6/17/2011

Keibetsu (軽蔑)

軽蔑(☆☆)


悪いんだけど、鈴木杏の体は、セリフでも出てくるような「真剣に踊っている」ダンサーの体じゃない。彼女のことは『ジュヴナイル』の頃から好きだったし、いいものを持っている人だと思っている。それに、本作での苦労も、みればわかる。が、彼女が、あの体のままこの役を演じるなら、設定もセリフも何もかも変えるべきじゃないのか。

もちろん、なにからなにまで、本当に役にふさわしい役者をキャスティングするのは難しかったのだろうと想像する。それに、鈴木杏が、真剣に踊っているダンサーの体型を作るまでの時間を待つ贅沢がかなうような規模の作品でもないんだろう。結果として、なんだかよくわけのわからない「ごっこ」遊びのような本作ができあがるわけだ。当然、そこには物語の登場人物たちが抱えているような切実さも、行き止まり感も、痛みも、なにも、ない。だったら、そんなんでも敢えてこの映画を作る価値があったのか、と問いたい。女優脱がして、それを売り物にして客を集めようっていうだけのゲスな企画じゃねえか、こんなモン。え、この作品のタイトルの意味は、もしかして、そういうことなの?

歌舞伎町でチンピラ稼業をしている男が借金帳消しのために揉め事を起こし、互いに惚れあっていたダンサーを連れて故郷に逃げ帰る。実は不労所得を生活の糧とする旧家の跡取り息子、最初は真面目に働きはじめるものの、それをいつまでも続けられるものではない。地元の悪友たちもいる。昔の女と思しきのもいる。トップレスで踊っていた女なんぞ嫁にすること許さぬという実家や、周囲の蔑んだ視線に苦しむ女。男が作った地元のヤクザからの莫大な借金が、二人の行く末にさらなる影を落とす。

原作のことは知らない。だから、原作を読んでいれば頓珍漢に聞こえることもあると前置きはしておく。

映画は、少なくとも「軽蔑されるべき生き方しかできなかった二人」に同情したり感情移入したり出来るものにはなっていない。

男はくだらなさすぎるし、女がそんな男のどこに惚れるのかもわからない。例え、男女の仲は当人にしかわからないね、という描き方なんだとしても、この二人が、それなりにない知恵を絞って必死に生きて、ただただ巡り合わせが悪く、世間の風も冷たかったというのなら、まだ理解できる。しかし、映画を見ている限りではバカな人達がバカなことをやっているようにしか見えない。高良健吾演ずる男のことも、鈴木杏演ずる女のことも、好きになれない。そもそも、なんでそんなに男の郷里にこだわらなきゃならんのか。うまくいかないと思ったら、二人でどこか知らない土地に行けばいいじゃないか。全てから切り離されて2人だけになればいいじゃないか。もっといえば、大森南朋演ずる田舎ヤクザの借金なんか踏み倒して高飛びしちゃえばいいじゃないか。あほらし。

主人公の男の祖父の「妾」さんというポジションに甘んじて生きてきた、昭和の時代の残滓のような女性を緑魔子が演じているのだが、その独特の存在感が映画を全部持って行ってしまったような気がする。そうね、まあ、時代背景が昭和なら、もう少し映画に説得力が出たかもしれない。

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