパクトを持っている。クローネンバーグの演出は暴力から目をそむけるどころか、ねちっこくその姿をフィルムに焼付んとするから、ヴァイオレンスが苦手な観客にはつらいところかもしれない。しかし、この作品にはそれを乗り越えてでも鑑賞するだけの価値があるから、そんなところで躊躇していてはもったいない。劇場のスクリーンで見ることができて良かった、クローネンバーグ、ここのところの作品の充実具合は只者ではない。

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