6/04/2011

Blue Valentine

ブルー・バレンタイン(☆☆☆☆★)


砂糖菓子のように甘い映画も好きだが、それとは真逆の映画も好きだ。お涙頂戴の「泣ける」映画のことじゃないよ。厳しく、ほろ苦い現実の中に少しばかりの真実のかけらを見せてくれる映画のことだ。そう、例えばこの映画のように。

結婚から数年が過ぎた夫婦のある日の様子と、二人の出会いから結婚に至るまでのバックストーリーを並行して描かれていく。ペンキ塗りを仕事にしている男は、学歴もなければ向上心もない。最低限の仕事をして、気楽に過ごしていけたらいいと考えているように見える。看護師の妻は大学を出ていて、現実的で努力家である。頼りがいがなさそうな夫にかわり、家計も、家庭の一切も、すべての責任を背負っているふうである。口を開けば互いへのフラストレーションが飛び出し、殺伐とした雰囲気が漂う。こんな二人がどんな出会いをし、何が二人を結びつけたのか。互いの何が魅力的だったのか。あまりにも惨めな現在からは想像のできない二人の過去。一見して輝いて見える過去のなかにも見て取れる、二人のその後を予見させるような問題の種子。

ひつとの関係の始まりと終わりを対比させながら見せるという発想は、あの『(500)日のサマー』を想起させる。ロマンティックな男と現実的な女という組み合わせもよく似ている。しかし、ほろ苦くはあっても、あくまで新種の「ロマンティック・コメディ」にとして楽しめる『(500)日のサマー』に比べ、、本作はあまりに現実味があり、あまりに痛く、あまりに哀しい。これを見て、所詮、こんなものだと達観するのか、そういう結末を迎えないですませるためには何が必要だったのか考えるのか。どちらにしても、折にふれて映画のシーンが心に揺り戻しをかけてくるような、どこか深いレベルで心に傷が残る、これはそういう映画である。

本作の主演、ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが筆舌に尽くし難いほどに素晴らしい。ここでの二人、もはや演技をしているにように見えないのである。世の中の片隅に、そういう二人がそのまま生きていて、その二人の人生をこっそりと覗き見をしているような、そんな感覚である。夫婦を演じる二人に、映画では描かれていない共に過ごしてきた何年間かの時間が感じられる。それを相性の良さ、というのだろうか。ともに時間を過ごしてきた結果、微妙にすれ違いギクシャクするさまを見せられる相性の良さって、なんか変な表現だな。

もちろん、映画化までの10年以上の時間、おそらく練りに練りあげられたのであろう脚本、それにもかかわらず現場でのアドリブを多用した撮影、そうした映画の作り方があってこそだとは思うのだが、どちらかというと地味な映画で誠実に仕事を重ねてきた二人の実力の、そのレベルの高さには驚きを感じずにはいられない。こういう演技は、もちろん、アカデミー賞をかっさらっていった熱演、怪演と比べるとどうしても目立たないのは致し方ないのだろうが、もっともっと賞賛されてしかるべきものだと思う。

デレク・フランシアンス監督は、離婚家庭に育ったという。夫婦のやりとりや感覚の違いがどのようにして決定的なすれ違いにつながっていくのか、繊細な観察眼によって、そして、大胆な演出術によって再現をしながら、同時に、こんな二人が出会い、惹かれあっていくプロセスをロマンティックに描いて見せてくれた。幕切れの痛切さは、しかし同時に、幸せな時間というものがいかにかけがえの無いものであるかを教えてくれる。それを込みにして、本作のエンドクレジットの美しさをこの10年のベスト、と呼びたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿